長いようで短かった五年間のコーチ生活が終わりに近づいてきました。
私は、決して、生徒のためを思って今までやってきたとかいう偽善的なことは言いたくない。
まず第一に、私は自分の趣味としてコーチをやってきました。それは本当です。
しかし、最後にこれだけは言わせてもらいたい。
たとえそういう面があったとしても、決してそれだけではなかったということを。そのことだけは本当に分かって欲しい。
正直、途中でやめようと思ったことは何度もありました。
自分が練習させることで嫌な思いをする子が多いんじゃないか。サッカーをやりたくてやっている子たちの迷惑になるんじゃないか。部外者の俺が口出しするのはどうか。
そういうことは毎日考えていましたし、自分の存在が迷惑であるということに対してはかなり自覚的であったと思います。
それでも、やはり僕がコーチを続けたのは、もちろん自分の楽しみのためでもありましたが、やはりそれだけだったとは言いきれない面もあるのです。では何のためか?
それは、なんとかこの無茶苦茶な状態にある部活をある程度まともな部にしたい。そのことで、一人でも多くの、心から陸上をやりたいと思っている生徒(いなかったか)が過ごしやすい環境を作ってやりたい。そういう思いが私の五年間を支えていたと言っても過言ではない。(そうでもないか?)
そういった色々なジレンマを抱えながら、できるだけ自分の考えの押しつけにならないように。そして何よりも、生徒一人一人が結果を出させられるように、そのことを妥協させながらうまく両立させてきたつもりです。
ですから、私はできる限り生徒の自由とかやらを尊重し、練習メニューも強制することなく、出席に関しても顧問の意向を尊重し、生徒の都合を再優先させて、厳しいことは言ったことがありませんでした。
私は大学時代体育会の陸上部にいましたから、無断欠席の日常化とか、平気で約束を破るだとか、ほとんど頭の障害としか思えないわけのわからない逆ギレとか、色々信じられないこともたくさんありましたが、それでも途中で自分の仕事を投げ出すような無責任だけはするわけにいかないと思いがあって、今日までコーチをやってきた。
そのように、今日まで曲がりなりにも陸上部に貢献してきたつもりの私から、最後にひとつだけ言わせてもらいたいことがある。これくらいは言わせてもらっても罰はあたらないだろう。
俺が教育現場にたずさわることで見えてきた、教育の病理とはこういうことだった。そして、それはこの国が現在さらされている、有史以来最大といわれる人心の荒廃の、典型的なあらわれであったと思う。
一言でいえば、今の教育現場の最大の問題は、生徒も教師も親も、権利とか自由とかいう言葉の意味が全然分からないことである。
これは前も言ったが、権利と義務は本質的に表裏一体であり、義務を果たさない権利などというものは存在しない。同様に、束縛のない個人の自由などというものは、この世界の意味を全く問いかけていないことによる誤解に過ぎない。
人間は生まれながらにして基本的な人権を有するなどという戯言を一度も私は信じたことがない。
人間の生命などに価値などない。
人間は生まれながらにして死を定められていることにのみ平等であり、いつ殺されても文句などいえないはずだ。それが本来の姿である。たとえ明日俺がナイフで切り刻まれたとしても仕方がないだろう。それは、決して償われることなどないだろうし、明日になればきっと忘れられてしまうような小さなことだ。まるで森田のレーンアウトが忘れられていくように、マラドーナの薬物使用が忘れられていくように。どんな不正もどんなインチキも忘却へ向かって進んでいく運命にあるのだから、それに対する抗議など本来は無意味なはずだ。
しかし、幸いにして私たちは今日、そのような野蛮を回避して生きることができる。このような物質的な豊かさの中で死の恐怖から逃れながら、今日もまた死へと一直線へと向かって生きていくことができる。
しかし、それは本来的な世界の姿ではない。ただ、法律と国家の下にのみ可能な、目隠しをした綱渡りのように危うく、はかなくも悲しい空中楼閣に過ぎない。その幻想を皆が信じることによってのみ成り立っているのがこの世界だ。
そして、そのような世界を可能にしてきたものは何だったのか?
