【1】


森をぬけると、そこは小高い丘だった。目の前には一面に草原が広がっていた。
黄緑色の草が、爽やかな風を受けて勢いよく揺れている。
空には力強い入道雲が浮かび、青空もそれに負けじと輝いていた。
リリィは丘の上で、気持ちのいい光景を眺めながら大きくのびをした。


「くぅー、いい天気」


先程までリリィのいた森は、大きな木が太陽の光を遮り、
例え昼間だろうとじめじめとした湿気に覆われていた。
やっと温かい太陽の光を全身に浴びる事ができたリリィは、とても良い気分だった。


「さあて、次の街はどんな所かな?」


自然と口調も明るくなる。眼下に広がる草原の、はるか向こう側にじっと目を凝らした。


「あっ! あった、あった!!」


地平線にわずかに盛り上がった黒い点。
それを見つけたリリィは、両手を挙げて歓声をあげた。
一気に丘を駆け下り、腰のあたりまで伸びた草をものともせず、勢いよく走り出した。






   【2】


その街は穏やかだった。
買い物をしたり、おしゃべりしたりする人達で、通りはにぎわっている。
人の生きる音が、そこかしこに響いていたが、不思議とうるさいとは思えない。
皆どこか肩の力が抜けたように、静かで柔らかく微笑んでいるのだ。


「いい感じだよね」


街の名前は、影を食う街。
入り口の看板に書かれているのを見て、リリィはその名前を知った。


「不気味な名前だから、どんな所かと思っちゃった」


特に目的もなく、ぶらぶらと街の中を歩き続けた。
あたりをきょろきょろと見回していると、人の視線にぶつかってしまう。
すると、どの人も微笑みながら、会釈を返してくれた。
街の人達はみんな楽しそうにしていて、いかにも幸福そうだった。


そのおかげで、リリィ自身も心が温かくなるような、優しい空気に包まれていた。
ほとんどスキップのような足取りで進んでいると、一つの建物が目に付いた。


「教会?」


それは、今まで通ってきた道にあった普通の家やお店と、大きさも作りも変わらない。
十字架を掲げているのでなんとか教会とわかる、ごくごく普通の建物だった。


しかし、何故だかリリィの注意を引いた。
まるでそこだけ光が集まっているようで、目が離せなくなった。
リリィは少しだけ悩んだあと、慎重にその教会に入っていった。





   【3】


「こんにちはー」


教会の中はぼんやりとした光に満たされていた。どこか神秘的な空気だった。
扉をくぐった瞬間から、ふわふわと心が軽くなるような気分をリリィは味わっていた。


中は長方形型の部屋になっていて、両側に2人掛けの椅子が並んでいた。
奥へと進んでいくと、ちょうど入り口と正反対にあたる場所に女神像が置かれていた。
その前に1つの人影が見えた。


「こんにちは」


人影は振り返り、リリィへと微笑みかけてきた。
流れるような金色の髪を腰のあたりまで伸ばした、シスターの格好をした女性だった。


「こんにちは。えっと、勝手に入ってきても大丈夫でしたか?」


「ええ、大丈夫よ」


穏やかな物言いに、リリィはほっと安心した。


「この街は初めて?」


「そうです。さっき着いた所です」


答えた後で、リリィは不思議に思った。


「どうして、あたしが旅人だってわかったんですか?」


きょとんと目を丸くするリリィを見て、シスターは面白そうに笑った。
その様子にさらに不思議になって、リリィは首を傾げた。


「だって、あなた影があるんですもの」


シスターは、リリィの足下を指さした。
その指先を目で追って、リリィは「あっ…」と声をもらした。


リリィの足下には影があった。
しかし、シスターの足下にはそれがなかったのだ。


「この街に住んでいる人は誰も影を持っていないわ。だから旅人はすぐにわかるの」


そのシスターの説明を訊いて、リリィは思い出す。
感心するように言った。


「だから影を食う街なんだ。……もしかして、影食べたんですか?」


恐る恐る尋ねたリリィに、シスターは楽しそうに笑った。
まるで愛しい子に教えるかのような、優しい声で言った。


「食べたっていうのは嘘なの。影は捨てただけなの」






旅人は街に着いた時、一度羽を伸ばしてゆっくり休む。
街から街への旅は困難の連続で、休憩を取らなければとても身が持たないのだ。
苦労の多い旅人だから、人々の間では彼らは勇気のある者としてたたえられる。
大抵の街では、旅人は歓迎して迎えられ、寝床も食事も提供されることが多い。


