
その日、俺は乗り換えの大きな駅の階段を、慌てながら駆け降りていた。
通勤時間帯のこの時間は、まさに人ゴミの嵐だった。ゴミのような奴らが、俺の行く手を遮る。
何故こんなに都市には人が溢れかえっているのだ。
俺は、自分もその「人ゴミ」を作っている構成員のひとりである、などという事はさらさら考える余裕もなく、「チッ!」という気持ちだけが横溢して憮然と走っていた。
そもそも今日は朝から、小さいながらもひどい目の連続だった。
俺は慎重な性格の為、目覚まし時計をふたつかけているのだ。ひとつは余裕を持った時間に、そしてもうひとつはその10分後に。
ところが朝方、突然右足のふくらはぎがピーンとつった。
「ウ・・・グッ」
ここは冷静に、冷静にと思いながらなんとか右足の体勢をそろりそろりと変えようとした。その時である。左足もまた、同じ様にふくらはぎの中の筋肉がグルン、という感じで回った。
「ウギッ! ウギギギギ・・・」
両足同時つりに、ひとりベッドの中でその激痛に身悶えていた。
そういえば、おとといの日曜日に、久しぶりに会社の連中と野球をしたのだった。
普段全く運動なんかしていないのに、いきなり激しく動いたのがいけなかったか。
しかし、きのうは何ともなかったので忘れていたのが、こんな形で「筋肉の年令」が訪れるとは・・・。
そう思いながら、ふとまわりを見回してみると、すでに朝の光がカーテンの隙間から漏れている。
痛みに耐えながらも、「オヤッ?」と思い目覚まし時計を見た。
しかるに、ひとつの時計は2時に、もうひとつの時計は3時半で止まっている。なんという偶然か、両方とも同じこの夜中に、電池切れになったらしいのだ。
俺はあわてて机の上に置いておいた腕時計を取り上げた。すると、もう家を出なくてはいけない時間ではないかっ!
「ば、馬鹿なっ!」
急いでベッドから飛び起きた瞬間、ふらついた足元に、咄嗟にどこかに捕まろうとした僕の体は、タンスに体当たりしてしまった。と、その上に置いてあった金魚鉢が、いきなり漫画のように頭から降って来た。ザババッという音と、ビショ濡れの自分。唖然としている俺の横を金魚がピチャピチャ跳ねている。
「くっ、くそっ!」
そう思ったが、とにかく時間がない。今日は朝から重要な会議があるのだ。金魚鉢に水を汲むと、金魚をその中に放り込み、僕は大急ぎでシャワーを浴びると、家を出た。
もちろんシャワーは何故か「高熱」に設定されていて、
「あっ、あちちちっ!」
とひとり呻いたり、タンスのドアに指を思いっきりはさみ、無言で痛みに耐え涙をツツーと流したり、ネクタイを締め過ぎて一瞬息がつまり、
「ウゲッ、ゲホッ、ゲホホッ」
とえづいたり、とにかくあわてていると、ろくなことがない。
でもとにかくそれは、あわてていたが故の、単なる日常の些細な不幸だと思っていたのだ。
この時点では・・・。
俺の名前は竹本晃司。食品会社のサラリーマンだ。29才で係長は、同期の中では一番早かった。ま、そこそこ認められているということか。
で、実は、自分でいうと嫌らしいかもしれないが、俺は二枚目だ。決して自惚れではなく、学生時代も、ラブレターやらバレンタインデーのチョコやらは、クラスの誰よりも多かった。
中学生の頃はちょっと「ワル」な時代もあり、それで鳴らしたので、逆に憧れの対象となることも多かったのだと思う。
あまり笑顔を出さないので「クールな奴」と思われてるのだが、実際はただ感情が顔にあまり出ないだけなのだ。
が結局、高校時代のマドンナとつき合い、そのままゴールイン。一途な所もあるのだ。結婚後、すぐに長女が生まれた。
そして先週から、二人目の子供のお産の為、妻は実家に戻っており、つかの間のひとり暮しを堪能していたのだった。
さて、急いで駅の階段を駆け降り、ホームへの道を小走りに走る。
ちょうど人ゴミの途切れた所が、すぐ先に見えた。
当然、そこを一気に突き抜けようとしたその時だった。
ツツーッと、足がスケートのように滑った。
「・・・?」
途端に、手をついてそこにしゃがみ込むような体勢になってしまった。
そしてその手に、なんとも言えぬ、しかしはっきりと正体のわかるイヤ〜な感触と、臭い。
「なっ、なんじゃ、こりゃあーーーーーっ!!」
往年の松田優作の名セリフではないが、思わず小声で叫んでしまった。
そう。それは駅名物・ゲロゲロ君だったのだ。
誰がしたかも知れないゲロゲロ君の上に、思いっきり半身を降ろして横倒れになっている自分がいた。
「・・・・・・・。」
声も出なかった。ズボンも、背広の一部も、明らかにゲロゲロ君がべったり付着していた。
俺は、唖然として佇んでいた。(石川)
「ちょっと待てよ」
俺は、今起きていることを冷静に考えてみることにした。
これは果たして本当にゲロゲロ君なのだろうか?
