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第九章 淡々タヌキ時代
ということで96年の年明けとともに「たま」は3人になってしまったのだ。カルテットからトリオになってしまったのだ。
しかし、たまの楽曲にとりあえずキーボードは必須であった。おるがんやアコーディオン、ピアニカ等の音は「たま」の楽曲の一種の象徴的な音だったのでそれをなくすことは不可能だったのだ。
ということで、正式メンバーではなく「サポートキーボード」ということで、様々な人にお願いした。
結局解散までにスケジュールの関係で交代等しながらサポートしてくれた人は7名。斉藤哲也君(ナタリーワイズ他)、ライオンメリィさん(メトロファルス他)、安達栄治さん(アダチ宣伝社他)、鈴木アキラさん(exサンディ&サンセッツ他)、上田禎君(exハミングス他)、ロケット・マツさん(パスカルズ他)、佐藤ミッシェル俊雄君。サンキュー!
柳ちゃん脱退後、3ヶ月の準備期間ですぐに「新制たま」はまたシュッポッポーと汽笛を鳴らし始動した。
もっとも、最初はGさんがいない「たま」の時期もあったわけだからそれを第一期、Gさん加入時が第二期で、言わば「第三期たま」とも言えるのだが。
そしてここから解散までの時期は、それこそ淡々と自分達のペースで、自分達で納得の出来る作品と演奏を、自分達でCDやらライブとしてプロデュースしていった。で、テレビ等マスコミへの露出や宣伝は積極的には行わなかった。正直、そこまで手がまわらなかったということもあると思うし、あまり本人達に興味がなかったという性格もあるかもしれない。
しかしこれは世間的には大きなことであったようである。
それまでテレビに出ていた人が出なくなる、ということは「解散したんですか?」とか「えっ! まだやってたんですか!?」にと直結してしまうのだ。
結果、時折マスコミから来る依頼は「あの人は今!?」というものばかりになってしまった。
確かに気持ちはわかる。
俺だって、昔さんざテレビに出ていた人を画面に見かけなくなると「何してるのかな〜」と思ってしまうからなー。すわしんじはまだどこかで「アチャーーーッ!」とやっているのだろうかとか・・・。
しかしそういう番組は往々にして「苦労話」や「大逆転の転向話」を期待しているので、俺達は正直困惑して、申し訳ないがほとんどは出演や取材を断った。
何故なら、俺達の活動自体はマスコミ露出以外はほとんど変わっていなかったからなのだ。
もちろん大波はいつのまにかレレレのレーと去ったので、ホールでやっていたのがまたライブハウスに戻ったり、レコーディングも海外ではなく、自分達のスタジオ等で行うようになったり、というのはあったろーが、それは本人達にはさして重要な事ではなかったのだ。かえって好きな時に納得のいくまで曲を練ったりしてやれたので、活動的には充実していたぐらいだ。
要は音楽で暮らせればそれだけで万々歳のエッサッサーのホーイホーイだったのである。
そして幸いにも一応解散まで音楽で食べてこられたし、ライブもレコーディングも、お客さんの多少にかかわらず、こちらが演奏する時は毎回その時なりの最高の物を作ろう、という考えは変わらなかったのだ。
お客さんもある時期からはほとんど動員や売り上げに変化はなく、だからといって固定ファンばかりということでもなく、「お母さんが持っていたCDを聴いてショックを受けて観に来た」とかの若い人達も多く、毎月やっていた「MANDAーLA2」のマスターにも、
「これだけ長いことやっているバンドは、普通常連客で固定されるのがほとんどなのに、特に宣伝もなく新しい客が増えていくことは凄い」
と言われた。
元々「ある年齢層」という横のゾーンに評価をされるより「老若男女かかわらずある種の『日常の中の非日常』が好きな人」という縦のゾーンに好かれるタイプだったからかもしれない。
常に「やりたいことをやる」しかできない不器用揃いだった。もちろんそれがお金になれば嬉しいが、それはあくまで二次的な事で「音楽ビジネス」にはあまり興味がなかったのだ。なんか頭とか下げたり、根回ししたりとか、こっちを立てなくちゃ、とかが少なくとも俺はメンドーだったのだ。
つまり柳ちゃんの脱退ということは確かに大きなことではあったが、「たま」という船は基本的に変わっていなかったのだ。
デビューのきっかけとも言える「イカ天」でもそうだが、その時だけ急に演奏や歌がバッツグーンにうまくなってルックスもバッチリゴゴゴーになり何故か下半身も巨根にとヘンシ〜ン、トオォォォォーーーーーッ!!
