|
日本各地の諸窯(歴史と特色)
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
|
東海地方 |
|
|
|
|
静岡県
|
|
|
森山焼
歴史:明治42年、地元の中村秀吉が地元の土を用いて、土管や水瓶を焼いたことに始まる。土管製造はあまりふるわなかったが、大正天皇の即位奉祝のための置物と花瓶を献上し、感謝状を受けることがあってから世の中に知られるようになり、注文も増えた。
特徴:土地の土を用い、釉薬も土地の土と木灰を調合したもの。
志戸呂焼の流れをくみ、素朴や鉄釉、灰釉を用いた流し掛けや、「森山の赤焼き」とよばれる赤釉を用いられている。
|
|
|
志戸呂焼
歴史:志戸呂の古窯跡は、鎌倉時代、室町時代、桃山時代とそれぞれに推定されるものがかなりあり、鎌倉時代の窯跡からは瀬戸地方で行基焼とか山茶碗とかよんでいるところの、荒土を焼き締めただけの平たい椀や小皿の類の破片が出ている。これらは素地が炭化して灰黒色になっている。底は、糸きりした上により土を輪にして付けた、付け高台で、籾がらを敷いた上に載せたので、高台に籾のついた跡が残っている。この頃の志戸呂焼は、江戸時代のものとは全く異なり、むしろ鎌倉
室町期の古瀬戸によく似ている。いわゆる志戸呂焼は、大永年間(1521-1528)頃に葉茶壷を焼いたのに始まるという。天正年間(1573-1592) 初期、美濃国久尻の陶工加庄右衛門景忠が、五郎右衛門と改め作陶した。慶長年間(1596-1615)に家康が瀬戸から加藤四郎右衛門景延を招いて開窯されたという説もある。景延は美濃久尻に唐津式登窯を導入した功労者として知られている。家康は天正16年(1588)5月14日に、焼物商売免許の朱印状を授け、伝馬朱印状、13人扶持などを与えて窯に保護を加えた。志戸呂焼は「七度焼」ということと、「祖母懐」という銘があるのが特徴とされていた。七度焼は景延が7度も焼いた名器から出たもので、この壺に静かに耳を近づけると、壺が鳴いているような音が伝わってくるといわれ、今でも七度焼をやいている。寛永年間(1624-1644)には、小堀遠州の好みの茶器を製し、「遠州七窯」に数えられたというが、遠州が直接指導した形跡はない。享保年間(1716-1736)から「志戸呂」の銘をうった作品が生産された。享和元年(1801)には30数軒の窯元があった。現在、志戸呂焼と呼んでいるものは、瀬戸風の黒褐色のやきもので、江戸中期以降のものがほとんどである。茶入が最も有名で、金谷付近に多く残っているが、本当の名器は少ないと言われている。褐色もしくは黒柚のものが主で、裏に「祖母懐」とか「祖母懐加藤四郎」または「姥懐」の刻銘がある。
特徴:土は鉄分が多く、赤褐色。黒褐色や淡黄色の釉薬が用いられ、堅焼を特徴とする。
|
|
|
賎機焼
歴史:寛永年間(1624-1644)頃に開窯されたと伝えられているが、浜松城で武田の軍勢をしのいだ徳川家康の命で開かれたとも言われている。元亀3年(1572)、武田信玄によって浜松城に孤立した徳川家康は奇策をもってこれを撃退した。この勝利を祝って陶工太田七郎右衛門が、内に福面を描き、外は鬼瓦に摸した三つ組の盃を焼いて家康に献上した。家康はこれを喜び、賎機山麓に25石の地を与え、保護を加えるようになったと伝承されている。以来、賎機焼は、駿府城、浅間神社、久能山東照宮の御用をつとめた。楽焼風の釉薬で、「賎」「賎機」の銘を用いていたその窯跡はさだかではないが、一時期、浅間神社前の御器屋町でも焼かれていたことが分かっている。