炎 97年12月号より 情けない神の国の片隅で  第15回 恐怖症 いわれなく何かを恐れる、ということは、誰でも経験することだろう。 なぜ、不安を感じないのか、と説明するほうが難しい、という説もあって、 どちらにしても、感情の妙に支えられているのが、我々である。 小生の両親は、潜在意識という概念が想像できず、 無意識域の意識に縛られている自己がある、というようなことは、 絶対に理解できない。(当たり前だ) おかげで、アルツハイマーにもならずに、88歳と81歳の二人が、 いまだに自炊生活をしてくれているのだから、 老人のわがままなどは可愛いものだ、と笑っていられる。 BSの海外レポート番組で、広場恐怖症、 学校恐怖症などというききなれない症状の患者の存在を知ると、過去の呼称とはちがう、 文明がつくりだした神経の病気が蔓延している事実に、唸った。 3年前あたりから2年ちかく、鬱病気味を経験した身にとっては、 他人事ではなく、情報恐怖症にとりつかれてしまうレポートだった。 生真面目さという性格は、けして褒められたものではない。(僕のことだよ) しかし、そんな自分から出た情報から、 増幅された不安が生まれる局面に出会うようになると、 個の問題ではなくなるので、さらに困惑する。 最近、そういう体験をしている。 ガンダムというフィールドは、20年経った現在でも存在していて、 享受者がつくる世界というものがある。 そういう世界をのぞくような小説『慎治』(今野 敏著、双葉社) のようなものが出たり、モダンアートの世界で、 ガンダムのプラモを素材にした展覧会やったりしている若者がいるのだ。 若い世代に、自分が送り出した素材がつかわれることは、嬉しいことは嬉しい。 が、彼らの中に覗ける精密なインテリジェンスや感性は、たいしたものだと感じる前に、 小生には理解できない迷路のようなものを創っているように見える。 若者文化を理解できない、というのならいいのだが、彼らが目指しているものが、 矮小なものなのではないか、重箱の隅をつっついているのではないか、 という感覚にとらわれるのだ。 ガンプラを追求し、その作業をとおしていじめから脱却できる気持ちを、 手にいれられるというのは、本当のことなのだろうか?  そんなところに、美の造形があるのだろうか? 小さな理詰めが生むものは、生真面目さという硬直した思考を醸成するだけ、と感じる。 小生の甥に、小学生の時代から登校拒否児童がいた。 彼は、20歳のこの秋に大学受験の資格がとれた。 彼とは、数度、会話したことがあるのだが、 彼の中学時代に、不安の原因がどこにあるのか探りをいれたことがあった。 その時の解答が、資源が枯渇すれば人類は生き延びられない、 という現実認識であって、それは、ガンダム・ワールドで学んだことで、 フィクションから現実に挑戦する衝動が育っていないことに、 小生は、語るべき言葉をなくした。 その後、彼の読書量がふえて、リハビリして、大検を取得できたのである。 喜ばしいことである。 このように、自己を閉息させる基盤をガンダムの物語からピックアップして、 不安症の一種にとりつかれている青年を見るのは、つらい。 ホラーとミステリーはフィクションになっても、 ガンダム的な物語はフィクションではない、理解してしまう甥。 戦争がなくなってしまったつまらなさ感覚から、 ミリタリー願望が拡大していってしまう青年たちの存在。 どちらも、フラストレーションが高じて不安感にとりつかれると、 その不安を解消させるために、本物の銃を乱射してしまうのではないか、と恐れるのだ。 去勢した種でなければ、戦争のない世界では生きつづけられないのだ、 という洞察も必要であろうが、だからといって、オウムの復活の兆候には、 そこまで、不安か? 別の商売を考えろ、といいたくなる。 これらの不安を解消する手法を提示したいと思うのだが、 それはできないと絶望して、不安にとりつかれるのは、小生が生真面目だからなのだね。 だから、ボク、本当はアラーキーさんの縛りの写真や花の写真が大好きで、 荒木陽子さんの『愛情生活』に癒しをもとめている、と告白する。                                      (了)