| 長崎県三川内焼をたずねて |
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| 三川内焼の歴史 |
| (参照:日本各地の諸窯(歴史と特色)「九州沖縄地方」) |
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三川内焼の発祥を探る
三川内焼は旧平戸藩領の南端、旧佐賀藩領有田と旧大村藩領波佐見に境を接した、木原、江永、三川内で焼かれた焼物であり、またの名を平戸焼ともいいます。それは、木原山、江永山、三川内山の三皿山のうち三川内山に平戸藩の御用窯が置かれ、平戸藩を代表する焼物であったからです。
平戸は、遣唐使船時代からの古い港で、南蛮貿易港としても繁栄していました。折から天下人となった豊臣秀吉は、茶の湯を好み、天下の名器といわれる茶碗を集めては、功労のあった人々に与えました。殊に外国渡来の焼物、わけても高慶物や南京物は特に珍重がられ、その渡来の窓口が平戸だったのです。
また、伊万里と唐津の中ほどに岸岳(鬼子岳とも書く)があり、松浦党の一方の旗頭であった波多氏が城を構えた所であります。波多氏は飯胴窯、帆柱窯、皿屋敷窯などの、いわゆる岸岳五窯を営み、今目、茶人垂涎(すいぜん)の的となっている「古唐津」の名晶を焼きだしました。しかし、この岸岳窯も文禄3年(1584)豊臣秀吉が、波多氏の領地を没収し、三河守親を追放するに及んで荒廃し、陶工たちは四散しました。世にいう「岸岳崩れ」がこれです。この岸岳崩れのとき、その一部の陶工が三川内の初期の窯を開いたと伝えられています。
豊臣秀吉の朝鮮の役を、別名『焼物戦争』ともいいます。その頃の朝鮮は、李朝中期の染付磁器の最盛期であり、そこに秀吉が「帰国の節は、細工人を召し連れ帰るべし」との朱印状を出したので、大名たちは競って彼の地の陶工をつれて帰りました。中でも松浦、大村、鍋島の諸大名が運れてきた陶工たちは、肥前の地において絢燗豪華な白磁の焼成を開発しました。この中に釜山の近く熊川(こもかい)の陶工、巨関(こせき)がいました。巨関は、平戸藩主松浦鎮信の命を受けて城内でしばらく試し焼きをした後、中野の上椿坂(又は紙漉)に適地を見つけ、細工場を設け窯を築いて皿、茶碗、壼などを焼いたのでした。これが中野窯で平戸焼、そして三川内焼の始まりです。しかし、近くに良質の陶土がなく、朝鮮から陶土を取り寄せたとさえいわれています。
巨関の子の三之丞は、後に三川内白磁を開発した人で、白碗への思慕と執念は父にも増して強く、親子は遂に意を決して、陶石探索の旅に出たのでした。平戸瀬戸を渡った巨関と三之丞は、淳を南にとって江迎、吉井、佐々、佐世保と探し歩き、そして最後に落ち著いた所が三川内だったのです。 |
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三川内三皿山の誕生
巨関、三之丞親子は、平戸の中野窯を後にして三川内の葭ノ本で寛永15年(1638)に窯を開いたと伝えます。しかし、満足する晶が得られず麿津領の椎の峯や大村領の三ツの又などの窯場で修行に励み、良質の陶土を求めて中尾山に窯を開きます。
ところが、時の平戸藩主松浦隆信(宗陽)は家臣の志方平之丞を中尾山にやって三之丞に帰国を命じ、三川内山に藩用の製陶所を開くことを命じました。
三之丞は、椎ノ峯で面識のあった福本弥次右ヱ門や山内長兵衛、前田徳右ヱ門らを招き絵師に山内、前田、そして窯焼方に中里茂右ヱ門、福本弥次右ヱ門、口石長右ヱ門、金氏太左衛門、藤本治左ヱ門を配して藩窯の体制を整え、自ら頭領となりました。そして、寛永18年(1641)、時の藩主松蒲鎮信(天祥)は、三川内に来て陶工たちを激励し、三之丞を皿山棟梁兼代官に任じ、寛永20年(1643)には、皿山役所の出張所を木原山と江永山に設けました。それが三川内三皿山の起こりで、慶安3年(1650)中野にあった御用窯のほとんどが三川内山に移されました。
ここにおいて三川内三皿山は、平戸三皿山となり、平戸御用窯の制度は全てできあがったのでした。 |
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名窯三川内焼と献上品
三川内の平戸藩窯は、今村三之丞の子の弥次兵衛正景の時に至って、大いに整備されました。弥次兵衛が、天草陶石と網代陶石を調合することに成功し、純自天下に冠たる白磁を完成し、寛文4年(1664)将軍家献上晶の御用命を命ぜられると、藩主の天祥鎮信は、弥次兵衛を御馬廻格とし、百石を給しました。
