長 寿 科 学 研 究 所
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江戸時代の医学者 貝原 益軒(1630-1713)の「養生訓」
1600年代江戸時代のベストセラーであった養生訓は現代社会にも充分通じ、むしろ300年間生き残った長寿のための本質の学問とも考えられます。現代文明の発展とともに忘れられがちな「健康の本質」を修得して下さい。
目 次
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1. 人間の尊厳性
ひとの身体は父母を本とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。つまり天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつようにこころがけなければならない。これが天地・父母に仕える孝の本である。身体を失っては仕えようもないのである。自分の身体にそなわっているものは、それがわずかな皮膚や毛髪でさえも父母から受けたものであるから、理由もなく傷つけるのは不孝である。まして大いなる生命を私ひとりのいのちと思って、慎まず、食欲・色欲をおもいのままにし、元気をそこない病となり、もって生まれた天命をちぢめて早世することはまことに天地・父母への最大の不孝であって、馬鹿げたことであるといわなければならない。ひととしてこの世に生まれてきたからには、ひたすら父母・天地に孝を尽くし、人倫の道を実践し、義にしたがい、なるべくならば幸福になり、長寿にして悦び楽しむことは、誰もが願望するところであろう。このようになりたいと欲するならば、まずいま述べた道を思考しそれをふまえて、養生の方法を心得て健康をたもつことである。これこそが人生で最も大事なことであろう。
人の身体はきわめて貴重であって、全世界のなにものにもかえることのできないものではないか。
しかるに養生の方法を知らないで、欲にふけり身をほろぼし命を失うことは、もっとも愚かなことである。生命と私欲との軽重をよく考えて、日々の生活を慎み、私欲の危険性を恐れること、深渕にのぞむような、薄氷をふむような細心の注意をはらって生活すれば、長生きもできて、災難をまぬがれるであろう。ともかく人生は、楽しむべきである。短命では全世界の富を得たところで仕方のないことだ。財産を山野ように殖やしても何の役にもたたない。それゆえに、道にしたがって身体をたもって、長生きするほど大いなる幸せはないであろう。そこで『尚書』(別名『書経』)では、長寿を五福の第一にしている。長生きは、すべての幸福の根本といわれるのである。
2. 養生の心がけ
何事にも勤勉で努力すれば、かならず効果がある。たとえば、春にまいた種子を、夏の間によく養えば、秋の収穫が多いようなものである。人の健康についても同様で、養生の術を学び維持して実行すれば、身体壮健にして病みことなく、天寿をたもち長生きして、長く楽しむことは必然であろう。これは自然の理であって疑ってはならないのである。
3. 若いときからの養生
庭に草木を植えて愛する人は、朝夕心にかけて、水をやり土をかぶせ、肥料をあたえ、虫を取ってよく養い育て、その成長を見て悦び、衰えるのを見て悲しむ。軽い草木でさえそうであるから、重い自分の身体を大事にするのは当然である。どうして自分の身体を草木ほどにも愛さないのであろうか。はなはだ無反省なことである。
さて養生法を知って実践することは、天地・父母に仕えて孝行をすることであり、そしてまた自分の長生きと安楽のためでもあるから、急を要しないことはさしおいても、若いときから養生法を学ばなければならない。身を慎み、生命を養うのは、人間としてもっとも重要なことであろう。
4. 内なる欲望と外なる邪気
養生法の第一は、自分の身体をそこなう物を除去することである。身体をそこなう物とは内から生ずる欲望と外からやってくる邪気とである。前者は、飲食の欲、好色の欲、眠りの欲、言語をほしいままにする欲や、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の欲をいう。後者は、風・寒・暑・湿の天の四気をいうのである。そこで内から生ずる欲望をこらえて少なくし、外部からくる邪気を恐れて防ぐことができれば、たえず健康で元気はつらつとして、病気にかからず天寿を全うすることができよう。
5. 七情を慎む