ふと周りを見ると、みんな大笑いしている。
「どういうことなんだ?」
よく考えると、何かがおかしい。
今の世の中、たとえ、他人がゲロゲロ君を踏み、転んだとしても、これほどまでにみんながみんな笑うのだろうか?
その時である。
「どっきり生テレビでーす!」
そう言いながら、マイクを持ったレポーターとカメラマンがこっちに駆け寄ってくる。
「なに!?」
俺はこの状況を飲み込めないまま、きょとんとしている。
よく見れば、どこかで見たことのある、お笑いタレントだ。
「これ、よく出来てるでしょう?ゲロゲロ君そっくりに、質感、臭いを再現したんですよぉ」
そのレポーターはさらに続ける。
「この番組知ってますよね?今、生放送であなたの様子が全国のテレビに放送されています!」
なに言ってんだこいつ??どっきり生テレビ?そんなの知るかよ!今の時間っていったら、いつもならもう、仕事始めてる時間だぜ!?
ん?でも待てよ?生テレビって言ったよな?そしたら俺、今テレビに出てるのかよ?
じゃあ、変な顔してたらよけい笑われるよな?
「このゲロゲロ君はすぐに落ちますから安心してください。そして、周りのお客様、ご協力ありがとうございました!でわまた明日!」
周りの人間も知ってたのかよ!?もしかして、昔付き合ってた女も見てたかも?
最低だ。俺の素っ頓狂な顔が全国に流れただなんて。
俺の嫁も見てたかも?いつも「かっこいい俺」で通してきた29年間が・・・。
泣きそうになりながらも、すっと立ち、テレビ局のスタッフに偽ゲロゲロ君を拭いてもらい、何事もなかったように、今来た電車に乗り込んだ。
「ふぅ」
とため息をつくや否や、乗ってる電車が快速であることに気付いた。
「俺の降りる駅は鈍行しか止まらないんだよぉ・・・。」
車窓から見える、俺がいつも降りる駅、そして、俺の働いている会社ビルが、風のように通り過ぎていった・・・。(ともこ)
でもとにかくここで俺がどんなにわめこうと、列車が止まってくれるわけじゃない。
(落ちつけ、落ちつけ)
と自分に言い聞かせながら、何の気なしにポケットに手を突っ込むと、何やら四角い箱が。
(そういえば、さっき「番組からの記念品で〜す」と言ってもらったやつだ・・・)
俺は取り出すとその箱を開けて見た。
「んっ? ハンカチか・・・」
そういってその布状の物を広げてみた。すると、それは「どっきり生テレビ」と書かれた、なんとパンティ! あくまで記念品もイタズラ番組のノリだったのだ。
(うわわわわ)
俺は咄嗟に手の平にギュッと握りしめた。幸いにも誰も俺の方を見ていない。
(ふー、良かった。しかし、なんちゅうもんくれるんだっ!)
と、その時である。電車がガタンと小さく揺れた。いつもならちょっとよろめくぐらいなものだが、今日は朝からのドタバタと、起き抜けの足の「つり」がまだ残っていて、俺は、
「オットットット」
とよろめいて、そのまま車内で派手に転がってしまった。
(うわっ、かっ、かっこわりい!)