明治に入って、太田萬治郎が再興した。明治中期、静岡県は郷土産業として賎機焼の復興を図り、萬治郎から権利を譲り受けた青島庄助(樵山)に依頼し、復興した。青島庄助は藤枝の生まれで、代々伝馬町で質屋を営んでいたが、製陶に興味を持って美濃で修行した。庄助は日露戦争の凱旋軍人の郷土への土産品を焼いて成功した。盃を徳利の上にかぶせ、砲弾形の徳利として好評を博した。青島氏の後をつとめた2代目の五郎(秀山)が常滑焼の技術を導入したが、大正年間は割にふるわず衰微した。大正末年には漆を塗った陶漆器をつくり、輸出したこともあるが、あまり長くは続かなかった。3代目の青島秋果氏は南蛮手と呼ばれる焼き締めの技術を導入した。昭和になると安達式生花の支部の特約で花器を焼いた。大戦後、一時期中絶していたが、昭和21年(1946)に復興した。
特徴:鉄分の多い赤土を用いている。釉薬を使わない焼き締めて窯変を出す南蛮手も用いられている。灰釉、透明釉、萩釉、辰砂釉を用いている。
|
|
|
愛知県
|
|
|
瀬戸焼
歴史:瀬戸地域では、古くから須恵器が焼かれており、8世紀頃には灰釉のかかった陶器が焼かれていた。鎌倉時代には瓶子や壷が多く焼かれていた。伝承によれば、鎌倉時代に加藤藤四郎左衛門景正が中国の陶器製作技術を伝えて、天目茶碗や茶入を焼いたのが瀬戸焼の始まりとされている。藤四郎は中国で製陶技術を学び、仁治3年(1242)、瀬戸に陶土を発見して開窯したという伝説がある。その後の4代藤四郎政蓮までの時代を藤四郎時代と呼び、唐物写しの茶入などが焼かれていた。瀬戸の隆盛は室町時代で、その後、中心は美濃地方に移っていき、15世紀頃から衰えていった。江戸時代には生活雑器を焼いていたが、九州有田から多量に磁器が入るようになり衰退に拍車をかけた。18世紀には有田磁器が日本各地に移出されていたが、多量の磁器の移入は各藩の財政に多大な出費を強いる結果となる。全国各地で磁器の生産が試みられたが、商業的に成功できたのは瀬戸地域のみである。文化4年(1807)、加藤民吉は有田で磁器の製法をひそかに学ぶことに成功し、瀬戸で磁器が焼かれるようになった。加藤は瀬戸では陶祖として称えられているが、今でいう産業スパイのようなものである。佐賀藩は有田地域の磁器の製法が他藩に漏れることを極端に警戒していたが、19世紀はじめにはこのような他藩の産業スパイが有田の技法を全国に広めた。明治期以降は、ヨーロッパの技術を積極的に導入するなど近代化をはかり、輸出磁器の生産もさかんになった。工業製品やファインセラミックなどの生産も盛んである。現在、愛知県は岐阜県佐賀県とならぶ日本最大の窯業県となっている。東日本では焼き物のことを「瀬戸物」と呼び慣わされていたように、瀬戸では陶磁器のありとあらゆる製品が焼かれている。
特徴:瀬戸焼は豊富な陶土によって支えられ、地元の採土場で全てまかなわれている。亜炭層の下から産する「木ぶし粘土」、珪砂の多い「蛙目粘土」、花崗岩を砕いた「砂婆」と呼ばれる風化砂が主に用いられている。
|
|
|
赤津焼
歴史:瀬戸焼で、瀬戸市の東方にある、赤津、品野で焼かれている一連の陶器窯は工業化された瀬戸焼や磁器窯との差別化を図るため「赤津焼」を名乗っている。赤津焼は通産省から伝統工芸品の指定を受けている。
特徴:灰釉、鉄釉、古瀬戸釉、志野釉、織部釉、御深井釉を使用。
|
|
|
常滑焼