・・・していたわけでももちろんないので、こちらとしてはずっと淡々タヌキでやっていて、突然「ブーム」というスポットを当てられて「うわっ、まぶしっ!」と思ったり、でもその眩しさに慣れて来た頃に「ハイ、時間だよ〜!」と言われていきなり照明をガシャンと切られたようなものだったのだ。
これは何も俺達だけじゃなく、ほぼすべての「祭りあげられた人」に言えることのような気がするのだが、
「俺達はあまり変わってないのにな〜。ナンジャラホーイのホーイホーイ」
と「ホーイホーイ音頭」を唄い踊りたい気持ちだったのだ。
もちろん年とともに多少船も老朽化するのは事実としてあるだろうが、船自体は同じなのだ。
ただ、まわりに来る波の違いだけなのだ。
つくづく「音楽も内容云々じゃなくて『今流行っているかどうか』のイメージのビジネスなんだな〜」と俺は感じてしまったのだ。
ライブも平均して解散まで毎年5〜60本以上は行っていたし、メジャーデビュー後のCDアルバムも次の通りだ。でもほとんどの人は93年ぐらいまでしか知らないのではないだろうか。
`90 「さんだる」(アクシック)
`91 「ひるね」(アクシック)「きゃべつ」(アクシック)
`92 「まちあわせ」(ベスト版・アクシック)「犬の約束」(東芝EMI)
`93 「ろけっと」(東芝EMI)
`94 「ねこばば」(カセット復刻版・地球レコード)
`95 「そのろく」(地球レコード)
`96 「たま」(パイオニアLDC)
`97 「パルテノン銀座通り」(パイオニアLDC)
`98 「いなくていい人」(地球レコード)
`99 「LIVE IN NEWYORK 」(地球レコード)
`00 「東京フルーツ」(地球レコード) 「しおしお」(アナログレコード復刻版・ナゴムレコード) 「でんご」(アナログレコード復刻版・ナゴムレコード)
`01 「Best Selection 」(ベスト版・パイオニアLDC)「しょぼたま」(地球レコード)
`02 「室温〜夜の音楽 」(地球レコード)
`03 「たまセレクション」(ベスト版・クラウンレコード)「しょぼたま2」(地球レコード)
(注・レコード会社は発売当時の名称。また廃盤後Q版等で再発になったものは記してない。これ以外でも`92年に友部正人&たまで「けらいのひとりもいない王様」(アクシック)というアルバムを発表、「でんご」は復刻前は4曲入りシングルだったがボーナストラックを4曲追加したので実質的にアルバム。また後期には5〜6曲入りのマキシシングルも数枚発表しており、`02年に出した「汽車には誰も乗っていない」の曲は、アレンジ違いの一曲を除いてどのアルバムにも収録されていない)
つまりデビュー後は毎年途切れる事なく、アルバムもコンスタントに発表していたのだ。
だから「あの人は今」と言われても、
「えーと、活動は相変わらずですが・・・」
ぐらいしか喋る事はなかったのだ。
これじゃ番組はつまらん。つまらんよ。
すまんのー、「苦労話」や「転向話」を期待していた人達よ。何もないんよ〜。
さて、淡々と言っても柳ちゃん脱退から解散までは8年ある。
「その間、何もなかった、と言ってもなんかちょとはあったろ〜」
と思うであろう。
確かにちょっとは何かあったでーす。
その中でいくつか特筆するとすれば、海外公演、しょぼたま結成、演劇への参加などであろーか。それを話してみよう。
まずは海外公演。これは「詞」が結構武器である俺達には、言葉のわからぬ土地で、つまりは音だけで勝負するとどうなるのかいな? という単純興味があったのだ。
最初のニューヨークは前章でも書いたが、`95年に4人たまで行った。で、柳ちゃん脱退の報があった直後なので最初はお客さんは日本人ばかりだった。