さて養生の道の根本は、内欲をおさえる(我慢をする)ことである。この根本をしっかり努めれば元気が強くなって外邪におかされることもない。内欲を慎まないで元気が弱いと外邪におかされやすくなって大病にかかり天命をたもつことができない。ではいかにして内欲をおさえることができるのか。それは飲食を適度にして過食をせず、脾臓と胃とを傷つけて病を誘発するものを食べない事。また色欲を慎み、精力をたくわえ、正しく睡眠をとり、長時間眠ることや坐ることをさけて、ほどよく運動をして気の転換をはかることなどによるのである。ことに食後はかならず数百歩の散歩がよい。食後に安坐したり昼寝をしたり、食べたものがまだ消化していないのに早く眠ってしまう習慣をつけると、身体に滞りが生じて病気となり、繰り返しているうちに衰弱する。
日頃から元気を消耗することをなるべくだけ、多弁をせず、七情をほどよく調えるがよい。七情の中でも、とくに怒り、悲しみ、憂い、思いを少なくすることを心がけることが大切であろう。欲をおさえ、心を平静にし、気をやわらげ、物事に動ぜずして騒がず、こころはたえず平和で安泰でなければならない。憂い苦しんではだめだ。
これがすなわち、内欲をこらえて元気を養う道である。またこうした心がけが、風・寒・暑・湿の外邪に勝つ力となる。このような内外のさまざまな注意こそは、養生の大切な項目である。これらをよくよく慎み順守しなければならない。
6. 天寿と養生の術
すべての人間の生まれつきの寿命は、多くの場合長命で、天性短命という人は稀である。生まれつき元気で、身体強健なひとでも、養生法を知らずに、朝夕に無理をして元気をそこない日夜精力を消耗したならば、与えられた天寿をたもつことなく早世してしまう。
これとは逆に、天性虚弱で多病な者でも、それゆえに養生の術をまもって保養すれば、かえって長生きすることができる。
この二つに例は世間に多く見られるところだから、疑えない。欲にとりつかれて身体を失うことは、たとえていえば刀をもって自殺をするようなものである。不摂生と自殺とは死期の遅速の違いはあるが、自分を自分で害する点では同様であろう。
7. 命の長短は養生次第
老子は、「人の命は我にあり、天にあらず」といっている。人の命はもとより天から受けた生まれつきのものであるが、養生をよくすれば長命となり、不摂生であれば短命となる。つまり長命か短命かは、われわれの心次第である。健康で長命に生まれついたひとでも、養生の術にかなわなければ早世するし、生まれつき虚弱で短命にみえるひとも、保養ひとつで長生きできる。これはすべてひとの行いによるのであるから、ひとの命は「天にあらず」と老子がいったのであろう。きわめて寿命が短く生まれついた顔回(孔子の弟子)などは例外であって、多くは自分の養生の力によって長生きするのは道理である。
たとえば、炭火を暖炉深く埋めておけば容易に消えないが、風の吹くところにそのまま出しておけばすぐに消えてしまう。また蜜柑を外に出したままにしておけば年内ももたないが、深く囲っておいたならば、翌年の夏まで腐らないように、ひとの寿命もそうしたものであろう。
8. 生命と外物
人間のうちなる元気は、もともと天地の万物を生む気である。これがひとの身体の根本である。だからひとは、この気を受けて生まれるのである。ひとが気を受けて生まれたあとは、飲食、衣服、住居などの外物の助けによって元気が養われて生命をたもつことができる。ところが、こうした飲食、衣服、住居の類もまた天地の生んだものである。つまり生まれることも養われることも、すべて天地・父母の恩といわなければならない。
外物を用いて元気の養分となる飲食などをひかえめに、食べ過ぎなければ、生まれつきの内なる元気を養って、生命が長く天寿をたもつが、これをすごせば、内なる元気が外物の養分(気)に負けて病になる。病気が進んで元気に尽きれば死にいたる。たとえば、草木に水や肥料などを与えすぎると、生気を失って枯れてしまうようなものである。だからひとは、心の内に楽しみを求めて、飲食などをの外的な養分をほどほどにすべきである。外物の養分にたよりすぎると内なる元気をそこなう結果になるのである。
9. 心を養う養生術