歴史:日本6大古窯のひとつに数えられている。起源は非常に古く、平安時代には須恵器が焼かれていた。平安後期〜鎌倉時代には自然釉や灰釉のかかった壷や瓶が焼かれた。販路は九州を除く日本全土におよんでいた。室町時代になると穴窯かた鉄砲窯に変わり、真焼という硬く焼き締めた黒褐色の壷や瓶が焼かれた。江戸時代に入ると、天明年間(1781-1789)、渡辺弥兵衛が尾張徳川家より「常滑元功斎」の銘を下賜され、茶陶を製作した。その後、陶然、長三、白鶴といった名工が輩出し、常滑焼は盛んになった。真焼のほか、各種の釉薬物、赤黒の楽焼、南蛮写し、藻掛けという海草を用いる手法など、各種の手法も出現した。明治初期には、鯉江方救が登り窯を導入し、その子方寿がイギリス式真焼土管を完成させて、土管を大量生産するようになった。明治11年に、中国人金士恒が、春門堂に滞在し、朱泥急須の技術を伝えた。朱泥の作品はその後、常滑焼を代表するほどの人気を博するようになる。また明治期から土管の製作が盛んになり、土管の生産が常滑焼の主流を占めるようになる。
特徴:朱泥土は、鉄分の多い粘土で、酸化状態で焼くことにより鉄分が発色して朱色に染まる。使い込むほどに色つやが出てくる。粘土を紐状にして積み上げる「ヨリコ造り」や、一本の印刀で図柄を彫り上げる「彫」なども常滑焼伝統の技法である。
|
|
|
犬山焼(前期犬山焼)(今井窯)
歴史:元禄年間、今井の奥村傳三郎が、安土桃山時代に可児市久々利の大菅大平で栄えた美濃焼の分派として、今井宮ヶ洞で開窯したのが今井窯の始まりである。傳三郎は今井の中堅農家であったが、先祖は可児郡大森村(現在の可児市)の大森城主奥村氏であると伝えられている。今井窯の経営は、初代傳三郎のあとその子傳三郎(通称源助)が引き継ぎ、21年後の寛延4年(1751)8月に源助が没すると、その子六右衛門が三代目窯元になり、安永10年正月に亡くなったとされている。今井窯は安永10年(1781)に廃窯になった。前期犬山焼の最も古い作品とされているものは今井石作神社の狛犬で、背面に元禄12年のヘラ書きがある。初期の作品で残っているものは、墓碑や灯篭の類が多い。今井窯では、一般庶民が日常生活で使用する「お勝手物」と呼ばれる生活雑器を主に焼いていた。絵付けをほどこした品はごく少ない。火鉢に松と鶴の絵を鉄釉であっさり描いたものや皿に中国の風景が北画風に描かれたものがある。ヘラで絵や模様を削ったものも残っている。 後期犬山焼(丸山窯)今井窯が廃窯になって30年ほど後、文化7年(1810)4月、犬山城下の上本町の島屋宗九郎が、犬山城主の成瀬正壽に願い出て、城の東方の丸山新田に丸山窯を開窯した。尾張では、瀬戸村が織田信長から陶器製造の独占権を得て以来、常滑の瓶などをのぞいては、他村で製陶することは禁じられていた。たとえ3万5千石の成瀬家城下といえども尾張藩内であるから製陶は許されない事であった。成瀬正壽は尾張藩の付け家老という有利な立場から、丸山窯はあくまで成瀬家の趣味の域を出ない「御庭窯」という公称のもとに目立たない範囲で商業生産も行っていた。丸山窯の経営は順調ではなく、文化14年(1817)3月、島屋宗九郎は窯株を本町の綿屋太兵衛に譲渡した。太兵衛は犬山焼の振興をめざして京都粟田口の陶工藤兵衛と久兵衛を招いたが、あまり振るわなかった。文政5年(1822)3月に成瀬領であった上志段味村(名古屋市守山区)から陶工加藤清蔵を招き、文政10年(1827)には同じ上志段味村の陶工加藤虎蔵も招き、瀬戸系丸窯を築き、磁器製造も開始した。しかし、陶土は貞林庵東側付近の良質のものを使用していたが、磁器用長石は瀬戸方面から購入せざるを得なかった。この丸窯の磁器として、祥瑞写しの湯飲み茶碗や、洋式杯、杯洗などが残っている。