
夏、冷夏の合間を縫った暑い日差しが午後の地面を刺す。
しかしその日差しも代々木署の地下にある零課の中までは届くことはなかった。
日差しの代りに蛍光灯の灯が部屋を必要な分だけを照らし、
天井に備え付けの扇風機が熱気を払う。
情報収集用として常時スイッチが入っているテレビからは天気予報が流れ、
待ちに待った梅雨明けを告げていた。
その音声を聞き、素喜多課長は新聞を読むのを止めてカレンダーに目をやる。
7月29日を示している。夏はまだ始まったばかりだった。
警視庁捜査零課事件簿『夏と犬と警察と』
都内某所、警視庁機動隊第零独立中隊本部。
「これから忙しくなるか・・・」
中隊長、佐々木一成警部は部下が入れてくれた麦茶を飲みながらため息をついた。
夏場は機動隊にとって忙しい時期とも言える。独立中隊にとっても例外ではない。
警部のつぶやきが聞こえたのだろうか、近くの隊員が声をかける。
「でも中隊長、雑踏警備の割り振りはまだ警備部の方からは来てませんし、
突発事案以外はそうそう忙しくなるとも思えませんが」
「しかし、それはだな・・・」
佐々木は口を開いて思いとどまった。こいつは四月に転属してきたばかりで真の忙しさを知らない。それならばと、
「夏の忙しさは半端じゃない、お前も昼間は体力を温存しておけ。今日から当番小隊だろう。
梅雨も明けたし、今夜から忙しくなる。特に今日あたりは絶対にある!」
と、隊員の背を手で押しながら仮眠室へ向かわせた。これから始まる激務を前にせめてもの親心であった。
日もとうに暮れて星が夜空に浮かび始めた頃、やはり今日の出動はないのだろうかと、
中隊長室で退庁準備をしていた佐々木の耳に大きなベルが鳴り響いた。
『零課より応援要請入電中、
当番小隊は・・・』
ため息をつき、窓から下を覗くとパトライトを点灯させてサイレンを鳴らした指揮車と輸送車が出発した。
他の小隊も逐次集合して出動準備を整えているのだろう、廊下の方より多数の足音や大声が聞こえる。
ロッカーへ私服を戻し、先程まで着ていた出動服に再び袖を通す。
袖を通しながらふと思う。
なぜ立てこもりで零課が出動しているのだろうか。憑き物の可能性でもあるのだろうか。
不思議に思いながらも装備を調え、中隊長車に乗り込んだ。
現場へと向かう途中、状況を把握すべく先行している小隊長へ無線をいれる。
「中隊長より小隊長へ。状況を報告せよ」
無線機からは砂嵐の後、思いもしない人物からの声が入ってきた。
『こちらSITの安田。毎度。捜査指揮権はそちらに委譲されているのは確認したかい?
調布の一件以来だね。さっそく状況だけど・・・』
そう言うと安田警視は無線で手短に語ってくれた。
『18時ごろに
で、その犯人が逃走して、まだ門が開いていた警察犬訓練所に飛び込んだらしい。
確認したところ、今訓練所にいるのは犬の教育係1名。
その1名がどうも人質になってる。現場付近は所轄と機捜によって封鎖されて、
ウチらが呼ばれたと。今、若いのに説得させてる。
う〜ん・・・けどさ、ちょっと応じる気配はないね。
刑事部長から増援が行くから交渉を引き延ばせなんて言うから。
立てこもりなんだからSATが来るって思っていたらオタクらだもん。
そりゃ、機動隊だろうからこんな事案にも来るだろうけどさぁ。
この前はなんか二課のヤマにも零課と一緒に介入したって言うじゃん
なんなの?なんの担当なのさ。ウチらから指揮権奪って楽しいかい?
