●「アニメ編」雑記

●この「アニメ編」、思い入れが強いせいか「マンガ編」の2倍以上の時間がかかってしまった。

●「マンガ編」と違って数人の作家しか挙げていないのはアニメはマンガより歴史が浅い分、やはり「フツーの人」が観ても、他のジャンルの「ベスト」と戦っても負けないだけの作品が生み出せるスタッフの数は少ないからだ。

●ただ、このコーナーでは「監督」別に紹介しているが、アニメは基本的に「集団作業」で作るものであり、宮崎駿や押井守が一人で創っている訳ではない。だからこういう「●●さんのアニメ」っていう考え方はあまりよろしくない、のかもしれない、便利だから使うけど。

●で、「アニメは歴史が浅い分人材が少ない」と書いた訳ですが、玄人筋の間ではいわゆる「大御所」と呼んでいい監督は全部で5人居る。

●それは高畠勲(宮崎の先輩にしてジブリ一方の雄、「火垂るの墓」の人)、宮崎駿、富野由悠季、押井守、そしてここでは取り上げなかった出崎統の5人である。

●誰だ「出崎」って、と思われる人も居るだろうが、現にそうなのである。大友克弘は入らない。何故ならば「AKIRA」も「MEMORIES」もただの金がかかってるだけのアニメだからだ。もっとも、●●芸大とか通っていらっしゃる自称ハイ・センスな方々あたりがカッコつけるのには丁度いいアニメだろう。おあつらえ向きです。

●話が横にそれてしまったが出崎監督。原作もののTVアニメをたくさんやっていたベテラン監督で、そういう「原作もの」をやってきた人の中では飛びぬけている。

●どの辺が「飛びぬけて」いるのかというと、この人はどんな原作マンガも、原作のイメージを壊しすぎない程度に「出崎テイスト」にしてしまうのだ。

●具体的に作品名を挙げると「あしたのジョー」「ベルサイユのばら」「ガンバの冒険」「宝島」「エースをねらえ」「スペースコブラ」といったところになるだろうか。最近では「ブラックジャック」のOVAが素晴らしかった。

●一度出崎監督の手にかかると、これらの個性的な原作の数々がことごとくダイナミックな出崎ワールドの住人となってしまうから不思議だ。TVシリーズが多いため、ここでは割愛したがOVA(オリジナルビデオアニメ)版「ブラックジャック」当たりから入るのはかなりお勧めです。

●あと、高畠勲についても少し。この人、ご存知の通りスタジオジブリでたくさん映画を創っているが、見るべき価値があるのは「火垂るの墓」が演出的にちょっと面白いだけで基本的にこの人の映画は日本共産党系市民団体の宣伝映画みたいなものだ。ただ、技術的にはいろいろ冒険が好きな人なのでそういう方面に興味がある人は十二分に観る価値はあると思う。

●じゃあ高畠作品でお勧めはないのかと言われればそれは違う。彼もまた、「ガンダム」以前のTVアニメを支えた人間である。特に「赤毛のアン」あたりの作品は「リアルにやるのではなく、リアルに近づけることによって妙な迫力をつける」と押井守が評した高畠流「リアリズム演出」の真骨頂である。アンとダイアナがケーキを延々とtくっている、それだけで何十秒も台詞が無い。でもその映像を観ているだけで、彼女等の生活観が「リアルに」湧き上がってくる・・・これが高畠演出だ。

●それにしてもこの「アニメ編」は繰り返すが本当に「難産」だった。

●まず「何を載せるか」で相当悩んだ。宮崎アニメはどうせみんな観ているので最初は割愛するつもりだった。評価こそしているが好きか嫌いかと言えば嫌いな訳だし(笑)

●でも、世の中には「批判的観賞」という言葉を知らずに死んでゆく人間が大半なのだからこういうのがあってもいいか、と思って載せた。宮崎の痛々しい文化人活動が作品をつまらなくしていることも意外と知られてないみたいだし。

●・・・と、こうして考えているうちにあることに気付いた。宮崎を除けば、極端な話「オタクにならない」人が「アニメを観る」ときに知らなきゃいけないのは(少なくとも「入門」の段階では)はっきり言って富野御大将と押井守しかないのではないか、ということだ。そして奇しくもこの二人は個人的に最も影響を受けた作家たちでもある(笑)

