三郎信秀
信長の父、信秀は『宗長手記』大永六年(1526)四月に初めて見える。
「おなじ国津島へたち侍る、旅宿は此所の正覚院、領主織田霜台(信貞)息の三郎禮とて来臨・・・」
「織田霜台」とは、弾正台の唐名で弾正忠信貞を表す。
「息の三郎」こそ、のちの弾正忠信秀のことである。
当時、三郎信秀はまだ十五歳くらいの年齢であったろうと思われる。
(天文二十一年没から逆算したが、没年には諸説あって定かではない。)
母は、「いぬゐ」という名の人で三奉行の一人、藤左衛門の兄弟であるという。
信貞の許に嫁いだのは不明であるが、信秀の諸説ある没年から永正八年(1511)前後ということになる。
妙興寺(一宮市)に、年不詳の『いぬゐ消息』がある。
妙興寺からの手紙に対しての返礼の内容だが、文中に「三郎」と書かれており、すでに信秀が元服を済ませている時期であることはわかる。
いぬゐの没年は、大永七年(1527)六月二十四日と伝わり、信秀が母の菩提を弔うため一周忌の享禄元年(1528)に清州土田村に含笑寺(現・東区)を建立したという。『名古屋市史』
これに間違いなくば、信秀は父と母をほぼ同時期に亡くしたことになる。
享禄三年(1530)織田達勝は軍勢を率いて上洛した。
何のための上洛であったのか。
『巌助往年記』に、「尾州より織田大和守上洛、人衆三千計り、美麗也・・・」と記された。
しかも、どうやら合戦することもなく帰国しているのである。
公家の鷲尾隆康の記した『ニ水記』には、
足利義維は、「法往院殿(足利義澄)御息、武衛(斯波氏)腹、江州武家(足利義晴)の御舎弟也・・・」
として、義維の母を斯波氏の女としているので、その縁で斯波氏に代わり軍勢を率いて上洛したのではないかと考えられている。
しかし、この行動は守護代達勝の威信を高める行動どころか、国内の諸勢力から反発を買う結果となったようで、以後、守護・守護代家の弱体化が進行していくことになる。
その翌々年、天文元年(1532)、信秀は守護代大和守達勝と伯父藤左衛門と合戦になったが年内に和睦。
その経緯は不明であるが、先の守護・守護代家の威信の低下によるものか、弾正忠家の信貞が没し、代替わりしてその勢力が増している時期でもあったので衝突するに至ったか。
明くる翌年夏まで信秀は守護代家と対面していない。
このようにすでに、三奉行体制は事実上崩壊していたようである。
天文二年(1533)四月一日、織田大和守達勝の使者織田兵部丞は上洛の途中、山科言継に面会している。
このとき、信秀の依頼に応えてか、蹴鞠の伝授に飛鳥井雅綱と山科言継は、尾張に下向する。
天文二年(1533)七月に、山科言継らが尾張を訪れたのときの日記『言継卿記』に生々しく信秀の姿が記されている。
「・・・三郎者去年和談以後、始而織田大和守方へ同名與二郎出頭云々・・・」(七月十一日条)
とある。
與次郎とは、信秀の弟で後の犬山城主織田信康である。
天文元年の合戦以来、初めて出頭させたということである。
翌十二日、大和守達勝は勝幡城に現れた。
「七時分鞠始候了、織田大和守禮に来候、・・・」(七月十二日条)
七つ時(午後四時)に蹴鞠を始めた頃に、達勝は勝幡城に現れたとある。
去年和談以後、初めての対面をして蹴鞠に加わっている。
本来、主筋である大和守達勝が勝幡城に赴くなど筋ではないが、当時の武将たちは京の文化(蹴鞠)への関心がよほど深かったのか日記には、ほぼ連日蹴鞠が催されている。
山科言継を招いての和歌や蹴鞠に参加する面々には、達勝側に参加する者と、信秀側に参加する者が別れており、このときの与党関係を知るに興味深い。
尚、熱田社(愛知郡)の大宮司千秋家は、達勝側主催の蹴鞠に参加しており、信秀との深い関わりはなかったようである。
このことから、那古屋城奪取の天文元年説(1532)は、もう少しあとのことと思われる。
そして信秀は、小田井城に伯父藤左衛門を訪ねている。
「今日織田三郎、同名藤左衛門所(在所之名織田井)へ罷向云々、去年取合以後初也、三郎為に者伯父云々・・・」(八月四日条)
これも去年の合戦以来初めてのことで、今回の山科らの下向は単に京文化に触れるだけではなく、対外政策に抜群の効果が上がったといえる。
当時まだ二十歳を過ぎたばかりの若者にしては老獪である。
あるいは、日記にも度々登場する家老平手中務らの策であったか。