しかしこのライブハウスは変わっており、ホールの手前にバーカウンターがあり、一般の人達はここで勝手に飲み食いしながらホールから洩れ聞こえる音を聞き、気にいるとチャージを払って中のライブが見られる、というシステムだったのだ。
ライブ中盤から少しザワザワし始め、終了時には後ろの方は地元のお客さんが立ち見でいっぱいで、ヒューヒューの口笛も聞こえた。これは嬉しかった。
ちなみに最後の「鐘の歌」という曲の途中では、とりわけ歓声があがった。
「もおお、興奮しているからって、静かな曲の時はちょっとおとなしくしててちょうだいな〜。むふふふふ」
なんて思っていたら、俺の頭にベニヤで出来たステージ上の店の名前を書いたでかいボードがゆっくりと倒れこんできていたのだった。
「ベコン」
もちろんこれがベニヤじゃなくて厚い鉄板とかでできていたら、そのまま首が体の中にピューッとめりこんでギャグマンガ、というか死亡である。
ホテルのベッド、そして馬小屋以来の危機一髪だったのだ。
もちろんここでも演奏の方は一秒たりとも止まらなかったのは、言うまでもない。
尚、この日のフロント・アクトをつとめてくれたのは、知る人ぞ知るマーク・リーボー、その人であった。知る人だけ、びっくりして下さい。
次の年、96年は3人たまになって今度はサポートに斉藤哲也君を入れてパリで公演した。
これはフランス在住のノンヌ・トロッポという、男3人が修道女の格好をしてブラック的なトークと演奏をするバンドのリーダーがたまの事を日本に偶然来た時に知り、気に入ってジョイントをやらないか、と声をかけてくれたのだ。
この会場はそこそこ時代を感じさせるいい感じの中規模のホールだった。
そして、ここでも最後は観客がドヨメクほどの総立ちになり、あまりの反応の良さに驚き、
「フ・・・フ〜ン、これで俺達はおフランスも制覇。国際的なバンドザ〜ンス!」
とすっかり「おそ松くん」のイヤミのように「シェー!!」のポーズをとった。
ちなみに俺と妻はライブの次の日、リーダーのネリーがやはり自分のパートナーを連れて来るというので、4人で一緒に近くの町までドライブに行ってプライベートで遊んだりもした。
ネリーは俺と同い年で、パートナーはデイビットという紅顔の美少年だった。
そして、00年にはネパールのミュージックフェスティバルに出演、3ケ所での公演だった。首都カトマンズ、リゾート地ポカラはまぁまぁネパールと言っても一応都市の部分もあったが、あの「地球の歩き方」という一番細かいとされている旅行ガイドブックにおいても、地名すら載っていない「ジャパ」というインド国境の町は凄かった。
まず、舞台はすべて竹を組んで作ってある。だから結構な高さだが、グラグラと揺れて足元のおぼつかないことと言ったら、ただ歩いているだけで「♪アラエッサッサ〜」とあっちでもこっちでも誰もがドジョウすくいを行ってしまうほどだった。しかしそれでも、足は「フンムッ!!」と踏ん張ればまだいいのだが、歌っているうちに太鼓の揺れでマイクが振動でどんどんひとり歩きして「さよ〜おならぁぁぁ〜」と旅に出ていってしまっては、歌をいくら大声で歌っても何も客に聞こえず、虚しさ10割。
なにせ会場は野外で、何万人も収容出来るだけの広い場所、というか野っ原なのだ。
とてもとてもマイクなしでは何も聞こえないのだ。
ここでの反応はイマイチわからなかった。でも少なくともニューヨークやパリの反応とは明らかに違った。
そこで「もっとフレンドリーにやってみよーかないか〜」ということで、会場から少し離れた町の中心地あたりで突然、街頭演奏をしてみた。
演奏が始まるや、すぐにまわりにはぐうるりと黒い顔の人だかり。
ところが演奏が終わって俺が、
「ダンニャバード! (ありがとう!)」
と挨拶をしたところ、予期していた拍手も歓声も何もない。
ただ、男達がジーーーーーッと俺達の方を凝視している。
(あれっ? こっ、こいつは何かまずったかな・・・?)
