●小谷野敦(こやの・あつし)

 文芸評論家。東大と明大の非常勤講師。呉智英を心の師と仰ぐ「新近代主義者」。
 「誰だそれ」と思ったそこのアナタは数年前にちょっと話題になった「もてない男」という新書を覚えてないだろうか?
 そう、ここ数年、売春否定、近代的「家族」システム肯定論者として上野のチヅちゃんとか宮台真司たちと大論争(?)を繰り広げて一部のマニアの注目を浴びた「もてない男」の文芸評論家、それが小谷野敦である。

 文芸評論家、といっても小林秀雄→江藤淳というラインからはまるで外れた「比較文学」畑出身の東大BOYだった小谷野は、近世・近代文学を中心に文壇政治どこふく風の独自の切り口で一部の注目こそ集めていたが、やはりイマイチぱっとしない存在だった。
 そんな小谷野が一躍注目を浴びることになったのはやはり99年のちくま新書「もてない男」だろう。

 小谷野を一躍有名にしたの本書は自分自身「東大出たのに何故もてないんだ、という恨みを溜め込んで生きている」と語る小谷野が、徹底的に自分を「もてない」という最下層に規定することで「好き放題言える」立場からさんざんに「恋愛」という現象を専門の文学の話を散りばめながら批判的に語る痛快(?)エッセイであるが、少し賢い人間や小谷野に関する予備知識がないと「ああ、ただの笑える読み物だよね、でもそんなに話題にするような本かなあ」で終ってしまうかもしれない。
 なんとなく「恋愛なんてやめておけ」みたいなことを考えてるんだろうな、というのが何の予備知識もなく、この手の本を読みなれてない人々の一般的な感想だろう。

 だがこの続編とも言える「恋愛の超克」は凄まじい。
 
 ひとを好きになる、と、いうこと、つまり「恋」は、確かに誰にでもできる。けれど相思相愛になっての「恋愛」は誰にでもできるものではない。

 なんだかある種のギャルゲーマーの生きる希望を9割5分否定してしまうような主張から、「恋愛の超克」ははじまる(笑)
 筆者個人はこの小谷野の主張に半分しか同意しない(理由は後述)が、この一文を読んだ人間は多分、こんな疑問を頭に思い浮べるだろう。
 「恋愛は無理だって言われても・・・じゃあ一体どうしればいいんだよ!?」と。
 小谷野の応えは単純明快である「なら、諦めろ」(笑)

 小谷野曰く、人間が恋愛をしなければならない、というのはイデオロギーにすぎない(ここまで小谷野じゃなくても言ってるけど)。何故ならば「恋愛」は容姿・性格・社会的経済的な諸条件に恵まれた一部の人間だけに味わえるものであることが、歴史的にも明らかだからだ(この点、小谷野は民俗学系の「近世まで日本人は性におおらかだった」論を資料批判を交えて激しく攻撃している)。
 だが「もてない男」としてデビューした小谷野は「恋愛できない」人間に優しい。
 「もてない男はマスターベーションして、死ね」と言い放つ上野千鶴子等に対して、小谷野は「それは強者の論理だ」と反駁するのだ。

 そして小谷野は声高らかに叫ぶ。
 「もてない」男女は恋愛以外のイキガイを見つけるべきだ、と。
 「恋愛」が社会変革や自己実現や信仰などの人生に「意味」を与える「物語」として機能するものと位置付ける傾向はここしばらくそれなりに見かける立場だが、小谷野もそのうちの一人である。
 だから小谷野は「恋愛」は他の「生きる意味」や「イキガイ」である程度代替可能だと考えている、もしくは「代替出来なくても、ほかのもので埋め合わせるしかない」と考えているのだ。
 それは例えば社会運動であったり、趣味としてのスポーツ観戦や読書であり、場合によっては(小谷野流の社会整備とのセット販売だが)「子育て」であり、そのための「家族」を守り、とりあえずの寂しさを紛らわすための「友愛結婚」(恋愛はあってもなくてもいい)である。
 だがそれらは決して無制限に解放されるべきものではなく、イキガイとしての社会運動は村上龍に「才能のないものが戦争をしたがる」と皮肉られない程度の穏当かつ身近な問題のものが好ましいとされ、趣味に飽きたときはどうするかと訪ねられれば「退屈に慣れろ」と小谷野は答える。
 それでも「誰でも恋愛はできるんだ」と思い込んで恨みを溜め込むよりはマシである・・・それが続く「退屈論」まで踏まえた小谷野敦の主張である。

 「バカのための読書術」の物語批判に関する個所で「同じ物語を何度も読んで退屈しない人は本気で羨ましい」と皮肉抜きで書いていた小谷野は、どうやら「退屈」=「(この場合は)意味や物語を欲しがる人間の性」に関して最終的には「慣れる」「あるがままに受流す」「諦める」しかないのだという深い諦念を持っているらしい。
 だから適度に意味や物語を充填できる装置として、「社会変革」や「家族」を(小谷野流の多くの条件付で)推奨し、基本的に物語不足に陥ってる現代社会で随分と高騰してしまった感のある「恋愛」は「できる奴だけがやればいい」と「相対的に評価しない」のだ。

 そして小谷野敦はこれらの「退屈に慣れるしかない」世の中をうまく機能させるために、「新・近代主義(この場合は小谷野の造語)」という立場を取る。
 何故ならば「子育て」がイキガイとして機能したり、「友愛結婚」を前提としたヘテロソーシャルを構築するためには浅田彰風に言うなら「近代に踏みとどまら」なくてはならないし、社会運動を適度な「意味の充填装置」として機能させるためにはよっぽど教科書チックにしっかりした近代国家が少なくとも建前としては機能してなきゃならない。だから当然ナショナリズムも否定しない。近代国家が教科書どおりに機能していれば、ナショナリズムも市民運動も暴発しないというのが小谷野の発想だ。
 こうした小谷野の「対案」「具体策」はあまりにも地味でパッとせず「それが出来るならだれも苦労しないよ」という声をあちこちで聞くのだが、現在の論壇があまりにも抽象的な議論に流れすぎており、「ある種の原理」で世の中の現象を一刀両断し、これまた抽象的な「原理」をもって処方箋とする傾向があると小谷野は批判しているので、これはこれで一貫した態度と言えるだろう。

 「文芸評論家がまた社会を語っちゃってる」というどこかで見た感触こそ拭えないが、「小林秀雄は非論理的なので読むな」と断言する小谷野の「文壇政治なんて関係ないね」という態度はある程度信頼できるし、こういう業界の予備知識がない人にも呉・浅羽ライン同様に勧められる書き手だと思う。
 いつもだったらここで簡単に小谷野の主張を筆者がどう捉えているかを書く所なのだが久し振りなせいか異様に長くなってしまった。
 せっかく書いたのに勿体無いので、ここに別ページを作って掲載することにした。興味のある人だけどうぞ。

 (文責・武田)
 
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