●先述したように今となっては「アニメ作家」大友克弘は芸代向けのサブカル屋さんだし、「エヴァ」に到っては問題外である。

●と、なるとあとは「一般人」に勧められるものとしては「王立」があるくらいで・・・となってしまった訳だ。

●「さっきから一般人、一般人っていいやがって!」という声が聞こえてきそうだ。「一般人も楽しめるアニメの方がいいアニメなのか?」結論から言うとその通りだ、少なくとも個人的にはそうだった。

●マンガ編でも書いたがどうも自分はオタクにしては「性癖」が足りないらしく、自分が面白かったものを挙げてみると自然と「一般人」でも楽しめるものが上に来てしまう、というだけのお話だ(笑)

●「じゃあ、押井守の映画の方が難解で一般人向けじゃないじゃないか」なんて声も聞こえてきそうだ。確かに押井の映画は分かりづらい。だが、押井作品を楽しむのに必要なのは知識と思考力だ、断じて「性癖」ではない。

●知識と思考力は(少なくとも押井作品を観る程度のそれは)その人のその意思さえあれば簡単な手間と訓練で見につくが、「性癖」は天性の才能とそして幾許かの「不幸な事情」が必要である(笑) 

●本当に「観る客」を選ぶ「狭い作品」は押井作品か、それとも・・・? この程度の問題提起くらいしておこうか。

●富野御大将に関してはもう、書くことがありすぎて困ってしまう。はっきり言って、宮崎・押井とくらべると1ランク下の扱いを(主にサブカル方面からは)されている御大将だが、「お話」だけなら御大将が(いろんな意味で)一番面白いと思う。ただ、本人の妙に捻くれた中途半端にイデオロギッシュな製作態度のせいか、作品の「完成度」はやはり劣ってしまう。これは御大将がどうこうというよりは、サンライズというスタジオの問題かもしれない。

●「王立宇宙軍」を入れることは前から考えていたが、監督の山賀博之自体を、それほど評価はしていないし、「山賀演出」なるものが語れるほど、彼は仕事の「量」をこなしていない。だが、何度も言うように、アニメとは集団作業で出来るものであり、宮崎、富野、押井といった一人の個性で引っ張っていくタイプの監督の方が本来イレギュラーなのだ。そういった意味で「王立」の山賀は各スタッフの持ち味を十二分に生かすという、「監督本来の」役割は果たしたとは言えるだろう。

●「宮崎ファンはイタイ市民派」「押井ファンはカン違い系哲学キャラ」「ガンオタは引きこもり」「ガイナ信者は開き直ったオタクデブ」とは誰の言葉だっただろうか・・・? 昔、岡田斗司夫氏の某大学での講演の後、なんとなく話が弾んでしまった「濃い」メンバーと夜通し喫茶店で語り通したことがあった(20代は筆者と「ふーず・ふー」氏だけだった)が、そこで「宮崎の最近の文化人活動、どうにかなりませんかね」と言ったら同席中の30代男性の機嫌を著しく損ねてしまった。

●なんせあのオタキングの講演会に来たメンバーである。作家の悪口の一つや二つ、社交辞令のようなものだと思っていたが筆者より10歳以上年上の彼に「ミヤザキ、イタイ」は禁句だったようである(笑)

●おお、神よ、どうかお救い下さい。これほどまでも魅入られてしまう我ら子羊を、そしてこれほどまでに魅了してしまうアニメというセルロイド(ではないのだが、本当は)の集合体を・・・(「王立宇宙軍」のエンディング風に)

●最後に、どうせなので「クロスレビュー」風に点数をつけておこう。「パトレイバー2」「イデオン発動編」「逆襲のシャア」が10点。「ラピュタ」「魔女宅」「ガンダム」「ビューティフルドリーマー」「パトレイバー1]「攻殻機動隊」「王立宇宙軍」が9点。他は8点。あ、「イデオン接触編」は6点くらいかも(笑)

