サンディエゴ・フェイマス・チキン [PR]子育てママさんへ:3年毎に15万円うけとれる保険?

10/13/2003 テッド・ジアンノーラス

1978年、アトランタ・ブレーブスが年俸10万ドルのオファーを提示したが、その若者は丁重にそのオファーを断った。アトランタ・ブレーブスのオーナー、テッド・ターナーはその返答に仰天し、その判断は大きな間違いだと彼に告げたが、その心境を察してくれた。

その数分後、シアトル・マリナーズからの複数年契約提示に心が揺らいだが、彼のファンである往年のコメディアン、ダニー・ケイを中心としたシアトルのオーナー陣には既に自分の気持ちは固まっていると告げた。その24歳の若者がデビューを果たした街に留まる決心をしたことにより、ワシントンDCへのチーム移転騒動以来となるパドレス最大の危機は散った。

金満チームがちらつかせる大金につられて慣れ親しんだ球団から移籍する現在のFA選手に爪の垢でも煎じて飲ませたくなるような英断だが、その若者が南カリフォルニアの街から翼を広げて去る事の出来ない理由は2つ、1つ目は友人や家族の居るホームタウンへの愛情。そしてもう1つの理由は、テッド・ジアンノーラスが翼をバタつかせたところで飛び去るわけには、より馴染み深い呼び名で呼ばせてもらえるなら、チキンが飛ぶわけにはいかないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その決断により当時のパドレスオーナー、レイ・クロックから1万ドルのボーナスを頂戴したジアンノーラスだが、ニワトリのぬいぐるみを着てのパフォーマンスを始めた頃支払われていた時給は僅か2ドルだった。

1974年の春休み、ジアンノーラスはラジオ局KGB(ソ連の諜報機関とは無関係)のプロモーションの一環として借り物のチキンの着ぐるみを纏い、サンディエゴ動物園にてイースターのキャンディーを配るアルバイトをしていた。KGBは局内でそのようなパフォーマンスのために一肌脱ぐ(実際には着るわけだが)従業員を見つけられなかったため、大学内で仕事にあぶれている学生を探していた。そんな中、スポーツキャスターになる事を夢見てサンディエゴ州立大でジャーナリズム学を専攻していた5フィート4インチ(約162センチ)と縫いぐるみにフィットする小柄な体型のジアンノーラスがアナウンサー職を得る為のコネクション目当てでその仕事に飛びついた。


まだチープな初期のチキン
ジアンノーラスはまもなくパドレスが居を置くサンディエゴ・スタジアム(現クオルカム・スタジアム)で(タダで試合が観られるという思いと共に)パフォーマンスを始めた。最初の数年はスタンド内での活動に留まっていたが、グラウンドに降りてパフォーマンスを行なうようになったところで人気に火が点いた。彼のコミカルなパフォーマンスはプロスポーツ界に於いて前例が無く、すぐにチームとファンにとって欠かせないパドレスのホームゲームの常連となったが、サンディエゴ・チキンは球団ではなくラジオ局に雇われる存在であった。そして、この労使関係が後に問題の種になる。

サンディエゴ・チキンはプロスポーツ史上初のマスコットというだけではなく、音響効果にも歴史的変化をもたらした、彼の登場以前に流れていた試合中のBGMは全てオルガン演奏であり、現在のようにロックミュージックのレコードが使われる事は無かった。サンディエゴ・チキンの人気は全国区となり、模倣する者も後を断たなかった程だった。チキン観たさに球場に訪れる観客も少なくなく、負けが込んでスタジアムに閑古鳥が鳴いていた70年代のパドレスにとってはありがたい存在であった。

CNNのボスとチキン


先のテッド・ターナーによるヘッドハンティング後に年俸が5万ドルまで跳ね上がったが、チキンの勢いは止まらずプレスリーのコンサートにも呼ばれる人気者となったが、1979年、彼の雇用先であるKGB局の許可無く公衆の面前に姿を現したために解雇され、ジアンノーラスにチキンのコスチュームを着てパフォーマンスを行なう事を禁止してしまう。それ以降、チキンはサンディエゴ・スタジアムからその姿を見せることは無かった。

1979年6月29日、白バイの先導で巨大な卵を荷台に積んだトラックがサンディエゴ・スタジアムに現れる。47000人の観客が駆けつけた球場にヨハン・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が流れ、選手達の手を借りてその卵はグラウンドに降ろされた。間もなくして卵はゆっくりと二塁の方向へ転がり、卵の中からチキンが飛び出した。これが球史に於いて有数のパフォーマンスとして後世に語り継がれる事になるサンディエゴ・チキン復活劇、"The Grand Hatching"である。10分にも及ぶスタンディングオベーションで迎えられ、全国ニュースでもその様子は報じられた。

