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日本各地の諸窯(歴史と特色)


 
日本各地の諸窯(歴史と特色)
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鳥取県


因久山焼


歴史:明和年間(1764-1772)に、京都の清水六兵衛が招かれ御室焼の技法を伝えた。因久山の名は、所在地の因幡国久能寺にちなみ藩主から拝領したという。鳥取池田藩の藩窯として保護された。寛政年間(1789-1802)、芹沢与兵衛、尾崎次郎右衛門が、京都の陶工六兵衛に御室焼の作法を習った。文化年間(1804-1817)に信楽の陶工勘蔵 勘助親子がやってきて信楽焼の技法を伝えた。京焼と信楽焼の技法が混じり合って、代々の名工が藩主に仕え、因久山焼独特の作風が形成された。藩政時代は4つの窯場があったが、明治期以降、急速に衰退した。大正14年には窯を改良して、事業を拡大した。青と黒の染め分けで模様のほとんどない抹茶茶碗、茶器、花器、水指、菓子器などの格調高い作品が焼かれた。

特徴:素地には少し赤みがある。藁灰釉、黒釉、緑釉、辰砂釉などの釉薬が使われ、独特の工夫が凝らされた藁灰釉の美しさには定評がある。


牛ノ戸焼


歴史:天保年間(1830-1844)、石見の陶工金河藤七が陶器窯を開窯。その後、小林梅五郎親子が継承した。並釉、白釉、黒釉、緑釉などの豊富な釉薬を用い、鉄絵や白絵の模様で飾った。主として、瓶、各種の徳利、壷、五郎八茶碗、漬け物皿などの日用雑器を焼いていた。明治期に全盛を迎え、製品は、鳥取県一円のほか、岡山県や福井県方面にも出荷された。酢徳利は北海道にまで大量に移出された。その後、衰退したが、昭和に入って民芸運動の影響を受けた。4代目の小林秀晴は、鳥取で民芸運動を推進していた鳥取美術館の創始者である吉田璋也を通じて、柳光悦や河井寛次郎と知り合い、民芸に関心を持つようになり、新しい作陶の方向を見いだした。その後、庶民的な素朴な焼き物を制作するようになった。吉田璋也の本業は耳鼻科であったが、「白樺」や柳宗悦の民芸運動に共鳴して鳥取民芸団を組織し、民芸の発展につくした。昭和初期、吉田は自分の考案したデザインを牛ノ戸焼窯元であった小林氏に勧め、多数の作品を注文したという。その後、民芸運動の指導者の一人だったバーナード リーチも牛ノ戸の窯に滞在し、影響を与えた。民芸運動の影響の下に、牛ノ戸焼は民芸陶器の窯元として、日本各地や海外にも製品が輸出され、高く評価を得るようになった。

 
特徴:土は窯場付近のものを用い、高温で焼くために堅牢である。牛ノ戸焼の最大の特徴は鮮やかな緑釉で、鉄絵、緑釉、褐釉、黒釉、わら灰釉などを使用している。牛ノ戸焼の伝統である鉄絵で梅や菖蒲を伸びやかに描いた作品もある。


島根県


石見焼


歴史:18世紀末から19世紀にかけて、石見大田から浜田にいたる約60kmの海岸沿いに、大田、湯泉津、江津、国府、波子、浜田などの石州諸窯が開かれた。石見地方は「水瓶」が有名で、江戸末期には北前船で全国に出荷されていた。このため、石見地方の焼き物を総称して石見焼と称するようになった。18世紀中頃、周防国と備前国から作陶法がもたらされて、陶器が本格的につくられるようになった。全盛期の明治 大正頃には100窯以上の窯元があった。巨大な窯で各種の瓶や壷を焼いていた。当時の巨大登窯跡は石見地方の各所に残っている。石見地方の陶工のろくろ技術は有名で、各地の窯場で雇われて出稼ぎも盛んだった。「石見焼」は1994年、国の伝統的工芸品の指定を受けた。水瓶を中心に焼いていたが、昭和30年代にプラスチック容器の普及によって大打撃を受けた。その後、窯元の努力によって素朴な生活雑器が焼かれるようになった。