大慌てで、頭を持ち上げたが、そこは何故か真っ暗な世界だった。
「・・・?」
と、考える間もなく、
「キャーッ!!」
という女性の絹を裂くような声。なんと、女性の真下に転がってしまったらしく、起きあがろうとしたそこは、その女性のスカートの中だったのだ。
俺はあわててそこから顔を出すと、
「あっ、あっ、すいません! そういうつもりじゃ! ちょっとよろめいてしまって!」
そう泡を吹きながら弁解している俺の右手から、ポロッとパンティがこぼれ落ちた。
車内は、一瞬にして凍りついた・・・。(石川)
あまりの事態にすっかり動転してしまった僕は、あろうことか、手に持ったパンティを女性にはかせなければと一瞬思いこみ、目の前の足に手を伸ばした。
「キャアアアア!」
突然足をつかまれたその女性の方は、僕以上にパニックになり、物凄い絶叫と共に、思いきりパンプスで僕の顔を蹴飛ばしたらしい。
痛いと感じる間もなく、僕の意識は遠のいていった。(わにこ)
「お客さん、終点ですよ。車庫に入りますから降りてくださーい」
どうやらずっと失神していたらしく、ふと気づくと、まわりの客席にはもう誰もいず、駅員にうながされて、郊外の終着駅のホームに俺はフラフラと降り立った。
(どうやら、痴漢として突き出されるのだけはまぬがれたようだ・・・ふー。不幸中の幸い、というやつか。なんせ痴漢で逮捕、なんてことになったら、会社もくび、へたすりゃ女房とも離婚だもんな・・・人生終わってたもんな。あっ、危なかった・・・)
「回送列車発車致しまーす。黄色い線からお下がりくださーい」
駅員のアナウンスで、乗ってきた電車が走り過ぎていった。
俺は時計を見た。10時半。会議は10時からだから、完全にアウトだ。でもせめて会社に連絡をしなくては。
(なんて言おう・・・まさか女性のスカートの中に顔突っ込んで、何故かパンティはかせようとしたら蹴られて気を失っていました、とも言えまい・・・。婆さんが危篤になって、今まで連絡出来なかった事にでもするか・・・)
そうして俺は何とも言えないイヤ〜な気分のまま、携帯電話を取り出そうと、ズボンのポケットをまさぐった。すると・・・ない!
と、と、というか、持っていた鞄も、別のポケットに入っていた財布も、何もかもがない!
「やっ、やられた・・・」
俺はホームに、思わず膝から崩れ落ちてしまった。
本来なら、交番に行けば電話代や電車賃ぐらい貸してくれるものなのかもしれないが、到底事情を説明出来るわけがな〜い!
まだ肌寒い風が、俺の横をヒュルリラ〜と吹き抜けていった。
と、その時ふいに人の気配が近づいてきた。
「なにか、お困りですか・・・?」(石川)
俺はのっそりと顔をあげた。するとそこには!
「しゃ、社長!」
なんと俺の会社の社長がそこに心配そうな顔で立っていたではないか。
「んっ、君は・・・滝・・・いや、竹本君じゃないか」
俺は一瞬顔が凍りついた。何せそこそこの規模の会社だ。社長は時々廊下でお辞儀をするくらいで、俺の名前を覚えていてくれただけでも驚きだ。もちろんプライベートの会話など一切したことはない。
「しゃ、社長はこんなところで何をされてるのですか?」
「ん? あぁ、儂はこの近くに実家があってな。ちょっと年老いた母親が体調がすぐれない、というので様子を急遽見に来たんじゃよ。ま、たいしたことなかったので、これから出社するんじゃが・・・。そんなことより竹本君、君こそ何でこんな時間にここにいるのだ?」
俺は観念して、朝からの様々な出来事をかいつまんで話した。
「そうか・・・それは災難だったな。でも会議の方は大丈夫じゃ。儂もこういう事情が出来たので、明日に延期になったのでな」
社長にてっきり怒鳴られると思って覚悟していた俺は、意外な社長の優しい言葉にほっとした。
「じゃあまあ、ふたりで遅刻出勤と行くか」
社長は笑いながら電車に乗り込んだ。俺はあわてて社長の鞄をお持ちした。
車内は遅い午前でなおかつ始発、ということもあり、ほとんど乗客がいなかった。
が、なぜか社長は俺の横にぴったりと貼付くように座った。
