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日本各地の諸窯(歴史と特色) |
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東北地方 | |||||||||||||||||||
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青森県 |
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軽焼 歴史:慶長15年(1610)、津軽藩二代信牧の時、弘前城を築くための瓦を焼いたのに始まるとされている。元禄4年(1691)、津軽信政の命により、江戸金龍山で修行した平清水三右衛門、瀬戸助、久兵衛らが市内の小人町に開窯した。文化3年(1806)頃、石岡林兵衛が羽後国から陶工清兵衛と永之末を招いて開窯した。のちに津軽藩の保護を受け、茶器や徳利、擂り鉢、壷といった生活雑器を焼いていた。弘前郊外の悪戸村にあったため、悪土焼・悪戸焼とよばれていた。初期には日用雑器の陶器を焼いていたが、天保年間(1830-1844)には磁器の焼成にも成功した。染め付けうあ上絵の作品も製作していた。当時の染め付け磁器や青磁には名品がある。釉薬は鉄釉、銅釉、透明釉などがあり、飛び鉋や流し掛けの技法が使われていた。別名、扇田焼、青柳焼ともよばれた。大正8年にいったん廃窯になった。大戦後復興され、津軽焼となった。 特徴:灰釉の白い陶器、鉄釉の黒陶が主体。ブナ、藁、モミなどの地元にある植物の灰を利用した釉薬を使う。リンゴの木灰を用いた釉薬が有名で、ピンクを帯びた青白い色を発色する。天目釉や白釉を掛け分けた製品も作っている。窯場ごとに作風はかなり異なる。 |
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八戸焼 歴史:江戸時代の末期まで、八戸市内の蟹沢の山中に登り窯と平窯があり、八戸焼とか蟹沢焼とか呼ばれていた焼き物が焼かれていた。創始年代も創始者も不明で、明治に入って廃窯になったと推定されている。昭和50年(1975)、佐渡の無名異焼窯元の国三窯の長男であった渡辺昭山氏が復興を志した。渡辺氏は八戸に居を定め、古八戸焼の作品や陶片を参考にして八戸焼の復興に尽力した。1990<年代に入ってようやく八戸焼らしい作品が焼けるようになったという。 特徴:八戸市内の松館の粘土を基本に用いている。深い緑色の釉薬が掻き落としで施された木訥な作品が八戸焼きの特徴。 |
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秋田県 |
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白岩焼 歴史:明和7年(1770)頃、相馬藩大堀窯の浪人松本運七が陶工として招かれ、佐竹藩の援助によって開窯された。松本は5年間この地にとどまり作陶の指導にあたった。佐竹藩の御用窯とされ、安永年間(1854-1860)には6窯あったと伝えられている。明治29年の地震で打撃を受け、明治33年に廃窯となった。昭和49年、この地を訪問した濱田庄司氏の提言により復興された。昭和51年(1976) 、復興窯が興された。 特徴:なまこ釉が特徴。厚めの胎土に釉薬をひしゃく掛けという手法で作る。ほかに、鉄釉、銅緑釉などもある。釉薬のながし掛けが行われる。厚手で重厚な陶器。 |
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楢岡焼 歴史:文久3年(1863)、秋田の寺内窯から招かれた陶工によって角右衛門窯が開窯された。初代小松清治から途絶えることなく5代にわたって焼かれてきた。江戸時代には、水瓶や擂り鉢などの生活雑器が大量に焼かれていた。 特徴:地元の鉄分の多い褐色の陶土に釉薬をかけて登り窯で焼いている。楢の木灰を用いた青色のなまこ釉が特徴。群青白の青や、ほのかな青色に発色する。リンゴ灰を使った白釉、緑釉、褐釉などが使われる。 |
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岩手県 |