特徴:島根県江津市から浜田市を中心にして東西に広がる「都野津層」とよばれる良質の陶土を用いている。柿釉、鉄釉、青や緑の流し掛けが用いられる。


布志名焼


歴史:安永9年(1780)、松江藩の御用窯であった、雲善窯に、同じ松江藩の御用窯であった楽山焼から土屋善四郎芳方をよんで布志名に窯を築かせたのが始まりという。2代目の政芳は松平不昧公に気に入られ、京風の色絵や仁清 乾山の写しを焼いた。藩窯とは別に民窯も開かれた。明和元年(1764)、船木与治兵衛が開窯した。製品は当初は粗悪な陶器であった。文政(1818-1830)の頃から改良が加えられ、天保年間(1830-1844)には、黄釉、白釉、青釉、鉄釉、錦模様などの製品が作出された。昭和の初期に、民芸運動の推進者の一人であった、イギリス陶芸家バーナード リーチ氏が滞在して作陶した。リーチ氏の影響を受けて、ガレナ釉のモダンな雰囲気の作品も焼くようになった。船木研児氏のようにリーチ氏のもとで指導を受け、作陶器を学び、新しい雰囲気の作品を焼いている作家もいる。布志名焼の特徴は、美しい黄色の釉薬にある。青磁のような色合いの布志名青地や伊羅保釉、白い藁灰釉も特徴的。藩窯系の、雲善窯では、黄釉のほかに青磁のような布志名青地、伊羅保釉、藁灰釉などを焼いている。茶碗の内外に6本の大根を描いたものは、雲善窯独特のもので、六根清浄の意味があるという。藩窯時代の伝統をひく京焼風の色絵や仁清の写しなども特徴。布志名には藩窯の流れのほかに、民窯の系統の窯元が数軒ある。
特徴:しっとりした黄釉が特徴。


袖師焼


歴史:明治10年、布志名や楽山で修行した尾野友一によって、良質の粘土の産出する松江市郊外の乃木皇子坂に開窯された。友市は松江藩の御用窯であった布志名窯や楽山の窯で修行をした人である。当初は松江焼と称していた。明治の中頃、二代目光次郎の時に、宍道湖畔の現在地に移されて袖師焼と改名された。昭和の初期には、華道小原流の創始者である小原豊雲が出雲の出身ということもあり、小原流の花器も多く制作された。素朴な日用品を生産してきた。3代目尾野敏郎のとき、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード リーチなどの民芸派の指導を受けた。これによって、袖師焼は「日用的なすこやかな焼き物」という伝統を明確にしていった。1958年、ブルッセル万博において、「掛分酒器」がグランプリ賞を受賞した。


特徴:土は窯の近くの上之木周辺から採取している。釉薬もすべて地元の物を用い、鉄釉、辰砂、藁灰釉、呉須等を用いている。出雲地方に伝承された陶技を基礎として、三彩、鉄絵、掛け分け、流し掛け、刷毛目、ろう抜きなどの多彩な技法を駆使している。 


母里焼


歴史:1819年、松江藩の支藩母里藩主松平直興が石原善右衛門を招聘して藩の事業として開窯した。その後、東母里原代の天馬に移転するが衰退した。1847年に上田武蔵が引き継ぎ、上天馬焼と称した。嘉永3年(1850)に窯を豊岡の地に移したので、豊岡焼と呼ばれていた時期もある。同じ頃、西村幸右衛門が下天馬焼を興し、別名豊山焼と称した。その後、1834年に長兵衛によって豊岡焼が興された。豊岡焼からわかれて、現在の稲垣家の窯が開かれた。現在まで続く母里焼は、稲垣茂平が明治22年(1889)に現在の場所に移って開窯したもの。以後、地方の需要をまかなう日用雑器を焼いていた。