●イロイロご不満はあるでしょうが「一般人向けの入門編」ということで勘弁して下さい。











●山賀博之 監督 (「ガイナックス製作」) 「王立宇宙軍  オネアミスの翼」

 「ガンダム」で一気に社会現象化した「オタク」パワー。そのもっとも「濃い」メンバーが少々やりすぎの感もある(笑)「同人活動」の果てにプロとして認められ、その全て(だったのかな?)を注ぎ込んで創り上げたのがこの「王立宇宙軍」だ。そう、あの「ガイナックス」(「ナディア」「エヴァ」の会社)はこの作品を創るため、大阪の同人グループにバンダイが資金を出して設立された会社だったのだ。

 話自体は青年らしい青臭い話かもしれないが、当時それなりに本気だったであろうスタッフの照れくさそうな熱意の表れと考えれば鼻にはつかない。それより本作はアニメならではの魅力的な「異世界」の構築と、「動く絵」で創られた美しい画面という、アニメーション本来の美しさに溢れている。その後タチの悪い記号化と開き直りの袋小路に迷い込んでしまう貞本義行の絵もこの頃が一番魅力的だった。クライマックスの庵野秀明(「エヴァンゲリオン」の監督)が作画を担当した(この頃はアニメーターだった)ロケットの発射シーンは圧巻である・・・!
 アニメ本来の魅力が存分に味わえる隠れた名作、それがこの「王立宇宙軍」である。(文責:倉田)

                                          
  
●富野由悠季 監督   「機動戦士ガンダム」(映画版)「機動戦士ガンダムU 哀・戦士編」
                「機動戦士ガンダムV めぐりあい宇宙編」
                「伝説巨神イデオン 接触編・発動編」
                「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」

 20年前「TVまんが」が「アニメーション作品」になった歴史的瞬間があった。
 それは「機動戦士ガンダム」というTVアニメが放送され、1年、2年という時間をかけてじわじわと支持者を広げてゆき、そして80年代の幕開けとともに社会現象となった長い、長い「瞬間」だった。
 「これをきっかけにアニメは大人も楽しめる作品になった」と言えばこの数年前の「宇宙戦艦ヤマト」に端を発しているのだがこの「ヤマト」をきっかけとするムーブメントの最大の帰結がこの「ガンダム」だった。
 おそらく「ガンダム」は地上で最初に現れた「実写映画と同じフィールドで語り得るだけのアニメ作品」だったのだ。それほどまでに、それまでのアニメは子供向けの「TVまんが」しかなかった。
 以降、多くの「子供向けじゃないアニメ」が創られることになったが、諸君もご存知のようにその大半はいわゆる「オタク向け」の「特定の性癖の持ち主しか対象としていない」・・・「オタクにならない」人にとっては一文の価値もない作品だった、が、この初代「ガンダム」は、そしてこの「ガンダム」の不幸な続編を含む富野由悠季作品(のいくつか)は、一部のオタク層に絶大な支持を受けながらも、その観賞に「特定の性癖を必要としない」「フツーの人が観ても面白い」作品であると言える。全国のガンダムオタクのあまりにも見苦しい所業(笑)によって、そのイメージは完全に「オタク側」のアニメであるこの「ガンダム」シリーズだが、少なくともここで紹介する富野オリジナル作品、及び一部の続編は「オタク以外」が観ても十二分に楽しめる「ラインの向こう側」の作品であることを明記しておく。

 と、いうことで宮崎・押井等に比べて不当に評価が低い感のあるこの富野由悠季だが、そのストーリーテーリングはいわゆる「有名アニメ監督」の中では群を抜いている。映画の「大作」をあまり創っていない(TVシリーズが多い)富野作品は「入門」としては観づらい(巻数が多い)のだが、その点はTV版を再編集した「ダイジェスト映画版」を観ることで解決する。

 やはり基本の入門編は(初代)「ガンダム」三部作。これはTV版の「ガンダム」を3本の映画に再編集したもので、80年代頭の作画は今観ると相当荒く見えるが観ている間は気にならないくらい面白い。おそらく「ロボットアニメ」というもののイメージを塗り替えられるだろう。登場するキャラクターのアクの強い個性、独特の台詞回し、厭世的なムード(笑) SF的な考証だけではなく、人文・社会科学的にもリアルな「未来世界」の描写。 どれをとっても「富野」で「ガンダム」じゃなければ味わえない一種独特の世界が展開される。V巻にでは問題の作画も大幅新作カットの導入によってまずまずとなる。