と思ってメンバーは何とも言えない表情になって、
「とっ、とりあえず、この場から、はっ、離れようか、知久君。」
「そっ、その方がいいようだね、石川さん。」
「じっ、Gさんも急いで楽器を片付けようか。」
そういって、3人はそそくさとその場を後にして、ホテルへと帰ろうとしたのだ。
ところが、何かの気配を感じ、俺達はパッと後ろを振り返った。すると・・・
「みんなついてきとるうぅ〜!!」
何と、先ほどまで俺達を囲んでいた町の人達が、俺達のあとをずっと黙ったままついて来ていたのだ。
ここでようやくわかった。
つまり、ここでは「曲が終わったら拍手をする」という文明国のジョーシキがまだ浸透していなかったのだ。だからみんな興味はあって、まだ何かやるんじゃないかとついて来てしまったのだ。
ネパールのちょっと薄汚れたオッサン達をたくさん引き連れたハーメルンの笛吹き。
こ、これはファンタジーなのだろうか・・・。
それ以外では、バリ島に二年連続で行き演奏もしたがこれは「ファンクラブツアー」の一貫で地元の人はほとんど関係なかったので割愛。
しかし、海外でもそれなりにどこも反応は良かった。
そして知らない人にいきなり聞かせて驚かれたり、喜んでもらえるのは本当に俺には嬉しいことだった。
ここで、たまの音楽のでき方の大雑把な流れを書いてみよう。音楽そのものについては聞いてもらうしかないが、まず初期にはみんなでのセッションから生まれる曲が結構多かった。
例えば「かなしいずぼん」は知久君の作品だが、実際は途中で柳ちゃんが歌いだす部分は柳ちゃんが、そして唐突に「語り」が始まる部分は俺が作っている。
これはみんなで即興演奏みたいなことをやっていくうちに、他の人がどんどんチャチャを入れて曲をある意味で壊していく作業をして、結果、曲とアレンジが同時に生まれていくことも多かったのだ。
そういう意味ではあの「さよなら人類」もそうである。柳ちゃんが適当にピアノで歌っているところに、知久君が変なギターを絡ませ、俺が「着いた〜!!」とか雄叫んで曲になった。ちなみにこの曲は長いフリーセッションの一部を後日柳ちゃんがまとめてきたもので、同じセッションで「家族」という俺のボーカルの曲も生まれている。即ち、この2曲は元々は一曲のセッションだったのだ。
また、誰かが持って来た曲もみんなの手で全然印象の違う曲になってしまうこともままあった。
例えば「おやすみいのしし」と言えばアンコールにかかせない、たまの中では「元気馬鹿ソング」の印象だろーが、元々知久君が持って来た時は、もっとのんびりした曲だった。
「どんぶらこ」などもちょっとプログレっぽい無気味な印象の曲だが、最初柳ちゃんが持って来た時は「♪あらよっと、どんぶらこぉぉぉぉ〜」という明るいお祭り調の曲であったのだ。
そしてGさん加入時頃セッション時期は終え、それぞれがある程度曲の骨子を作ってきて、それをみんなであーでもないこーでもないとアレンジをコネクリまわす、という作業の時代があった。なので例えば「夏の前日」とかがそれで、かなり細かいアレンジがなされている。
そんな事をしている頃デビューとなったが、最初のアルバム2、3枚は既にインディーズ時代にやっていた曲を、ほとんどライブ通りに再現した。
そしてコネクリマワシにちょっと飽きてきた5枚目の「ろけっと」あたりでは、逆にちょっとシンプルな感じに戻っている。なのでそのあたりは、聞く人の趣味で「素の感じがいい!」という人と「何かアレンジがシンプル過ぎる・・・」と好き嫌いが別れるところかもしれない。
柳ちゃん脱退後は、知久君がその風貌に似合わず、安っぽいシンセサイザーみたいな物(ノベーションと言ったか)やサンプラーみたいなもの(実は俺は未だに違いがよくわかっていないのだ〜、ニャハハ)をいじっていたので、皆も「おっ、これも面白そうじゃわい!」と原始人が初めて火を使うかのごとくその文明の利器にふれてみたのだ。