特徴:土は窯場の裏山から採取し、釉薬も燃料の松の割木もすべて地元の原料を用いている。鉄釉、藁灰釉、土灰釉、緑釉などがぼってりした器に施される。登り窯は出雲地方最大。


楽山焼


歴史:延宝5年(1677)、松江藩主松平綱隆が萩焼の陶工倉崎権兵衛を招いて開窯した。開窯は同じ松江藩の藩窯である布志名焼よりもはやい。権兵衛には後継者がなく、弟子の加田半六が窯を継いだ。しかし、窯元の家系は4代目で途絶えてしまった。その後、しばらく途絶えたが、享和元年、7代藩主松平不昧候が、布志名から呼んだ長岡住右衛門貞政によって復興した。長岡住右衛門楽山焼の中興の祖とされる。のちの善四郎は藩命によって布志名に移り、土屋窯を開いた。この窯は雲善窯として布志名焼の伝統窯として存続している。寛政10年(1792)、布志名窯から長岡住右衛門が楽山に移され、代々空権を名乗った。そのほか、9代空味が有名。「御立山焼」「御山焼」とも呼ばれ、明治に入ってから「楽山焼」とよばれるようになった。現在は、11代住右衛門空権が当主。萩焼の坂高麗左衛門に師事して陶技を磨いた。昭和35年(1960)に祖父空味、昭和36年(1961)に父空処が相次いで亡くなり、当主を引き継いだ。伊羅保写しが得意。布志名の技巧的な変化を見せるものに対し楽山焼は、あくまでも御用窯の格式を重んじ、品位を重視している。祖である倉崎権兵衛の作品でも「権兵衛刷毛目」と呼ばれるおっとりとした作品が多く、大名道具らしい品格がある。「伊羅保」というざらざらした手触りの高麗茶碗の写しは権兵衛茶碗と呼ばれて茶人に珍重された。19世紀からは、色絵の日用雑器も焼いている。


特徴:抹茶茶碗、香合、花器といった茶道具が中心。


出西焼


歴史:昭和22年、民芸運動の影響を受けた地元の20代の青年5人(多々納弘先、中島空慧、井上寿人、陰山千代吉、多々納良夫)が、民芸運動の推進者だった河井寛次郎、濱田庄司、バーナード リーチらの指導を受けて開窯。5 人は、農家次男や3男ばかりで、家を継ぐことができなかったが、柳宗悦の民芸運動に感化され、陶器の窯を開くことを話し合った。共同で窯を持つことで理想の共同体生活が営めると感じたからだという。それぞれが各地の窯元(袖師、唐津、益子、丹波、京都など)に修行にでかけ技術を修得して帰郷し、共同で出西窯を始めた。現在、2代目になっているが、すべて分業の共同作業によって生産されている。おとぎ話みたいなストーリーだが、事実である。