 

 

トラックの荷台上に見えるのが卵

 

チキン再生の瞬間

 

滑稽なパフォーマンスを終えた後、チキンはカート・ビバークアとジョン・ディアクイストという、2人のパドレス選手の肩に担がれる形で退場した。記念に"It's a Bird"(「鳥だ!」:映画『スーパーマン』の台詞から)という文字が書かれた葉巻がメディア陣に配られ、この一世一代のパフォーマンスには、敵対するラジオ局側の弁護士までも笑わずにはいられなかった。テッド・ジアンノーラスは回顧する。「あまりに興奮してゾッとした。チキンの縫いぐるみの中では本当に泣いていた。あれが人生最高のスリリングな出来事だった」

翌年、カリフォルニア州高等裁判所はテッド・ジアンノーラス自身がサンディエゴ・チキンのキャラクターを創造したものと判断するものであり、KGBのロゴを付けない限り、本人の希望通りどこでもチキンのコスチュームを着てパフォーマンスを行なえるという判決を言い渡し、晴れてサンディエゴ・チキンはフリーエージェントとなった。ちなみに、後にKGBとフェイマス・チキン(改名後)は互いに垣根を取り払い、チキン再生5周年の際にはKGB時代のコスチュームを使用する事すら許可された。こうしてチキンの活動範囲は全国区に広がり、他の野球場だけに飽きたらず、NFLやNBA、NHLのゲームでも活躍した。

 

首から下のコスチュームが間に合わなかった


多岐に渡る活躍で高収入を得ていたチキンだが、1990年代に入った頃から風向きが変わる。1995年のストライキ解除後に年俸が高騰し、勝ち負けや成績ばかりに目が行くようになり、ゲームを楽しむ事を忘れたメジャーリーガー達から、ゲーム進行を妨げているという理由からパフォーマンスを疎まれるようになり始めた事だった。かつては選手と競演で意気投合しながらパフォーマンスをしていたが、段々彼等にソッポを向かれるようになり、決して丁寧ではない言葉で追い出そうとする選手たちもいた。また球団そのものも企業化し、チキンのパフォーマンスの様な半ば過激なパフォーマンスよりも、清潔で人畜無害な催しを好むようになった。

「メジャーリーグからはロマンが消えた。」とジアンノーラスは語る。「例えば、長年基本的だった例を挙げるならニックネーム。テッド・ウィリアムズはスプレンディッド・スプリンター(素晴らしき疾走者)、ハンク・アーロンはハンマリング(潰し屋)・ハンク、またウィリー・メイズならセイヘイ・キッドといったニックネームを持っていた。」

「じゃあバリー・ボンズのニックネームは?ない。サミー・ソーサは?カル・リプケンは?この時代に愛すべきニックネームはない。ニワトリの縫いぐるみに入っている男がこの事について語る最後の人間になるだろうけれども、今の選手達はゲームが自分たちのためにあると考えている。ゲームはファンのためにあるんだ。レストランみたいなもんさ。シェフのためじゃなくて、客のためにあるんだ。」

「俺はメジャーリーガーが今よりずっと稼ぎが少ない中でも、今よりもっと楽しんでいた頃を憶えている。近頃じゃ連中は毎日銀行に行く度に笑っているんだろうけど。」

阪神のフィルダーとチキン


実際に、90年代に入るとメジャーリーグ球場でのパフォーマンスは激減し、その代わりにまだチキンが活動を始めた頃の原風景が今だ色濃く残っているマイナーリーグの球場に活躍の拠点を移し、プレッシャーの少ない場所で歓迎されながら年間80回ほどのパフォーマンスをこなし、上々の収入を得ている。「ゲームへの純粋さとロマンがマイナーリーグにはまだ残っている。」ジアンノーラスは語る。「選手たちの稼ぎが少ない場所には、まだ楽しさが残っている。」

チキンは昔から変わっていない、と現在50歳になったジアンノーラスは言う。彼はいまだにコスチュームを脱いだ時の写真を撮られる事を丁重に断っている。コスチュームを脱いだ時の彼は、まるでトヨタのディーラーか税務、もしくは水道料金の請求書発行を生業としているかの如く、全く人の目を惹かない。コスチュームが全てを変えるのだ。チキンでいる時には、写真に収まることも断らず、全てのファンにサインや握手をするために、何時間掛かろうと40℃を軽く超える縫いぐるみの中に留まる事も拒まない。

「デパートのサンタクロースじゃない。」と語るように、彼以外の人間が今後チキンの縫いぐるみを着ないように目を光らせている。テッド・ジアンノーラスだけが唯一無二のチキンである。