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小久慈焼 歴史:文化年間(1804-1818)、初代熊谷甚右衛門が久慈を訪れた相馬の陶工嘉蔵に師事して、地元の粘土を使って開窯されたと伝えられる。別の伝承では、小久慈町の天田内甚六が相馬焼の陶工に焼かせたという説もある。後に八戸藩の御用窯にもなった。主に茶器を焼いていたが、瓶や壷などの日用雑器も焼いていた。一子相伝で続いたが、大戦後の混乱期に衰亡した。昭和28年、窯元有志や当時の久慈町の努力で再開窯された。 特徴:地元の小久慈粘土や小久慈白土を用いている。伝統的な釉薬はモミがら灰から作る糠白と飴釉である。灰薬や飴色釉、木炭灰釉などを用い、これらの釉薬の掛け分けもおこなわれる。乳白色や飴色の釉薬のかかった作品は質感があり、独特の暖かみがある。厚手の柔らかい形の陶器。 |
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鍛冶丁焼 歴史:文政年間(1818-1830)、古館伊織が、市内四本杉の土を用いて鍛冶町に開窯したのに始まる。鍛冶町焼として南部藩の御用窯として擂り鉢や火鉢などの大物を生産していた。明治になって分家も出て、まずまずの状態であったが、明治末期になって本家が不振となり、夜逃げ同様にして北海道にわたり廃業した。分家によって窯は守られていたが、昭和14年(1939)、4代目の勇一郎が召集を受けて戦死したため廃窯した。唐津焼風の淡い色調のものを焼いていた。昭和22年(1947)に5代目の阿部勝義氏が復興した。 特徴:土は粗くざっくりしており花巻市内でとれるものを半年寝かして用いている。通常の窯場では、土はいったん水でといて、砂と微粒子に分けているが、ここでは手もみ方で精製している。手で荒もみ、小もみをしながら小石を除く。素地はざんぐりしていて粗い。登り窯は5室で、年に数回焼いている。古い鍛冶町焼は灰釉による黒を多く使っていたが、阿部氏は、黒に加えて、梨地、糠白などを焼いている。リンゴ、松、杉などの灰を用い、白釉、緑釉、褐色釉や使われる。 |
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台焼 歴史:明治の中頃、花巻の万寿山に陶土を見つけた初代杉村勘兵衛が開窯。初代杉村氏は水車で土を砕き、温泉を使って鉄分を沈殿させるという手法を考案し、白磁を生産することに成功した。杉村氏は、自分が持っていた温泉を売り、息子達を瀬戸や京都に修行に出すなど、焼き物作りに尽力した。作品は大正12年の平和博覧会で受賞した。昭和に入ってから陶器も焼くようになり、現在は陶器・磁器の両方を焼いている。 特徴:陶土は白い色をしており、焼成されると明るい褐色に呈色する。菊花や唐草模様の鍋島風の精密絵付も行われている。東北地方には珍しい磁器の窯。白磁の皿や、伊万里風の染め付け磁器や彩色磁器も焼いている。近年は陶器も焼いている。壷や湯呑みはなまこ釉のものが多い。辰砂釉や飴釉、白釉、黒釉を用いている。 |
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山形県 |
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平清水焼 歴史:文化年間(1804-1814)、土地の大地主丹波治左衛門が常陸国の陶工小野藤次兵衛を招き、千歳山の土で陶器を焼いたのが始まり。千歳焼ともいう。文政8年(1832)には、相馬焼(福島県)から安倍覚左衛門という陶工を招いて別の窯も開かれた。天保10年(1840)には肥前や尾張の陶工を招いて磁器の焼成に成功した。その後、陶器と磁器の両方を焼いていた。幕末には約30軒の窯元あったが、明治に入って藩の保護を失い衰退した。大戦後、青龍窯は3代目の丹羽龍之助が復興した。丹羽は鉄分の多い千歳山の土を使い、青緑の肌に淡黄色の斑点が浮かび出る「梨青瓷」を考案し、昭和33年(1958)にブルッセル万国博覧会でグランプリを受賞して評価を得た。 特徴:平清水焼は、丸山の東側から産する丸山陶石を用いている。鉄分が多く含まれており、焼き上げる際にこの鉄分が釉薬に溶け込んで、平清水焼特有の青みをおびた独特の色合いを出す。白釉をかけた上に、染め付けや暗緑釉で彩色した、三彩風の徳利が有名。青地に黄色の斑点の浮いた梨青、玉虫釉、白釉、天目釉、緑釉などの多様な釉薬が用いられるのが特徴。「梨青瓷」は青緑色の地肌に黄色の斑点がゴマ状に浮き上がるもの。土に含まれる硫化鉄が焼成によって斑点状に釉薬に浮き上がる。「残雪」は純白な白釉で墨の濃淡のように見える。 |
