

第十章 そしてひとりずつに。
さて、メンバーは「たま」をやりながらも、同時にそれぞれソロ活動も行っていた。
これは元々ソロで活動していた者の集まりだったので当然で、デビュー後しばらくの「たま」だけで精一杯じゃ〜、もう動けんですわい〜、という期間を除いてその前後ずっと行われていたのだ。
つまり、音楽以外の事はもちろん、音楽でも全くのソロや、他の人のセッションで「たま」とはまた別な形態でやりたい時はそれぞれ自由に演奏や歌を楽しんでいたのだ。
知久君は、とにかく本当に歌うことが好き。毎日でも歌っていたいという感じでとにかく空いているスケジュールのところには、「おひおひ、まだ歌うのかひ」というほどにソロライブをぶちこんで全国をまわっている。
また意外に社交的な面もあり、アイルランドの「チーフタンズ」はじめ、数々の人とのセッションも枚挙に暇がない。
そして俺も参加している「パスカルズ」というバンドでもウクレレや口琴なども担当している。だから「たま」は解散しても、「パスカルズ」がある限り、実は同じバンドメンバーであることは変わらないのだ。こりゃもう、腐れ縁としかいいようがない。
Gさんは、ソロアルバムに力を入れ、現在まで既に3枚を発表。実は「たま」の中で楽曲は一番多いかもしれない。
あとはなんだかんだでやっぱり「社長業」。あまりそういうことについては自ら喋らない方なのだが、結構他の取締役(ま、簡単に言っちゃえば俺と知久君ね)が名前だけでな〜んにもしないので、ひとりでガンバっていたところも多いと思う。感謝。
柳ちゃんも、直接はしばらく会っていないが、ホームページを見ると、いろんな人達とソロプロジェクトを組み、精力的にライブやCD発表などしているようだ。
ともかく誰も欠けずに活動を続けていることはなんとも嬉しいことなのだ。
そして俺はとにかく、八方美人なのだ〜っ。発砲美人じゃないよ、怖いからね。発泡美人でもないよ、わけわからないからね。自分が面白いと思った表現活動なら、なんでもとりあえず猪突猛進しちまう「ヤリマン体質」なのだ。そこが他の3人の「音楽一筋」と決定的に違うところだろう。
まずは執筆活動。今まで出したのが旅行記二冊、インスタントラーメンの本、そしてなぞなぞの本というのだから、もう本のジャンルだけで既に支離滅裂。尻滅裂じゃないよ、痛いからね。
旅行記は二冊とも「すごろく旅行」という俺が発明(?)したゲーム旅の顛末記。
これはどーいう旅かというと、どこに行くか神のみぞ知る旅なのだ。
つまり名前の通りすごろくの様にサイコロを振って出た目の数だけみんなで駅を進み、そこで下車してあらかじめ作っておいた「クジ」を引き、その町で遊ぶ、という旅行だ。
もちろんどんな目が出るかわからないから、一週間後に北海道にいるのか九州にいるのかもわからない。観光地の町に降りることは稀で、しかしそれだからこそ観光化されていないその土地ならではの真の風情に浸れたり、予備知識がない分期待もないから地元の人しか知らない温泉なども見つけたりして真の「『発見』という旅本来の楽しみ」が享受出来るのだ。
地元の人とのコミュニケーションもでき易いし、言わば旅の一番の醍醐味と俺が思っている「ハプニング」をわざと起き易くしている旅なのだ。
また本当に雑貨屋一件もない町や新興住宅地の駅に降りた時も「クジ」が盛り上げてくれる。
例えば、
「この町で一番でかい物を拾ってくる」
「男はみんなジョン、女はみんなヨーコになり、英語しか喋ってはいけない」
「意外な匂いのするものを町中のものに鼻を押し当て発見する」
などなど。国内のみならず台湾や韓国でも行い、通常では経験できない旅をしてきたその旅行記だ。
インスタントラーメンの本は元々ひとり暮らし時代、もちろん筍生活だったのでメインのディナーは常にインスタントラーメンだった。