「君はなかなかハンサムな顔をしとるのう・・・」
そう社長が言った直後だった。社長が俺の左手をゆっくりと握ってきたのは。(プヨ)
そういえば思い出した! 社長にはそういう趣味があるということを。それは単なる噂話だと思っていたのだが、こっ、これは・・・。
「君は確か係長だったな。年はいくつだったかな? ん? 29。早い出世だな。・・・30才で課長、なんて役職もいいんじゃないかな? ンフフフ」
そう言うや、社長は俺の手をさらに強く握ってきた。油っぽい、ベタベタした手だ。
俺はその社長に握られた手からも、額からもポタポタと汗をかきはじめていた。
「・・・君も朝からいろいろあって少々疲れたろう。どこかで降りて、ちょっと儂と休憩していかんか・・・。そういえば今の副社長はじめ、ほとんどの重役は儂と『休憩』しとるんじゃよな、何故か。ンフフフ」
そういって、社長は俺の方にそっと流し目を送ってきた。
「しかしいい顔立ちをしているな、もてるじゃろ、君は・・・ンフフフ」(石川)
「い、いえ、決してそんなことはありません・・・」
平静を装って答えてはいたが、俺の心は千々に乱れていた。
(げー、まじかよー・・)副社長や重役達の顔が次々と浮かんでは消えていく。(勘弁してくれよお)しかし、彼らが社長と仲良く「ご休憩」している図は、想像することはできなかった。ましてやそれが自分だった場合なんて・・・
「どうしたのかね竹本君。また気分でも悪くなったか?」
「すみません社長、大丈夫です。」
社長が潤んだ瞳で俺の顔をのぞきこんでいた。いつまでも答えを引き伸ばすわけにもいかない。
「そういえば、君のうちは奥さんがもうすぐ二人目を出産するそうだね。いろいろと物入りではないのかね?」
俺の逡巡を見透かしたかのように、社長は話題を俺の家庭のことに変えてきた。
そうだ、もうすぐ下の子が産まれる。何としても今の職を失うわけにはいかないのだ。
俺は観念し、社長の顔を見つめかえした。
「社長、今日は私、どこにでもお供します。」(わにこ)
と、突然社長が手を離すや、ククククッと笑いだした。
「わははっ、竹本君、冗談じゃよ。儂にそんな趣味はない。まんまと、ひっかかりおったな!」
唖然とする俺の横で社長はよほど自分の悪戯がおかしかったのか、腰を屈めて、ヒクヒクと大声で笑うのをこらえるように、下を向いて笑い始めた。電車の中はそこそこ混んできていたのだ。
俺はホッとすると同時に、急にこんな悪戯をいい年になってやる社長に親近感を持った。
「もうっ、社長はっ! 僕、マジメに考えちゃいましたよぉ!」
俺はそういいながらヒクヒク下を向いている社長を軽く、手でこずいた。
手が滑って社長の頭に当った。
するとその頭がこそげ落ちて、ポーンと跳ねていった。
ギョッとして見ると、それは頭ではなく、ヅラだった。
ヅラがピューッと1mぐらい向こうまで飛んで、そしてポトリと床に落ちた。
瞬間、車内はシーンと静まりかえった。
「あっ・・・!」
俺は社長の方を振り返った。社長は相変わらず、腰を屈めて下を向いたままで、顔は見えない。
だが、さっきまで笑いをこらえてプルプル震えているのとはハッキリ違うオーラと、プルプルではなく、ブルブルと怒りで小刻みに震えている社長には、さすがの俺も気がついた。(石川)
その時だった。ふいに前の席にちょこんと座っていたランドセルをしょった小学生がトトトッと席を立って床に落ちていたヅラを拾うと、社長の前に差し出した。そして大声で言った。
「おじいちゃーん、ヅラが落ちたよー!」
最近の子供は、テレビの影響か「カツラ」と言わず、「ヅラ」と言う。
「ほら、ヅラ。おじいちゃんの、ヅラ!」
しかし社長はブルブルと顔を落としたまま、返事もしない。
「おじいちゃん、ヅラだってば、ヅ・ラッ!!」
子供の声が、車内に響き渡る。
俺は咄嗟にそのヅラをサッと取ると、
「坊や、ありがとう。これはおじさんが預かっておくからね」
そう言ったが、子供は、
「えー、でもこれ、おじいちゃんのヅラだよ! ヅラがないと、頭ツルツルだよ!」
