ザテレビジョン別冊・重戦機エルガイム‐2 (角川書店発行・昭和60年4月1日発行)より 異星人たちへ 文・富野由悠季 某アニメ誌に“トミノ効果”という言葉があって、ギョッとした覚えがある。 小生が関係する番組であれば、途中つまらなくとも、最後にはトミノ効果による 霊験あらたかな力が発揮されて、番組が面白く終るだろうという意味らしい。 そのように期待される僕は、ありがたいと思う。 そんなに力が自分にはあったのかと感動もする。 が、言われる方は見が細る思いがする。 はからずも、その証明となってしまったのが、エルガイムである。 不幸な作品だと思う。 なんでこうなったのか……。 その理由は明白である。 その理由は、大人の世すぎの言い訳なのだから書いてはいけないことなのだが、書かせて貰う。 率直に書いておかないと、忘れてしまうからだ。 周囲の大人達が……。 このエルガイムについての批判の代表的な文章は、オンエアが始まって日ならずして、 僕に届いた手紙の内容に尽きる。 つまり、 「トミノ作品を期待して見ていたのに、エルガイムはなんだ! 番組を若い連中の教育に利用している!それは作品作りではない。 テレビに対しての冒涜だ!あなたは創作者の立場を放棄したのか!」 が、エルガイムが終了して思うことは、 時には、番組制作を若い人の教育機関として利用させていただいても良いのではないか? という感触であり、それは、今でも変わっていない考えである。 この僕の思い切りが、エルガイムの不幸と、ハッピーさを生んだ。 そのハッピーさの部分に、エルガイム故に手に入れることができた成果がある。 しかし、その成果が、僕に関係のない部分での成果であると言うことが口惜しい。 アニメは、いまや芸能であり、かつ、かってのように学芸レベルのものであるという 両極を備えたジャンルとして成長してしまっている。 今後は、この広いテリトリーの中で業務をこなしていかなければならない時代に突入している。 かって、映画が、TVというメディアに出会ったと同じ変革の時代に入っているのだ。 表面の見え方は違うが、変革としては、同質の問題を含んでいる時代なのである。 その時代を迎えた現在、日本サンライズでさえも、 そこは、大人としての偉い人々の固りになってしまっている。 そんな大人たちだけの発想で、若い人たちに見て貰えるような作品は作ってはいけない。 革新的な作品を作る事ができるスタッフというのは、所詮は、三十代までである。 それは、かっての日本サンライズでも、そうであったし、そうして来たのだ。 が、大人は、自分の主権を奪われることが怖いために、若い人の参加を危険視する。 若いスタッフに任せて、もっと巨大な成功を手に入れれば、 そのピンハネだけでメシが食えるとは思わないのだ。 それでは恥かしいし、現場としてはヤバイから……と。 しかし、中森明菜を使ってみせるプロダクションの大人たちを笑う人はいないだろう。 それが、まず、芸能の世界の生き方である。 そして、もう一方の学芸レベルということでは、 確実に生き残る作品を創作するという堅実さである。 サザエさんのように……だ。 成功作品などは、ある日突然、その時代の代表選手が、生むものであって、予定などはできない。 にも拘らず、大人たちは、自分たちの考えられる経験律で物事をあてようとする。 勘でしかない、運でしかないとは思いたがらない。 そう思った瞬間に、自分の存在意義がなくなると思うから、この考え方を大人たちは拒否するのだ。 「ゴーストバスターズ」のプロデューサーとディレクターたちは、 この作品が、これほどにヒットするとは思いはしなかったろう。 さて、僕には、時代に対応をしてやってゆくだけの能力は持っていないということは分っている。 その自己分析は、決定的に正しい。 なぜならば、既に年齢が、若くはないからだ。 その事実を謙虚に受け止めた時から、エルガイムの総監督のやり方を見られるような形にした。 そうでなければ、永野君に代表される年代のスタッフが、 これほどまでにエルガイムで主権を取ることはできなかったろう。 永野マシンとキャラクターは生まれなかったろう。 現在、それが将来の成功を約束するスタッフの登場かどうかは分らない。 