しかしそんなラーメンでも毎月のように新しい商品が発売される。そしてバンドのツアー等で地方に行くと、その土地でしか売っていない中小メーカーの商品などもある。なのでどの町に行っても俺は雑貨屋やスーパーに飛び込み「お宝探し」で「ウヒョホッ!」の楽しみがあったのだ。
ということでそんな「小池さん生活」を毎日違うラーメンを食べる事で一種の娯楽としていた時期があり、数年間で1000種類近いラーメンを食べてそのパッケージをスクラップブックに貼って蒐集していたところ、出版社からお呼びがかかったのだ。
これはその後企業から講演を頼まれるほどになり、まさかラーメンを食い続けているだけなのにそんなことになるとは考えもしなかった。まさにどんなことでも「継続は力也」なのだ。但しその代償に体重は赤ん坊10人分くらい増えたけどな。ふはははは、オギャーオギャーと五月蝿いわい。
なぞなぞは40を過ぎたある日、ひょんなきっかけから自分の子供の頃の夢が「なぞなぞ博士」になることだったということをハタと思いだし、「すぐやる課」の俺は自分のホームページで毎日5問づつくーだらないなぞなぞを考えて発表していたのが形になったのだ。
ついでなのでホームページの事も書くと、地方に出ている時以外は十以上あるコンテンツのどれかをほぼ毎日自分で更新していて、この「なぞなぞ」以外にもいろんな「読者投稿コンテンツ」があり、なぞなぞを正解したり投稿が載ったりする度にポイントが加算され、それが貯まると「俺が奢るので、ふたりで飯でも喰おうや!」という特典もあったりするというくだらないHPなので是非覗いてみてくれ給へ〜。
その他にも共著で「123のひまのつぶしかた」「たまの月経散歩」「たま詩集」等がある。
それから雑誌の連載も、ゲーム批評、ポエム批評、一日すごろく旅行記、商店街めぐり記などを書いていたことがある。
この本もそうだけど書く作業は基本的に好きなのでございマス。元々ミニコミとかもしこしこ作ってたりしてたしね。えっ、貴方出版社の方!? 原稿依頼待ってますよ〜ん。どんどんカキマスよ〜。
音楽は、敬愛していた突然段ボールと遂に共演する機会を得、さらにお互い詞と曲を交換しあっての合作ロックアルバム「ワカラナイ」「管轄外」と2枚も作って積年の夢を果たした。
古い歌友達の大谷シロヒトリ(現・大谷氏)との合作アルバム「ホルモン鉄道」では鉛筆削りやスリッパなどを楽器にして歌をうたった。
そして先日ライオンメリィさんにサウンドプロデュースをしてもらって遂にファーストソロアルバム「おいしいうそがいっぱい」も作った。
これには実は「たま」結成以前に作った20才前後の歌が結構入っている。30才頃はなんだかその青さが恥ずかしくて歌えなかったのだが、40を過ぎたら逆に「あの頃の曲にはそれはそれで今では作れない魅力があるな」と思えてきて、録音に踏み切ったのだ。
ちなみにこのアルバムのキャッチコピーは「ドライブ・デート・お店のBGM等に最不適」だ。何せ、1曲目の出だしの歌詞がいきなり○○○だからな。「たま」とはちょっと違うロックな感じになっているので、是非こそこそと人目を避けて押し入れの中とかで聞いてくれ給へ。
また、知久君の項にもあった「パスカルズ」では日本版で「こりすちゃん・でおーる」「パスカルズが行く」海外版で「パスカルズ」「アビエント」というアルバムを発表している。
そのバンドでもパーカッション及びちょっとだけボーカル担当だが、俺だけは実はライブやレコーディングの時、リハーサルの通知が来ない。そう、俺だけ常に「完全即興」なのだ。ちゅーか、
「石川君はきちんと楽曲を把握するより、その場で毎回思いついた事をやる方が面白いよ〜」
とバンマスのロケット・マツさんの御神託により、そうなったのだ。・・・それって、いいのか悪いのか!?