思わず車内から、プッという笑い声が聞こえた。と、子供はそれが自分が受けたのだと勘違いしたのか、急に歌をうたいだした。
「♪おーきなのっぽの古いヅラ おじいちゃんのヅラー」
と、それまでこらえていた他の乗客達も、我慢しきれず、遂に車内が笑いに包まれた。
「クックククク!」
「アハハ、アハハッ!」
「ヒー、ヒー!」
子供は尚も大声で歌い続ける。
「♪百年休まずにヅラヅラヅラヅラ
おじいちゃんと一緒にヅラヅラヅラヅラ
今はもうヅラがない そのアーターマー」
子供の歌と車内の大爆笑に、思わず俺もブチ切れて、子供につい怒鳴ってしまった。
「ヅラヅラ言うなっ!」
すると突然子供は泣きだした。
「フエーン、だってヅラだもん。僕、嘘ついてないもん。ヅラが落ちたから、拾ってあげたんだもーん。ヅラはヅラだもん。フエーン」(プヨ)
俺はヤバイッと瞬間に気をとり戻し、
「ごめんごめん。坊やは悪くなかった。拾ってくれたんだものね。ごめんね、おじさんあやまるから・・・」
でも子供は泣きやまない。どうしよう、このままではまずい。
俺は一瞬躊躇した後、覚悟を決めた。ヅラを自分の顎に当てると変な顔をしながら、
「変身! 怪盗アゴヅラ仮面ーーー!!」
とおどけてみた。
子供はチラッと俺を見たが、まだ泣きやまない。しょうがない、今度はヅラを胸に当て、
「変身! 怪盗ムナヅラ仮面ーーー!!」
子供はやっと泣き止んできた。しかし、まだちょっとヒクヒク言いながら、
「もっとやってよ・・・」
と言う。俺はようやく安堵し、脇にヅラを挟み、
「変身! 怪盗ワキヅラ仮面ーーー!!」
腹にヅラを置き、
「変身! 怪盗腹ヅラ仮面ーーー!!」
そして俺は調子に乗り過ぎてしまったようだ。他に乗客がいることをすっかり忘れ、子供の機嫌を取ることだけに夢中になり、
「変身! 怪盗チンチンヅラ仮面ーーー!!」
そう言いながら、股間にヅラを当て、立ち上がるや腰を振ってドンタタドンタタ激しく踊りだした。
子供は遂に、
「キャハハハッ!」
と喜んだ。
「良かった・・・」
と安堵のため息をついたのも束の間、ハッと社長の方を振り返ると、社長は声をふりしぼって俺に言った。
「・・・もうやめんか。次の駅で降りるぞ・・・」 (石川)
次の駅のホームで降りるや、おれは頭をこれ以上ないほどに深く下げ、社長に謝った。
「あ、あの、す、すみません社長!先ほどは本当に本当に申しわけあり・・・」
言い終わる前に社長は俺からふんだくるようにヅラを奪った。
俺は少し気が動転していて、まだヅラを手に握っていたことを忘れていたのだった。
右の手のひらには汗のせいで、社長のヅラ毛が何本かかなしく付着していた。
「・・・・もういい。・・・・・もういいんじゃよ。」
怒りと無念さを押し殺したような声だ。社長はヅラをもうあきらめたというように無造作にポケットに押し込むと、しばらく押し黙ってホームのベンチに座っていた。
俺はもしかしたらこの場でクビを言い渡されるんじゃないかとビクついていた。
社長のパルックのように光った頭が、俺の深刻さを嘲笑うかのようにきれいであった。
社長はやがて吹っ切れたような表情で言った。(かえる)
「カツラの事でわしがあんなに怒ったと思うじゃろう。だが、違うんじゃよ。あれはただのきっかけだったんじゃ・・・」
俺は、一瞬キョトンとした。あれほど社長が車内で激しくうつむいてしまったのは、当然このヅラだけが原因だと思っていたからだ。
「わしが母親の見舞いに行った、というのは嘘じゃ。ちょっと別の社にお願いに出向いておったのじゃ。そして君の手を握ってふざけたのも、せめて自分の気持ちを鼓舞して、少しでも落ち込んだ気分を忘れたからだったんじゃよ・・・」
社長が何を言っているのかわからなかった。と、ちょっとの間の後、社長は決断したようにフーと息を吐くと一気に言った。
「本当は明日の会議で発表しようと思っとったんじゃが、これも何かの縁じゃ。君だけにはひと足先に教えてしまおう。・・・我が社は、倒産じゃ・・・」
「えっ!?」
俺は頭の中が真っ白になってしまった。トーサン、父さん、・・・倒産!?