心気を養うことが養生の術(方法)の第一歩である。心をおだやかにし、怒りと欲とを抑制し、憂いや心配を少なくして、心を苦しめず、気を痛めないことが、これこそ心気を養う大切な方法である。寝ることを好んではよくない。長く眠っていると、気(血)の循環がわるくなる。とくに食後、飲食の消化していないのに臥してしまうと、食気をふさいで大いに元気をそこなう。心しなければならない。酒は微酔までがよく、酒席がたけなわになるところでやめるのがよい。食事は腹八分がよくて、腹一杯食べてはいけない。酒食とも一定量を定めて、限度を超えてはいけない。また若いときから色欲を慎み、精気をむだつかいしてはいけない。精気を多くつかうと、下の部分の気が弱くなり、元気の源泉に影響してきて、かならず短命になる。もし飲食や色欲を慎まないならば、毎日栄養剤などの補薬をのんでも、朝夕に栄養を補っても何の役にもたたないのである。また、風・寒・暑・湿の外邪をおそれ防いで、起居振舞に節度をもって慎み、食後は適度な運動をし、ときどき養生法としての導引をして、腰や腹をなで摩擦し、手足をよく動かし、労働して血気を循環させて飲食したものをよく消化させなければならない。同じ所に長く安坐してはならぬ。これはみな養生のために欠くことのできない大事なことである。
養生の道は、病にかからないときに慎むことである。病気になってから薬を使い、針や灸をもって病を攻めるのは養生の末である。養生の根本は、発病する前に予防することであろう。
10. 嗜食と忍
嗜食というのは、耳が音を聴き、口が物を飲食し、身体が色を好むという人間の身体の各部の欲望のことである。欲望は、本質的にむさぼるものであるから、飲食・色欲などをおさえないで、欲のむさぼるままにすると、節度をこえて、身体をわるくし礼儀を失することになるであろう。すべての悪は欲望の思うままにすることから起こるのである。耳・目・口・体の欲をこらえて、これを抑制することが欲に勝つ道である。さまざまな善は、みな欲をこらえて好きかってにしないことから生ずるといえる。だから忍ぶことと恣にすることとは、善と悪との起こる本(根本)となるのである。
養生をしようとするひとは、それゆえに、専心好きかってなことをしないで、欲をおさえて我慢することが肝心である。「恣」の一字をすてて、「忍」の一字を大切に守らなければならない。
11. 外邪を防ぐ法
風・寒・暑・湿は外邪である。これによって病いとなり、死ぬのは天命というほかない。聖人であれ賢者であっても、のがれられない。それでも、内気を充実させて欲を慎んで予防すると、外邪による災難も少ないはずである。飲食・色欲によって病気になるのは、もちろん自己の過失によるものである。これは天命ではなく自分の罪である。万事、天によって起こることはどうにもならない。これに反して自分によって起こることは努力次第でどうにかなるものである。風・寒・暑・湿は外邪を防がないのは怠慢であり、飲食・好色の内欲をおさえないのは過失といってよい。怠慢と過失とはすべて慎まないことから起こるものである。
12. 養生は畏れの一字
身体を保護して養生するために、忘れてはならない肝要な一字がある。これを実践すれば生命を長くたもって病むことはない。親には孝、君には忠、家をたもち身体をたもつ。何を行っても間違いは生じない。ではその一字とは何か。「畏」ということである。畏れるということは、身を守る心の法である。すべてに注意して気ままにしないで、過失のないようにし、たえず天道を畏れ敬まい、慎んでしたがい、人間の欲望を畏れ慎しんで我慢することである。つまり畏れることは慎みの心の出発をなすものであって、畏れると慎む心が生まれるのである。したがって畏れなければ慎みもない。それゆえに朱子(栄代の大儒)も晩年には、敬の概念を分析して、敬は「畏」という字の意味に近いと解したのある。
13. 養生を害するもの
養生を害するものが二つある。元気をへらすことと元気をとどこおらせることである。飲食・色欲・労働が過度になれば、元気がなくなる。また飲食・娯楽・睡眠も過ぎれば、気力が衰える。消耗と停滞とは、ともに元気をそこなうものである。
14. 心の静と身体の働
心は身体の主人である。だから平静をたもたなければならない。身体は心の下僕のようなものであるから、大いに労働させるべきである。心が平静であると、身体の主人である天君もまた豊かで、苦しみもなく楽しむことになる。身体を動かし労働すれば、飲食したものは停滞しないで、血気の循環はよくなって病気とは無縁の存在となる。
15. 薬・鍼灸よりも予防を
およそ薬や鍼灸を使うことになるのは、やむえない下策(下手な手段)といわなければならない。それらを用うる前に、飲食・色欲を慎み、規則正しく寝起きして養生をすれば病にはかからない。腹中が痞満(つかえること)して食欲がすくないひとも、坐りつづけたり寝つづけたりしないで、朝夕散歩をし、ほどよい運動をして身体を動かすと、薬や鍼灸を使用するまでもなく、腹の中のつかえる心配はない。これこそ上策というべきであろう。