影を食う街では、リリィは教会にお世話になることに決めた。
シスターが誘ってくれたからだ。
今の教会には自分以外には誰もおらず、1人では寂しいのだと。


最初に話した時から、リリィはシスターの事が好きになっていた。
暖かで、柔らかで、優しい。そんな空気が、そっと包み込んでくれる。
どうやらシスターも自分のことを好きになってくれたようで、リリィはとても嬉しかった。
喜んで、シスターの申し出を受けたのだった。






   【4】


「おばあちゃん、これだけください」


リリィは夕飯の材料を買いに来ていた。


「ああ、リリィちゃん、おつかいかい? 偉いねえ」


食料品店のおばあさんが、目を細めながら言う。
何度も買い物に来ているリリィは、すでに顔なじみだったのだ。


「あはは、おつかいって、そんなに子供じゃないんだけどなあ」


簡単なことで褒められるのは、逆に気恥ずかしかった。
少し照れながら、店を後にした。
野菜の沢山入った袋を抱えながら道を歩いていると、色々な人に声をかけられる。


「おや、おつかいかい?」
「小さいのに、偉いねえ」
「重そうだね、持ってあげようか?」


みんな善意で言っているのだろうが、リリィは少し落ち込んだ。


「あたし、そんなに子供なのかな?」


しかし、そんな気分でも、この街にいるとすぐに元気になれる。
街の人は優しく親切で、それでいてみんなが幸せそうなのだ。
そんな人達に囲まれていると、リリィも自然と同じような気分になれた。
いつのまにか弾むような足取りになって、幸せな気分を持ったまま教会に帰る。


「ただいまー」


教会の一番奥にある住居部分の扉を開けながら、リリィは元気な声で言う。


「おかえりなさい」


シスターが、微笑みながら挨拶を返してくれる。
街に来てからの間、ほとんどの時間を一緒に過ごしているシスターは、
その綺麗な微笑み以外の顔を見せたことがなかった。


リリィが、手を滑らして教会の花瓶を割ってしまった時も、
買い物に行って不注意でお金を落とした時も、いつも優しく微笑むだけだった。
それは怒ったり困ったりという表情を隠すためではなく、
まるでそんな感情は知らないかのような、本当に優しい微笑みだった。


リリィはそんなシスターの事がさらに大好きになり、
そして強い憧れの気持ちも持つようになった。
素敵な女性だと思っていた。


そんな素敵な女性は料理をはじめようとしていた。
リリィは慌てて駆け寄った。


「あたしも手伝います」


「じゃあ、何をしてもらおうかしら?」


リリィは料理が下手で、手伝いをして何度も失敗していた。
それでも、シスターは迷惑な顔一つしない。


リリィも嬉しくなって、一緒に微笑んだ。
この街は光に包まれていた。
とても幸せな光だった。






   【5】


教会は沢山の人で埋まっている。
シスターが死者へ祈りを捧げていた。
食品店のおばあさんが亡くなった。
もうかなりの高齢だったから、それはしかたのないことだった。


リリィは悲しかった。
知り合って間もない人だったが、
それでも悲しまずにいられるような遠い人ではなかったのだ。


リリィは泣いた。
それは純粋な悲しみの涙だった。


沢山の涙で教会の床をぬらして、ふと顔を上げて周りを見渡した時、
そこで初めて、リリィは何かがおかしいことに気づいた。
教会の中で涙を流している者は、悲しんでいる者はリリィだけだったのだ。
みんな、いつもと変わらない、幸せそうな顔で微笑んでいるだけだ。