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銀山上畑焼 歴史:天保2年(1832)に出羽国、東根の長瀞藩が藩領上野畑村(現在の尾花沢市銀山温泉の白銀滝の上流)で産出した陶石を浪花(大阪)におくり、陶工長野信光に染付磁器の試作を依頼した。出来上がりが良好であったため、天保4年(1833)に浪花から伊万里の陶工長野左市、徳兵衛を招き、本格的な磁器の焼成に着手した。長瀞藩は瀬戸役所を設け、上野畑村に天秤積形式の連房登窯を築き、付近から産する陶石を用いて染付磁器を中心に焼いていた。上の畑焼は、米沢成島焼・山形平清水焼。新庄東山焼と並んで山形県の4大古窯のひとつに数えられている。東北の磁器窯としては、宮城県の切込焼・福島県の会津本郷焼に次いで、3番目の歴史を持つ。数回の発掘調査の結果から、古染写・祥瑞写・芙蓉手・色絵などが焼かれていたことが判明している。明治の中頃に廃窯になった。尾花沢市出身の伊藤瓢堂氏が昭和55年(1980)に地元の銀山陶土を用いて磁器の焼成に成功し、復興させた。 特徴:染付磁器を中心に焼いている。文様は上の畑焼の陶片から採ったものや、新しい意匠も描いている。染付に鉄絵や、青磁を組み合わせた作品も焼いている。皿、鉢、酒器、茶器、マグカップなどの日用生活食器を中心に焼いているが、壺や大皿のような工芸品も製作している。銀山陶石はやや鉄分を含むため、水篩する工程で鉄を除いているが、上の畑焼らしい渋さを残すために、鉄は完全には除いていない。そのため、磁器器面は、ややくすんだ色となっている。 |
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成島焼 歴史:安永6年(1777)、米沢藩主上杉鷹山が藩士に相馬焼の技法を学ばせ、城下の米沢に開窯したものと伝えられている。朝鮮唐津風のなまこ釉、黒釉が有名。片口、平鉢、水瓶、飯茶碗などが焼かれた。質実剛健の気風の上杉家が、絵付けの焼き物を禁じたとも伝えられ、職人は釉薬発色で良品を作成することに心血を注いだとも言われている。明治以降、民窯になって衰退し、大正初期に廃窯した。窯跡からは、「成島唐津」と呼ばれる茄子色の美しいなまこ釉の作品が出土している。飴釉や黒釉の作品も出土している。昭和35(1960)、和久井冨二氏は成島焼の復興を思い立った。 特徴:黒釉やなまこ釉に加え、窯変物も焼かれている。陶器だけでなく、染め付け磁器や陶彫磁器も焼いている。海鼠釉の"曜変天目"や焼締の金窯変といった新しい作品も焼かれている。土は今泉一帯から出る良質の粘土を細かく砕いて用いている。釉薬は、なまこ釉には、藁灰のほか、民家を取り壊した時に出るカヤの灰も使っている。 |
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新庄東山焼 歴史:天保12年(1841)、秋田白岩焼の陶工涌井弥兵衛が、新庄戸沢藩城下に、作品を携えてやってきて認められ、東山の地に土地を賜って開窯。これが、新庄東山焼の始まりで、のちに藩の御用窯になった。代々「弥瓶」を名乗り、「弥瓶窯」ともいう。 特徴:陶土は窯元の敷地内の豊富な土を使っている。釉薬は鳥海山麓の物を使っているという。「新庄なまこ」と呼ばれる淡い青なまこ釉が特徴。釉薬の調合を変えることにより、緑色の海鼠釉もある。地肌のくすんだ茶色と微妙に対比しあってきれいな色彩を放つ。現在は、油滴天目や木の葉文様の天目茶碗も焼かれている。また、釉薬をかけない新庄朱泥というものもある。新庄東山焼きで有名な品は土鍋である。3本の足のついた独特のものであるが、足は底よりも上に付いており用をなさない装飾的なものとして有名。 |
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宮城県 |