当時の丸窯(磁器窯)は、丸山の旧養老院北側の林内に残されている。文政11年(1828)には、丸山窯増築の記録も残っているが、太兵衛は、商売上の理由から天保初年(1830)頃に丸山窯を廃業した。これを惜しんだ成瀬正壽は、加藤清蔵を窯主として資金援助を行い、上志段味村からは水野吉平(宗兵衛)が移住し協力した。磁器よりも陶器生産に主力を置き、赤絵物を特徴として、近在に犬山焼を認知させることに成功した。ついで、名古屋から道平を招請した。道平は名古屋本町道宗の別家の道具屋平兵衛の通称らしい。道平は、天保6年に招請されて、嘉永7年(1854)7月に73歳で丸山で亡くなるまで約20年間、赤絵を描き続けた。桜の雲と楓の錦を意匠化した雲錦手は、京都の名工仁阿弥道八が得意とした意匠で、天保7年(1836)に成瀬正壽は画家の福本可善に命じて名器から雲錦手を複写させ、それを道平に描かせたと伝えられている。鉄釉の幹、白泥の桜花は同じでも、楓から紅葉に変化させ、紅葉を強調する手法は、現在の犬山焼にいたるまで、特徴的意匠の一つとなっている。道平のあと、この雲錦手は、画工兼松所助犬山藩士近藤清九郎らによって継承されていった。天保13年(1842)、余坂村の犬山城御用瓦師高山市郎兵衛の瓦窯から出火した火は犬山城下に延焼した。そのために市郎兵衛は瓦窯を廃業し、株を尾関作十郎(信業)に譲渡した。作十郎は火災のことも考慮して、丸山(成田山北側)に瓦窯を写した。作十郎は加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼も援助していたが、両名の経営が不振となったため、慶応2年(1866)9月に、作十郎はこの株も譲り受けた。明治元年(1868)、犬山藩が誕生し、明治4年(1871)4月には犬山藩物産方でも工業振興のため陶業を始め、加藤善次に窯方を担当させたが、明治5年に廃藩と共に廃窯となった。一方、作十郎のもとでは、清蔵惣兵衛が協力して、明治4年のウィーン万博に犬山焼を出品したが、まもなく両名ともに高齢となり廃業した。作十郎は、犬山焼の生産量を高める一方、明治10年(1878)には内国勧業博覧会に出品し、技術革新にも努めた。作十郎およびその子信美(二代目作十郎)は、郡長松山義根の助言も受け、明治16年(1884)11月に出資者を募って、犬山陶器会社を設立した。明治24年(1892)の濃尾地震がおこり、犬山陶器会社も工場その他が大破したため、廃業のやむなきに至った。二代目作十郎(信美)は、犬山焼の廃絶を憂い、明治29年の信美の死去の前には尾関窯を復興していた。現在は、尾関窯を始め5軒の窯元があり、伝統的な雲錦手の色絵陶器を中心に、犬山焼きを焼いている。
特徴:土は地元の山で採取される土を使っている。焼き上がりはやや赤っぽい肌に仕上がる。釉薬も地元の石を粉砕して作っている。絵の具も伝統的なものを用いている。
|
|
|
岐阜県
|
|
|
美濃焼
歴史:平安時代後期には、瓶や壷が焼かれていた。戦国時代に信長が美濃を平定すると、瀬戸かた多くの陶工が移住して作陶するようになった。桃山時代から江戸初期には、志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの名品を製作した。慶長年間(1596-1645)
