ニュータイプ1991年9月号より、シド・ミード×富野由悠季対談。 富野 まずお伺いしたいのは、以前、NHK衛星で放送された番組の中で、 「デザイナーは“近未来に対する窓にならなければならない”」 とおっしゃっていたことについてなんです。 実は、このことばに非常に興味を覚えまして。 つまり、これは一般の人々に未来をのぞかせる、ということだと思うんですが、 ところが日本の現状はどうかというと、特に若いデザイナーを中心に、 自分たちの単純な思い込みのはけ口にしかなっていない。 そんな中で、デザイナーの役割、デザイナーとは何か? ということをもう一度、直接お伺いしたいと思うのですが。 ミード もちろん、デザイナーの仕事において基本となるのは  何かしらのビジュアルを描く、つくり出すということです。 しかし、だからといって、ただ単に何かを描けていればいいというわけでもありません。 もし描くことが好きでこの仕事を始めたのなら、 何かしらのイメージをビジュアルで表現したいのなら、 まず、自分の中にある考えを誰かに見せたいという思い入れを持つことが大切です。 そして、その思い入れの中で、自分の考えを表現するための技術を磨いていくのです。 そうして磨かれた技術は、そのものがひとつのことばになっていきます。 ただ、デザイナーという立場から見た場合、それだけではいけません。 さらに、それがビジネスとしてペイするかどうかが問われてくるのです。 ご存知のように、デザイナーの仕事はその大部分がカスタム的なものです。 例えば、映画であれば、ストーリーをより良く、効果的に見せるとか、 建築なら建造物をより美しく見せるというように、 常に何かしらの明確な目的がそこにはあります。 その目的を、自分の言葉でどれぐらい上手く表現することができるか、 あるいは超えられるか、そこでビジネスになるかどうかの大きな違いが生まれてきます。 現在、私のところには世界中から数多くの作品が送られてきます。 しかし、それらの多くは、まだまだ何かしらのコピーにすぎません。 本当の意味でのオリジナルな作品はごくわずかです。 でも、そうしたオリジナルを送ってきてくれるような人には、 できるだけ詳細な返事を書くようにしています。 富野 その場合、アドバイスとして気をつけていることはどんなことでしょうか。 例えば、基本的に、テクノロジーやテクニックにこだわるよりも、 まず自分が理想としているものはなんなのか、 未来に対する可能性の中でアイデアとしてもっているものはなんなのか、 そういった何かを発見することが大切である、とお考えのように見受けられるのですが。 ミード 何よりも大切なのは、 自分の個人的な哲学を持たなければならないということです。 他の表現手段でも同じだと思いますが、 例えば未来をできるだけ正確に真摯な姿勢で描こうとする時、 そこに要求されるものはとてつもなく大きくなってきます。 そうなると、何かちょっとした物を描いてみようとしても、 とことん突きつめていかなければならなくなります。 その時、哲学の無い人は何も表現することができません。 哲学があって初めて、何か新しい表現を生み出すことができるのです。 富野 僕は、自分がディレクターであり小説家であるということで、 どうしてもデザインという作業を第三者的に見てしまう傾向があります。 そういった立場から見ますと、これは無責任に聞こえるかもしれませんが、 ここ10年ぐらいはどうも未来思考というのが弱まってきているような気がするんです。 例えば、’50年代から’60年代後半にかけては、未来志向が極めて強くて、 そのとどめとしてスペース・コロニーのような考え方が 出てきたりもしたと思うんですが、 現在はどちらかというと、エコロジー的な考え方のほうが支配的になってきています。 その中で、現代という時代を考えると、 もしかしたら、それは次のものを生み出す時期ではなく、 何か、その次に控えているものを学習する時期なのではないでしょうか。 こうした考えは悲観的すぎるでしょうか。 ミード まずいっておきたいことは、悲観論はお金を生み出すということです。 メディアにおいてもショッキングなことが最もエキサイティングですから。 実際、雲仙のような事件があると皆が注目するでしょう。 しかも、そういったニュースは、目に見える解決方法もありますし、 学術的にも説明できます。 つまり、パッケージとして商品になりやすいのです。 だいたい、ショッキングなニュースには、人間の心理をくすぐる点があります。 そこにいなくてよかったという、安全な所から日和見る感覚を。 ダイ・ハードやターミネーターのようなものが受けるのも同じではないでしょうか。 ただ、先ほどの悲観論という話になりますと、社会的、組織的な問題といいますか、 現在の官僚機構がもつさまざまな矛盾が生み出したもの、 ということもできると思います。 もし一所懸命に働けばそれなりに報われる、といったベーシックな目的が明確なら、 そんな悲観論が支配的になることもありません。 しかし、今の社会はといいますと、とてもそこまで煮つまってはいない。 もっとより良い方向に向かわなければならない状況にあるのです。 ただ、だからといって悲観的ばかりになる必要もないと思います。 