そこには涙どころか、悲しみの影も見あたらない。
教会の中は、暖かい光で満ちている。
それは影すらも作らない、綺麗な光だった。


誰もかもを包み込み、幸せにする光も、しかし、リリィの心には届かなかった。
悲しみの中で、リリィは一人ぼっちになってしまった。


おばあさんの亡骸が土の中に返っていく時でも、その光景は変わらなかった。
おばあさんの家族達ですら、涙の1粒もこぼさなかった。


全ての終わった後、リリィはシスターに詰め寄った。
いつもと変わらず微笑んでいるシスターに、気がつけばまくし立てていた。


「どうして!? どうして、みんな泣かないの!?
 悲しくないの!? おばあちゃんが死んじゃったのに!!」


リリィは叫んだ。
それはもうほとんどパニックのようだった。


だがシスターは、そんなリリィに困った顔もせず、
まるで料理をいっしょに作るときのような、いつもと同じ笑顔を崩さなかった。


まるで、それ以外の表情を知らないような。
そんな微笑みのままに、リリィを見ていた。


「言ったでしょ。私たちは、もう影を捨てたの。だから悲しくないの」


それはいつもと同じ声だった。
優しく暖かい、シスターの声だった。


リリィは言葉をなくしてしまった。
涙を浮かべた目で、変わらないシスターを見つめる。
その瞳は、どうしたらいいのかわからない迷子のように揺れていた。


シスターは、そんなリリィを見つめながら、ゆっくりと語りはじめた。


「昔、この街は悲しみに覆われた街だったの。影が人を飲み込む、そんな暗黒の街。
 それを一人の男の人が救ったの。そして街から影は消え去り、光があふれた。
 そう、人からも、全て消え去ったの。影のような、暗い感情は全部、
  悲しみも怒りも、恐怖や憎しみも。残ったのは、幸せな感情だけ……」


「でも、でも、そんなの変だよ。だって、そんなの……」


何かを言わなければいけない。
そうリリィは思うのに、言葉は全て、空気に溶けていく。
どう言えばいいのかわからなくて、涙だけが溢れた。


シスターは、変わらず優しい目で見つめている。
その目を見ていると、なぜかリリィは苦しくなった。
胸がつまるような、そんな苦しさだった。
言葉にできない何かが、もやとなって体の中に浮いているのだ。


リリィは乱暴に自分の心をかき回して、必死になって言葉を集めた。
なにかを言わなければ、その思いだけがリリィを駆り立てていた。


「だって、死んじゃったおばあちゃん、悲しんでくれる人がいなかったらさびしいよ」


声は、どうしようもなくかすれていた。
すがるように、シスターを見た。


「でも、おばあさんも、そういう感情は持っていなかったのよ。寂しいとは思わないわ」


諭すようなシスターの言葉を聞いて、リリィは叫んだ。


「ちがう!! そうじゃないの。……そうじゃなくて………」


言葉が続かない。
悲しみのない世界、どこがいけないのかわからなかった。
シスターに反対する理由が、どうしても見つからなかった。


心の中では、それを拒絶する叫び声が鳴り響いていた。
人が死んだのに悲しまない。涙すら流さず、ただ笑っている。
おかしい、絶対におかしい。
なのに、それなのにわからない


リリィは、ぽっかりと空いた心の隙間に落ち込んだ。
抜け出せず、もがき続ける。
涙が、とめどなく溢れた。
悲しくて、身を切り裂かれそうだった。


揺れる瞳で、シスターを見た。
感情を爆発させて、怒鳴り散らして、みっともなく泣いて。
どうしようもない、そんなあきれるような姿ばかりさらしたのに。


シスターは微笑んでいる。


悲しみも、困惑も、迷惑そうな顔も、怒った顔もせず、ただ幸せそうに。
いつもと変わらない顔。これまでいっしょにいたときと変わらない幸せそうな顔。


リリィには、それが急に作り物のように見えた。
そう思った瞬間、恐くなって後ずさった。


大好きなシスターが、大好きだったシスターが、それまでとはまったく別の、
何か得たいの知れないものになってしまったようで、ただ恐かった。


リリィは、教会を飛び出した。






   【6】


どの人も幸せそうだった。
みんな影を持っていない。


街を覆う光は暖かで、空気は柔らかく、そして、その中で心は綺麗になっていく。
リリィは、もう泣いていなかった。


この街に来たその時から、変わらない雰囲気。
それに包まれていると、先程までの感情の高まりが嘘のように引いていった。
街の一角で、建物に背をついた格好のまま、ぼんやりと街の風景を眺め続けた。
それは、どこまでも穏やかで、不幸なんて欠片もない、幸せそのものの風景だった。


