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 ●ギャルゲー

 いわゆる「美少女ゲーム」のこと。
 いつの間にかこのサイトは「反ギャルゲー・反萌え」という風に思われているらしいが(某サイトの紹介文とか)別にそんなことはないので、釈明を兼ねてこの項を優先して書きます(笑)

 そもそも「ギャルゲー」とは「どこまで」を指すのだろうか?
 オタク論が「何を持って<オタク>とするか」というとろからどうしてもはじまってしまうのと同じように、この「ギャルゲー」もどこまでが「ギャルゲー」か、という議論からはじめてみよう。

 何年か前、TBSラジオの「伊集院光のアップス・深夜の馬鹿力」(現在は「月曜ジャンク 伊集院光の深夜の馬鹿力」)で「中二病」というコーナーがあった。それは「中学2年生頃にやてつぃまいがちな<痛い>言動をあげつらう」というコーナーで、ある日そのコーナーでこんな葉書が読まれていた。

☆「サクラ大戦」や「マリーのアトリエ」をギャルゲーとは認めない。でも、ポスターは貼っている。

 確かに「サクラ大戦」も「マリーのアトリエ」も「ときめも」のような「恋愛シミュレーション」ではない(「サクラ」の方はこの要素も強いらしいが)。
 しかし、この二つのゲームは共に「登場するアニメ美少女の擬似恋愛対象としての魅力」を最大の売り物としていることは明白である。
 違うと思うならこれらのゲームのキャラクターデザインを青木雄二(代表作「ナニワ金融道」)が担当した時のことを想像してみるといい。
 本当に「ゲームとして、いい」なら同程度のヒットがのぞめるハズだ。

 まあ、実はこんな揚げ足取り的な部分は実はどうでもよく(面白いけど)ここでポイントなのはこのハガキのネタを成立させている条件の部分である。そう、なぜ「彼等」は部屋に巨大ポスターを貼っておきながら(キャラ萌え衝動が抑えきれないくらい強い)「ギャルゲー」であることを否定するのだろうか?

 この現象は近年流行の「泣き」ギャルゲーのヒットとあわせて考えてみると面白い。
 「泣き」ギャルゲーとは単にアニメ顔の美少女との甘ったるいラブストーリーが擬似体験出来るだけではなく、「感動的」で「文学的」な「ちょっと、いい」(と、されている)ストーリーが綴られていることが特徴である。
 以前、私はこの「泣きギャルゲー」の信者から「ギャルゲーだろうと、いいものは、いい」と書かれた切実なメールを貰ったことがある。
 (別に彼の好きなゲームをけなした覚えも無いのだが・・・。不気味なメールだった)

 どうやら彼等は「これはゲームとして素晴らしい」とか「これは一般社会には評価されないけど、わかる人にはわかる<ホンモノ>なんだ」という言い訳をしなければ妄想恋愛対象ひとつゲットできないらしい・・・と私のとある知人は言っていた。

 私がこのギャルゲー現象を「面白い」と思うのはまさにこの点である。
 この随分と奇妙に屈折した開き直りとコンプレックスの正体は一体何なのだろうか?

 こういうことを考えると彼らをここまで追い詰めている「恋愛」というものについて根源的に考え直さなくてみなくてはならない。
 ギャルゲーを考えるということは「恋愛」について、そして今の社会に着いて考えることなのである、実は(笑)

 この現象に関して最も興味深い考察をしているのはやはり岡田斗司夫氏。

 >僕は確かに「恋愛の敷居を低くする」ことを提案していますが、それは「気軽に恋愛したら?」という意味だけにとどまりません。「サクラ大戦」や「ときめも」にハマることも恋愛行為として認めてしまえ、と思っています。


 とは某サイト掲示板での氏の発言からの抜粋である、が(笑)確かにギャルゲーでの擬似恋愛を彼らが「恋愛行為」に本当にカウント出来るのなら、上で指摘したような奇妙な開き直りの持つ見苦しさや、自暴自棄ともいえる言動は消えてなくなるのではないだろうか、とは思える。
 でも「そうは問屋が卸さない」のは何故だろうか?

 この問題の核は「彼らがギャルゲーをする」ことではない(満たされないから代用品を使うのは当たり前の話だ)
 彼らがその代用品を使うことによって何だかものすご〜い負の感情を、それも相当屈折した形で溜め込んでしまう点だ。

 「ギャルゲーマー問題(と、言うほどじゃないと思うんだけどね、実際は)」多分、今の世の中を生きていれば必ず直面するであろう「恋愛こそが我々に残された唯一のロマンである」というイデオロギー、言ってみれば「恋愛の重圧」の問題に還元されるのでしょう、多分。
 ・・・・・・そう言えば辞典に「小谷野敦」って項はあったかな?

                                                              文責:片岡


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