そして、このバンドは15人という大所帯でインストルメンタルを中心にそのバンド名の由来ともなったパスカル・コムラード、ブライアン・イーノ、そして友部正人、三上寛から果てはバッハまでやってしまうというこりゃまた不可思議なバンドで、日本ではほとんど無名だが、何故かフランスのカレッジ・チャートで現地で出した曲が一位を取ってしまったらしく、ヨーロッパではそこそこ人気で、「ル・モンド紙」(日本での朝日新聞の様な権威ある新聞)等でも絶賛され、「たま」解散の数日後にはもうフランスに出かけ10数カ所をまわるツアーも行い、ホールを中心にどこも満席近い客の入りで大いに盛り上がった。
また01年にもやはりフランスのレンヌという町であのニルヴァーナなどもブレイクしたという伝説のトランス・ミュージック・フェスティバルに出たのだが、そこでは俺はシンバルをわざと3mぐらいの高さに設え、本気でジャンプしないと叩けない、というくだらないパフォーマンスをしたところ、会場がドヨメクほど反応があり、終演後ひとりの男が俺に物凄い形相で駆け寄り、
「連絡先を教えてくれ」
と言って名刺を持ってきた。そこには「シルク・ド・ソレイユ・プロデューサー」と書かれてあった。
あの〜すいませんがもう40過ぎてるんでさすがにサーカスは無理です・・・。
それから役者としては映画「害虫」(塩田明彦監督)等にも出演した。
宮崎あおいちゃんとも共演してふたりで缶蹴りなどしたのだ。ウッシッシ。
そして俺は物語りのひとつのキーパーソンの浮浪者役だったのだが、監督がある人から、
「あんな本物、どこで見つけて来たの?」
と言われたそうな。
そ、それって俺の演技力が優れている、ってことだよね?
お、おい、何とか言ってくれ〜。
テレビはたまにバラエティ等に呼ばれることもあった。
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」にも何回か出演したが、最初の出演はいわゆる「どっきり」だった。
初めは「軽いトークに出演してくれ」というので元々妻の影響でダウンタウンの番組はまだ彼らが深夜帯の番組しかやっていなかった頃からすでに全て録画して見ていたほどの大ファンだったので、ふたつ返事でOKした。
当日、スタッフと一緒に控え室で待っていると、
「すいません石川さん、楽屋に入る前にランニングに着替えて下さい」
と言われた。
衣装に着替える場所が楽屋なのに、なんとなんと面妖なことよと思ったがとりあえずトイレで着替えて楽屋に入った。
ところが入った途端に俺は気づいてしまったのだ。小さな隠しカメラがさりげなく2台こちらを向いているのを。
そしてテーブルの上には異常に豪華な弁当とエロ本。そして何故か各種ヅラ。それまでもテレビにはそこそこ出たことはあるので、そんな物が楽屋に置いてあることはあり得ないのだ。そしてすぐに、
「どっきりか・・・」
と気づいてしまったのだ。
これには正直困った。
つまり、自分の立ち位置がわからなくなったのだ。
完全にコメディアンなら何も気づかないふりをしてどんどんボケていけばいいのだろうが、ステージではくだらないパフォーマンスはするものの、それはあくまで音楽ありきの上でのお遊びなので、完全に「お笑い芸人」に徹するのは意識的にもまた技術的にも無理だった。
たぶんスタッフは、たまのランニング=山下清=天然ボケという構図を期待していたのだろーが、確かにボケはあるものの実はその逆の狡猾なところも同時にあったりするので、素直にボケる心の準備も出来ていなかったのだ。
しかも考えてボケるとさっぶい事になるのは自分でもわかっていた。
かといって「何だこの隠しカメラは〜」というのも大人気ない。
ということで結局ビミョーな感じになってしまった。
でもこれは今でも悩んでいるのだ。
世間のイメージは前述の通り、山下清=天然ボケを望んでいるのは、その後のなんだかんだのテレビ出演した時の放送時の編集等を見てもはっきりわかるのだが、実際は結構振られるとつまらないことをウダウダと喋ってしまうタチだったりするのだ。
しかもこれがまたすこぶる面白くないときているからタチが悪い。もしやインポテンツ!? それは立ちが悪い。
で、今でもそういうタレント的な仕事が何の間違いか飛び込んでくることがある。その時は自分で「キャラ作り」をしないとな・・・でも別にタレントになりたいという気持ちがそんなにあるわけではないし・・・でも意外とそれが自分が好きな番組であることが多く、出たい気持ちもあるし・・・。
う、う〜ん。
あ〜、あたしは一体どーふるまえばい〜の? 誰か教えてちょーだい〜。
「自然体で出ればいいじゃないか」
とも良く言われるのだが、目の前の人によって微妙に性格を変えて姑息に生きてきた俺には「自分の自然体」がわからぬのだ〜。というかそんな立派な物持っておりまへんのんや〜。・・・むーん。
「たけしの誰でもピカソ」では美術審査員として準レギュラーで出演していた。これも中学時代、美術でクラス唯一の「1」を取った俺のところに何で依頼が来たのかまあーったく不明だったが、何となく素人の人の作品を見て審査する、というのは楽で、なおかつ「審査員」なんてオッホンオホオホ偉くなった気分で面白かったな。美術「1」の人に審査されて落選してしまった人、すんませ〜ん!