今回も零課も一緒に来るんでしょ?事件もお宮にしちゃうし。勘弁してよ』
安田はノンキャリアながら警視まで昇りつつも、階級の威厳や偉そうなそぶりを見せない。
特殊犯捜査係という部署からか何度も事件の引き継ぎを受けているが零課に対してもやや好意的である。
最後のイヤミも、冗談交じりの口調でそれほど耳につかない。
恐らくはこれが彼のキャラクターなのだろう。
しかし、特殊犯係をまとめるだけある。
中隊長は刑事部に在籍している同期を思い出した。
つい先日、そいつと飲んだ時も零課の件で愚痴をこぼしていた。
零課が引き継いだ事件等は零課の手によって最後まで処理され、
事件がマスコミ等表沙汰になることはない上に、警察内部の人間でも、
事件のその後を閲覧することは許可されてない。
それどころか存在しなかったように処理されている。
捜査資料も一式全て零課に引き渡さなければならないことになっている。
今の今まで零課に引き渡した事案でこちらに後日談が届いたことは一つもない。
聞きに行っても、冗談口調で課長に丸め込まれたり、
女性捜査員達に笑顔で丸め込まれたりと成功した試しがないと言っていた。
課長等を通して刑事部長やその上に尋ねても事件が存在しないの一点張りだった。
資料や捜査情報等も警視庁のデータベースに存在しない。
当時の被害者等に話を聞きに行っても零課に捜査を引き渡す前までの話しか出てこなかった。
それだけ零課の情報管制は徹底していた。
確かに組織は存在する、そこに部署は存在するのだが何をしているかがわからない。
うわさには日本版Xファイルとささやく奴らもいると言う。
零課というのは情報公開の波が押し寄せる警察組織にあってまだ暗部として存在する組織の一つでもあったようだ。
零課と共に行動するのならば何か知っているかと尋ねられたが、
はぐらかすので手一杯だったのを覚えている。
そこで同期に内緒の話だがと伝えることも出来たろう。
しかし、そこで伝えたとしてヤツはどういう反応を示しただろうか。
冗談と受け取られ笑い飛ばされる程度がオチだったかもしれない。
正直、信じて貰えなかっただろう。それならば秘密は秘密のままで良いのかもしれない。
中隊長は冗談めかして警視に話した。冗談で話されたら冗談風で返すしかない。
「それはひ・み・つ!ですよ。世の中には知っちゃまずいこともあるんですよ、警視」
「わかってる。どうせいつも通りナイショごとなのだろ?
俺達は事件をそっくりそちらに渡して遠巻きでなにもできずに見学。
なにが起こってるかわからずじまい。規則でないとやりきれないな」
ガハハと笑い飛ばしてから、つぶやくように
「お前さんがたに文句を言っても仕方がないんだったな・・・悪ぃ」
やはり納得がいってないのだろう。最後のつぶやきがそう教えてくれた。
そうこうしている間に中隊長車は現場に到着した。
佐々木中隊長は車を降り、現場で指揮を執ってる安田警視のところへ行った。
そこには安田警視の他に、素喜多課長や榊管理官、瑞希係長や衛生看護係の面々もいた。
どうやら課長はなにかに取り憑かれていると考えてるようだ。
もちろんそんなことは零課の人間以外に話してはいない。
ここが現地の指揮本部となっているらしい。時折、機捜隊員やSIT隊員が安田警視に指示を求めに来る。
一通り挨拶を終えたころだった。乾いた音が連続して響く。
訓練所内からの銃声だった。
『突入、すみやかに犯人の身柄を押さえ、人質の安否を確認せよ』
「素喜多警視正、指揮権は確かにそちらに渡したがそっちはまだ配置完了してない、
この場は申し訳ないがこちらでやらせてもらうよ」
焦るようなそぶりも見せず、冷静に安田警視は無線で命じて、
素喜多課長に一言入れた。これが彼なりの筋の通し方なのだろう。
課長も特に異論を挟まず状況を見守っていた。
3階屋上に隠れていたSITの隊員がロープを垂らしリペリングで窓を破壊し突入する。
1階正面の扉からも捜査員が突入している。
他の箇所からも捜査員が突入していることだろう。
零課の面々も緊張の面持ちで建物の図面や捜査員の配置図を見ながら無線に耳を傾けている
『C班、1階クリア。2階へ向かいます』
『B班、2階東側事務室クリア、立てこもってると思われる西側に向かう』
『E班、屋上に現在の所人影無し。引き続き監視する』
『こちらD班、1階飼育室。犬はすべて檻から逃げ出している。
檻には食いちぎられた跡あり。犬の姿はまだ見ていない。』
『A班、状況報告せよ、A班!』
安田警視が語気を強めA班を呼び出すものの、
屋上より犯人が顔を出していた部屋へ直接進入したA班との連絡が付かなかった。
『B班、注意しろ!A班との連絡が取れない。他の班が来るまでそこで待機しろ!
