炎 98年12月号より 情けない神の国の片隅で  第27回 キャンディとベルばら この回で最後である。 不況をふくめたすべての事象が、人の作為と愚昧さ、 それらのからみあいで増幅された結果であるとわかる展開になっているから、 原因不明の気持ち悪さはない。 が、それらの事件を解明する専門家の発言で気をつけていただきたいのは、 メディアの都合にのっていないかという点である。 未来予測は……これはできない。 なぜなら、我々自身、数年先にどうしようとしているかは、 じつは、ほとんど関心を持っていない動物だからである。 このことについて書くスペースもないからやめるが、それでも、気になることをひとつ。 金大中韓国大統領が訪問したおりに、日本政府が謝罪したことについて、 保守系から「謝りすぎだ」というような意見が出ることがないように祈っておきたい。 現代史を知らず、軍と官と政の力関係を知らない輩は、 将来も防衛という施策さえ食い物にするということの繰り返しになるからだ。 さて、表題のキャンディは『キャンディキャンディ』であり、 もう一方は『ベルサイユのばら』である。 最近になってようやく読んだ。 少女漫画のコマ割りの技法と絵が嫌いで読むことがなかったのだが、 スタジオの男の子の一言の評論がきっかけで、まず『キャンディ』から読んでみて、 その展開が、映画『風と共に去りぬ』とおなじように優れたものであると知った。 惜しむらく、第4巻から回想が頻繁にはいる悪い癖は、 編集者のアンケート主義から要求された汚点であろう。 その後書きに、中島梓がこれに匹敵する少女漫画は『ベルばら』であるとあったので、 屋根裏倉庫から娘たちが読んでいたものを捜し出して読んだ。 ツヴァイクの『マリーアントワネット』は、学生時代から心の名著にしていたので、 この漫画を読むとは思ってもいなかったのだが、 24年も前の作品を、仕事を放り出して一気に読んでしまった。 アレンジと組み立て方の巧妙さに、作者の叡智さえ感じた。 作品というものは、作者の品性や能力とは関係なく、 あるとき、作者に憑依した衝動と力が、かような名作を書かせる見本とみた。 運がなければ、才能など花開かないという恐怖を想像させるもので、 わが身をさいなむ部分もある。 このような作品があるなら、新たに物語を創出する必要などはない。 昨今のブームとかビジネスになるという発想で生産されるキワモノには、 通俗的にいわれる世紀末病しか見えてこない。 ここに男社会の構造の欠陥が露呈してくるのだが、 創作についていえば、病理の体現であっても一向に構わないのだが、 それを受けるマーケットが、 自身に内在している病理を促進させるように作用してしまう日本のような脆弱な基盤では、 キワモノは提供してはいけないのではないかと感じる。 ハード・ロックでもそうなのだが、それらのジャンルが生まれてくる背景には、 あの強力な表現を生み出さざるを得なかった社会的理不尽さがあってのことなので、 そのようなものがない日本では、 内的病理を促進させる機能しか発揮しないという危険を感じる。 日本は地政学的に脳天気に平和でいられる国土なのである。 だから、ベネトンの広告写真を撮影するオリビエーロ・トスカーニ氏は、 原宿に次の世紀の悲劇の前触れを見て、次のベネトンの広告の被写体にしたのである。 原宿の若者の姿は、人種問題や戦争、 貧困、暴力の脅威の次にくるクライシスの光景だというのである。 環境ホルモンの問題もあいまって、精子の減少が具体的な数字になってあらわれ、 体位は向上しても運動能力は確実に減少して、 生活のなかにあるのは「不安」の一事であるのが日本なのである。 前2作は、まだそのような予兆があらわれる前の、 戦う現実が想定された時代の物語であったから活力があり、 ドラマのルーティンを活写し得たのかもしれないのだが、 男社会のいきすぎを叱る女性の感性が見抜くものを取り出している、と読み解ける。 同時に、女というものは、こうも感覚的なのか、と女性の表層性に蔑視も抱けるのだが、 この男の直線的な感覚が不安を呼んだのだと断言することもできる。 以上、女に負けるな!                                      (了)