 その「ガンダム」の陰画とも言える作品が「ガンダム」のヒットに便乗するような形でプチ・ヒットした「イデオン」である。このイデオンの「接触編」「発動編」二本の映画は「接触編」がTVシリーズのダイジェスト、そして「発動編」は視聴率不振で打ち切られた(!!)番組クライマックスの最終数話の「映画での復活」である。よって、本来「接触編」の変わりにTV版を観てから発動編を観るべきなのだが、「接触編」でも充分強烈なのと、これは「入門編」ガイドなのでここでは「接触編」→「発動編」という順序で見るのをお勧めする。
 で、この「イデオン」どの辺が「ガンダム」の陰画なのかというと何だかんだで曖昧ながらも希望(擬似家族的な共同体への期待)を示して終った「ガンダム」を裏返したかのように、「人間の業」としか言い様がないものへの否定的な感情が正に「爆発」するのがこの「イデオン」である。
 特にクライマックスである「発動編」での「これでもか」と言わんばかりの衝撃的な展開(と映像)の連続は、富野の力技の演出もあいまって観た者ほぼ確実に「忘れられない」傷を刻み込まれるだろう(笑)
 
 富野のこの強烈な作家性は集団作業であるアニメ製作には必ずしもプラスに働くとは限らず、それが「ガンダム」の続編を含め作品の質にもかなりの影響をもたらしていることは否めない。しかし、その中でも富野の「作家」としての部分と、優れた「演出家」としての理性的な部分が微妙なバランスで釣り合った作品が88年の「逆襲のシャア」だろう。「ガンダム」シリーズ第4作に当たるこの完全オリジナル映画は、「第4作」でありながら最低限(初代)「ガンダム」さえ読んでいれば分かる仕掛けになっており(二作目の「Zガンダム」も観ているに越したことは無いが)初代ガンダムの主人公、アムロとシャアを再び正面に据えた正に「富野作品の総決算」とも言うべき作品である。

 初代「ガンダム」にあった思春期の甘酸っぱい部分を取り払い、30前後の「オジサン」たちの話を描いたこの「逆襲のシャア」は「ガンダム」の諦念にも誓い現状肯定の気分と「イデオン」の何もかもひっくり返してしまえという表裏一体だった二つのベクトルが、一つの映画の中で激しくぶつかり合う「作家」富野由悠季の葛藤がそのままフィルムに焼きついた、ある意味不気味な作品だ。だが特筆すべきはこのエゴイスティックな思い入れで創られた映画が「演出家」富野由悠季によってきちんとエンタテイメント作品としても仕上がっていることだ。「イデオン発動編」で見られた、ひたすら殺戮と観念的な議論が続くという特異な映画でありながら、観ている人間は疲れることも忘れて見入ってしまうだろう。「演出家」富野由悠季の力量が楽しめる数少ない作品、それが「逆襲のシャア」である。
 
 と、書いておきながら実の所、「演出家」富野御大将、個人的には91年の映画「ガンダムF91」以降の「ふんわりとした」画面作りの路線の方が好きだったりする。でも「F91]は話がね(元々TVシリーズの企画を無理に映画化したために知りきれトンボ)。他にも富野御大将の作品は「Vガンダム」は(絵は汚いけど)文句無しにお勧めだし、「ザンボット3」辺りも絵にさえ目を瞑ればかなり面白い。「ブレンパワード」「∀ガンダム」等の近作も変なアニメだが「一般人」が観ても面白いと思う。けれど、これらはみんな「TVシリーズ」、よって本数がかさむのでここでは割愛。富野作品が気に入った人は是非!(文責:岡島)
●押井守 監督  「うる星奴ら2 ビューティフル・ドリーマー」「機動警察パトレイバー the Mobie」
            「機動警察パトレイバー2 the Mobie」「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊

「ジャパニメーション」なる奇妙な言葉が亡霊のようにメディア上を彷徨いはじめた90年代半ば、おおよそそのジャパニメーションとは当時社会現象を起こしていた「エヴァ」と宮崎アニメの文化人ブランド化(年に数度もクラシックを聴かない連中が小沢征爾をありがたがるような)を決定的なものとした「もののけ姫」、そしてこの押井守が監督し、全米ビデオソフトチャートで売り上げ一位を記録した「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」のことを指していた。

 宮崎駿よりもサブカル志向が強く、「大人から子供から楽しめる娯楽映画」というアニメーションに世間一般が期待する無印良品的な作品創りから最も通い、アクの強い画面作りと抽象的なテーマを好む押井作品は「アニメに慣れているか否か」というよりは人文社会科学的な知識、そして抽象的な思考能力が人並みにあるか否かで大きく客層を選んでいるという事実は否めない。が、その反面寡作ながらも確実にクオリティの高い作品を発表し続けるという点において、押井守はこの「ジャパニメーション」騒ぎの中で唯一周囲のやや過大な評価に相応しいだけの力量をもった作家であるといえるだろう。

 その出世作にして事実上の「映画監督」デビュー作である84年の「ビューティフル・ドリーマー」は「うる星奴ら」のストーリーを知らなくても一本の「映画」として楽しめる良作である。高橋留美子の同盟漫画のTVアニメ版の初代監督であった押井がその無限ループのように続く「終らない夏休み」世界を彼独自の立場(溢れんばかりの悪意とほんの少しの愛情)から切り返したその内容は当時多くのアニメファンに「痛い」衝撃を与えた。アニメならではのこの「終らない夏休み」世界に、(それが肯定的であれ否定的であれ)何か思うところがある人間ならば文句無しに楽しめるだろう。「うる星」でありながら「アニメ嫌い」の人向けとも言える。押井作品としては、自分たちが生きている「現実」の足場に疑いの目を向けるその一方で、やがてその「夢」を打ち破るべく登場する「絶対的な現実」への拘泥がこの時点で既にはっきりと見て取れるのが興味深い。

 89年の「パトレイバー1」は同OVAシリーズで久し振りに「娯楽作」を監督し数年ぶりにヒットを飛ばした押井が放った劇場版である。「ビューティフル・ドリーマー」同様高いエンタテイメント性と押井の作家性が程よく調和したこの一作は評論家の浅羽通明氏も絶賛の、おそらくはもっとも「安心して他人に勧められる押井作品」である。「ビューティフル・ドリーマー」よりも更に、元になったTV(OVA)シリーズを知らなくても楽しめる一作になっており、押井「入門」としてはこれが最適かも。ただ、テーマ的な部分で言えば、80年代の良くも悪くも面白おかしくドンドン行けば「逃げ切れそうだった」空気を多少なりとも記憶していない者にとっては少し分かりづらい映画かもしれない。

 その点、93年の「パトレイバー2」は、この戦後日本という空間に生きているものならば誰もが感じずにはいられない後ろめたさと、その後ろめたさが創り出す「まるで幻のような平和」に悪意の矛先が変わっている分、ある意味分かりやすい「映画」だろう。だが、(かなり基本的なものだが)最低限の政治知識、軍事知識がないと話が分からず、「入門」には相応しくないかもしれない。だがその分この「P2」は押井作品の総決算的な位置にある作品(押井本人曰く「あれは俺にとっての「逆襲のシャア」だ」とのこと)であり、押井が今まで培ってきた「映画」づくりのノウハウと、「ビューティフル・ドリーマー」以降延々と追及してきた「虚構と現実」の物語がすべてこの2時間の映画に詰め込まれている。一見、政治シミュレーション映画のようであり、その実押井守という「作家」の全てが投入された圧倒的な力を持つ映画、それがこの「P2」だ。作品のテーマを体現するかのような冷たい、距離感のある作画の魅力も忘れ難い。この作画をして、評論家の東浩紀は「アニメ絵が捨てられた」と言った。この「P2」がキャラクターへの思い入れで成り立っていたTV,コミック版「パトレイバー」のファンから冷遇されたことも踏まえて見ると更に面白いかもしれない。なんせこれは「オタクにならない人のための」入門なのだから。