それは間違いなく過去に生きてきた人たちの努力だ。
今日我々は、権利という言葉を自明のもの、アプリオリに存在しているものだとみなすことにためらいが無い。しかし、そのような権利などというものが認められるようになったのはたかだか200年くらいの人類の歴史の中で見れば極めて短い時間の出来事に過ぎない。
だが、無条件にその権利と自由とを享受することができる今日において、我々はそのことを忘れてしまったらしい。
フランス革命の闘士たちは自らの身命をかけて自由を獲得しようとした。バスティーユを襲撃したときに銃に撃たれて死んだ彼は、それでも後悔はなかったはずだ。彼は、身分制度という束縛から開放されるためには何だってやったし、たとえそれが死という結果に終わったとしても幸福を感じながら死ぬことができた。彼にとって、権利とは命を賭してまで獲得しなければならないもの。命を賭したときに初めて「権利」というものの意味が表れてくるのだ。
この世界にある価値など、本来は、何も保障されていないはかないものだ。それは、生きる権利でさえもそうだ。そこに価値があるのは、人がその価値を認めるからであって、認めるというのは、そのためになら死をも恐れないという覚悟を持つということだ。もし生きる権利を主張するならば、その権利が犯されそうになったとき、死を覚悟して闘わないといけないし、それ以上に、その生きる権利を支えているものが、決して個人だけではない社会全体であることは少し考えれば分かることだ。従って、個人の権利を主張するならば、それを可能にする社会を守っていこう、継承していこうという義務を負わなければいけない。そうしなければ、明日殺されたとしても文句は言えないのだ。
アングロサクソンを中心とした帝国主義の野蛮は、アジアの人間たちをどれだけ苦しめただろうか。インドでは数十万人の人間の手が切り落とされ、海岸には死体が並んでいた。アジアの人間に生きる権利などないという考えに基づくイギリス人の馬鹿げた行為は今日完全に忘却の彼方にある。そのような、野蛮に常に晒されていた時代に、我々の先祖が明治維新の時代にどのように列強と戦ってきたか。私たちは完全に忘れてしまったのだろうか。もし、あのとき彼らが、あのようなアメリカやイギリスの不等な支配への欲求から、この愛しい日本を守ろうとしなかったならば、我々は今日のような繁栄をしてこれたのか?完全なる欧米の属国となり多くの日本人がインド人の大量虐殺と同じような目にあったとしたら、どうなっていたのか分かろうとしたことがあるのか。
そのような抵抗の下に、ただ先人の努力の下でのみ、我々の自由と権利というものは獲得されたのだ。
だが、今日そのようなことを思うことのある日本人がいかほどいるのだろうか。
ただ、あたりまえのようにあると思っている権利、自由。それを行使することにはためらいがない。しかし、その裏にある義務、束縛について考えようともしない。考えられない。
我々の生きる義務とは、そのような努力をしてきた先人たちの力によって生かされているということを自覚することだ。そして、そうやって築かれてきた遺産を、自由を権利を守ろうとすること、この文化を継承していこうとする意志。そういった義務を果たして初めて、権利をいう資格があるだろう。そのような畏怖の念を持たないということは、君が今日生きていることを支えているものを否定することであり、それは殺されても構いませんと言っているのに等しい。そのような、生き方をしたいのなら、そうすればいいし止めはしない。ただ、そこにあるリスクというものをあなた方はどの程度自覚してるのか?リスクを持たずに自分の主義主張が通ると思っているのは醜悪でしかない。はっきり言って幼稚園児が泣き喚いているのと変らないではないか。
そのような簡単なことも知らない人々が大量に生産されていった結果は何だったか?
我々は、ひたすらに自分の利潤のみを追求し、他人の迷惑など顧みないで、国土を自然を破壊し、過去の人たちの思いを、我々が幸福に暮らせるように努力した先人の死体を踏みにじるように、あらゆる伝統的価値を馬鹿にし、文化を陵辱し、そこから何も汲み取ろうとしてこなかったではないか。過去に対する畏れ、自分の権利を支えているものへの想像力の欠落。それが、どのような事態を招くか、我々はまだ気付いていない。喪失感の欠落。我々が忘れてしまったことを忘れたということを思い出さなければ、今後十年で取りかえしのつかない事態が起こることは、少しでも誠実に生きてきたならば、容易に分かることであろう。
そして、今、この教育現場の荒廃ぶりは何だ?文部科学省の三流役人たち、よく聞け。おまえらはエリート面して偉そうに「ゆとり教育」とかアホな政策ばかりを出しているが、この現場の悲惨を見たことがあるか?もはや、日本の荒廃は救いようがないレベルにまで達していることに気付いているか?