には、美濃焼の陶祖と呼ばれる加藤彰延が唐津から作陶技術を学んで帰り、連房式登り窯を築いた。茶陶の生産が京都に移ると、生活雑器の生産が主流になった。文化元年(1804) 、多治見で磁器の生産が始まり、その後は磁器生産が主流になった。現在、美濃焼といわれる焼き物が焼かれているのは、多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市、笠原市などの広範な地域にわたっている。現在、洋食器は全国総生産の約51%、和食器は約58%、タイル類は約40%を美濃焼で生産している。
特徴:特徴がないのが美濃焼の特徴とも言われる。歴史の古い、黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒などの伝統的な陶器に加え、あらゆる様式の磁器や工業磁器、タイルなどが生産されている。
|
|
|
小糸焼
歴史:寛永年間(1624-1644)、高山城主金森重頼が京の陶工竹尾源十郎を招いて開く窯した。重頼の兄で茶人として知られた金森宗和の指導で茶陶が焼かれた。焼名は、窯の開かれた小糸坂に由来する。元禄5年、金森家の出羽転封のよって20年ほどで廃窯した。また、文政年間(1818-1830) 、飛騨国高山の細江三郎右衛門が、小糸(高山市西之一色町)に開窯したが、すぐに廃窯した。その後、興廃を繰り返した。
特徴:きめの細かい土を使っているために作風は軽い。茶系のややざらついた地派だに、鉄絵で独特の「麦藁」と呼ばれる縞模様や、秋草、蘭、松、野草などをさらりと絵を描いたものや、青伊羅保や志野風の作品が焼かれている。
|
|
|
山田焼
歴史:明和年間(1764-1772)、稲垣藤四郎によって始められた。農民や町人のための生活雑器を焼いていた。半農半陶で、土瓶、瓶、擂り鉢、徳利などの日用雑器を焼いていた。最盛期には窯元が10軒ほどあったが、交通網の整備により、瀬戸方面から焼き物が入るようになると、衰退していった。
特徴:黒釉、緑釉、鉄釉など素朴な作品が焼かれている。
|
|
|
渋草焼
歴史:天保13年(1842)、尾張の戸田柳造が、飛騨国渋草に開窯したのが始まり。一次途絶えたが、高山郡代と地元有力者が、九谷焼の陶工周山富士造
曽我竹山らを招いて開窯した。南京赤絵や赤絵物が焼かれ、飛騨九谷と呼ばれた。明治11年、三輪源次郎ら高山の町衆4人が復興に尽力した。しかし、販路が開けず挫折する。その後、「芳国社」をつくった松山家が引き継いで現在にいたっている。「芳国社」の社名は勝海舟によって名付けられた由緒あるもの。陶工たにも何人かが分かれて、陶器を作る柳造窯として独立した。昭和のはじめに加藤土師萌らの指導を受けて、渋草調とよばれる独自の文様を開発した。
特徴:磁器は有田風でも九谷風でもない渋草調と呼ばれる独特の模様で原料は地元の渋草陶石を用いて磁器を焼いている。光沢のある青白い地肌に、赤絵や染め付けを行ない描かれた、さくろ文様や唐草文様、唐子文様が描かれている磁器が主体。また精巧な文様の染め付けも行われ、青磁、白磁なども焼かれている。
|
|
|
三重県
|
|
|
伊賀焼
歴史:天平年間(729-749)、農民が農業に付随して生活雑器を焼いたことに始まるとされている。その後、製陶が専門業に分化し、室町時代末期には、太郎太夫、次郎太夫が活躍し、伊賀焼の創始者とされている。天正12年(1584)、伊賀領主に任じられた筒井定次は古田織部とも親交があり、焼き物を奨励した。この時代、古伊賀と呼ばれる製品が製作された。藤堂高虎の息子の高次は伊賀焼を奨励し、この時代の作品を藤堂伊賀と呼んでいる。寛永年間(1624-1644)、小堀遠州は茶器の製作を行い、遠州伊賀の名を広めた。江戸時代中期以降、急速に衰えた。宝暦年間(1751-1764)、瀬戸の陶工により釉薬の技術がもたらされ、復活した。現在の伊賀焼きは三重県阿山町と上野市の周辺で焼かれている。伊賀焼本来の古伊賀は、長石の混じった粘土を無釉で焼き締めてあり、長石が突出したり自然釉になったりした。また、燃料の灰が降り懸かって自然釉になった物も茶人から愛された。