それからすぐに頭の中が洪水に襲われた。
(倒産・・・ということは、俺は職を失うのか!? うちの会社は零細企業じゃなくてそこそこ中堅企業で、倒産なんて話題にも出てなかったのに。確かに「最近は不景気だもんな〜」なんて同僚とは話していたけど、それは他人事だと思ってた。ま、まさかうちの会社がそんなことになるなんて・・・)
ベンチにしゃがみ込んでしまった社長を見ても、もう自分の事で頭がいっぱいになって声もかけられなかった。
(まだ家のローンも払い始めたばかりなのに。二人目の子供も産まれるというのに・・・なんてこった!)
その時、目の前を紙袋に新聞をたくさん詰めた浮浪者が通り過ぎた。
俺はなんだか嫌な気分になった。
と、突然その浮浪者が俺の方をクルッと振り返った。
「タ・・・タケ・・・竹本君か・・・?」
その顔になんとなく見覚えがあった。そして気づくや俺は叫んでしまった。
「・・・中学の同級生の市川!!」 (石川)
「市川くん‥君確か一流企業のサラリーマンやってるはすじゃ‥」
「竹本くん‥懐かしいなあ。いやあ、勤めてた会社が去年つぶれてしまってね‥」
「君もか!」
僕は市川くんに事のしだいを話した。
「そうか‥でもいいじゃないか竹本くん。人間裸で生まれ裸で死んでいくんだ。この暮らしも自由でなかなか悪かないぜ?倒産したからってそんなに落ち込む事ないさ。明日から俺たちの仲間になればいいだけの事じゃないか‥」
「そ、その通りだよーっ!市川くんとやら!」
「しゃ、社長?!」
社長はいきなり持っていたブランドもののカバンを投げ捨て背広を脱ぎはじめると、止める間もなくパンツ1枚になってしまった。
「わしはもう社長なんて疲れたんじゃ!もう地位も何もいらん‥自由がほしいんじゃーっ。」
そう言って社長は最後にカツラも地面にたたきつけた。
「あわわ、で、でも社長明日の会議は出てもらわないと‥」」
「うん?もう嫌だと言ったろう?!あーもう君でいいや。君に社長の座譲るから、君やってよ」
「えーっ、そんな!だいたい明日倒産するのに‥」
「‥実はな、明日までに1億円用意出来れば、会社は助かるんじゃ。わしも金策に今日まで走っていたが‥まったく駄目じゃった。もし君が明日までに1億つくる事が出来たら、会社は助かり、君はそのまま社長じゃ。」 (ねば子)
そういうや、ふたりは急に肩を組んで歌いだした。
♪人間自由が一番ラッタッタ
裸で生まれて裸で死んでく!
そしてついに楽しそうにラインダンスのように踊りはじめた。
♪愉快なロンドン
楽しい浮浪者
ロンドン ロンドン ロンドン ロンドン!
(歌、変わっとるがな・・・)
しかし、市川の方からはプンという強烈な臭いが。
(・・・駄目だ。絶対こいつ等にはついていけない!)
それに何より俺にもプライドがある。妻や子供もいる。
「わかりました、社長。僕、やってみます!」
まだ何のアイデアも思いつかなかったが、もしかしたら自分にとって、逆に人生のビッグ・チャンスなるかもしれない。
「期限は、明日の朝10時に会社までダヨ〜ン。ウシャシャシャシャッ!」
ちょっと頭がおかしくなりかけている社長を尻目に、時間のない俺はとりあえずやってきた電車に飛び乗った。
「さて、どうしようか・・・」 (石川)
通勤客でだいぶ混んできた電車に揺られながら、俺は一億円を手に入れる方法を考えていた。と言っても、一億というのは途方もない金額である。とても簡単に何とかできるとは思えないが、そうしないと俺の会社がつぶれてしまうのだ。社長の俺が何とかしなければ・・!