でもまぁ、その番組をやっている頃に西荻窪に「ニヒル牛」という、アートギャラリー雑貨店を00年にプロデュースをしたから「1」でもいいか。
これは店内にたくさんの小さな「箱」を置き、それを月に1000円程度で貸し、その中ではオリジナルの自分の作品であれば、何でも法に触れない限り無審査で展示して販売していい、というアイデアであった。箱の中のレイアウトも自由。だから言ってみればひとつひとつの箱が小さな「個人美術館」「個人商店」でもあるわけなのだ。
これは20代の頃から考えていたことで、例えば音楽ならまだほんの駆け出しでも小さなライブハウスになら出演出来る。そこからワンマンライブ、ホール、そしてドームまで状況に応じて表現する場所がある。
ところが美術の世界にはそれがない。駆け出しではせいぜい画廊を借りてのグループ展とかアートフリーマーケットとかだろうが、それも常に期間限定だし、お金もそこそこかかるし、審査のあるところもあるだろうし、割と「閉ざされた場所」で関係者しか来ないという面もあるだろう。
これでは本来「自由な表現」が最も大事な芸術の分野で、明らかにその発表の場が狭すぎる。また「最大公約数的に秀れた物」しか結果的に見せる事が出来ず、マイノリティに魅力を放つアンダーグラウンドや特殊な感性の作品は、発表の機会すらないではないか。
「こらーいけん。こらーいけませんよ〜!!」
とデキソコナイアートの好きな俺は「ニヒル牛」を作ったのである。
だがもちろん不器用ちゃんの俺がひとりで店を作れるわけではなく、妻や何人もの美術関係の友人達がさらにアイデアを練り、制作を手伝ってくれたからこそ出来たのだ。俺は頭でいろんなアイデアを考えるのは得意な方だと思うのだが、いかんせん実際に箱を作ったりとかペタペタペンキ塗ったりとか店の運営とかは、長年の友人なしで実現は考えられなかったからな〜。
その点では、本当に友人達には感謝感激飴チョーダイなのだ。
しかし驚くべきことは、この「ニヒル牛」という形態は思っていた以上に斬新な物だったらしく、マスコミの取材が殺到し、そして次の年あたりから次々と近隣の町に似たような店が出来始め、遂には「今、流行の『箱貸しショップ』『レンタルボックス』オープン!」ということで、俺が住んでる埼玉県郊外の田舎町にまで普通にその手の店が営業し始めたのだ。
友達からは「何か特許のようなものを取っておけば良かったのに〜」と良く言われるが、まさか俺のほんの思いつきがここまでポピュラリティのあるものだったとは思わなかったんじゃ〜!!
で、まぁそれはもういいんだけど、一応俺がそもそも考案したもの、ということだけは覚えておいておくれ〜な。
ちなみに現在箱はだいたい一年待ち。但し、他にないジャンルのものや、「オオッ!」というオリジナルなものは作品を見て「100人抜き」などもあるぞい。真打ちに昇進した時の春風亭小朝のようにな。
ってな感じで俺はほとんど音楽と関係ない活動もいろいろしているのだが、最もテレビ・雑誌等でのマスコミの露出が多いのは実はこれらではない。
20年ぐらい前から自分の飲んだ缶ドリンクを「空き缶はゴミ箱に捨てましょう」の標語をパンクな俺は「FUCK YOU!」と無視して捨てずに集めておいた結果、そのコレクションが一万缶を遥かに越え「缶ジュース評論家」の清水涼子先生とお話したところ、
「コレクション数ではおそらく日本一は確実。もしかしたら世界一の可能性も」
とお墨付きをもらったのだ。
元々はツアーで地方に行った時、その地方にしかないジュース、具体的に言うと和歌山で当時現役の阪神の選手だった掛布がオレンジをボールに見立てて打っている「カケフオレンジドリンク」というのを見つけて、
「こんなの東京には売ってないなぁ」
とか言うことからなんとなく集め始めたのが、生来のしつこい性格からトンデモナイ事態になってしまったのだが。
海外旅行でもいつも鞄は空き缶でいっぱいで、X線検査の度に、
「ストップ、ストップ。ショーミーバゲージ、プリーズ!」
とか言われて、ガラガラ凄い音たてて鞄を開けて、
「マイコレクション、マイコレクショーンッ!」
とか言うと、たいてい缶の中をちょっと覗きこんで、
「オーッ!」
