アニメージュ コミックス スペシャル フィルムコミック 機動戦士ガンダムF91(1991年5月30日発行)より 富野由悠季「コンテをきる=演出をする」です。 とりあえずさわりの部分だけあげてみます。 ※実物は縦書きです はじめに  F91を教材にして、コンテをきるということはどういうことか、演出をするということは どういうことかを、ぼくなりに説明してみたい。だからといって、F91が、演出的に優れている というのではない。この本が、F91のコミック・バージョンだから、利用させてもらっているに すぎない。この点は誤解しないで欲しい。 コンテはマンガの出来そこないではない  コンテがコマ割りの絵で示されているために、マンガの延長線にあるものと誤解している人が 大半である。そのため、マンガ家志望の人には、コンテ程度の絵が描ければ、アニメの演出が できると思い、アニメーターのなかにも、コンテを描く方が楽そうだからといって、コンテ・マン から演出に転向するスタッフも多いが、たいていが失敗している。  コンテをきる、ということは、絵を描くことではないのだという基本がわかっていないから、 この誤解がうまれるのだ。  実写にいるスタッフにとっては、本編(日本の映画人は、劇場にかかる映画をこういう)の コンテを描くことは、無能者がやることだと思っている。シナリオでカットが割れなかったり、 現場で直感的にカットが割れない監督は、監督ではないからである。  多少コンテに理解がある監督でも、合成などのSFX用の画面を製作するために必要なもの、 ぐらいの理解が精々である。  コンテが読めれば、そのフィルムの仕上がりがどの程度のものか、七、八十パーセントのレベルで 想像ができるのだが、実写、アニメのどちらの現場でも、コンテを読むことのできるスタッフが 少ないために、無駄な投資が連綿として行われているのである。  このコンテ無視の風潮をうんだ原因に、シナリオの至上主義がある。 シナリオ至上主義  シナリオが、完璧にシナリオの体裁を取っていない場合、コンテをきる段階では、 シナリオの改訂は、ほとんど自動的に行われる。  それでも、シナリオ至上主義が横行するのは、シナリオが映画なりテレビの企画決定の 骨幹にあって、シナリオで映画の仕上がりが想定できる、という錯誤があるからだ。  こうなった原因には、監督次第で映像作品はどうにでもなる、という監督至上主義も 荷担していることである。  その点、アニメは、制作プロセス上、どうしてもコンテが必要なために、現場のスタッフが コンテを読めようが読めまいが、ともかくコンテが存在するために、実写ほど無定見に、 シナリオから一足飛びにカメラを回すことがないため、映像作品の仕上がりとしては、 リスクが少なくなる。もちろん、コンテ次第、という問題は別個に存在する。  だから、実写やテレビの現場では、かなり良いシナリオでもカメラを回している段階で ダメな作品になっても、その仕上がりは作ってみなければ分からないというケースは、 枚挙にいとまがないし、逆に、本来、シナリオでないものを監督の技量でともかく作品らしく した場合、その作品の結果をシナリオ・ライターが、自分の力量だと錯覚するケースも 出てたりして、このことが、ライターと監督双方に不幸な結果を産んでいる。  つまり、このプロセスが、本来の映像創造者である監督たちから、シナリオを良い方向に 改稿させる能力を剥奪して、結果的に、企画能力の醸成を忘れさせ、シナリオの重要性を 忘れさせる歴史をもつくっていったのである。  そして、映画として、その最も不幸なことは、監督たちにシナリオへの反発心を起こさせ、 その反動で、ひどい映像偏重主義の作品を氾濫させる歴史をつくったりもした。  もちろん、この視点は、あくまでも一面的であることはお断りしておく。