元禄12年(1699)朝廷への献上晶を作って嘉納され、以後しばしば御用命を拝するという光栄に浴し、藩主天祥鎮信は、弥次兵衛に「如猿」の号を授けて、これを嘉賞したのでした。
また、天保の頃の記録を見ると御用士人18人、赤絵師6人、三川内山の戸数300戸、木原山、江永山の三皿山を合わせた戸数はおよそ800戸もあり、元禄から天保にかけては平戸藩御用窯の盛大さを究めた時代でありました。 |
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世界に愛された三川内焼
南蛮交易で財政豊かであった平戸藩は、オランダ商館を長崎出島に移されたため交易の利を失いました。そこで、藩の積極的施策と庇護奨励によって、御用窯が隼と共に盛大になると、藩は販路を海外に求め、輸出用陶磁器の開発に努めました。御用窯ではこれに応えて池田安治郎、高橋平助、中里三太郎、古川正作などの名工たちによって、外人向けの薄手のコーヒー茶碗等が開発されました。文化完年(1804)、藩は長崎に平戸藩物産会所を設けて、その製晶をオランダや中国などに輸出し、海外の王侯貴族に愛されました。 |

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苦難の出発(藩窯から民窯へ)
慶応4年(1868)徳川幕府が倒れ、御用窯であった三川内皿山も遂に民窯に転じ、細工人たちは扶持を失って路頭に迷い、藩の庇護を失った三川内皿山は存亡の危機に頻しました。
平戸藩は御用窯製晶の一切を古川澄二に譲りました、古川は、福本栄太郎や他の有志と図ってこれを経営し、その名を万宝山商舗と改めました。製晶は「万宝山枝栄製」または「平戸産枝栄製」の銘を入れて売り出されました。しかし、二百余年の間御用窯としてあった三川内皿山が、早くから民窯としての経営と実績をもった有田や伊万里と競争できるはずがなく、三川内焼の凋落は目に見えてひどかったようです。しかし、豊島政治がこれを見て再建に乗りだし、万宝山庫舗を皿山代官所跡に移し、販路を拡張しました。また、明治32隼(1189)三川内焼の伝承の技を守るために三川内山に意匠伝習所を創設しました。
三川内御用窯の秀れた技術は、伝習所の指導のもとに着い陶工たちによって受け継がれ、これに新しい意匠考案が加えられて見事、今日の三川内焼に伝承されているのです。 |
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現代に残る三川内焼の古窯跡 |
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葭の本窯跡 |
木原町古里にあり、三川内諸古窯のなかで最も古い段階の窯である。登り窯は前後三期あり、全て唐津系の陶器を焼いている。慶長頃(1596〜1614)に始まり寛永(1624〜1643)に廃窯すると考えられている。長崎県指定史跡
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地蔵平窯跡 |
三川内三皿山の一つ木原山にある。窯は前後2期が重複しており、前半では陶器を焼き後半からは磁器に代わる。唐津系陶器から白磁を模索する工程を示す窯で、最終段階では有田の影響も見られる。葭の本窯跡廃窯後に開かれ、元禄(1688〜1703)に終わる。
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江永古窯跡 |
三川内三皿山の一つ江永山にある。前中後3期の窯が重複する。最も古い時期は磁器を主体とし地蔵平窯の最終段階と重なり、木原から分窯した寛文10年(1670)の段階に符号する。中唐期は陶器の刷毛目を主体とし、最終期では粗磁染付を焼いている。寛政11年(1799)には閉窯する。
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三川内東、西窯 |
18世紀末以降の窯の発掘例はないが、三川内三皿山のうち三川内山には藩窯と伝える三川内東と西窯がある。昭和初年まで焼かれ、焼き損ないを捨てた物原から19世紀の磁器が採集されるので、一種の登窯の最終段階に位置する窯とされる。
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