薬はことあるごとく気を偏らせるものである。参ぎ・朮甘(薬用人参)の名薬でも、その病気にあわなければ害になる。まして、いかがわしい薬は元気をそこなって他の病いを引き起こす。鍼(針)は、ありあまった気を除くが気の不足を補わない。病い適応しないと元気をへらしてしまう。灸もその病気にあわなければ元気をへらし、精力を発散させて逆効果となる。薬と鍼灸とはこうした利害があるのである。よほどの時でないと、鍼・灸・薬を用いてはならない。ただ専心、養生の術をたよりとすべきであろう。
16. 養生の道を守る
昔の君子は、好んで礼楽を行い、弓と乗馬とを学んで運動し、詠歌・舞踏をして血管を養い、嗜欲をおさえて心気を安定し外邪を予防した。こうしたことをたえず心がけていれば、鍼・灸・薬を用いなくても病気にかからないであろう。これこそ君子の実行している養生の基本であって、上策といいうるものである。よく病いにかかるのは、みな養生の術を心得ていないからである。病気になって薬をのみ、痛い鍼・熱い灸にがまんすること、父母から賜った身体を傷つけ、焼くようなこと、つまり熱痛を我慢して身を責めて治療することなどは、きわめておろかで下策である。たとえば、国を治めるのに徳をもってすれば人びとはおのずから心服して乱は起こらないので、兵をもって討伐する必要もない。ところが保護しないで、ただ薬や鍼・灸にたよって治療するのは、さながら国を治めるのに徳を用いないで、力をもって政治をするようなものである。だから下のものを治める道がなく、人びとが恨みそむいて乱を起こすと、それを鎮圧するために軍隊を使うことになる。かりに百戦百勝しても尊敬するどころか、無駄なことといえよう。
養生をなまけて、薬と鍼・灸などをあてにして病いをなおすのは、こうしたたとえと同様であるといえよう。
17. 身体と運動
毎日少しずつ身体を動かして運動するのがよい。同じ場所に長く坐っていてはいけない。食後の散歩はとくに必要で、庭の中を数百歩しずかに歩くだけでもよい。雨の日には、室内を何度もゆっくり歩くがよい。こうして毎朝毎晩運動すれば、鍼・灸を使わないでも、飲食はすすみ血気の滞りなくて病気にかからない。鍼・灸をして熱い思いや痛みにたえるよりも、さきにいったような運動をすれば、痛い思いをせずして楽にして健康をたもつことができる。
18 .人間は百歳を上寿とする
人間の寿命は百歳をもって上限とする。上寿は百歳、中寿は八十歳、下寿は六十歳である。六十歳以上のひとは長生きである。世間の人びとをみれば、六十歳以上をたもつひとは少なく、五十歳未満の短命のひとが多い。「人生七十古来まれなり」、といわれているのは嘘ではない。長命するひとは少ない。五十になっていれば不夭といって若死とはいわない。ひとの命というものは、なぜこのように短いのであろうか。これはみな養生の術がないからである。短命のひとは生まれつきそうであるのではない。十人のうち九人までは、みずからの不養生で体を害している。ゆえに、ひとみな養生の術を心得なくてはならないのである。
19. 人生五十年
人生は五十歳くらいにならないと血気がまだ不安定で、知恵も出ないし、昔から今までの歴史的な知識にもうとく、社会の変化にもなれていないので、間違った言も多く、行いに後悔することがしばしばである。人生の道理も楽しみも知らない。五十歳にならないで早世することを夭(わかじに)という。これは、不孝短命といわなければならない。長生きすれば、楽しみも多くそれだけ益も多い。これまで知らなかったことを日々に知り、月々にいままで不可能であったことも可能になる。だから学問知識の進歩発達は、長生きしなければ得られないのである。
それゆえに養生の術を実践し、いかにしても天寿をたもって五十歳をこえ、なるべくもっと長生きして六十歳以上の寿の域に到達すべきである。昔のひとは長生きの術(方法)があるといっていた。また「人の命は我にあり、天にあらず」ともいったから、長生きの術を行おうと意志すれば、長生きをたもつことは十分に可能である。つまり人間の力でどうにでもなるのである。それを疑ってはいけない。ところが、気を荒くして欲ばりで慎みのないひとは、とうてい長生きすることは望まれないのである。
20. 内敵には勇、外敵には畏れ
