『ファウ・ファウ物語 下巻』角川文庫 昭和62年3月初版発行 あとがき   あるかも知れぬ話なれば、あるかも知れぬと思い、繰り返す物語とした……                                   富野由悠季 『とんとある話。あったか無かったかは知らねども、  昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?』 大江健三郎氏の『M/Tと森のフシギの物語』で、 おばあさんが、『僕』に昔話を聞かせる時に、なんどもなんども口にした言葉です。 この枕言葉は、『M/T』を支配し、 伝承と『僕』が体験した過去と現在の現実まで支します。 そのディティールを知りたい方は、その作品を読むことをおすすめしますが…… ここでは、『M/T』の所感を語るつもりはありません。 しかし、ぼくは、ファウ・ファウ物語の執筆を終了した後に、 この『M/T』に接して、『昔のことなれば……』の語り口が持つ 摩訶不思議さに圧倒されて、涙を流しました。 なぜなら、ぼくがファウ・ファウ物語を書き始めた本当の理由は、 『M/T』に示されているような構造に触れたかったからだと分ったからです。 しかし、曖昧な意識では、 虚構を現実まで引き上げさせる力など持たせられるはずがありません。 ぼくのは背後には森がなく、 ぼくは根なし草なのだという痛烈な事実を思い起させるだけなのですから…… (勿論、読者はそれだけでない別の理由も御承知でしょうが……) しかし、ひらき直って『M/T』は『M/T』で、 ぼくには、こうしか書けなかったという現実を直視するしかないのです。 ぼくは、自分の本能のどこかにある指向と、ぼくの能力のギャップを感じながらも、 昔から人を支配したであろうなにかに迫りたい、という欲望を捨て切れないのです。 ぼくにとって、ファウ・ファウ物語は、 ロボット・アニメのある代表かも知れないガンダムと無縁のものではないのです。 ガンダムを書き始めた時に意識したことは、 ロボットが活躍しなければならない擬似SFの世界に、 人の記憶(別の言い方をすれば、恣意)を投入することはできないだろうか、 と夢想したことに始まります。 そして、その時、ようやく思い至ったことは、 人の意思は、孤立して在るものではないということです。 当たり前のことなのです。 が、そうだろうか? と、疑問に思わざるを得ない賢しさを、 人は一杯もっているのではないか、とも思いました。 それは、なにも、自由主義に代表されるような 思潮の中に現われる誤解にとどまらない、と気がついたことです。 企業、国家、官僚、民族、宗教、専門職主義等々の背景にあるものは、 独自性に名を借りるか、真実に名を借りた独善的志向があると 気づかざるを得なかったのです。 勿論、利益追求の真理というものもありますが…… それは、一般に言われる、例えば、企業が個人を抹殺する、 と言った程度の認識ではなく、もっと根深いものなのです。 危険を恐れずに言うならば、人は、本来、庇護されたいという習性を持ち、 孤立できず、独自の個の存立などはあり得ないという事実です。 こう断定することは危険かも知れないというぼくの感覚が、 すでに、個性とか独自性とか創造性という言葉のマヤカシに乗せられているのでしょう。 当り前でしょ? 生物が、個として存在したことがありましたか? みんな助け合って、共存したではありませんか? 肩を寄せ合い、群れて暮してきたではありませんか? 大人になって、どれだけ賢くなりましたか? 賢くなってはいけないのです。 共存するためには、その群の意思に従って、 妥協する知恵がなければ、村八分になって、暮していけなくなるのです。 だからこそ、人は、夢と希望という名前でもって、 個人の独自性、自由を語るのです。 そうなのです。 なのに、なんで、夢を先にして、生き、暮そうとするのでしょう? 希望を持たないと、堪らないからでしょう。 ですから、ズーッと昔から、自然への畏敬と感謝がないまぜになった夢物語が、 口から耳へ、耳から口へと語り継がれたのです。 そして、それは、いつか、現実の中に紛れ込んで、 現実を支配とする力ともなってしまったのです。 たとえば、古事記に書かれたことが、現実の国家の源として作動するように…… それは、いけないことなのでしょうか? いえ、それがおくびょうで、脆さを持つ人の夢なのです。 それがなければ、たとえば、日本人は寂しいのです。 その寂しさ故に、神話さえも現実を構築する要素として利用し、 現実の苦しさを回避する手段として利用してしまうのです。 昔から、人が語った物語は、 口先だけのものではなく、文字の中だけのものでもなく、 まして、意識の中に封じ込められただけのものでもないのです。 現実を支えるものなのです。 それが、ぼくにとっては、バイストン・ウェルでした。 勿論、ぼくは、ロボット・アニメの監督ですから、 一度は、バイストン・ウェルの世界を、 ロボットを動かすための世界として利用しました。 つまりは、ビジネスをする上での道具として、描写するところからはじめたのです。 ところが、 『あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!』 と言うに似た言葉を聞いた時から、 それは、個人の創作物以上に、現実のものになったのです。 『M/T』の森の世界では、 人々は暮しの中に、やすやすと、しかも、巧妙に物語を取り込んで暮して来ました。 それは、人にとってやんごとないことのように感じられます。 であればこそ、我々は意思して物語を創出して、 昔ならば、森が残しておいてくれた物語を、 今、語り継がれなければならないと夢想するのです。 勿論、ひょっとしたら、海の物語かも知れないのですが、 ともかく、それらのものが蓄えてくれた激しさを決して忘れてはならないと思うのです。 それが、おおげさに言えば、ビビットな心を温存させて、 現代的な危機を回避する唯一の方法となりましょう。 現代、社会の表面に現れていて、 一見、社会全体を支えているように見える各種のスペシャリストたちは、 それぞれがマニアークな世界に陥って、 世界を大観することを忘れてしまっているのではないかという想像は、 本当に恐ろしいものです。 なにもそれは、アニメとかコミックスとかパソコンとか、 ホビーの世界だけのことではなく、 政治や金融や科学技術の研究開発の世界やセックスやペットの考え方まで含めた、 全ての分野にいえることなのです。 それらのことごとが、それぞれの壁を作って、 その中に閉じこもって、しかも、一番怖いことは、 それが現代の言葉なのです、流行なのです、正義なのです、 と語り継ぐ癖を持ってしまう社会の恐ろしさなのです。 その現実を 『あることなれば、あることとして、認めなさい』 『ウン!』 とは、答えられないボクの直感なのです。 人は、一人では生きていけません。 人は、この世に在るもの全ての関係の中で、生かされているのです。 そんな語りかけを、森に代ってしなければならない現代という時代は、 本当に危険なのです。 ですから、ファウ・ファウ物語には、繰り返す物語という意味で、 リ・ストーリーというルビを振ったりもしました。 それは、今、現在、ぼくが生かされている 現実のひとつでも覗いて見たいという欲望の現れなのです。 繰り返さなければならない。 繰り返さなければ、きっと、ぼくは、死んでも、 根なし草で終るのだろうという恐怖に取り付かれているのです。 ですから、書くのです。 今度は、ファウ・ファウと森に行ってみたいものです。 もし、酸性雨に犯されていない森があるのならばの話ですが……