と両手を広げられて苦笑されるのがオチなのだが。
ともかく、そのおかげで家に広いスペースが必要な為、引っ越しを重ね、どんどんどんどこ都会からは離れていってるがな・・・。
ちなみに今後の俺の夢は、「世界缶ドリンク博物館」を作ることである。
しかしわしゃ、われながら何をやっているのだろう。
ま、コンフュージョン・ウィルビィ・マイ・エピタフということで、ええか〜。
さて話をそろそろ「たま」に戻そう。
それは01年の秋ぐらいの、「たま」とは別ユニットで俺がやっているライブの時であった。ライブは白熱していて、頭から自分にふりかけの「のりたま」をぶっかけて歌いながら結構激しく動きまわったり、長い竿のような物の先にタンバリンをつけて客席に釣りのようにブルンブルン振り回したり、パーカッションぶっ壊して太鼓に股がってそれを馬に見立ててパカパカ走らせながら歌ったりしていたのだった。
ライブはとても楽しかった。
しかし演奏が終わってしばらくしても心臓の動悸が収まらないのだ。
次の日になってもなんだか様子が変だったので、医者に行き検査をしてもらったのだ。
一週間後、結果が出た。
医者は開口一番、こう言ったのだ。
「良かったですねぇ!」
俺は内心「へっ?」と思っていると医者が続けた。
「心臓への負荷値が通常の4倍ありました。これは心筋梗塞でその場でバッタリ死亡してもおかしくない数値です」
つまり、もう少しでステージ上で本当に死んでしまうところだったのだ。
「貴方はもう40代だ、ということを自覚して下さい。20代のつもりでやっていると命の保証は出来ませんよ。20代での『100%のがんばり』は40代では200%にも300%にもなって、その対価は『死』なのです」
さすがにこの言葉は効いた。
今まで単純に「がんばろう」と思ってグータラではあるが自分なりの最大の力を振り絞ってがんばってきたつもりだったのだが、それは死をも招く可能性があったのだ。
俺はライブが好きだし、そこで精一杯の事を自分なりにやってお客さんが楽しんでくれればそれは最高に嬉しい事だったが、死んだらさすがに元も子も孫も曾孫もない。
ちゅーか、単純に死ぐのやだ。
やだやだやだやだやだやだやだよー!!
まあその後精密検査をしてもらったところ、特に心臓が普段悪いということではなかった。急激な運動が心臓への負荷値をグッと瞬間的に引き上げてしまったようだ。
なので特に今心臓が悪いということではないし、俺もそれ以降自分也に体を微妙にセーブしてとにかく無理はしないよーにしているので、妙な気づかいとかは一切無用。
医者に「ちょっとアルコールは控え目に」と言われたぐらいで、とりあえず命にかかわるよーな体の病気はないので、その辺「大丈夫ですか?」とか言われると返って困ってしまってワンワンワワンなので、そんな声はかけないで下さいな〜。
だが事実として「年令」は好む好まざるにかかわらず考えなくてはいけない、ということだけはハッキリとわかったのだ。
それでも俺の体の事はライブでの動きをセーブするなり、曲順を考えるなりで何とかやりようがあるからいいとして、やはりその頃から少しずつバンドに変化が出て来た。
他のメンバーも俺ほどではなくとも40才前後の精神的・肉体的な階段のキツさがあり、それはその年になってみて初めてわかったこともそれぞれあったんじゃないかと思う。
体力だけではなく歌詞や演奏の単純ミス、高音がうまく出ないなどということはライブでも隠せず、なまじそれがスムーズにできていた過去の自分を知っているだけに、時に俺は自分にも他のメンバーにもジレンマを感じることもあった。
またそれぞれが新曲を持って来てもなかなかグループ間で共通の納得のいくアレンジができない、ということも多かった。
これはやはり年齢ごとに各々の微妙な趣味の変化がより顕著になり、またそれが頑固になってきたせいではないかと思うのだ。
「俺はこういう感じがいいと思うんだけど」
「いやーそうかな。もうちょっとゆっくりめの方が・・・」
というように、なかなか前のようには簡単に共通のコンセンサスが得られることも少なくなってきた。