そんなことの疑義は、重要ではない。 それこそ大人たちのやる仕事だ(が、そんな討論は仕事ではないのだがね)。 このスタッフのリフレッシュ感覚を投入して、アニメはやはり面白いと世間に感じさせて、 長くアニメの仕事をさせてもらうのか? TVアニメの仕事を生活協同組合にしてしまって、 早晩、アニメがTVの世界から追放されるのを待つのか? このどちらを選ぶかは明白である。 その当たり前なことを実践する機会を得るために、エルガイムを利用したのである。 その業務が、僕にとってのエルガイムの全てである。 そして、その時代感覚の違いの味つけが、アニメにとって、 キャビアのようになるであろうと感じたのである。 ナガノ世代は、僕のような“おじさん”にとっては、異星人である。 僕は、彼の描くマシーンもキャラクターも大嫌いだ! 永野君が、ヘビーメタルは大嫌いだ、と言うように嫌いなのだ。 が、その永野君の存在を手に入れていかなければ、  ア ニ メ は ヤ バ イ ヨ !  ということになる。 既に、その作業は、他のプロダクションではやっているのである。 が、日本サンライズは、部分的にしかやろうとはしない。 それでは、事態は見えては来ない。 姑息ではいけないのだ。 作品上のトミノ効果などは、トミノ個人を安心させ、トミノ個人の延命策でしかない。 そんなことでは、アニメ全体がパワーダウンするだけのまやかし行為でしかないだろう。 だから、今回は、トミノ効果をスタッフ編成の為にだけ使ったのだ。 しかし、本来、このようなことに使うべきことではない。 が、大人の世界、状況というものは、アニメ一本を作る以上のパワーを吸いこむのである。 これが社会なのである。 だから、疲れるのだ。 だから、大人たちは、いつもいつも不満たらしい疲れた顔をしているのだ。 でなければ、お父さんたちは、もっと楽しい顔をできるのだがね……。 みんなで疲れる原因を作って、皆で疲れている……。 それが、エルガイムの世界でもある。 ペンタゴナの世界は、もっと現実的に僕の生気を吸い取ってくれた世界だった。 その原因の一端は、渡辺ストーリーにあり、永野キャラクターにある。 あの、ファンネリア・アムとガウ・ハ・レッシィ、 フル・フラットとミアン・クー・ハゥ・アッシャーたちだ。 少なくとも、彼女たちがいなければ、僕だって、もう少しは元気に作品を作ってゆけただろう。 が、ナガノ(ここからこの表示になるという意味を考えて欲しい!)の作り出す彼女たちは、 僕にとって異常すぎた。 あまりにも、異星人なのだ。 だから、彼女たちの欲求不満を晴らす方法を、僕は、想像できないで終った。 ナガノの描く男たちが、もっと女たちの気持ちを考えてくれる男であったら良かったのだが、 ナガノの描く男たちは、男ではなく、中性でありすぎた。 そんな男たちが、女たちを満足させられるのだろうか? 僕という年代は、あのナガノ絵を見て、そう感じる。 古かろうがなんだろうが、女を満足させるのは、男でなければならないと思っている。 その女たちの求めている男たちに対して、女に近いメンタリティを持った男たちでは、 所詮は、女にとってのアクセサリーでしかない。 その偏見は強烈である。 そこに、時代の断絶を感じるのは、読者だけではあるまい。 だから、僕は謙虚で言うのではなく、“おじさん”なのである。 だから、スタッフの世代交替もしなければならないのだという論理が生れる。 しかし、だからと言って、ナガノ世代が絶対ではない。 ナガノ世代が突出すればするほどに、そのあぶり出しの絵のように おじさんの時代が回帰する明日が来るのも知っている。 が、だからと言って、安心はしない。 時代の交錯する時間というのはたえずあることなのだ。 その時の収斂を通して、生きのびるためには、“おじさん”の仕方を見せなければ、 時代は容認はしてくれない。 大人の理論武装だけでは、時代は大人を受けいれはしないのだ。 そして、女が男を強姦するのではなく、男が女を強姦するほうが 生物としてノーマルであろうと思いたい。 それが、おじさんの倫理観であり、それを猛烈に感じさせたのが、 僕にとってのエルガイムであるのだ。 だから、こうした。 (了)