文藝別冊 総特集 手塚治虫 より エッセイ 「時を経て師」 冨野由悠季  虫プロ時代の4年間、先生との間に特別なことはなかった。 虫プロ一期生ともいうべき先輩のバリア、 アニメーターにあらずんば人にあらずの気風、 マンガ絵を描けないぼくなどは近づけもしなかった。 ぼくら大学出も先生を社長とは呼んでも、口が曲がっても先生とは呼ばず、 日本のディズニーになるのなら経営者に徹してくれと組合員として要求もした。  当時、先生がマンガ家としてもっとも低迷していて、 クリエーターとして悩みぬいていたのだが、 そんな苦しみなど想像することは一切なかった。 ひどいことを口にしたのではないかと、今になって恐れている。  とはいえ、ぼくが演出家になれたのは、すべて先生のおかげである。 生まれてはじめて書いた僕の絵コンテにOKを出して下さったのは先生であり、 その直後、喫茶店で「トミノ氏は制作志望らしいけど、演出部にいってくれないか」と いってくれたのも先生である。  普通の能力しか持たない先輩制作マンには、 人の才能を見抜く力も決定権もない、とそのとき思い知った。  ぼくのアトムの最後のフィルムをチェックしてくださったのは先生で、 なぜかそのとき、一人の役員が同席していただけで、 バリアとなっていた先輩諸氏はいなかった。 そのとき退出なさる先生の背中と お尻が寒々としていたからというのが直接の理由ではないのだが、 手塚時代がおわるなら虫プロはつぶれるだろうとかんじて、ぼくは虫プロを辞めた。  その後も先生は雲の上の人でありつづけて 『トリトン』や『メルモ』のアニメをやっているときにも 深くお会いしたという記憶はない。 『ガンダム』以後、外でお会いできるようになってから、 あの「トミノ氏」という口癖とともに優しくニコニコとなさる笑顔と あのブ厚くもやわらかい握手に、神業が宿ると感じるようになった。 ぼくが四十代になってからである。  オリジナル作品をやるようになってはじめてぼくは、 午前三時にスタジオにいらっしゃった先生が、 翌朝9時には朝食をすませて原稿を手にしていらっしゃったり、 ピアノを弾いていらっしゃる先生の記憶が逆流するようになった。 五十才になるころ、先生の全集百巻を通読したあとでは、 さらにあの握手をして下さった手の凄さ、熱がよみがえってしまう。  先生が亡くなられたと聞いた翌朝、 失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、 死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。 その行為は今も恥じていない。  師のエキスの万分の一も真似することはできないだろうけど、 ここに従うものがいると師ってほしいと思うのは、 生きている者の欲である。 (演出家)