小牧市の城跡

小牧山城      
小牧市小牧野字八幡前の小牧山が城跡である。

山頂に本丸を構え、山を五段に分けて曲輪とした。
山麓に三重掘や土塁を築き、西部には惣構えの長掘を巡らせていたという。
山腹には家臣の居館跡といわれている削平地が多く残っている。

築城者は信長で永禄六年(1563)美濃攻略のため清洲城から本拠をここに移した。
信長は小牧城に移って小口城・犬山城などを降して美濃国稲葉山城を落として斎藤氏を滅亡させると岐阜城と改名してそこに移ったため廃城となった。
しかしこの城が本当に真価を発揮したのは信長死後である。
尾張国が戦乱に巻き込まれた歴史上名高い「小牧・長久手の戦い」である。
小牧城は、信長の子信雄と亡父の盟友であった家康連合軍がいち早く接収し、家康の本陣として大改修をして秀吉軍に備えたのである。          



北外山城      
小牧市北外山字城島付近が城跡であった。

外山一一四二番地に石碑が建っている。
城主は伊勢守系織田与四郎の居城という。
規模は東西約五十b、南北約三六bの平城であった。
天正十二年、小牧・長久手の戦いのとき廃城になっていたのを修復し蟹清水砦と交代番であった。
羽黒合戦では本多忠勝が守っており、以後は松平家忠に守らせたと「尾張志」にある。

長久手合戦後に再び本多忠勝・松平勘四郎・奥平信昌・本多広孝らが守っていた。


南外山城
小牧市南外山の八幡社が城跡であった。

本殿北側に堀跡が残っている。
堀尾孫助の居城と「尾張志」にある。
正中年間(1324〜1326)には廃城になっていたという。



小松寺砦      
小牧市小松寺の小松寺の隣神明社一帯が砦跡であった。

この砦は秀吉が小牧・長久手の戦いの時築かせた。
「尾陽雑記」に丹羽長重の陣所であり、東西に二箇所の砦を築くとある。
東の砦は、標高21間の山上の平地に東西10間、南北10間で東西北は山続きで南だけが山下に通じる。
西の砦は、標高22間の山上の平地に東西8間、南北10間の規模で同じく東西北は山続きで南が山下に通じる。




二重掘砦
小牧市二重堀五四五番地の水野宅に「日根野弘就砦址」の石碑が建っている。

規模は東西約百b、南北約七〇bの平城であった。
小牧の役での関連城砦では、比較的大きい方である。
天正十二年、小牧山城を牽制する為に秀吉方が築く。
小牧山城の東側に位置する。秀吉方の最前線で小競り合いが繰り返された。

守将は日根野弘就、同弥次右衛門ら二千ほどであった。
同年四月二十二日、長久手で秀吉軍が敗走すると、木村常陸介・神子田半左衛門・黒田官兵衛・明石左近らがこの砦を守り、殿をした。


久保一色砦     
小牧市久保一色の「太閤山」と呼ばれる見晴らしのいい小山が城跡であった。
現在、山頂に熊野神社が祭られて石碑も建っている。

「尾張志」に山の標高11間で山上の平地に東西9間、南北13間の規模で南東は山続き、西北は山下に通じるとある。
小牧・長久手の戦いとき、金森長近と蜂屋頼隆ら三千の兵で守った。



岩崎砦 
小牧市岩崎字独山の岩崎山山頂に築かれた平山城である。

小牧・長久手の戦いのとき、小牧山城に対し北東に位置する付近に築かれた。
秀吉の命で、稲葉一鉄、その庶兄の重通、その嫡男で貞通、その子典通ら四千の兵で守りを固めた。

総規模は「尾張志」に標高11間の山上に築かれ、東西3町、南北1町46間であったとある。


田中砦
小牧市東砦の三ツ山古墳が砦跡であった。

「尾陽雑記」に東西16間、南北20間で土居の高さ5尺とある。
秀吉方の砦で、守将は蒲生氏郷・堀秀政・細川忠興・長谷川秀一・加藤光泰らで一万三千の兵が布陣していた。


文津砦       
小牧市文津付近。

小牧・長久手の戦いで秀吉方が築いた砦で小松寺砦の南に位置しているが、詳細は不明。


蟹清水砦
小牧市下之町の小牧御殿跡の北側が砦跡であった。

築城年代は不明だが、岩倉織田伊勢守系の織田与四郎の居城であった。
信長のとき小牧移転に伴って丹羽長秀の居城となったという。

その後、廃城となっていたが小牧・長久手の戦いのとき織田・徳川方の砦として修復され小牧山城の右翼として機能した。
          


小木城       
小牧市小木の宇都宮神社の北あたりが城跡であったという。

「張州府志」に永正年間(1504〜1521)、織田宰相居住とあるが詳細は不明である。
ちなみに信長の家老であった平手政秀を弔う政秀寺ははじめこの小木にあったという。
その後、清洲に移され現在の中区に移転した。



宇田津砦      
小牧市北外山の東海ゴムの工場敷地が砦跡であった。工場敷地内に碑が建っている。

小牧・長久手の戦いで織田・徳川軍の築いた砦である。
約二百b四方のかなり大きな砦であった。

守将は松平親乗・忠頼らであった。


上末城       
小牧市上末四〇五の竹薮の中に堀・土塁などが残っている。

別名「上陶城」ともいう。
築城者は室町後期に落合勝正が築いたという。
その子安親・孫の庄九郎は小牧・長久手の戦いのとき秀吉方に属して池田・森の岡崎急襲作戦のとき先導をつとめたが大敗してこの城も廃城となった。




大草城       
小牧市大草字西洞の白山神社のある丘の上あたりが城跡であった。

現在、北側は桃花台団地で削られているが、東西南は竹薮・土塁・堀など残っている。
文安年間(1444〜1449)の築城という。
城主、西尾道永は岩倉織田家の伊勢守信安に仕えてこのあたり一帯を領していたが主家の家督争いを機に美濃国へ退転したという。
これに伴って天文十七年(1548)ころ廃城になったという。別名「西尾城」





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