多分誰かはっきりとリーダーがいて、事実上他のメンバーはバックに近い形のバンド形態ならそういうことはあまりなかったかもしれないが、それは「たま」というユニットが元々ソロの歌い手だった者達の集まりということの宿命だったかもしれない。
そして、いい意味でも悪い意味でも創作活動においては「大人の妥協」が皆苦手だったと俺は思うのだ。
そんなことからすでに2年ほど前「解散」の話しがちらと出たこともあった。
でもその時は話しあっていく間に「まだもうちょっと何か出来るのではないか」という意見も出、俺達は「コラボレーション」をその活路のひとつとして求めてみた。
それまでにもフォークの友部正人さんやジャズの梅津和時さん、八重山民謡の大工哲広さん、フォルクローレのMAYAさん、「たま」同様ジャンルが難しい原マスミさん等様々な人とやってきたことではあるが、さらに積極的にいろいろな人とセッションすることによってフィードバック出来る物があるのではないか、と俺は考えたのだ。
具体的にはケラリーノ・サンドロヴィッチ(ケラ)さんとの芝居、近藤芳正さんらとのダンス公演の音楽、その他アントン・ブリューヒン(口琴という楽器の世界的名手)、ワタナベイビー、トモフスキー、倍音s、早川義夫さん、明和電機さんなどなど。
しかしやはり個人としては素晴らしい出会いばかりだったが、たまという「バンド」としては新しく何かを発見する事は残念ながら自分達の力不足か、出来なかった。
結局、そうそう簡単に変化できるバンドでは最早なくなっていたのだ。
少なくとも俺自身は「新しくて面白い事」を他の2人のメンバー間との共同作業においては発見出来なかったのだ。
そういう意味ではスポーツ選手にも似ているかもしれない。気力はまだ残っていても体力と、フォームを変える事への限界を感じたのだ。
そしてバンドは何年経とうがなんらかの「新鮮さ」が一番重要だと俺は思った。
もちろん「大いなるマンネリズム」の面白さも逆にあって、それは解散の最後の最後まで楽しむことは俺はできたから、決してそれ以降のライブを惰性でやっていたわけではもちろんなかったのだが。
しかしやはり俺は「大いなるマンネリズム」の良さはわかりつつも、自分にとっての「新しいこと、楽しいこと」をやりたかった。
そしてあくまで俺の予想だが、他のメンバーにもそれぞれ差はあるにしても、そういう部分はあったのではないかと思うのだ。
なんせ「好きなことしかやりたくないも〜ん、へへ〜ん」のワガママな俺達なのだから。
船は次第にその速度を徐々に落としはじめていた。
03年の5月の或る日、その頃ユースケ・サンタマリア君、奥菜恵さん、井上順さんらとやっていたケラさん演出の芝居の稽古の帰り道、知久君がボソッと言った、
「・・・俺、『たま』辞めます」
という言葉は、何も知久君だけじゃなくて、Gさんからでも俺からでも誰から出てもおかしくないものだった。
一瞬の間のあと、
「うん・・・わかった・・・」
ふたりとも、小声で返事をした。
いや、もしかすると実際は声には出ていなかったかも知れない。
顔で「わかった」と言っただけかもしれない。
何故なら俺達のバンド歳月は、もう言葉のいらない老夫婦の様な域に達していたのだから。
そして実際みんな「そろそろだよね・・・」というのは感じていたのだ。
むしろ感じながらも少し自分を誤摩化して、それを引き延ばしていた、という方が正確かもしれない。
だから、その知久君の言葉にはすぐに皆、納得したのだ。
ソレガイチバンタダシイホウコウダトオモッタノダ。
春は終わったけど夏とも言えないエア・ポケットのような季節の中、錦糸町駅に向かって工場や昔ながらの家並みの続く道をただ3人でポクポクと無言で歩いていった。
散り終わった桜の葉がしゃらしゃらと俺達のまわりを舞い飛んで水たまりに落ちていった。横をおっちゃんバイクが通り抜けた。
端から見ればみんなただの中年親父だろうが、お互いが顔をつつき合わせている時、3人の中ではいつだっていつだって20代のままで時計は止まっていた気が俺はしていた。
駅に近づくとどこかのシャレた店から宇多田ヒカルの軽快な曲が流れていた。そして宇多田ヒカルはこの数ヶ月後に結婚してしまったが、考えてみると、俺達がバンドを結成した頃に生まれた人なのだ。