しかしそこは元来チープ趣味の俺達なので、オーケストラのような音とかを使うのではなく、例えば外に出て行ってガードレールをカンカンと棒で叩いた音をサンプリングしてそれを楽器のように鳴らしたり、テープの逆回転を入れたりと実験的なこともした。
これが最も顕著なのは「パルテノン銀座通り」というアルバムだろう。だからこのあたりの曲はライブでは、アレンジがCDと大きく違う物も多かったのだ。
そしてある程度その「音重ね遊び」をやりつくした頃、その反動で後述する「しょぼたま」という、シンプルの極致のような、なるべく音数を減らした曲本来の味わいを堪能してもらいやしょう、そーしやしょう、という物を作った。これの代表が「しょぼたま」というアルバム。
ここで、「デビューの頃は聞いていたけど、後期の『たま』はほとんど聞いていない」という人には、メンバーからは一応「東京フルーツ」というアルバムが入門編としていち押し。
これは前述の「ライブで再現出来ないアレンジ」の曲と「シンプル・イズ・ベストのしょぼたま」がいい具合でミックスされて入っているので、
「後期のアルバムでとりあえず何を聞いたらいいのでしょ〜。わからんち〜ん」
という人にはうってつけなアルバムだろう。
これを聞いて自分がよりどっちの趣味が近いかで、その前後のアルバムを聴いていっておくれ〜。
さて、「しょぼたま」というのを説明しよう。つまりこれは「しょぼいたま」の略である。略語嫌いと言いながら略しているが、ま、「い」一文字だけなので勘弁してくれ給へ。
元々しょぼさ、チープさがある種の「たまらしさ」の一端を担っているのだが、これをさらに押し進めて、「究極の音圧の少ないバンドを作ったれ!」という、言わば「バンド内バンド」なのだった。ちなみに「しょぼい」は俺達の中では誉め言葉なのだ。
そもそものきっかけは、その頃ラジオやテレビ番組などで、
「ほとんどセッティングとかは出来ないんですが、何か簡単な楽器で生演奏できませんかね〜」
と言われたことが立て続けにあったので、
「それなら、なんかいつもより簡単なセットを作って、わざわざ楽器を時間かけて組まなくても、気軽に路上やマイクがほとんどない所とかでも演奏出来る形態を考えよーか」
ということになったのだ。
結果、まずGさんのベースは絶対に電源やアンプが必要となるので「しょぼたま」の時だけ、キーボーディストにと変身。ピアニカやトイピアノなどを弾くこととなった。
しかしピアニカは口で吹いて音を出すので、コーラスが取れない。そこで大きな風船をくくり付けて、その風船の吐き出す空気でピアニカの音を出すという離れ技を編み出した。思いついた時はメンバー全員で爆笑。
まぁ、音に強弱が付けられないという欠点はあるものの、これは日本のピアニカ界の第一人者、その名もピアニカ前田さんにも「ええアイデアやな〜」と絶賛されたぞ。ウッシッシ。
知久君はウクレレを多用し、ギターもいつもより小さめの物を使い、そして口琴やオモチャ笛などでいつもより音量30%カットの耳に優しいヘルシーさ。
俺は後述「パスカルズ」でも使用している「バッグ一個に納まる」パーカッションセット。つまり骨組みは「無印良品」で買った紙の筒を毎回組み立て、それに鍋やらゴミ缶やらタンバリンなどを括り付けた物。そしてそのセットには足にキャスターを付けたので、場所に余裕があれば、叩きながら「♪どこま〜でも行こう〜」と移動しながら叩ける、というパーカッションセットとしては「あり得ん!」と頭の堅い人には怒られるようなふざけた構造になっていたのだ。
そんなセットを使って演奏をしているのを見かけたのが第三章で登場した「ナゴムレコード」主催でその後活動の中心を演劇に移行し、岸田戯曲賞をはじめ各演劇賞を総ナメ(なんか「総ナメ」ってすんげえ卑猥な言葉だな・・・)にし、すっかり演劇界にその名を知られ始めたケラさん。で、きっと、「この形態は使える」と思ったのであろう。早速芝居に出ないか、という声がかかった。