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切込焼 歴史:東北最古の磁器と呼ばれているが、創始時期や創始者などはすべて謎に包まれている。江戸初期に藩主伊達政宗が、伊万里から朝鮮陶工を陸前切込に招き開窯した磁器窯といわれているがさだかではない。江戸末期に開窯と推定されている。伊達藩の御用窯として栄えた。最盛期は嘉永安政年間(1848-1860)で、茶器、花器、皿、とっくりなどが焼かれた。切込焼は、陶石の枯渇や瀬戸方面からの安価な磁器の流入によって衰え、明治12年頃には途絶えてしまった。大正9年になって復興が試みられた。 特徴:作風は伊万里に酷似している。染め付け、赤絵、三彩などがある。特にとっくりは切込独特の樽型をしている。染め付けらっきょう徳利といって、口と腰の部分に幅広く網目があり、あいだに鮮やかな草花が描かれている。古い切込焼は、灰色かかった白地にの染め付けが多い。 |
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堤 焼 歴史:元禄年間(1688-1704)のはじめに藩主伊達綱村が、江戸今戸焼の陶工上村万右衛門を招き楽焼の茶器を焼かせたが始まりとされている。開窯地の杉山の名を冠して杉山焼とか仙台焼とか呼ばれた。「堤人形」で知られる土人形も、上村万右衛門の創始と伝えれれている。万右衛門は正徳5年(1715)に没したが、その孫伝右衛門や、その指導を受けた佐藤九平治、三河の陶工菅原善左衛門親子、佐沼の陶工源左衛門らによって続いた。寛政(1800)頃以後は窯元も増えて、堤町は焼き物の町として栄えた。製品も仙台の町に広く流通するようになった。伊達藩の御用窯として栄えた。江戸時代の末期、庄子義忠が、江戸の名工三浦乾也から「乾」の字をもらって、乾馬窯を興した。初代乾馬である源七郎義忠は、文政5年(1822)2月、仙台藩士(庄子荘司)源左衛門章忠の長男として生まれた。弘化元年(1844)、22歳の時に安代縫殿之介の門人となり、作陶の技術を習った。義忠は釉薬の研究にも熱心で、白釉の原土である甘砂も発見した。最も充実した作品を製作したのは万延元年(1860)頃から慶応2年(1866)くらいまでで、乾山風や三島風の手法を取り入れて、茶碗、茶入れ、花器、水差し、壷などを焼いた。義忠の弟の祐蔵も陶業に従事し、天神像などの土人形作りで名手と言われた。祐蔵はのちに針生家を継ぎ、明治の中頃に「針生陶業」を起こした。安政年間(1854-1860)には庄司義弘が三島風の陶器を焼き、鉢屋巳之助が黒物焼を始めた。大正の末から瀬戸などから良質の安い磁器が流通するようになって、台所用の陶器はほとんど売れなくなり、「針生陶業」も倒産した。業者の多くは土管専門に切り替えた。昭和に入っても不振が続き、出雲から優れた陶工を招いて指導を受けたりもした。大戦中はほとんどの窯元が土管製造に携わっていた。昭和27年(1952)頃には17軒の窯元があったが、ほとんど転業してしまった。民芸運動の推進者であった、柳宗悦は「東北を代表する民窯」と評した。 特徴:伝製品の酒用の大壷は、白釉の流しかけがほとんど底まで流れた豪快な作品。しっとりとした味わいの黒釉の茶碗や褐色釉の油壷などが伝わっている。黒釉や褐釉の茶器が代表的。白釉の流しかけもある。白い粉引に赤の色合いが見事な井戸形粉引窯変茶碗や、辰砂など新しい作品も焼かれている。 |
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福島県 |
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歴史:文禄2年(1593)、会津城主蒲生氏郷が、播磨から石川久左衛門ら3人の瓦職人を呼んで鶴ヶ城の瓦を焼かせたのが始まりとされている。本格的には、正保年間(1644-1647)、藩主保科正之が、瀬戸の陶工水野源左衛門を招き赤瓦を焼かせたのが始まり。瓦作りのかたわらに陶器も焼かれた。陶祖と呼ばれる水野源左衛門は、美濃か瀬戸の生まれで正保2年(1645)に会津に来たようだが、不明な点が多い。正之から3人扶持を与えられ、茶碗、水差し、水こぼし、香炉、灰ほうろく、花生け、人形、鳥獣人形などを焼いていた。源左衛門が没すると、岩瀬郡長沼から弟長兵衛が招かれた。以後、代々水野家によって御用茶碗が焼かれた。