 そしてこの「パトレイバー2」のスタッフがほとんどそのままスライドして制作されたのが95年の「攻殻機動隊」である。これはデジタル技術の多用も相まって、押井守の代名詞のように扱われる映画だが、その内容は「P2]のドラマ構造をそのまま拝借し、士郎正宗の原作を押井お得意の現象学的「ごっこ遊び」に料理してみせただけの(前作と比べるとどうしてもそう見えてしまう)ものとなっている。ただ、「P2」で吹っ切れたのか、これまで「それって本当は夢(幻)じゃないのか?」という悪意に隠れていた「いずれ絶対的な現実に破壊されるんだ」という強い意思が前作以上に大手を振って練り歩いているのには驚いた。押井守の映画はどんどん(テーマ的には)分かり易くなってきており、そういった意味でもこの「攻殻」は押井作品の入門編として「P1」に次いで適切かもしれない。少なくとも、前作同様モラリスティックに冷たい、距離感のある画面作りの美しさと、川井憲次の劇伴とが奏でるあの世界を堪能するだけでも充分観る価値はあるだろう(話は相変わらず分かりづらいが)。

 また、押井守は「アヴァロン」等実写作品の監督としても知られているがいずれも押井作品の「入門編」としては不適切であると考えて割愛した。彼の映画は実写作品でも、日本アニメが蓄積した文法で作られており、アニメのフィールドで語ることは十分可能であることをここに明記しておく。(文責:原)
●宮崎駿 監督 「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」
           「となりのトトロ」「魔女の宅急便」

 宮崎駿は間違いなく日本最高のアニメ作家である。その「アニメならでは」の魅力的な世界観に、ほとんど神業ともいうべき表現力はまさに至宝と言ってよいだろう。アニメに限らず、今の日本で老若男女問わず楽しめる映像作品を創ることが出来た(過去形)作家は宮崎駿以外にいなかった(過去形)

 だがその一方で、宮崎作品には彼自身の強固な赤旗左翼イデオロギー、そして盲目的な環境保護イデオロギー(最近は取り巻きの文化人の影響で引っ込めつつある)が作品によってはかなり全面に押し出されてしまうため(更にそれがブランド感によってヒットしてしまうため)ある程度思慮深い人間には「この余計なお説教さえなければな」とかなり二律背反な気分にさせられてしまうこともまた、事実として明記しておく必要があるだろう。宮崎駿の思想(大笑)はその作品の魅力を結局は大きく削いでいると言わざるを得ない。

 例えば宮崎の出世作である「風の谷のナウシカ」は彼が以前より提唱していた「漫画映画」の復権を最高レベルでなし得た冒険活劇の傑作であることには間違いない。だが、そこで語られる農村賛美や環境保護系のお説教は、数年後のレトロブーム、農村ブームの先駆けでしかなかったり、84年の公開当時、マルクス主義に変わって「商品化された社会正義」の最大の人気商品になりつつあった「AREA」レベルの(当時はまだAERAは無かったか・・・)議論のコピーでしかない。84年という時代、そして今から考えると信じられない低予算でここまでの作品を創った宮崎の力量には本当に感服するが、その反面、「この映画に感動した連中が平気で共産党に投票したりするんだろうな」とか思ったりすると相当複雑な気分になる。良くも悪くも80年代という時代をよく現した一作として見直してみるのがいいだろう。

 86年の「天空の城ラピュタ」はその点、イデオロギー性が希薄であるために「鼻につかない」映画に仕上がっている。「ナウシカ」よりも予算もスタッフもふんだんについて、宮崎の力量が十二分に発揮された一作として、これをして宮崎の最高傑作であると・・・浅羽通明が神楽坂の喫茶店で力説していた(笑)
 ただ、「元気なオトコノコがか弱い女の子を救う」というドラマツルギーにある種の思い入れがない限り、15歳以上の人間が正座して見るにはそれなりの忍耐が必要である…と思うのは個人的な好き嫌いの話。

 88年の「となりのトトロ」は完全に子供向けの作品で、やはり技術的には凄まじいものを見せられる。2年おきにこんなに観客を驚かせるなんて宮崎の職人的技術は本当に「バケモノ」だと言わざるを得ない。ただ、この映画自体は大人が観る限り「民青センス」の五文字で全て説明できる作品である(by中野翠)
 都会育ち、お坊ちゃん大学卒の宮崎が、頭の中で勝手に美化した「農村」の姿はあまりにも…である。実際の農村はもっとドロドロした鈴木宗男チックな人間関係のねちっこい空間なので誤解しないように。