例えば15年前、中国は食糧危機のために国が立ち行かなくなってしまう と多くの人が考えていました。 しかし、いまだにそうなっていません。 それどころか、肥満児が問題になる、といった現象さえ現れてきているのです。 これらは、社会的、組織的な改革が状況を改善した かっこうの例といえるのではないでしょうか。 富野 でも、組織によってあらゆることがなされるようになると、 今度は個人のロマンや欲望、イマジネーションといったものが なくなってしまうのではないでしょうか。 そうなると、デザイナーにも影響してくると思うのですが。 ミード そういう考え方もあるかもしれませんが、 逆に個人は変わらないといった考え方もあります。 結局は、企業にしてもそれを支えるのは個人ですから。 今でも、革新の原動力は組織ではなく個人なのです。 現に、進んだ企業では個人に自由な環境を与え、 その中で思いのままにアイデアを出させるといったやり方が主流になってきています。 ただその反面、今度は新しいものをいかに判断するかが難しくなってきていると思います。 例えば、トランジスターにしてもファジーにしても、 生み出したのはアメリカなのに、実際にそれをつくっているのは日本です。 これからは、ただアイデアを生み出すだけではなく、 それをどう使うかも重要になってくるでしょう。 そのとき、大きな企業というものが足枷にならなければいいが、と思いますが。 富野 そういった個人と企業の関係から見ますと、 デザイナーはアイデアの提供者ということになるのですが、 日本では、個人で提供しようとしても、あるいは提供したとしても、 それが企業の実績になってしまうんですよ。 本来は、もっと個人が全面に出てもいいはずなのに、 結果的には企業の商品になってしまう。 なぜ、日本人はこんなに個人が埋没することを許してしまうのでしょうか。 ミード 私も時々そのようなことを考えます。 実は、私がフォードを辞めたのも同じような理由からだったんです。 つまり、いくら私がデザインをしても、出てくるのはフォードという名前だけで、 決して自分の名前は出てこない。 確かに、車をつくるというのは複雑でやりがいのある仕事でしたが、 でもほかにももっとやりたいことがあるのではないかと。 まあ、若くてナイーブだったこともあるかもしれませんが。 特に車のような製品をつくる場合は、巨大なピラミッド構造がそこにあって、 外からはその全体像しか見ることができない。 個々は埋没してしまうんです。 それでも、中にいればある程度はそれぞれの作業を見ることもできるのでしょうが、 実際にはほとんどの人がそんなことには無関心です。 富野 日本では、工業製品に代表されるように、あらゆる物が無自覚に、 会社のためとかノルマのためとかいった理由でつくられていく。 そういった疑問が日本の奥底にあると思うんです。 だからこそ、個人では話ができない。 本来は、個人があらゆるものに表れてくるべきなのに、表せなくなってきている。 そうした中で、日本人のアイデンティティーがみるみる失われていく。 その象徴が東京なんです。 そこで、東京にはもう未来がないということになるんですが。 ミード 私は未来があると思います。 確かに、日本の社会には閉鎖性とか個人の埋没などといった問題があると思いますが、 それは歴史的な部分からも来ているのではないでしょうか。 日本のように長い間ずっと封建制度の中で生きてきた社会では、 その縦形構造のためにどうしても個人が埋没してしまう形になると思います。 一方、アメリカはというと、もともとがヨーロッパの旧社会に反抗して ゼロから出発した国ですから、基本的に個人を生かそうという素地があったのです。 ですから、日本もまだまだこれからではないでしょうか。 それに、将来にかけてさらにコミュニケーションの手段が発達するようになると、 個人はもっと社会や時間の制約から解き放たれて、 自分の世界というものをもてるようになると思います。 富野 確かに、コミュニケーションの発達には、  そういった個人の暮らしを助ける面もあるかもしれませんが、 逆にその発達が個人を家の中に閉じ込めてしまうことにもなるのではないでしょうか。 そして、個人病といいますか、個人がより個の内部に埋没してしまい、 ついには病的な状況にまで陥ってしまう。 そんな現代が抱える病を、テクノロジーは克服することができるのでしょうか。 ミード 確かにそういう面もあるかもしれません。 ただ、そういった問題の原因をテクノロジーに帰せられるものでしょうか。 テクノロジーとは、本来人間が使うものであって、 人間がそれに使われるものではありません。 しかも、テクノロジーは、必要の中から生れてくるものであって、 決してそこに問題があるわけではないのです。 ですから、コミュニケーションの進歩が人間を職場から解放することが実際におこっても、 あるいは、さらに一歩進んで、エレクトロ・コテージのようなものが実現したとしても、 人間を疎外状況に追い込まないようにすることは可能だと思うんです。 ただ、少なくともその場合、実際の社会の中で何が起こっているかということを、 人々は知らなければならないと思います。 