すっかり社長気分の俺は、具体的な方法を思いつく限り頭の中に浮かべてみた。もはや、銀行は貸してはくれないだろうし、ローン会社も無理だろう。そんな大金を持っている知り合いのあてもない。となると、正攻法ではダメだということだ。
つ、ついに、この俺が法を犯す所業に手を染める日がやってきたのか?銀行強盗か、押し込み強盗が、誘拐、引ったくり・・・いや、どれも準備時間がなさすぎる。一人では無理だし、必要なものや情報を集めることもできない。こうなったら、俺の体一つでやるしかないじゃないか。そうだ、体一つだ!!
そう考えた瞬間に、今朝の社長の冗談を思い出した。俺は、その趣味を持つ人達には特別な目で見られるタイプらしい。そういえば、酒の席でそういう誘惑をされたこともあった気がする。もはやこれしか方法はないのではないか?
俺が覚悟を決めた時に、電車は終点に着き、ぎゅうぎゅうう詰めになっていた客が一斉にホームへ吐き出された。そこは、官公庁と繁華街が駅をはさんで存在する雑多な街の駅だった。俺がしようとしていることには、特定の場所と相手が必要だ。そのためには、まず情報を手に入れなければならない。俺は、朝陽にくすむ繁華街に足を向け、終日営業のインターネットカフェに入って行った。(わにこ)
俺はインターネットの席に座ると、フリードリンクのコーヒーを一杯飲んで、気持ちを落ちつけ、まずは、そのものずばりのページを閲覧してみた。そこには醜悪な男同士が裸で変なポーズを作っていたり、もっと過激なものもあった。
「ウ・ゲェ・・・」
そういう趣味の人を非難する気持ちは別にないが、やっぱり俺には生理的に駄目だ。それでも「人生がかかってるんだ」と思って見ていたが、
「モデル募集! 日給30万円も可!」
とかで、到底一億円には程遠い。当たり前だ。
その時ふと「一億円」というキーワードで検索してみることを思いついた。
しかし出てきたのはやはり、
「一億円の宝くじに当たったら・・・」
「時価一億円の家に住む○○さん・・・」
「俺の犬の名前は『一億円』・・・」
などのどうしようもないものばかり。それでも他にあてがないので、次々とページを閲覧していった。
と、不思議なホームページにぶち当たった。
真っ黒なバックに白抜きの文字で、
「一億円の男募集」
とだけ書かれてあったのだ。他には携帯電話らしき電話番号が下に小さく書かれているだけで、他に一切コンテンツもなく、どこへもリンクしてなかった。
「なんだ、これは?」
そう思いながらも、今は一時を争っている。とにかくどういうことかだけでも聞いておこう。
俺は社長、いや元社長から借りた一万円のうち、電車賃とネットカフェ代の残りを持っていたので、公衆電話に駆け込んだ。
「すみません、ホームページを見て電話した者なのですが・・・」
「・・・・・。」
「あの、ええと『一億円の男』というのはどういう意味なんでしょうか?」
「・・・君は一億円が欲しいのかね?」
むこうから聞こえてきたのは、老人らしい声だった。
「そ、そうなんです! しかも明日までに!」
思わず少しうわずった大きな声になってしまった。
「ほほう、明日まで。どうやら訳ありなようじゃの。・・・儂に会ってみるか?」
俺は何か一条の光が見えた気がして、
「は、はい!」
と答えた。相手はそれ以上俺の素性や理由なども聞かず、
「それでは、××駅に一時間後に来れるかね?」
××駅ならここからそんなに遠くない。一時間あれば充分だ。
「はい! 行けます!」
「じゃあその駅の改札の横のベンチに儂は座っておるよ。声をかけてくれ。帽子を被った猫背の老人じゃよ」
「すいません、あの、お名前は・・・」
「『奥』と言う。なので、ジジイじゃが、『おくさん・・・』と声をかけてくれ」
それだけ言うと、電話はプッツリと切れた。(石川)
受話器を握ったまま、しばらく呆然としてしまった。果たして「奥」なる老人の言う話に賭けるべきなのか…。この老人から1億円を手に出来なければ、次の金策の方法も考えなければ…。
しかし、心は既に「奥」なる老人の言葉に完全に支配されていた。色々思案はするが、考えるだけ無駄であった。
俺は無意識のうちに立ち上がると小走りに駅に向かっていた。
ハッと我に返ると、指定された駅への乗換駅のホームに俺は居た。電車がホームに滑り込んできた。急行○○行…
俺は全く無為な事をしているのかもしれない…。明日の10時までに1億なんて金を工面するのはやはり無理だ。土台無理なんだ…。老人の暇潰しかもしれない。でもあの老人の対応を考えると…。猜疑心と期待の入り混じった気持ちが俺の足の自由を奪おうとする。開いた電車のドアの前で、降りてくる人の波をモーゼの十戒の如く左右に別れさせながら、立ち尽くして居た。
発車ベルが鳴り響く。ええいままよと動きの鈍った足を車内に送り込むようにして電車に乗った。
悪い事をするわけではない。しかし悪事をはたらく前のような緊張感が俺を襲う。胃の底から腕が伸びてきたかのように、急激な嗚咽感が俺を襲ってきた。経験した事の無い緊張感だ。その刹那、妻と子供と、まだ見ぬ二人目の子が、俺の脳裏に現れた。
「おい、晃司!奮い立て!お前にかかっているんだ!」そうだ!俺が何とかしなきゃ誰がやるのだ!