早稲田高校陸上部の関係者諸君へ告ぐ。
顧問の先生へ。
サッカーをやるという子供の権利を認めるのは結構ですが、それではタイムを伸ばしたいのに伸ばせない子供の権利はどうなるのですか?
あなた方は、部活の運営に対して絶対的な決定権を持っているそうですが、その権利が、部活全体の運営を円滑にしなければいけないという義務を果たしている上で可能なものだということは、まさか、今まで生きてきて五分でも、まじめにものごと考えたことがあるなら分かりますよね?で、一年で一回も部活に来なくても、そういう義務は果たしているとお考えでしょうか?
父兄諸氏へ。
部活には来ないでも、試合に出る権利があるそうですね。
それでは、部活を運営するのに協力してくれている部員たちの存在はどうなるのでしょうか?
他の部員たちは、練習するだけではなく、試合の登録に行ったり、皆で交代してタイムを取ったり、予算会議に行ったり、後輩の面倒をみたり、どうやったら速くなるか皆で議論したりしています。そういう子たちの立場はどうなるのでしょうか?そういう仕事をする部員がいて、初めて部は成り立っているのではないですか?その子たちはあなたの子供の召使か何かなんですか?少し真面目に考えてくれれば分かりますよね。それでも試合に出る権利とやらがあるのですか?試合に出る権利は、この陸上部という共同体で可能な限り協力するという義務を果たしたときにしか認められないと思いませんか?それとも、部費を払っているからよろしいとお考えでしょうか?
部員とOB諸君へ
練習を無断で休む権利ですか、随分御立派になられましたね。では、あなたがたが練習に来るのを待っている私たちの時間に対する損害賠償はして頂けるのですかね?まさか嫌だとか言えませんよね。
試合に来ない権利。これまた、素晴らしくて涙がでますわ。それじゃあ、登録料と我々の交通費、しめて一万円ほど頂きたいのですが。よろしいですよね。もちろん。
練習に来て遊んでいて周囲を不快にさせる権利を認めてほしいですか?良いですよ。どうぞ御自由に。もちろん、不愉快な思いをしたものが、あなたを金属バットで殴っても文句はありませんよね。むかつくから殴りたい権利も認めてくださいよ。
「先輩がサッカーしたいなら仕方ないんじゃないですか?後輩は従うだけですよ。」だそうですね。これは生まれて初めて私聞いたことで、本当にありがたくて、殴るのをこらえるのが大変でしたわ。じゃあさ、後輩がもしかしたらサッカーやらずに真面目にやっていたらもっとタイム伸びていたのに伸びなかったらどう責任とるわけ?先輩としての権利ですか。僕には後輩がちゃんと練習する権利の方が大事だと思われますが、これは僕の誤解なんざんしょうか。
義務を伴わない権利。覚悟の無い権利。死を覚悟しない権利。もううんざりだ。
君たちは権利を主張するときのリスク。約束を破ったときのリスクを知っているのか?そりゃあ、知らないわな。学校で微分積分は習っても、人としての道は教えてくれないもんね。コーチとか顧問に挨拶もできない親御さんのもとでは、きっと生まれてからこのかたそんなこと教えてもらったことなかったよね。そりゃ気の毒だわ。かわいそうで、かわいそうで、俺は涙が溢れて止まらないよ。
まあこんなこと言っても無駄だね。OBも偉そうなことばかり言って、この現場の混乱に対して無関心のくせにさ。
コーチやめるとか言っても、「どうぞ御自由に。あなたが勝手にやっていただけですから。」くらいにしか思われていないんだからさ。飼い犬に噛まれるとはこのことだ。俺もアホなことしたよ。時間と金の無駄。で、挙句の果てに皆に迷惑かけてね。ま、これからは、皆さんで協力してメニューとか考えてやってつかあさいよ。今まで随分ご迷惑かけてすいませんでした。もう二度と現れません。さようなら。