特徴:土も釉薬もすべて地元の物を用いている。鉄分の多い褐色の土を、高温で焼き締めている。鉄釉、柿釉、灰釉、飴釉、黒釉、呉須などを用いている。


岡山県 


備前焼


歴史:日本6古窯のひとつとされている。備前焼は6古窯の中でも特に古く、古代から平安時代初期にかけて須恵器を焼いていた。現在も、釉薬を使わない焼き締めを大きな特徴としている。平安時代から鎌倉時代初期までは還元炎焼成で灰色の壷や瓶が焼かれていた。鎌倉時代後半から、現在のような酸化炎焼成の茶褐色の地肌の陶器が焼かれるようになった。当初は熊山に窯があったが、大量生産が行われるようになると、平地の伊部でやかれるようになった。室町時代の備前窯跡は広範囲に見つかっている。瓶、壷、鉢類、鬼桶、片口、徳利などの生活雑器が焼かれていた。室町時代後期になると、わび茶の流行から、茶器も焼かれるようになり、桃山期には最盛期を迎えた。火襷、桟切、灰かぶり、榎肌、胡麻類、紫蘇色、火間などの焼成中の窯変もこの頃から珍重されるようになった。江戸中期になると藩の保護を受けるようになるが、釉薬や絵付けをほどこした、彩色備前や白備前、絵備前なども製作された。天保年間(1830-1844)には、天保窯と呼ばれる小型の窯も築かれ、注文にもすぐに応じるようになった。最盛期の販路は西日本全域におよんだ。江戸時代後期から流入しだした有田や瀬戸の磁器に押され、明治期に入って交通が整備されて安価な磁器が出回り始めると、備前焼は急速に衰退した。昭和30年代(1955-1965)から始まる陶芸ブームによって備前焼も見直されるようになり、現在の興隆に続いている。昭和31年(1956)、備前焼中興の祖といわれる金重陶陽が重要無形文化財指定を受け、昭和45年(1970)には藤原啓が、昭和62年(1987)には山本陶秀がそれぞれ重要無形文化財指定を受けで備前焼の名を知らしめた。備前焼は昔から「酒が旨く飲める」ということで、徳利やグイ呑みには定評があった。ビールも泡切れが少ない。最近、備前焼の製品から遠赤外線が出ていることがわかり、酒類の味わいに関係があるのではないかと言われている。


特徴:備前焼の土は、冬の間に水田を掘り下げて、下層部にあるやや鉄分の多い「干寄(ひよせ)」という粘土を主として用いている。掘り出した粘土は
2-3年風雨にさらす。これに山土や黒土を混ぜ、細かく砕いて保存し、水で戻して精製する。土は作陶まで8年くらい寝かせないといい作品はできないと言う。土が命という備前焼はろくろに土が載った段階で作品の半分は完成したと言われるほど土には気を配っている。備前焼の魅力は、釉薬を用いない焼き締めと、自然釉、窯変による肌の景色の変化にある。備前焼は現在も大半が登り窯で焼成されている。素焼きは行わない。焼き時間は非常に長く、5日間のあぶり焚きに始まり、中焚き、攻め(大焚き)と、10日から2週間ほど焼き続ける。火を落として4-5日さまして窯出ししている。 

備前焼の窯変には以下のような種類がある。
桟切り 窯変の代表的なもの。窯の中で薪が燃えて炭にになり、その炭火や灰の中に作品が埋もれて地肌が変化したもの。暗灰色や青黒色などのさまざまな色になる。
胡麻 焼成中に燃料の灰が作品に降りかかり、ブツブツとゴマのような地肌になったもの。高温でゴマが流れたものや、流れて垂れたものもある。 
緋だすき 昔は器同士が溶結しないように器の間に藁をいれたり、器がくずれないようにまとめて縄で縛って窯入れをした。そのような藁が燃えて、素地と化学反応を起こし、赤、朱色、茶色などの襷をかけたような模様を呈したものを緋たすきと呼んだ。今は藁を人為的にかけることによって作っている。化学肥料で育てた稲藁の方が鮮やかな緋色になるという。
牡丹 牡丹もちともいう。窯入れの際に、器同士がくっついていると重なって、炎や灰が当たらない部分だできて、赤や茶色の模様ができる。形状が牡丹もちに似ているので名付けられた。
青備前 備前焼は酸化炎焼成だが、窯の火加減で一部還元炎焼成になることがある。青黒く焼けるので青備前と呼んだ。焼き上げの際に食塩を窯に投入して、窯を密閉しておくと、化学反応で青黒く焼き上がる。
伏せ焼 器の上部と下部の色が異なった物。窯入れの際、器の口を下にして伏せて焼くとこのような物になる。伏せた部分で藁が焼き付いて緋だすきになった物もある。