「影を食う街、みんな幸せそう。嫌な感情を全部捨てて、それでいいの?」


つぶやいても、答えは返ってこない。
路地の隅に、隠れるように立つリリィのことを、誰も気づく人はいない。
みなそれぞれ、誰かとおしゃべりし、猫を撫で、子供をあやしたりするのに忙しそうだ。
その表情はとても美しくて、リリィの目には、誰もが皆、光の中にいるように見えた。


そこには悩みも、痛みも、悲しみも、何も不幸なことはなくて、
何もかも全てが、幸せという色で満たされている。
それが、リリィには答えのように思えた。
心の奥底では納得なんてできていない。
それでも、頭だけならば、なんとか理解できた、理解できてしまった。
何よりも確かなことが、リリィの胸の中にはあったのだ。


「シスター、どうしてるかな……」


思わず飛び出してしまったことを、リリィは悔いていた。
なんて馬鹿馬鹿しいことを考えてしまったのかと、リリィは自分が情けなかった。


この街にいる間のことを思い返して、
リリィは自分の中に確かな思いがあることに気づいていた。


それは、好きだということ。
それは、幸せだったということ。


シスターとずっといた時間が、何よりもかけがえのないものだったということ。
それだけは、何があっても間違いのないものだった。


「でも、でも……」


おばあさんが亡くなっても、誰も悲しまなかった。
誰も涙すら流さなかった。みんな微笑んでいた。
そんな光景は、絶対におかしい。


そのたった一つの事が、リリィの心を縛り付ける。
何度も何度も、同じ事を繰り返し考え続けていた。


どちらに走り出せばいいのかわからなくて、ずっとリリィは同じ場所にいた。
シスターの顔が思い浮かぶたび、教会の中の幸せそうだった人々の顔が甦るのだ。


「あたしは、あんなに泣いたのにね」


そうつぶやいた所で、リリィは、はっとした。


あんなに悲しかったはずなのに、今おばあさんの事を思い返しても、
リリィの心は痛まなかった。本当に、リリィ自身が驚くほど、悲しくなかったのだ。


リリィは街の風景から目を離し、地面を見た。
そこに自分の影が見えた。だが、それはうっすらと消えかかっていた。


とても長い時間、リリィはそれを眺め続けた。
信じられなくて、最初は頭が動かなかった。
やがて大地に水が染み込むよう、リリィは理解しはじめた。


決断をしなければいけないということ。
リリィは、静かに顔をあげた。


2つの想いが、リリィの中で揺れ動いていた。
まるで水と油のように、その2つの想いが交わることは決してない。


心を決めなければいけなかった。
ぐっと手を握りしめ、唇を噛んだ。
また涙が出そうで、しかし、それは堪えなければいけなかった。
リリィは決心し、そして、急いで教会に駆け戻った。





   【7】


「シスター!!」


リリィは大声で叫びながら、教会の中に駆け込んだ。
シスターが教会の一番奥、女神の像の前で立っていた。
そこは2人が初めて会った時と同じ場所だった。


「あたし、もう行きます、今すぐに。お別れの挨拶を言いに来ました」


「そう、この街には残らないのね」


シスターは、静かにうなずいた。
その時のリリィには、いつものシスターが見えていた。
自分が大好きだった、いつものシスターだけが見えていた。


「あ、あたし、シスターの事が嫌いになったわけじゃないんです。
 この街も嫌いじゃないです。でも、でも、なにかが違うんです。
 あたしにも良くわからなくて。けど、それでも、あたし……」


