長崎県三川内焼をたずねて

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三川内焼の特徴

三川内焼の真髄『白磁』

巨関、三之丞、弥次兵衛の親子三代の努力と研鐙によって、天草陶石と網代陶石を用いて純自の磁器の焼成に成功したのが、世界に誇る平戸焼(三川内焼)の白磁の姶まりです。
天草陶石の発見により三川内焼特有の無垢にしてきめ細かい磁肌を誇る自磁、それによく映える呉須による繊細侵美な染付、高温で焼成した珠のような輝きが三川内焼の特徴です。また、天草陶石の粘りの強い性質を生かして、透し彫り、ひねり物、細工物など陶工の匠の技を生かした"やきもの"づくりをすることにより三川内焼(平戸焼)の地位は不同なものになりました。それは、代々受け継がれ特上の素材と卓越した匠の技は、今も脈々と生き続け、現在1も世界に誇れる陶磁器として陶磁器愛好家の方々に深く支持されています。


平戸藩御用窯と上物づくり 幕府の殖産興業の奨励により、尾張、加賀一、鍋島、島津、肥後、長州、大村などの地に、藩主の命によって多数の窯が開かれましたが、この中には藩の財政や諸般の事情で民窯に転じたものが多かったようです。その中にあって三川内焼は民窯と平行して、藩の御用窯が直接経営されたのでした。
御用窯の細工人たちは、名字を許され、公課、諸役を免ぜられ、一定の扶持米が与えられた上、原料の陶石は勿論、薪も与えられました。
細工人たちは、損得や利書を考えることなく、只ひたすらに優れた晶を作ることに没頭しました。このため製晶は、青磁、白磁の染付けをはじめ錦手、盛上物、彫刻物、捻り物、透し彫り等々と、多種多様に及びました。そして、三川内焼に一貫して見られるその技法の特徴は、繊細優美な気晶があることです。


三川内焼と唐子絵

唐子が唐扇を持って蝶を追い、松と牡丹のそばで戯れる構図の唐子絵は三川内焼のトレードマークです。この唐子絵は「献上麿子」と言われ、禁裏や幕府諸大名への献上晶であって、一般庶民が使用するようになったのは明治以降のことです。
白磁が発見されると、諸国の焼物師たちが競ってこれらの製法と技術の探索に乗りだしました。勿論、平戸、大村、佐賀の藩は、その秘法が藩外へ流出するのを厳重に取り締まり、平戸藩では秘法の流出を妨ぐため、厳しい淀を定めてこれに対処しました。
平戸藩御用窯の代表といわれた唐子絵の焼物は、他の窯では焼くことを許されないお止め焼き」であり、その上、描かれた唐子の人数によって七人唐子は献上晶、五人唐子は、藩公の用晶または諸大名への贈答用、三人唐子が」般用と区別されていたのでした。

茶道と三川内焼

平戸藩主の中に鎮信と名のつく人が二人います。二十四代の鎮信と二十九代の鎮信です。前の鎮信を法印鎮信といい、後の鎮信を天祥鎮信といいます。ともに三川内焼きゆかりの人で、法印は朝鮮の陶工を遵れ帰って三川内焼きを創姶し、また天祥は茶道鎮信流を開き、平戸藩御用窯を整えた人でもあるのです、天祥鍾信は茶の道に明るく石州流を手本にし、これに他流の長所をとって一流を創姶しました、それが鎮信流です、鎮信流は、特に心胆を茶儀の間に養うことを狙いとし、この仁め主に武士の間で行なわれました而いうまでもなく茶遭は、道具を重視します。茶碗は、茶道の重要な道具でもあったので三川内焼きは、茶道鎮信流の流祖、天祥鎮信を得て三川内焼(平戸焼)は、いよいよ精巧優雅な名晶を数多く作りだすことになります。その心と技は代々受け継がれ、今でも茶道の各流派の方々に深く愛され今日に至っています。


匠の技『透し彫り』


透し彫りの技法は、古くから中国にあったといわれますが、これが三川内山でいつ始まったかは定かでありません、しかし、元禄年間の古記録に「透彫」の名があり、その技法と製晶は既にこの頃からあったであろうと推測されます。
透し彫りの製晶には、飾り香炉、多宝塔、染付三足香炉、吊香炉、透し彫り花器など、多種多様です。しかし、その技術は極めて高度で、その歩留まりも低いため、五重の塔や飾り香炉などの大物は優れた手技と時間を度外視した御用窯でなくてはとてもなし得ない焼物であったのは周知の事実です。
明治二十三年(1890)には。彫りの製晶を皇室に献上し、明治天皇の佐世保鎮守府開庁式御臨幸の節に、白鶏一対がお買上げの光栄に浴しました、このように透し彫りは三川内焼陶工の上物づくりの精神が支えているからこそ、なし得る手技の"やきもの"なのです。


匠の技『刷毛目』

刷毛目模様は、もともと中国の李朝時代に作られたとされている陶器で、鉄分の多い土で練られた素地の上に、白い化粧土を擦り付けたものです。その技法で焼かれた「現川焼」は江戸前期の元禄時代に長崎市郊外の現川(当時は諌早家領内)で作られた優れた刷毛目の陶器です。その見事な出釆映えは京焼の仁清と並ぶものとして、西の現川とも呼ばれているほどです。
18世紀の一時期に長崎郊外において現川焼として繁栄しましたが、三川内の木原にも現川焼と並ぶ秀でた刷毛目模様の陶器が見つかっています。ここは三川内の三皿山の一つで古くからの焼物の里でした、しかし、三川内皿山ほど優遇されず自然と白磁ではない土物の陶器の技が発達したのかもしれません。その技に修錬を重ね一時途絶えた刷毛目の技法を「木原刷毛目」として現代によみがえらせたのが「三川内現川焼」です。


新しい風が吹く三川内焼

400年の歴史と伝統を誇る三川内焼が、今変わろうとしています。門外不出のお止め焼きであった麿子絵を、現代感覚でアレンジした創作唐子は、女性ファンなど新しい三川内焼愛好者を作り出しています。また白磁の燐とした三川内焼のイメージを取り外すかのように土物専門の窯元が現れ、白磁にはない土の温もりを感じさせる作晶を世に送り出しています、その感覚と技術は高い評価を得ているのです。
一方、三川内出身の作陶家の方々が頑張っています。三川内焼伝統の白磁、青白磁を素材として作陶活動をされている方。白磁ではなく土物を素材として土と火の芸術を求めて活動されている方など。いずれも40才後半の団塊の世代の作陶家達が、伝統の三川内焼ではないアートの世界にも挑戦されています。また、三川内山の窯元では『炎楽』というグループを結成して、先人の機械的な判断ではなく五感に訴える見極めの術を学び取ろうと、20代から30代の若い方々が集まり登り窯を自分たちの手で作り作陶活動を始めています。全ては先人の卓越した技と心に近づくためとそれを次代に繋くためのものです。


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