およそ人間の身体は弱くもろく、しかもむなしい。風前の灯のように消えやすい。思えば心細いことだ。つねづね慎んで身をたもつべきである。まして内外から身を攻める敵が多いのだから、まことに危険である。まず、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、あるいは怒、悲、憂という敵が身を攻めてくる。これらの敵はすべて身内から生じて身を攻める欲だから内敵である。なかでも飲食・好色は内欲から外的を引きいれてくる、もっとも恐るべきものである。風・寒・暑・湿は、身の外からはいりこんでわれわれを攻めるものであるから、外敵という。ひとの身は金や石で作られたものではないので、破綻しやすい。ましてこのように内外に大敵を受けるのであるから、内の慎みと外敵の防御なくしては、多くの敵に勝てない。きわめて危険である。だから人びとは長命をたもつことが難しい。十分に用心をして、たえず内外の敵を防ぐ計略がなくてはならない。敵に勝たなければ、攻められて身の破滅をまねくのである。内外の敵に勝って身をたもつのも、養生の術を知っていてよく防ぐからである。生まれつき気が強く壮健であっても、術を知らないと身体を守れない。たとえば、勇気ある武将でも、知なく兵法を知らなければ敵に勝つのは困難であろう。内敵に勝つには、心を強くして忍耐することである。
忍とは我慢することだ。飲食、好色などの欲望は、強くたえて気ままにしてはならない。強い精神力なくしては内欲に勝てないのである。内欲に勝つのはさながら猛将が敵をおしつぶすようにすることである。すなわちこれが内敵に勝つ兵法なのである。外敵に勝つには、それを畏れて早く防ぐことだ。たとえていえば、城中にこもって四方に敵を受けて、油断なくこれを防ぎながら城をかたく守るようにすべきである、というようなものであろう。風・寒・暑・湿にあったら、畏れて早く退くことが必要で、この時ばかりは忍耐しないのが得である。
古語に「風を防ぐこと、箭(矢)を防ぐが如くす」、という。四気の中で風・寒はもっとも畏るべきであろう。長いあいだ風・寒にあたってはいけない。およそこれが外敵を防ぐには、畏れて早く退くがよく、勇敢であることはよくないといえよう。
21. 元気をたもつ法
養生の道は元気をたもつことが根本である。元気をたもつ道は二つある。元気を害するものをとり除くことと元気を養うことのそれである。元気を害するものは内欲と外邪である。すでに元気を害するものをとり除いてしまったならば、つぎは飲食と動静に注意して、元気を養うがよい。たとえていえば田を作るようなものである。苗を害する莠(水田に生えて稲を害する雑草)をとり去ってから、苗に水をそそぎ込み肥料をやって養う。養生もまたこれと同じであろう。まず害をとり除いてからよく養うことである。たとえば、悪をとり去ってから善を行うようなものである。気をそこなうことなく、養うことを多くするのが養生の要点てある。心して実践することであろう。
22 .人生の三楽
およそ人間には三つの楽しみがある。
一つは道を行ない心得ちがいをせず、善を楽しむこと。
二つは健康で気持ちよく楽しむこと。
三つは長生きして長くひさしくたのしむことである。
いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。それゆえに富貴はこの三楽にいれていないのである。もし善を楽しまず、また養生の道を知らないで、身に病いが多く、短命となるひとは、この三楽をえられない。ひととして生まれたからには、この三楽を取得する工夫がなくてはならない。この三楽がなければ、どのように富貴であっても楽しめないのである。
23. 人命の貴さ
天地の年齢について、栄代の哲学者邵堯夫(邵康節ともいう)は十二万九千六百年を一元とし、現在はすでにその半分を経過したと説いている。とすれば、まえに六万年、あとに六万年あることになる。人間は万物の霊長である。だからひとと天と地とをならべて三才と称しているが、ひとの命は百年にも及ばぬ存在である。天地に悠久に比べると、千分の一にもたりない。天は長く地はひさしいのに、ひとの命はかくも短いのかと思うと、おのずから悲しく涙がこぼれてくる。こうした短い命をもちながら、養生の道を行なわず、短い天命をいっそう短くするのはどうしたことか。人命はきわめて貴重、かりにも道をそむいて短くするようなことがあってはならない。
24. 勤勉即養生の術
養生の方法は、務むべきことをよくつとめて、身を動かし、気をめぐらすことが大事である。務むべきことをしないで、寝ることを好み、身をやすめて怠けて動かないのは、不養生で、はなはだ害になる。長く安坐し、身を動かさないと、元気が循環しないで、食欲がなくなり病気になる。とくに寝ることを好み、眠りの多いのはよくない。食後の散歩は必要で、かならず数百歩あるいて気をめぐらし、食べたものを消化させることである。すぐに眠ってはいけない。