そういえばこの前の年、久しぶりに数万人の観客を呼ぶ「ライジング・サン・ロック・フェスティバル」(通称「エゾ・ロック・フェスティバル」)という大きなイベントに呼ばれて俺達は出演した。
その時、ふとパンフレットを見て気がついたのだった。
井上陽水さんや忌野清志郎さんら個人で出ている人を除いて「バンド」ということでみてみると、いつのまにか俺達が平均年令が一番高い、言わば「最年長バンド」になっていたということに。
バンド結成19年。
あのビートルズですら、実は活動していたのはたった10年ほどなのだ。
その倍近い時間を楽しんで活動出来た事は本当に幸せだった。
そして奇しくも「たま」が解散を発表したその月に、俺に最も影響を与えたアーティスト「突然段ボール」のリーダー蔦木栄一氏が肝硬変の為、49才の若さで夢の渚へと旅立っていったのだ。
自分の死を悟った時、彼はメンバーである実の弟に、
「肉体の死は死じゃないから」
と言ったそうだ。
俺はそれから数日して、別に彼の死と何の関係もない普通のテレビを見ている時、突然日常が崩れていく感触に襲われた。
「・・・馬鹿だなぁ。死ぬだなんて!」
そして彼の言葉を繰り返していた。
「肉体の死は死じゃない。肉体の死は死じゃない。肉体の死は死じゃないっ!」
突然、涙が止まらなくなってしまった。
たまのラストライブは盛況だった。
デビュー時の事務所の社長やホールツアーでのスタッフを始め、様々な懐かしい人達もやってきてくれた。
最終日でアンコールをやろうとしたらマネージャーが袖にやってきて、
「ホフディランのワタナベイビー君が、どうしても一曲セッションで飛び入り参加させて欲しいって」
と言うので、
「じゃあ、『おやすみいのしし』でもやってもらおうか」
ということでステージに戻った俺達はベイビーを呼んだ。
するとベロベロに酔っぱらった様子の彼はいきなりピアノを弾きはじめ、「さよなら人類」を歌い始めた。
一応たまは「自作曲自分ボーカル制」なのでこの「さよなら人類」というたまで一番のヒット曲は、柳ちゃんが辞めた時点でたまのレパートリーではなくなっていたのだ。
しかし演奏が始まってしまってはしょうがない。メンバーも苦笑しながら一所懸命コードを思い出し、彼に合わせて演奏した。
でもこれは結果的に良かったと思う。
何故ならこういう他者からのハプニングでもなければ、決して演奏できない曲だったからだ。
若いファンの人達は、この曲がヒットした頃まだ子供だったり、極端な場合まだ生まれてなかったりしていたので、逆に新鮮だったと思う。
というか、たまを「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマやNHKの「おかあさんといっしょ」で初めて知り、この曲も柳ちゃんの存在すらも知らないという世代までいたのだから。
観客は沸いた。
中間部の即興のところでベイビーは、
「辞めないで〜 『たま』を辞めないで〜」
と繰り返し歌っていた。
それを聞いて泣いているお客さんもいた。
そして、最後のアンコール曲であるCD未収録の「ヒゲのある暮らし」というふざけた歌が終わった時、俺は挨拶をしステージを去る途中で、
「なんか、暑いね・・・」
と独りごちてステージで二度と着ることのないランニングを、ゆっくりと脱いでマイクスタンドにかけたのだ。
後ろで悲鳴のような声が聞こえていたが、俺は振り返ることはしなかった。
たまは、一艘の船だったのだ。
最初は3人が乗っていた。
途中でひとりが乗り、ひとりが降りた。
予想を遥かに超える大波が襲ってきたこともあった。
凪の日もあった。
でもさすがにそろそろ老朽化してきたようだ。
2003年10月、俺達は船を降りることにした。
そして挨拶もそこそこに、もう新しい大地をそれぞれ夢中になって歩き始めている。
知久君も行ってしまった。
Gさんも行ってしまった。
俺はひとりでちょっとそこに佇んで、久しぶりに、本当に久しぶりにひとりで道を選んで歩きはじめようとしていた。
すると、
「ひとりじゃないよ」
妻が、いつのまにか俺の横で、笑って、立っていた。


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