虫明焼


歴史:元文年間(1736-1741)、岡山藩家老伊木家の御庭焼として始められた。この窯は瀬戸窯で、茶器や花器が焼かれた。伊木忠澄(1818-1886;号三猿斎)は、京焼の陶工清風与平を招聘して磁器を焼かせた。また、京焼陶工の宮川香山も来窯した。虫明焼には、御庭焼のほかに、庶民用の日用雑器を焼いていた窯もあったが、現在は途絶えている。明治以降は、森彦一郎(1855-1921;号香州)や岡本英山(1882-1962)などの名工が出た。

 
特徴:京風の茶陶で、薄作りで端整な形が特徴。


酒津焼


歴史:明治2年、倉敷の豪商によって開窯された。開窯当初は倉敷市内の戎町にあったが、後に酒津の兜山に移った。明治後半から大正にかけては繁栄し、岡山県から香川県高松の周辺まで出荷されていたという。しかし、有田や瀬戸の安価な磁器に押されて、経営は悪化していった。昭和のはじめに、倉敷紡績の設立者で、民芸運動の後援者でもあった大原孫三郎と交友のあった、近藤悠三や浜田庄司、河合寛次郎、富本憲吉、バーナード リーチなどの民芸運動作家が相次いで訪れ、指導を受けた。


特徴:厚手の作りが特徴。白濁色の藁灰釉、鉄釉、斑紋の出るなまこ釉などのかかった陶器を生産。 


広島県


宮島焼


歴史:宮島焼は別名「御砂焼」とも言う。安芸の国の人が他国に旅をする際、道中の安全を願って、厳島神社の本殿社下のお砂を拝受して出立し、無事に帰郷できた際には、お砂守とともに旅行先の砂を何倍かにして返すという、いわゆる「お砂返し」の風習があった。この砂を混ぜて焼いたのが宮島焼の興りと伝えられている。宮島焼の消長は複雑で、その創始は天明 寛政年間(18世紀末)と言われているが確証はない。天明寛政の頃、賀茂郡の人がお砂守りのお砂とお返しの砂を混ぜた土器を作り、管弦楽の時にこれを奉納して喝采を博した。これが宮島焼の始まりであろうとの伝承がある。文政年間(1918-1830)の初め、宮島滝町の商人坪屋喜兵衛が、宮島厳島神社の社殿下の海砂を混ぜて焼いた陶器を「御砂焼(神砂焼)」と称して参拝客に売り出したが、長続きしなかった。文政11年〜12年(1828-1829)ころ、藩主浅野斎賢の命により沼田郡江波村(現在の広島市)に窯を築かせ、京都から陶工数名を招いて宮島の砂を混ぜ、種々の陶器を製造販売させた。この窯は天保9年〜10年(1838-1839)ころまで続いたが、廃窯となった。天保13年〜14年(1842-1843)頃、厳島神社の祝師職野坂斎が、広島の冨士屋喜兵衛にはかり、富士屋の裏庭に築窯して製陶を始めたが、まもなく喜兵衛が没して数年で廃窯になった。嘉永年間(1848-1853)、宮島の大聖院敬澄隠元が京都の陶工旭山を招き、「神砂焼」と称して、京焼風の陶器を製陶したが数年で廃窯した。文久〜元治(1861-1864)の頃、廣島藩の勘定奉行西村正倫が城下の商人松岡清次郎に依頼して仁保渕崎に築窯させ、「御砂焼」の復興を図ったが、工人の未熟と土の不良のため、不成功に終わった。明治17年(1884)ころ、旧社家の絵画彫刻をよくした所倍文(号雲章)が大阪から陶工を招聘して、自らも製陶に携わったが、数年で廃窯した。明治20年代の初め、一本松小林政介が岩国から陶工を雇い、南町紅葉谷公園入り口の自宅裏に築窯し、陶器を販売したが明治30年前後に廃窯した。明治41年(1908)ころ、近江の人近藤栄次郎が宮島駅前に開窯、京都から宝山泰助、兵庫から川原富次郎を招いて宮島焼を興したが、不景気のため7年で廃窯した。いわゆる宮島焼ないし御砂焼は、当初は厳島神社に対する信仰的なものから出発して、これが門前の商業主義と結びつき、途中しばしば断絶を繰り返しながら、今日に至ったものである。したがって、伝世する作品の作風は一定せず、また、これらの作品がどの時代の窯に属するかも良く判っていない。