 89年の「魔女の宅急便」はそれまでの宮崎作品とは違い、もっともイデオロギー性から解き放たれた作品であり、今、ある程度の思考力と教養を身につけた成人が観た場合もっとも評価できる一作だろう。バブル期の、「小さな幸せ」をちょっとしたお金で買える(人もいた)あの頃の日本のどことなく肯定的な空気、それをなんとなく「いい」と思ってしまった(と本人は後悔しているらしいが)宮崎が創ってしまった「資本主義肯定」の(笑)一作、それがこの「魔女の宅急便」である。そしてこの一作がおそらくはもっともあの陳腐なコピーお説教に溜息をつくことなく、宮崎駿という「天才」の魅力を存分に味わうことのできる作品なのだ。ああ、吉本隆明がコム・デ・ギャルソンに身を固めて「資本主義」を肯定したのもこの頃だった。

 90年代以降の宮崎作品にも簡単に触れておこう。「紅の豚」は個人的には好きな作品だが、その内容があまりにも宮崎個人のオタク的な愛着(メカと美少女)に偏りすぎており、宮崎作品最大の武器であるはずの「誰でも楽しめる」という要素が弱くなっている。更に「豚」以降の宮崎作品は本人が「文化人」として祭り上げられ、凄まじいカン違いをし続けた結果ものすごく低レベルな理論武装を高い技術と贅沢な予算によって塗布しただけのものと成り下がっている。
 94年の「耳をすませば」97年の「もののけ姫」は共に取り巻きの文化人からの引用で成り立っているただのサブカル映画でしかないし、昨年話題をさらった「千と千尋」も同様である。特に「もののけ」と「千と千尋」は観客動員の記録まで創ったので誤解され易いが、この結果は単なるブランド感の浸透によるもの以外の何者でもない。これを読んでいる方やその周りにも、「もののけ」や「千と千尋」には80年代の4作品のような魅力に欠けていると感じている人も少なくはないのではないだろうか? その理由は明白で80年代までは「子供に楽しんでもらいたい」という意識で映画を作っていた宮崎が、90年代では「深いことを考えている俺様が大切なことを教えてやるぜ」と自意識過剰の自己表現をはじめたからである。

 付記するが「ナウシカ」以前の宮崎作品をオミットしたのは「入門編」ということで本数を絞るためと、映像作品としての「画面」の完成度を優先したため。宮崎駿は「技術」の人なので。(文責:中原) 
●「TVアニメ」は後回しでOK!!

 さて。「オタクにならない人のためのオタ文化入門」待望の(?)アニメ編だが、「マンガ編」同様あらかじめ断っておかなければならないことがある。ベルリン映画祭で宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がグランプリをとって話題になったように、日本のアニメーションが海外に「作品」として認知される時、それは大抵スタジオジブリ等の「劇場用大作(つまり映画)」に限られている。勿論、「ドラゴンボール」や「セーラームーン」のようなTVアニメも「愛玩物」としては広く愛好されているがそれは「海の向こうにも特定の性癖の持ち主が居る」というだけの話である。事実、その予算・スケジュール等の条件を考えると、劇場用作品やOVA(オリジナルビデオアニメーション)に比べてTVアニメが圧倒的に不利な情況にあるという事実は否めず、その当然の帰結として作品の質も・・・特にこうして10作品程度を絞ってあげようと考えた場合は・・・圧倒的に上質なものは劇場用大作に偏ってしまうことになる。ましてや、この企画は「オタクにならない人のための」「入門」であるので最低でもビデオで6〜7巻分もあるTVアニメの全話鑑賞はとてもではないが勧められない。
 勿論、日本アニメ文化の「本流」がTVアニメにあり、その蓄積がこれから紹介する劇場用作品を生む原動力となっていることは重々承知の上だ。だが、これはあくまで「入門」用の作品ガイドなので・・・ということで勘弁していただきたい。


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