嗚咽感は吹き飛び、半ば開き直ったかのように周りの景色が見えるようになってきた。通過していく駅を眺め、いよいよ約束の駅が近づいて来た。(T.E.E.)
そして、改札を抜けると・・・その老人は、居た。からかいでも何でもなかった。
俺は一瞬躊躇したが、すぐに時間がないことに気づき、ベンチで煙草をふかしている老人に思いきって声をかけた。
「あの・・・おくさんですか・・・!?」
すると老人は下を向いたまま、喋り出した。
「一億円・・・十円の「うまい棒」が一千万個。それを縦に乗せていったら、月まで届くかのう・・・。」
「えっ!?」
「ま、月は無理でもエベレストは越えるじゃろうのう、軽々と。フヒャヒャヒャヒャッ」
と、老人はくるっと振り返ると、俺の顔をじっと見た。実際には1分もなかったろうが、俺には1時間にも感じられる長い凝視だった。そして彼は言った。
「・・・よしっ、とりあえず合格!」
俺は何のことだかわからず、佇んでいた。
「あんたの人間性がだいたいわかった。人間、この年になると、表情と目付きだけ見ればだいたいどんな人間かわかるものじゃよ。お前さんはいい目をしてる。とりあえず、合格じゃ」
俺は何を言っていいかわからず、とりあえず老人の次の言葉を待った。
「一億円が明日までに欲しい、と、こういうわけだな。」
俺は強い口調で、
「はいっ、そうなんです! 実は・・・」
と理由を説明しようとしたが、老人はそれをさえぎった。
「良い良い、理由なんかに儂は興味はない。実はな、儂も老い先短い。そして、それなりに財産も持っておる。が、残念なことに子供も、それどころか親戚すらも誰もいない。天涯孤独じゃよ・・・。つまり儂が死ねばそれを相続する者がおらず、全部国に財産は接収されてしまう、ということじゃ」
そこまで一気に言うと、老人は新しい煙草を取り出し火をつけ、ふーっと吐き出した。まるで長い人生の大きな大きなため息のように。
「国にむざむざと全部接収されてしまうぐらいなら、人生の最後に、なんか馬鹿馬鹿しいことをドカーンとしてやりたいと思ってな。それであんなホームページを作ってみたんじゃよ。もちろん何人かに会ってみた。しかしほとんどの者は目付きが澱んでいた。なので、そういう人にはその場でお引き取り願った。そして何人か、こいつならやってくれるかな、と思った者もおったが、結局みんな駄目じゃった・・・。」
「そ、それで僕は第一次はクリアしたんですね。」
「そういうことじゃ」
「じゃ、一体何をすれば言いんですか?」
俺は意気込んだ。
「そうはいっても一億円じゃからのう。そうやすやすとは手に入らんぞ」
「それは・・・わかってます」
「フォフォフォッ、それじゃあ一億円が手に入る方法を教えてやろう。あまりにくだらないことで、拍子抜けするかも知れんが、嘘ではないからな。儂はさっきも言ったけど『馬鹿馬鹿しいこと』をやってみたいんじゃ。真面目に生きてきすぎた反動かのぉ」
そういうや、老人は俺の耳にその指令を囁いた。
俺は一瞬、聞き間違いかと思った。それはその内容があまりにも本当に馬鹿馬鹿しかったからだ。でも確かに難しいかもしれない。
老人はこう言ったのだ。 (石川)