特徴:土の耐火度が高いのが伊賀焼の特徴で、その特徴から土瓶や土鍋が生産されている。銅緑色の青地土瓶が有名。
|
|
|
四日市万古焼
歴史:元文年間(1736-1741)に、桑名の沼浪弄山が趣味で楽焼風の軟陶を焼き始めたのが始まり。「万古」の印を押したため万古焼の語源となった。沼浪はのちに窯を広げて経営し、軟陶を販売し、古万古、弄山万古と呼ばれている。天保年間(1830-1844) に森有節が再興した。これを有節万古とよび、赤土に釉薬をかけたものと焼き締めたものがある。安政年間(1854-1860)に、国学者竹川竹斎が弄山の作風を学んで、射和万古を作った。その後、桑名や四日市を中心に栄え、桑名万古、新万古と称された。大正期には磁器も焼くようになり、飛躍的に発展した。桑名、松坂にも窯元が興され、現在は窯元約200軒の大窯業地帯となっている。
特徴:土鍋は国内総生産の80%を占める。細かい土を焼き固めた紫泥の急須が有名。染め付け、赤絵の磁器、各種様式の陶器などあらゆる様式の焼き物が焼かれている。
|
|
| 阿漕焼
歴史:阿漕焼のもとになった窯は、安東焼と呼ばれており、三重県津市の安東町で250 年ほど前に開窯された。安東焼は万古焼の流れをくむ窯であった。寛保年間(1741-1744)、伊藤良助によって開かれ、浪々瑞牙が津藩に招かれて、愛宕山下に窯を築いた。安東村観音寺山で陶土を採って、赤と緑に特徴のある紫、コバルト、黄などを使った、九谷焼に似た製品を焼き、江戸にも出店を持って好評であった。天明年間(1781-1789)に廃窯した。嘉永2年(1849)、倉田久八が信楽の陶工の協力を受けて、安東焼の再興を図って開窯した。再興安東焼とも呼ばれていた。窯のあった船頭町が阿漕ヶ浦に近いため阿漕焼と呼ばれる。倉田久八はもと小物商や酒屋の番頭をしており、絵付は上手であったが、造りは下手であったため、信楽から上島弥兵衛を招いて焼かせ、粘土に雲母を混ぜて特徴を出した。かたわら七宝焼も焼いた。久八は扶持米10石をもらい、御用窯として作陶した。この前後に藤堂半蔵の梅窓窯、その兄の帰雲窯などもあった。阿漕焼は幾度か興亡をくり返し、明治18年には市川岩吉の経営する窯がおこされ、明治33年には内多正雄によって阿漕焼製陶株式会社が興された。森下木二が陶工として仕事を残したが、欠損が重なり、明治37年9月に廃窯になった。明治38年に三河の小島兼太郎によってまた興されたが、明治41年には廃絶になった。これと前後して、上島弥吉が現在の阿漕焼の場所に開窯し、弟の兼吉が陶工として活躍し、伊勢?伊賀一円の名手とうたわれ、岡田玉頼が絵付けを行った。この窯は大正11年に廃絶した。大正11年から市の富豪田中治郎左右衛門の出資によって、京都の陶工重富英を招いて開窯したが、3年で廃窯になった。その後、昭和6年(1931)になって、福森円二氏が四日市から招かれて引き継ぎ、現在に至っている。
特徴:阿漕焼は古万古焼のながれをくむ焼き物で、赤絵、青磁、染め付け、刷毛目、御本手、京焼風、などあやゆる作風が製作されている。乾山写しや中国、朝鮮風の作品も焼かれている。色絵も古万古焼の流れをくんだ盛り絵の技法が使われている。久八の案出した真鍮線を象眼した物も作られる。
|
| |
|
|
|