特徴:ほんのりと赤みを帯びた地肌が特徴。ほとんどが無地の焼き物で、裏に「宮島焼」の印がある。宮島の砂を焼き込んだ本来の「宮島焼」は現在では焼かれていない。宮島には宮島焼の窯はなく、本土側の宮島口に窯元がある。


山口県


萩焼


歴史:文禄慶長の役(1592-1598)で、毛利輝元が、連れてきた朝鮮の陶工李芍光?李敬兄弟が開窯したもの。関ヶ原の戦いに破れた、毛利輝元の萩入府に伴って、李兄弟も広島から萩に移った。李敬は松本中之倉(萩市椿東)に開窯し、その系統は松本萩と呼ばれている。現在の坂高麗左衛門はその末裔。李芍光は深川三之瀬(長門市)に開窯し、この系統を深川萩と呼ばれる。どちらも藩の御用窯であったが、松本萩が藩窯専用であったのに対し、深川萩は民間用の生活雑器を焼くことも許されていた。3代目までの作品を古萩と呼んでいる。作風は朝鮮系の影響が強く、石ひびのはいる黄白釉の茶碗が萩焼の特徴となっている。明治期に入って、藩の保護を失い、急速に衰えたが、12代坂倉新兵衛と10代三輪休雪は伝統技術を復活させ、萩焼の復興に尽力した。休雪は高麗茶碗の研究から、「休雪代」とよがれる新しい白萩釉をあみだした。


特徴:萩焼きの最大の特徴は「萩の七化け」といって、使用しているうちに肌の色合いが変化してくることである。萩焼は登り窯で低温度で長時間にわたってゆっくりと焼き上げるため、焼き締めがあまくなり、焼き上がりの感触が柔らかく、吸湿性が高い。鉄分の多い土を使うために、釉薬を掛けて焼くと細かなひびが無数に入る。このひびに茶や酒が浸透して長年使い込んでいくうちに器体の色つやが変化していく。 


堀越焼


歴史:寛政6年(1784)、周防の陶工内田善左衛門がこの地に陶器に適した土を発見し、堀越の地に移住し築窯した。その後、一時期衰退するが、善左衛門の弟子の佐野焼の陶工林治右衛門と宮本亀次郎と共に窯を再興した。。明治ら大正にかけて、叩きの壷類や雲助などを盛んに焼き、山陽地方随一の民窯として栄えた。窯元は大正期の隆盛時で38軒もあったという。昭和初期には10数件の窯元があった。蹴ろくろを使った、半胴かめ、たこつぼ、水瓶、雲助徳利、擂り鉢、野壷などを焼き、中国、四国、九州方面にも出荷していた。植木鉢を主要な生産品としていたが、瓶の類も焼いていた。一時期、廃絶の危機に瀕していたが、昭和40年代の陶芸ブームで復活した。
特徴:陶土は鉄分が多く、焼成後は素地は茶褐色になる。飴釉、白釉、緑釉、白泥などを用いた素朴な民芸風の焼き物を焼いている。


末田焼


歴史:明治8年(1875)、排水用の土管を焼き始めたのが始まり。その後、土管の製造産地として全国的知られ、発展してきた。昭和40年代に入ると土管の需要が急激に落ち込み、衰退した。昭和40年代後半になって、新しい焼き物を生産しようという気運が生まれ、土管から、生活雑器の生産に切り替えられた。

特徴:鉄分の多い土に、飴釉、白釉、白泥などを用いた素朴な民芸風の焼き物を焼いている。

 

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