長兵衛は黒瓦より低温に耐える赤瓦を焼成したり、白壁の材料になる石灰の生産に成功したりして、承応2年(1653)には、御用瓦製造の頭領に任ぜられた。茶器類も「御用品」として焼き、「瀬戸右衛門」の名を許され、代々襲名した。安永6年(1777)、江戸から陶工近藤平吉を招き、磁器の焼成を試みた。瓦役所定番であった佐藤左吉の長男円治と次男伊兵衛が白磁焼成を藩に願い出、佐藤親子3人と、瓦職人の手代木幸右衛門ら他3人が藩から資金援助を得て磁器焼成を試みた。しかい、近藤平吉はもともと楽焼職人であったため、失敗した。佐藤伊兵衛は白磁の研究をすすめ、36歳の時、藩に陶磁器視察を願い出て、領主から2両を手当としてもらい、1両を借用して寛政9年(1797)9月11日に会津を旅だった。伊兵衛は静岡の志戸呂から瀬戸に行き、常滑、美濃、信楽、京都、肥前有田、萩と窯場をめぐり、技術を学んで寛政10年8月に帰郷した。寛政12年(1800)、丸窯を築いて肥前風の白磁を焼成することに成功した。その後、良質の陶土が発見されて、品質が向上した。藩の殖産興業の奨励策もあって、磁器の製造は好調で、水野一族も磁器の焼成に転向した。伊兵衛の門人は34名を数えるという盛況ぶりを呈した。伊兵衛は天保13年(1842)10月14日、81歳で没した。後に、陶祖水野源左衛門と共に常勝寺境内の廟にまつられた。文政年間(1818-1830)、伊兵衛の弟子の手代木幸右衛門が「責め焚き」という還元焼成法を考案した。この手法で磁器の素地をより白くし、染め付けをより鮮明にすることができるようになった。戊申戦争で壊滅的な打撃を受けたが、明治政府の援助もあって徐々に復興した。明治18年に石膏型を使った泥漿鋳込み法が導入され、昭和10年代には鉄道茶瓶などの需要が増えた。関東大震災で販路を断たれたり、大戦で疲弊したりで衰退した。大戦後、復興の好景気になり作れば何でも売れる時代があり、一時期は窯元40 軒にまで増えた。しかし、不況で急速に衰えた。昭和33(1958)、ブリュッセル万博で宗像窯の「にしん鉢」がグランプリを受賞し、注目を集めるようになった。昭和40年代(1965-1974)からの陶磁器ブームで復興した。平成9年(1993)には通産省から伝統工芸品の産地指定を受けた。会津本郷焼にとって碍子の存在が大きい。現在の総売り上げの半分以上は碍子の生産によっている。碍子は明治10年代に試作され、明治24年から本格的に生産されるようになった。昭和25年の朝鮮動乱による特需では、碍子の生産で上向きになった。 特徴:良質の陶石や陶土に恵まれている。自然灰を原料にした、褐釉、なまこ釉、飴釉、緑釉、鉄釉などが使われる。戊辰戦争の後、藩の絵師が指導にあたった山水などの日本画調の絵付けもある。磁器は絵付けや赤絵も焼かれている。鰊や山椒を醤油に漬け込むための用いる鰊鉢が有名。耳付きの四角い鉢で、黒みがかった飴釉がかけられている。にしん鉢はろくろは用いず、主に女性の手仕事で、5枚の粘土板をつなぎ合わせて作っている。陶器では「にしん鉢」が有名で、これは郷土料理のにしん漬け専用の器です。会津では気品のある磁器に対して、日用陶磁器のことを「そぶつ」と呼ぶ。会津本郷焼の作品は「そぶつ」が主流。 |
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相馬駒焼 歴史:寛永年間(1623)に、藩主の上洛の供をした田代源吾右衛門が始めたとされている。吾右衛門は、藩主の命で上洛し、仁清について7年間学んだ後、寛政7年(1629)に中村城下に開窯した。走り駒の絵を始めたのは2代清治右衛門。狩野派の絵師狩野尚信が来城の際に描いた絵をもとにしていると言われている。毎年正月初子の日には、将軍家献上品として、藩主や城代家老が自ら駒の絵を描き入れて作陶し、参勤交代で江戸に出た際に献上する習わしになっていた。相馬駒焼は、相馬藩の「御止め焼き」(藩窯で、藩の什器や贈答品のみを焼き、一般の使用を禁止した焼きの)された。代々相馬藩の御用窯で、抹茶茶碗、酒器、花器などの雅陶を焼いたが、作品は明治まで一般には出回らなかった。 特徴:砂混じりの粘土を用いているため軽いのが特徴。色は玉子手と呼ばれる卵黄色の釉薬を用いた黄瀬戸に似たものと、青磁釉で焼かれた緑青色の2種類。青磁釉は、「青ひび焼き」といわれ、黒いひびの入ったもの。駒の絵が描かれたものが有名。茶器が大半を占める。 |