父母によく仕え、君主に忠節をはげみ、朝は早く起き、夜は遅く寝て、四民それぞれ自分の家業をよく努めなければならない。武士たるものは、幼時から読書、習字、礼楽を学び、弓を射、馬に乗り、武芸一般を習練して身を動かすべきであろう。農・工・商の人びとは、各自が怠けないでその家業にはげみ、朝となく夜となく努力しなければならぬ。婦女は家庭にこもりがちであるから、気が停滞しやすく、そのために病気にかかりやすいので、仕事に努め身を動かすべきである。富貴の娘でも、親・姑・夫によく仕えて面倒をみ、織物を織ることや針仕事や糸をつむぐことから料理をすることまですべて自分の職分と心得て、また子供をよく育てて、つねに同じところに安坐してはいけない。畏き(もったいない)きわみながら、天照大神も、みずから神の御服を織られたし、その御妹の稚日女尊も、斎服殿において、神の服を織られたことが『日本記』(『日本書紀』)にも見られるから、いまの婦人たちもこうした女性の仕事に努めなければならない。四民ともども家業に励むことは、みなこれ養生の道である。
勤めなければならないことをつとめず長時間にわたって安坐し、そして眠りたがるのは、養生の道からはずれていて健康上有害で、病いをひき起こすもとになって短命におわる。注意すべきことであろう。
25. 養生術の習得
人間には、なすべき業(仕事)が多いのであるが、それを行なう道を術というのである。すべてのわざにはそれぞれ学ぶべき術がある。その術(方法)を知らないと、それを成しとげるのは困難である。
卑近な芸能であってもその術を学ばなければ何もできない。たとえば蓑を作ることや笠(傘)をはることなどは、それほど難しくはない小さな業であるけれども、その術を習わなければ作れないのである。まして人間は天地とともに三才といわれる。この貴重な身を養って命をたもって長生きするのは、きわめて大事なことである。その術がなくてはならない。だから養生術を学ばないでどうして長生きすることができようか。ところが、いやしい小芸にはかならず師を求め教えを受けて、その術を習う。なぜか。技芸の才能があっても、その術を学ばなければできないからである。ひとの身はきわめて貴重であるから、これを養いたもつのはいたって大切な術であるのに、師もなく、教えもなく、学習もしないで、つまり養生の術を知らないで、みずからの欲望にまかせたのでは、どうしても養生の道を得て生まれついた天寿をたもつことができよう。
それゆえに、養生をして長生きをしようと思うならば、養生の術を把握しなければならないのである。その養生の術は大いなる道であって、小芸ではない。心してその術を学ばなければ、その道の修得は困難であろう。もし、その術を知っているひとから直接学ぶことができれば、千金にもかえられないといえよう。
天地・父母から受けたところのきわめて大切な身をもちながら、これをたもつ方法を知らないで、身をもちくずして大病になり、身を失って早世することは、まことに愚かなことである。天地・父母に対して大いなる不幸というべきであろう。ひとは健康で長生きしてこそ、人間としての楽しみを多く味わうこともできよう。多病で短命であっては、いかに富貴をきわめてもどうにもならない。貧しくとも長命であることがよほどすばらしい。私の郷里の青年をみると、養生の術を知らないで、放蕩して短命なひとが多い。またその村の老人の多くは、養生の道を学ばないで多病に苦しみ、元気おとろえて早く耄碌してしまう。これではたとえ百年生きても、楽しみがなく、苦しみが多く長生きの意味はない。ただ生きているばかりでは寿というわけにはいかないのである。
26. 家業の中の養生
あるひとはいう。養生の術というのは、隠居した老人や若くても世間から離れて安閑としている人びとにはよいであろう。が、武士として君主や父に仕え忠孝にはげみ、武芸を習って身を動かしているもの、農・工・商を家業として昼夜に働いて暇のないものには、養生などはできないであろう、と。
こうした人びとが、養生の術ばかりに心がけていてはその身はなまって柔らかになり、その業がさえず、ものの役にたたなくなってしまう、というのである。しかしこれは養生の術を知らないひとのもつ疑問で、もっともである。だが養生の術は、そうした安閑でのうのうとしていることではない。心を静にして身体を動かすにあるのだ。身体を安閑にするのは、かえって元気が停滞して病気になる。流れている木は腐らず、戸枢(戸が回転する軸)は、朽ちないようなものである。たえず動くものは長くたもち、動かないものは命が短いものだ。だから四民ともにそれぞれの仕事に努めるのがよい。仕事もしないで遊び暮らしてはいけない。これが養生の術というものである。
27. 常と変と養生と