リリィは大きな声で叫ぶが、その声は震えていて、目は潤んでいた。
やがて震えは全身に広がり、押さえきれなくなったものがあふれ出す。


「あ、あたし、シ、シスターの、こ…と……」


あふれた悲しみは、涙となって床に落ちた。
とめどなく思い出されるシスターとの思い出が、雫となって落ちていく。


どれだけの暖かさをくれたのだろう。
どれだけの幸せをくれたのだろう。


感謝の気持ちは言い尽くせないほど、言いたい事は星の数ほどあるはずなのに、
どれもが言葉にならず、ただ雫となって落ちていく。


どんな言葉も口に出すと嘘のようで、
どうすればシスターに自分の思いを伝えられるのかわからなくて、ただリリィは泣いた。


そんな自分が歯がゆくて。
最後の言葉すら言えない自分が情けなくて。
悲しみが勢いを増していく。


涙は幾筋にもなってリリィの頬を流れ、静かに床に落ちていく。
言葉にできない思いが、とめどなく落ちていく。


シスターは、そんなリリィにそっと歩み寄った。


「いいのよ。あなたが決めた事なんだから」


シスターは、リリィを抱きしめた。
リリィは、シスターの腕の中に包まれて、その暖かな体温を感じた。
今までに感じたことのない、まるで母親に抱きしめられたような幸せの中、泣いた。


胸に顔を押しつけ、その服を汚すのも気にせず、涙で、大きな染みをつくった。
迷子の子供が、母親を見つけた時のように、
その体にすがりつきながら、ただ泣き続けた。


やがて、涙が言葉に変わった。
言いたかった言葉、言わなくてはいけない言葉を、リリィは思い出した。


「あ、あたし、シスターの事が大好きです。お母さんみたいに、優しくしてくれて」


すすり泣きながらも、確かな声で言う。


「あたし、ここに居たいと思ってたんです。ずっとずっと、いっしょにいたいって。
 シスターがいいって言ってくれたら。ここに住んで、シスターのお手伝いして……」


「そんなの、いいに決まってるじゃない」


シスターの言葉に、リリィは、また大きく泣いた。


「そう言ってくれるのがわかってたから、だから……」


シスターは、ぎゅっと強く、リリィを抱きしめた。


「で、でも、だめなんです。あたし、この街は……」


「もう、いいわ。大丈夫、あなたの言いたい事はわかってるから」


そう言ったシスターは、リリィを優しく抱きしめ続けた。
リリィは、その暖かな幸せの中で、いつまでも泣き続けた。






   【8】


やがて、長い長い時間の後、2人はどちらともなく離れた。
シスターはいつものように微笑み、リリィは泣きやんでいた。
その真っ赤に泣き腫らした目で、リリィはじっとシスターの顔を見ていた。


「あたし、シスターと別れるのが、とても辛くて、悲しいです」


リリィは、自分の言葉を強く語った。
そして、そっと胸に手をあてた。


「でも、この辛くて悲しい気持ちは、きっと大切なものだと思うんです」


強く、リリィは胸の前にある手を握りしめた。
自分の気持ちが緩んでしまわないよう、どこまでも強く。


決心して開いたはずの口が、何度も空を噛んだ。
その顔からは真っ青になるほど、血の気がひいていた。


シスターは何も言わず、リリィを待っていた。
長いあとに出た言葉は、二人だけの教会に静かに響いた。


「シスターは、あたしと別れる事が悲しいですか?」


真っ直ぐに、臆することなく、リリィはシスターを見ていた。
それはとても勇気のいることだったが、そうしなければいけなかった。
その問いに、シスターは、すぐには答えなかった。
挑むようなリリィの顔を、ただじっと見つめながら、時をゆっくりと流していた。


「いいえ、悲しくないわ」


ゆらりと、その瞬間、リリィの瞳が揺れた。
微かな空気のよどみが、全身を包みこんだ。


胸の奥底に、真っ黒の気持ちが浮かび上がってくる。
まるで影のように、悲しみという気持ちが、リリィを喰らおうとする。


だが、それに負けるわけにはいかなかった。
悲しみに負けてしまうことは、リリィには許されなかった。
なんとしてでも、それを振り払わなければいけなかった。


「あたし、さっきまで、この街が本当は正しいのか、
 それとも間違っているのか、よくわかっていませんでした。
 みんな幸せそうで、あたしもそうだったから。でも、今はっきりとわかりました」


シスターは微笑んでいなかった。
リリィは、最後の言葉を口にする。


「あたしはシスターが大好きです。別れるのは、とても辛いです。
 だけど、その辛い気持ちは、シスターが好きだから、だからそう感じるんです。
 あたしは、シスターに言った気持ちを失いたくありません。
 だから、あたしはこの街を出ていきます」