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大堀相馬焼 歴史:元禄3年(1690)頃、大堀の地侍半谷休閑(仁左衛門尉)と使用人左馬が、井手村美森に良質の陶土を発見し、開窯したのがはじまり。左馬は生まれつき器用で陶器つくりに強い関心を持っていたことから、休閑は西山町の両所陶師の元に出してしばらく作陶を習わせた。その後、中井手村の美森山で良質の陶土を見つけ、本格的に陶器を焼くようになった。半谷家は現在も続いていて大堀相馬焼の元祖を名乗っている。当初は七人衆と称して製陶を7人の村民だけに限定し、一子相伝とされていた。この禁制は後にゆるんで宝永年間(1704-1711)には、窯元は近隣8ヶ村におよび約100窯があったという。相馬藩はこれを特産物にしようと、「瀬戸役所」を設け、資金の援助や原材料の確保等の保護育成につとめた。江戸や函館にも販売所を設けて、殖産興業に力を入れた結果、東北を代表するやきものに発展した。製品は日用雑器であった。大堀相馬焼では、駆けたりはねたりしている馬の絵を描いているのが特徴になっている。これはもともと相馬中村の相馬駒焼で描き始めたものであった。駒絵の起源は相馬藩主利胤が絵師狩野尚信の描いた馬絵を絵付けさせたのに始まる。明治42年になって商標登録の際に、相馬駒焼の方から大堀相馬焼に駒絵の使用を禁じるように訴えが出された。争いは大正の末まで続いて大審院にまで持ち込む訴訟合戦となった。最後は、郡長や県知事が入って示談が成立し、両方で駒絵を描くことで決着した。明治期に入り、藩の援助がなくなり、交通網の発達で、他産地から安価な製品が流入するようなり、急速に衰えた。大正期には窯元は30軒まで減ってしまった。大戦後、立ち直り、鮫肌土瓶は、一時期アメリカなどにさかんに輸出され好評を博した。昭和53年(1978)2月6日には、伝統工芸品の指定を受けた。大堀相馬焼には「青ひび焼」「走り駒絵」のイメージが固定してしまい、陶磁器としての自由度が失われているという危機感を持つ若手窯元も多い。このため、現在では、新しい作風に挑戦する窯元も増えており、日展入選など活躍している。 特徴:青磁釉、白流釉、灰釉、あめ釉が、大堀相馬焼伝産指定釉薬になっている。明治期に開発され大ヒットした「青ひび焼」というひびの入った青味を帯びた釉薬に、走る駒の絵を描いた作品が主流となっている。透明な青色の釉薬に黒いひびが入った茶碗などは独特のもの。相馬野駒追いからとったという駒の絵は狩野派の筆法と伝えられ、疾走する馬が描かれている。湯呑みや急須は二重底になっており、これも大堀相馬焼独特の様式。保温効果がある。鋲止加飾といって、花瓶や壷に縄や龍の細工物を巻き付けたように飾り付ける手法も見事。胎土に砂鉄を混ぜて、斑紋を出す「砂鉄緑釉」の製品も人気がある。青ひび焼に、金彩で走り駒絵を描いた製品も焼いている。 |
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会津慶山焼 歴史:会津慶山焼は、文禄元年(1592年)、当時の会津藩主蒲生氏郷が黒川城(現在の鶴ヶ城)の屋根瓦を、肥前の唐津から陶工を呼び寄せ焼かせたのが起源とされている。一方、文久年間(1861〜1864年)より渡部久吉が、会津軽井沢にある銀山(現在の柳津町)の坩堝(ルツボ)をつくり、後に久吉の住居(会津若松市東山町慶山)を中心に東側を上水に、西側を下水に区分けした。中心の久吉は擂鉢(大きなねり鉢)。丼鉢、植木鉢などを作り、上水では瓦を、下水では煉瓦、土管、壷などを焼かせた。さらに茶道の隆盛にともなって茶器を生むなど、以後民衆の生活に欠くことのできない日常用品の製作へと発展してきた。大戦中に廃絶したが、窯元「香山」(やま陶)が1974年に復活させた。 特徴:主力は生活用の器類で、日々の暮らしで使われて、使う人の心が楽しく豊かになって欲しいという思いを込めて作陶に当たられている。ロクロ、手びねり、そして灰釉を用いるという伝統をそのまま受け継ぎ、守りつつ新たな発想で現代の生活に密着した器をつくっている。 |
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