さらにつぎのような疑問をもつひともあろう。養生を好むひとは、ひたすら利己的に自分の身を大事にするばかりで、命をたもつことばかりを思う。しかし君子は、義を重んじる。それゆえに義にあたっては自分の身命をかえりみない。危うきをみて命をささげ、危難にのぞんでは節操のために死ぬ。もし養生ばかりを思い、わずかな髪や皮膚でさえも傷つけないようにするものは、大節においても命を惜しんで、義を見失うのではなかろうか、という。これも一理である。が、それについて答えよう。
およそ事には<常>と<変>とがある。常のときには常を行ない、変にのぞんでは変に応ずればよいのである。臨機応変、その時において義にしたがえばよい。平常こと無きときは、身を大切にして命をたもつのは、「常」に応ずる道である。大節において命をすててかえりみないのは、「変」における義の行為である。常に応ずる道と変に対応する義との相違を心得ておけばそれでよく、こうした疑いも起こらないであろう。
君子の道は時宜にかない、事変に対応することがよい。たとえていえば、夏は薄いひとえものを着て、冬は厚い着物を重ねて着るようなものである。いつも同じだと考えて、同じやり方にこだわってはならない。常のときに身を養って頑健にしておかないと、大事にのぞんで命をすてて強く戦うことは、弱いものにはできないであろう。だから常のときによく気を養っておれば、変にあたって勇気を出すことができるのである。
28. 睡眠と養生
昔のひとは三欲を我慢せよ、といっている。三欲というのは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。飲食を節制し、色欲を慎み、睡眠を少なくすることは、みな欲を我慢することである。飲食と色欲を慎むことはよく知られている。だが、睡眠の欲をこらえて眠りを少なくすることが養生の道である、とは意外に知られていない。睡眠を少なくすれば、病気にかからなくなるのは、元気がよく循環するからである。睡眠が多いと元気が停滞して病いとなる。夜ふけて床について寝るのはよい。昼寝はもっとも有害である。日暮れて間もなく寝ると飲食したものが消化しきれないで、害になる。とくに朝夕において飲食がまだ消化しないで、元気がまだ巡らないときに早く寝ると、飲食が停滞して元気を害するのである。古人が睡眠の欲を飲食と色欲とともに三欲としているのはもっともである。なまけて寝ることを好むくせがつくと、睡眠が多くなってこらえられなくなる。睡眠をこらえる苦しみもまた、飲食や色欲と同じである。最初からつよくこらえないと堪えられない。つねづね睡眠を少なくしようと努めれば、習慣になって自然に睡眠が少なくなる。日頃から少なく眠る習慣をつけることが大切であろう。
29. 養生と口数
言葉を慎み、無用の言葉をはぶいて、口数を少なくするのがよい。口数が多くなると、かならず気が動揺する。その結果は大いに元気を害する。言葉を慎むのも、徳を養い身を養う道である。
30. 少しの不養生と病気
古語に「莫大の禍は、須臾の忍ばざるに起る」という。須臾とはしばしの間のことである。大きな禍は、しばしの間、欲をこらえないから起こる。酒食・色欲など、しばしの間、わずかな欲を堪えなかったので大病になり、生涯の不幸になる。一盃の酒や椀半分の食をひかえないために病気になることもある。わずかな欲をほしいままにすれば、それによって傷つくことは大きいのである。
たとえていえば、蛍火ほどの火が家についても、ついには火災となって大禍となるようなものである。古語に「犯す時は微にして秋豪(きわめて少ないこと)の如し、病をなして重きこと、泰山の如し」とある。この言葉はまことに道理である。およそ小さなことから大きな不幸が生ずることが多い。
小さい過失から大きな禍となるのは、病気のつねである。慎まなければならない。日頃から右にあげた二つの古語を心にかけて忘れないようにしなければならない。
31. 天寿の全うは養生から
養生の道を無視すると、生まれつき健康で、若くて元気旺盛なひとも、天寿をもたないで早世するものが多い。これは天からの禍でなく、みずからがまねいた禍である。天寿とはいえない。健康なひとは、健康ということにたよって注意しないから、弱いひとよりかえって早く世を去る。
これに対して、体力なく、飲食は少なく、つねに病気がちで短命であろうと思われるひとが、かえって長生きする物である。これは弱いことを畏れて生活を慎むからである。
こうしてみると、命が長いか短いかは身の強弱によるものではなく、生活を慎むか慎まないかによる。白楽天の言葉に、「福と禍とは、慎むと慎まざるにあり」とあるが、その通りであろう。
32.