彼はまだサンディエゴに住み、母親が今もコスチュームを作っている。

幾度かリタイアを考えたが、その度に辞める理由に迷う。ミック・ジャガーやブルース・スプリングステイーン、彼等はあの歳でステージに立ち続けてロックスターでいることを予期していただろうか?ミック・ジャガーがまだ『サティスファクション』を歌えるなら、自分がチキンで居続けられない訳がない。


しかし母親が縫製したニワトリの縫いぐるみが引き寄せたのは、Sporting News誌の『20世紀のスポーツ界で最もパワーを持った100人』にベーブ・ルースやモハメッド・アリ、またテッド・ターナーと共に名を連ねたりホワイトハウスに招待されるような名誉や、観客の歓声と数十万ドルにも達した収入のような喜ばしい物ばかりではなかった。1984年、当時の人気映画である『レイダース:失われたアーク』にあやかり、チキンが馬に跨ってグラウンドに登場してきたところ、その馬が外野で便意をもよおしてしまった。その後始末に無駄な時間を取られた事で、それまで無安打に抑えていたカーディナルス先発、リッキー・ホートンの集中力を削いでしまい、その直後に初ヒットを浴びてしまい、図らずもノーヒッター達成を妨害してしまうハメに。

またトニー・グウィンに打順が回って来た際に勝手に打席に入った行動を、90マイルの速球を投げるプロの投手に対する敬意に欠けるとグウィンに咎めれられた。この件に関してチキンは「グウィンは自己中心的でエゴの固まりだ」と雑誌のインタビューで突っ突き返したが、実際のところはお互いに敬意を払っているという。

 

かつてグウィンやホフマンの子供がこのパフォーマンスに参加
他には1991年、ジアンノーラスはNBAのシカゴ・ブルズ戦で、ハーフタイムのパフォーマンス中にチアリーダーに怪我を負わせたとして、30万ドルの支払いを命ずる判決を言い渡されたり、チキンの相棒であるブレイクダンスを踊った後チキンに張り倒される紫色の恐竜が、既存の子供向けキャラクターであるバーニーと瓜二つである事から、暴力的なパフォーマンスでバーニーのイメージを汚されたとLyons社から10万ドルの支払いを求める商標権侵害の訴訟を起こされた。ジアンノーラスが紫色の恐竜とバーニーとのDNA鑑定を求めたというこの裁判は、バーニーに酷似したキャラクターを用いる事で利益を得ている訳ではない、という理由により勝訴。

怒り心頭のバーニーさん

 

問題のパフォーマンス


1992年のサンディエゴでオールスターが開催された際、チキンのパフォーマンスは予定になかったものの、縫いぐるみを着てチケット持参で入場したところ、先の判決で禁じられているにも拘らず、ジアンノーラス以外の人間がチキンに成りすましているとカン違いされ逮捕された。

これらの浮き沈みも、全てニワトリのスーツあってのものだった。


ロンとチキン

 

W・ブッシュさん「Shakiraはメキシコ語でも歌えるなんてすごいな!」

チキン「メキシコ語って…。」
2003年初頭、パドレスはチキンを呼び戻すために連絡を取った。クオルカムスタジアムでパドレスがプレーする最後の年、フィナーレを飾ってもらうために。

皮肉にもパドレスがリーグ初優勝を決めた1984年の頃から活躍の場は減り、90年代には殆んど見る影もなかったチキン。2003年シーズン最終週の金曜日、チキンが初めて登場した頃と同じく、今年のチームも負けが込んで最下位が決定しているため『ゲーム進行の妨害』をとやかく言われる心配はない。

「今夜が野球史上最高に面白い夜になることを保証するよ。」ジアンノーラスは告げた。
「それが目標さ。」

オリンピックの入場曲が流れる2回裏、センターフェンスから若者達に担がれた神輿に乗って、かつてアナウンサー志望の学生だった男にとっては人生が思いもよらない方向に舵を切り始めた場所に、またサンディエゴ・チキンにとっては生まれ故郷である『巣』に戻ってきた。

 

 

かつてMLBをサンディエゴに誘致する際に多大な功績を残したユニオン・トリビューン誌の記者だったジャック・マーフィーは『TIME』にこう記している。

「かのチキンは詩人の魂を持つ、鶏の羽に包まれた未発達のチャーリー・チャップリンである。なにより、ベースボールは真のノスタルジアを語り継ぐ事を学ぶべきである。ジャッキー・ロビンソンが肌の色の壁を打ち破った事、ルー・ゲーリックのさよならスピーチ、そしてサンディエゴ・チキンの初舞台を。」

 

 

参考文献:

フェイマス・チキンのパフォーマンスがどのようなものか知りたい方はこちらに。

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