俺達の演奏を結構使ってくれる、というので「そりゃ〜いいでがんすな!」ということになり、ケラさん、つまり筆名ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出で、結局3度の芝居で通算50回ぐらい公演をさせていただき、劇中バンドとして登場させてもらったのだ。
ま、ついでに演奏以外のシーンでも3人とも大根役者としてもちょっと出演し、観客の失笑を買ったりしていたのだったが。
ちなみに出演作品は「薔薇と大砲 〜フリドニア日記♯2〜」「室温 〜夜の音楽〜」「ドント・トラスト・オーバー30」で、「室温」はその後テレビドラマ化もされ、俺達もロケとかに行ったりした。
尚、ひとつの芝居でもいろんな役をやることもあったが、たいていGさんは「無表情の執事」とか「ロシア人」とかのストーリーにほとんど関係ない意味不明な役で、「薔薇と大砲」では俺と知久君は親子(もちろん俺が親父。しかも息子に「筆おろししてこい!」ってなしょーもない親父)、そして「室温」では老人と子供だった。実際には3つしか年は離れていないのに、ひどい差別でがんすー。
ってなことをはさみながらも、淡々とライブやレコーディングを送るマイペースでそれはある種の理想的な幸せな日々でもあったのだ。
俺は食えなくなるのはさすがに困るけど、食えて自分の好きな事をやっていられれば、ひとまず幸せだったのだ。
もちろん多少の嫌なことや「なんじゃ、そりゃー!?」ってな松田優作みたいなこともあるにはあったが、それはどんなジンセーを送っていてもあるものだと思うし、まぁ厭なことはなるべくすぐに「ナ・ン・ジ・ボ・ウ・キ・ャ・ク・セ・ヨ」というシステムを俺は自分の頭に徐々に培ってきていたのでさほどの問題ではなかった。
それでも忘却出来ない物は「幸福な日々」をより際立たせるスパイスだからしょーがね〜や、とゴーインに思うようにしていたのだ。
だってそう考える方が得だもーん。得が好きなんだもーん。
とにかく、俺的には基本的にふふふの日々であったのだ。
俺は時折、死について考える事がある。
子供の時から体が弱かったので、ずっとずっと考えてきた気がするのだ。
そして、いつも思うことがあるのだ。
大往生なんて、滅多にあるものではないから、きっとそのほとんどが、悲惨な死か、もうちょっと、何とか・・・の惜しまれる死であろう。
その時、その死が悲惨なものであればあるほど、その人の全人格までもがその死によって結論付けられてしまう。
でも、俺は思う。
結論なんて、いらないのだ。
もちろん死は本人の物ではないのかもしれない。
本人だけが、いつの時も蚊帳の外なのかもしれない。
しかし。
俺は、俺がたとえどんな悲惨な死に方をしても、のほほんとした、何だか思わずふふふ、と笑いたくなってしまう瞬間のあった事を、忘れたくないのだ。
俺の、俺だけのそんな瞬間を消し去ってもらいたくないのだ。
忘れたくないのだ。
内戦で頭を弾で打ち抜かれて死んでいった兵士。
家族旅行の帰りに、ダンプカーに突っ込まれ即死した父親。
餓死する子供。
自殺する老婆。
でも、彼らだって、あっ、と思わず顔がほころんでしまう瞬間はあったはずだ。嬉しい夢を見て、にやにやした瞬間があったはずだ。
その瞬間がひとつでもあれば、俺はその人が生まれてきた事は、良かったと思うのだ。
その瞬間こそが、永遠だと思うのだ。
死はもしかしたら、ハミガキや靴を履く事と同じくらいの事かもしれない、と思うことがあるのだ。


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