富貴財禄と健康長生との違い
世間には財産や地位、そして所得ばかり求めて、ひとにへつらったり仏神に祈ったりするものが多い。が、そうしても効果はない。無病長生を願って養生をし、身を保持しようとするひとは稀である。財産や地位や所得は外にあるもの。求めても天寿(運)がないと得られるものではない。
無病長生はわが内にあるもの。求めるならば得られよう。求めても得がたいものを求めて、得やすいことを求めないのはどうしたことか。愚かなことである。たとえ財禄を求めることができても、多病で短命ならばどうにもならない。
33. 血気の流通は健康のもと
陰陽の気は天にあって、おのずから流動して停滞しないから、春・夏・秋・冬の年間の四時(季)がうまく行なわれ、万物がよく生成する。もし陰陽の気がかたよって停滞するようなことがあると、流動の道がふさがって、冬は暖かく夏は寒くなり、大風・大雨などの天変となって凶害が起こる。
ひとの身においてもまたそうである。血気がよく流通してとどこおりがないと、気がつよくなって病気にならない。血気がよく流れないと病気になる。その気が上に停滞すると頭痛や眩暈となり、中にとどこおると心臓病や腹痛となり、また腹がつかえて張り、下にとどこおると腰痛や脚気となり、さらに淋疝(疝気など)や痔瘻などの病いとなる。ゆえに、しっかりと養生をしようとするひとは、できるだけ元気が停滞しないようにすることであろう。
34. 心と主体性
養生を志すひとは、心につねづね主体性をもっていなければならない。主体性があると、思慮分別して是か非かを判断することでき、怒りをおさえ、欲を我慢して間違いが少ない。が、主体性に欠けると思慮あさく、怒りや欲をこらえることができないで、間違いが多くなる。
35. 我慢と養生
何ごとでも、一時的に快を覚えることはかならずあとで禍になる。酒食を欲するままにとれば、そのときはよいが、やがて病気になるようなものである。はじめに我慢すると、あとでかならず快になる。灸の治療は熱くて痛いものだが、これに堪えればあとは病いにならないようなものだ。唐代の詩人杜牧は、「忍過ぎて、喜びに堪えたり」というが、これは欲をおさえることによって、あとは喜びになるという意である。
36. 予防と養生
「聖人は未病を治す」といわれているのは、病気にかかるまえに、予防的に注意をすれば病気にならない、ということである。もし、飲食や色欲などの内欲をこらえないで、また風・寒・暑・湿などの外邪を防がなければ、おかされることはわずかであっても、あとで病気になってひさしく苦労する。内欲と外邪とを慎まないために大病になって、思いのほか悲しみ、長く苦しむことになる。病気とはそうしたものである。
病気になると、それ自身の苦痛だけでなく、痛い針で身をさし、熱い灸で身をやき、にがい薬を飲み、食べたいものをたべず、飲みたいものものまないで、身を苦しめ、心を傷つける。病気でないときに、予防的に養生をすれば病気にはならないで、目に見えない大きな幸せになるのである。
孫子は「よく兵を用うる者は赫々の功なし」という。その意味は、上手に兵を動かす士官は、一見してわかる手柄がない。なぜかといえば、戦いの起こるまえに戦わないで勝つことができるからである。また「古の善く勝つは、勝ち易きに勝なり」ともいう。養生の道もまたこのようにしなければならない。
つまり、つねづねから身体について深く思い、病気にまだかからないまえに、勝ちやすい欲に勝つと病気は起こらない。すばらしい大将が戦わないで勝ちやすいものに勝つようなものといえよう。これこそもっともよい策である。「未病を治す」の道なのである。
37.気ままをおさえる
養生の道は気ままをおさえて、もっぱら慎むことである。気ままとは欲にまけて慎まないことである。慎みは気ままの裏面である。慎みは畏れることが根本である。畏れるということは大事にすることをいう。俗諺に「用心は臆病にせよ」というようなものである。唐代の名医、孫真人も、「養生は畏るるを以て本とす」という。これはまさに養生の要件である。
養生の道においては、勇ましいのはだめで、畏れ慎み、いつも小さな橋を渡っているように用心することである。これが畏れるということだ。若いときは血気盛んで、強いのにまかせて病気を畏れず、欲をおさえないので病気にかかりやすい。すべて病気は起こるべくして起こるもので、かならず慎まないから起こる。とくに老人は身は弱いから、十分に畏れて注意しなければならない。畏れないと年齢にかかわりなく多病になって、天寿を全うできないのである。
38. 欲を少なくすること
健康であるためには養生の道にしたがわなければならない。針や灸や薬をたのみとしてはならない。ひとの身には、口・腹・耳・目の欲があって、身を痛めることが多い。古人の教えにはすばらしい養生の法がある。それは孟子の「欲を寡くする」ということである。宋代の王昭素もまた、「身を養うことは欲を寡くするにしくはなし」という。『省心録』にも、「欲多ければすなわち生を傷る」とある。およそ人間の病気は、みな自分の欲をみたそうとして慎まないことから起こる。養生の士は、つねにこれを心がけて戒めとしなければならない。
39. とどこおりと病気
気はひとの身体に広くあまねくいきわたるようにしなければならない。胸の部分に集中してはいけない。怒り・悲しみ・憂い・思いがあれば、胸の部分に気が集まってとどこおることになる。喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情が過度になって、気が停滞するのは病気の起こる基となるのである。
40. 偏しないことが養生法
*俗人は、欲をおさえようとしないので義にそむき、気を養おうとしないので天寿を全うすることができない。理も気もともに失う。
*仙術の士は養気のみにかたよって道理を好まない。それゆえに礼儀をないがしろにする。
*いやしい儒者は道理にかたよって気を養わない。だから修養の道を知らないで天寿をたもつことができない。
この三つはともに君子の行なう道ではないのである。
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