よく、現代社会をドライバーの乗っていないバスに例えることがありますが、 それと同じで、社会の動きを知っている人間が少なくなってしまうと、 それこそ、方向性を失ったバスのように崖から落ちてしまうからです。 そして、そのためにこそ、教育が必要になってくるのです。 しかし、今はその教育も商売になり下がろうとしています。 お金を払って子供を預けるという。 おそらく、現代社会が抱える最も大きな問題は、そのことなのではないでしょうか。 富野 そのあたりは、ゴミの問題等も含めて、今は、あらゆる物事に対する われわれ自身の視点が、すべてお金の問題や効率論に 置き換えられてしまっているのではないでしょうか。 本来、徳目をもっていけば解決されるはずのものが。 ミード リサイクルの考え方の前に、テクノロジー・プロセスには、 それなりの代価が必要であることをまずいっておかなければなりません。 テクノロジーの進歩は、それこそ200年ほど前であれば王侯貴族でも 使えなかったようなものを、安価で誰でも使えるようなものに変えました。 しかし、そういった快適なものを使えるようになった呪いを忘れてはいけないのです。 その中で企業体がリサイクルをやることのメリットを 考えなければならないのではないでしょうか。 しかし、残念ながら、現在企業のリサイクル活動は、 むしろ宣伝の一環として行われることが多いようです。 私は、この社会におけるものの流れは、生物の血液のようなものだと思っています。 常にきれいな血液を送りだしながら、使い古したものも必ず回収する。 帳簿はいつも0にしなければならないのです。 今の企業体は、生産物を洗練させることについては、それこそ最大限の努力を払いますが、 戻ってくるものについてはまったく無関心です。 でもこれからは、それではいけない。 戻ってくるものにも細心の注意を払わなければならないのではないでしょうか。 富野 その帳簿を0にすることは可能でしょうか。 ミード 例えばこういう例があります。 ミルウォーキーの下水処理場の話なのですが、そこでは、 処理場から出た汚物をパッキングして、肥料として売っているんです。 “ミルオーガナイト”とかいう商標で。 あと、シカゴ近郊のスキー・リゾートでは、燃えないゴミを使ってゲレンデを作った、 という話も聞いています。 なんでも、“マウント・トラッシュモアー”(歴代大統領の顔が掘りこまれていることで 有名なラッシュモア山にひっかけたジョーク)と呼ばれているそうです(笑)。 NT ここで、NT読者の一人として伺いたいのですが、ミードさんはかねてから 「ガンダム」の世界が好きとのことで、特にモビル・スーツのコンセプトの どういった所が優れているとお考えなのでしょうか。 ミード もちろん、個々のパーツやスタイリングが優れていることもありますが、 特に私が印象を受けたのは、あのような人型のものが、あれだけのサイズで 機能するようにデザインされていた、ということなんです。 あれが、戦車なり戦闘機なりであれば私も考えたことがあるのですが……。 ところで、富野さんは、「ガンダム」を始め、世代交替をしながら 次々と素晴らしいストーリーを生み続けているわけですが、 現代のように、先に出たメディアを実像が追いかけてくる場合、 ご自身、ひとりのプロとして、危機感を抱いたり、 一般大衆からの圧力を感じたりされることはないのでしょうか。 富野 もちろん危機感は抱いています。ですから、変わるかもしれないような いちばん身近な実像には、なるべく触れないようにしています(笑)。 それこそ、死ぬまで大丈夫なものしか扱わないということで。 ただ、そのためには絶対に触れてはいけないものを見つけ出さなければならないわけですが、 10年「ガンダム」をやってきてわかったのは、 その作業が、口で言うほど簡単ではなく、 ものすごく神経を使うものだ、ということです。 ミード 自分の仕事は、確固とした背景を持った異質なものを、いかにもありそうに 見せることなんですが、ただ、絵で表現するという意味では、やはりシナリオとは かなり違うと思います。 特に、人間の邪悪な部分には触れたりしないということで。 富野 そのあたりは違うところですね。 プランナーとして考えるのは汚い部分であって、ビジュアルは他人にお任せですから。 ミード ここで若い人たちに言いたいのは、未来に対する決定権を握っているのは あなたたちであると言うことです。 だからこそ、他人ではなく、本当の自分の声に耳を傾けて欲しいのです。 対談の後でシド・ミード氏は、 「自分も他人と違うことをするのは難しかったが、私は恐れずに、 社会が自分を受け入れようとしていることを信じて生きてきました。 確かに、本当の自分はなんなのか、単純にこれということはできません。 しかし、自分から出てきた考えは、それがどんなに小さなものでも重要です。 だからこそ、常に実現に向けて最大限の努力を払わねばならないのです」 と語ってくれた。 さらに、それを補足する形で富野氏も 「その場合、本当の自分というのは、そのときだけのものではなくて、 死ぬまで広がりつづけるものである、というような視点をもっていただきたい。 そうした、常に新しい世界を求める視点があってこそ、初めて、 自分は力強いものになるのです。 絶対に、とりあえずの自分には走らないでほしい」 という言葉を贈ってくれた。 (了)