その一瞬、リリィは口を閉ざした。
それ以上はどうしようもなくて、シスターの瞳から逃れるように、お辞儀をした。
そして、本当に最後の一言を告げた。


「さようなら」


リリィは急いでこの場から立ち去ろうとした。
別れを悲しまないシスターは、見ていられなかった。
今この時だけは、いつものように微笑んでいて欲しくなかった。


「待って」


シスターの声が、強く響いた。
教会の出口に向かっていたリリィは、思わず足を止めた。


「1つだけ言わせて欲しいの。もし私が影を、悲しみを持っていたとしてもね。
 その時でも、私はあなたとの別れは、悲しまないと思うの。
 少なくとも、あなたに、それは見せないと思うの」


リリィは、背を向けたままで聞いていた。


「あなたは、あたしの事をお母さんみたいって言ってくれた。
 私も、あなたのことを、自分の子のように思っていた」


リリィの耳に、シスターの足音が聞こえた。
こつこつと靴音が響いて、近づく気配を教えていた。


「あなたはとても立派だった。自分で悩んで答えを出してくれたから。
 それにあなたは、私のことを大好きだって言ってくれた。
 それは、私にとっても、とても嬉しいことなの。
 きっと、その喜びは、別れの悲しみより大きいはずだから。だから……」


リリィは、そっと後ろから抱きしめられた。
それはちょうど、シスターとリリィの顔が触れ合うように。


「私は、泣いてるあなたを笑って送り出してあげるの。きっと、どんな時でも」


リリィの頬が、濡れた。
それは、リリィの涙ではなかった。


リリィは、シスターの腕の中で、なんとか体を動かして、後ろに向き直った。
シスターは、微笑んでいた。


その顔はいつもと同じ幸せそうな笑みだったが、
今までリリィの見た中でも、一番、美しかった。


その優しい瞳からは、一筋の涙がこぼれ、それが頬を伝っていた。


「嬉しくても、涙は出るでしょう」


もう一度、リリィは泣いた。
それは別れの悲しみからではなかった。


シスターと同じ気持ちで、嬉しさがこぼれた。








   【9】


空は青く澄み渡っている。
強い太陽の日差しは、時折、大きな雲にさえぎられ、
そんな時には大地は、真っ黒な影で覆い尽くされる。


リリィの目の前には、一面に緑色の海が続いていた。
腰のあたりまで伸びた背の高い草が、あたりを埋め尽くしている。
たえまなく吹く風が、そんな緑の海にやわらかな波をつくっていた。


リリィは、一度だけ振り返った。今出てきたばかりの街が見えた。
その街の名を書いた看板が、リリィの目にとまる。


【影を食う街】とある。


しかし、よく見ると、その看板には修繕された箇所があった。
一文字だけ、上から塗りつぶしたようになっている。


【影が食う街】と、それが、街の昔の名だった。


だが、リリィがそれを知ることはない。
かつて街が影に覆われ、悲しみの中にあった事も、
シスターに聞いた以上に、リリィが詳しく知る事は永遠にない。


リリィが街を見るのをやめ、草原に目を向けたその瞬間、街は消えていた。
そこに街があったということすら嘘のように、何もなくなっていた。


リリィは、そうなることを知っていた。
だから、もう振り向いたりはしない。


消えた街には、2度と行くことはできない。それが世界の決めたルールだ。
決して違えることのない、旅人と世界の間に交わされた、1つのルールだ。


旅人は街から街へと、自分だけの力で旅をする。
その歩む道に後ろはない。ただ前に続く道だけがある。


それぞれの旅人が持つ、その目的を達成するために。
後ろに戻ることはできない。体を休めることはできても、前に進むしかないのだ。

リリィは、目の前に広がる景色を眺めていた。
もう振り向くことはしない。果てのないほどに続く大地に、目をこらしていた。


空では、太陽が輝いている。
まるで影すらも消えてしまいそうな、そんな出立にふさわしい光だった


リリィを深く息を吸い込んだ。
両手を高く掲げ、大きくのびをする。


「次の街はどんなところかな?」


元気よく叫び、勢いよく草原の海を泳ぎだした。









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