狙撃班、部屋の様子はどうだ』
『B班、これより突入します。時間がたつほど、人質やA班の安否が気になります』
『こちら狙撃班、犯人の部屋は暗くてよく見えない。なんだか靄がかかっているようです』
『D班、非常階段より2階へ向かう。』
『待て!B班!待機だ!D班と合流してから突入しろ!』
『いや、行きます!こ、これは・・・』
『B班、どうした!B班!』
あわただしく交信が交わされていたが、B班も突入の通信を最後に連絡が取れなくなってしまった。
素喜多課長はこの交信を聞きながら佐々木中隊長に中隊を完全武装で突入せよとの命令を下す。
中隊の室内制圧装備は不足しているものの、特別強襲係は現在海外研修中。
現時点で零中隊以外に任務に適している部署は無かった。
普段は事件に介入されて指揮権を取られてしまうのに抵抗のあるSITや機捜隊も
既に指揮権は零課にある。口を挟むことは厳に禁じられている。
突入班全てにその場での待機を命じた安田警視は零課が突入することも伝え、
零課と入れ替わりでSITは戻ってくるよう命じられた。
今度は反論ひとつせず各班は命令に従った。
数分後、零中隊から選抜隊が組織され、問題の部屋の中に突入した。
そこで最悪の結果を見ることになってしまった。
『本部、こちら零中01。人質は死亡している模様。
犯人も床に倒れ首から血を流して・・・死んでいます。SITの隊員も共に床に倒れて死んでます。
そして、犬の死骸が1体。』
その後、出動した中隊主力で2階建ての建物の検索を実施して安全が確認されてから、
素喜多課長や零課の面々も部屋へと入ってきた。
この時点でSITは安田警視のところまで戻された。
安田警視も当初現場への立ち入りを希望し課長に話したが、
素喜多課長は零課事件ということを理由に零課以外の人間を完全にシャットアウトしていた。
それは安田警視も例外ではなかった。
零課の面々がそこで見たのは地獄絵図のようであった。
無線で聞いていたものの部屋は凄惨を極めた。
人質、犯人、SIT隊員4名は身体中を何かに噛みつかれ、食いちぎられたようだった。
犬の死骸は拳銃の弾丸が数発撃ち込まれて絶命していた。
衛生看護係に伴われて現場に入ってきた訓練所の職員に犬を見せたところ、
犬は警察犬となるべく育てられていた訓練犬だった。
実際は地獄絵図を前に彼女はハンカチを口元にあてて、首輪を見てもスグに目をそらし、頷いただけだった。
決めてとなったのは訓練所の刻印が入った首輪だった。
「どうもありがとうございました」
課長や管理官が御礼を言い、衛生看護係のくわはら警部補が1階敷地外の現場詰所へ
送りに行くところだった。
「あ・・・ちょっとすみません・・・・・・」
警部補は先を歩いていた訓練所職員に声をかけた。
振り返った職員の額に軽く指を置いた。
「なにを・・・」
職員の声はそこまでだった。警部補は指をおいたまま何かをつぶやくと、職員はうつろな表情になった。
「はいっ!」
今度は職員の目の前で勢いよく柏手を打った。すると職員の表情は先程のようにハッキリと元に戻った。
「どうされました?」
白々しくも警部補は声をかけたが、なんでもありませんよと職員も返事をしただけだった。
現場詰署に戻った二人。警部補は手近に居た一課の捜査員に声をかけ職員を渡して2階へと戻っていった。
安田警視の元へと連れてこられた職員は警視の矢継ぎ早の質問を浴びていた。
零課以外で現場に入ったのは職員の彼女だけ。
中の様子を知るには彼女に聞くしかなかった。
だが、彼女は中の様子を覚えていないような返事ばかりだった。
これには安田警視もあきらめるしかなく、うなだれたように話した。
「俺だって想像がつく。むごたらしい惨状だったのだろう。思い出したくもないだろう。
零課もそれをケアしてやったに過ぎん・・・捜査機密を守ることも含めてな」
「課長、犬の遺体から微弱ですが霊的な何かを感じます。
それにこの部屋自体もゆがみというか・・・違和感を」
しゃがみこみ、犬を調べていた瑞希係長が素喜多課長に話しかける。
それを聞き素喜多課長は携帯を取りだしどこかへ電話をかけた。
しばらくすると車両が数台到着し、零課の鑑識やら霊的に現場保存するための要員が手際よく現場に結界を張っていく。
現場にもどってきたくわはら警部補を加え、零課首脳陣は意見を摺り合わせた。
間違いなく、何かに憑かれた犬が犯人を襲ったのだろう。犯人は抵抗して銃を撃った。
その時にこの犬は死んだ。しかし、他の犬が犯人を殺し、人質を殺し、
突入してきたSITの隊員をも噛み殺した。
その後に他の犬達はいったいどこへ行ったのだろうか。
犬はなぜ凶暴化したのだろうか。
そして、立てこもりと凶暴化になんらかの因果関係があるのかどうか。
明日からはまとまった人数で現場検証にとりかかる。準備に時間がかかるため今日は早めに現場を後にした。
「謎が多々残る後味の悪い事件だ。明日からの現場検証でなにかわかると良いが・・・」
榊管理官はつぶやいて車に乗り込んだ。