富野 ありがとうございます。昔は物というものに対し てなれ親しむということが生理としてものすごく上手に できたものが、いわゆる戦後の、特に日本人はそのなじ み方にややずれが出始めている。それが、資本主義体制 がいいの悪いのということは全く抜きにして、物量とい うものをこれだけ見せつけられた人類はいないはずなの に、それに対しての節度というものを大人たちがもって いないといううかつさ、これはたいへん異常だなという ふうに思える。それは、実を言うと僕自身のやってる仕 事もそうなんですよね。つまりアニメーションという物 量を与え、週一のペースで映像を与えるということは、 やはりこれも決していい行為ではないというふうに僕自 身、思っている。その物量の中で、じゃ、どうしたらい いのかという、彼らの選択能力を持たしていくっていう のは、ちょっと口幅ったいんだけれども、彼らがもっと それを厳然と仕分けることができるような能力を持たせ ていくためにも、やはり今、送り手側の立場というのは 注意深くあらねばならないんじゃないかな。それに尽き るわけです。 ですからこの二年ほども……といよりも、『ガンダム』 をやるときに具体的に言葉として僕の中に出てきたのは、 ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する という、この最低限度の節度をどういうふうに守るか。 まず最低限、倫理観を持とう、その上で何を語るべきか なということを考えていこうと思った。 物があふれながらも、物の間には皮膚感覚と人情が無くなり、 情報が膨大に氾濫していても、寂しい気分を慰めてくれるのが 「ベル友」の12文字コンタクトで、それを暖かいと感じるのでは、 感覚がずれるのは、怖い事なんですよ。 なぜって、コンピューターゲームやアニメでやっている、殴られて 「死に体」で倒れたはずの奴が、ピョコンと立って反撃をする映像で 訓練されてしまった感覚の人間は、刃物で殺して動かなくなった 本物の人間を前にして、生き返ってくれるのではないかと思っているような 殺人を犯してしまったらしい事件もいくつか現れている。この 皮膚間のある事件がこの数年、いくつかある。  そのときに平井先生とお会いして……。つまりさっき 言ったことなどにもつながってくるんですけれども、S Fという単語と幻魔シリーズの持っている色合いとは、 違うものだということがわかっていったときに、平井先 生というのは、要するに安心していい方じゃないのかと いうふうに思えた。僕自身の仕事の中では、先生のご指 摘くださったような、『十五少年漂流記』というのは具 体的に思いつかなかったんですけどね、やはり間違いな く我々は既に保守である、具体的に既成の事実であると いう謙虚さを大人たちというのはもっと持つべきなんだ な。それさえ持てば、それほど間違わないですむ。 富野 そして僕にないのは、先程、先生がちょっとお話 になった、霊的な部分ですね。僕の場合にはまだ全然見 えないんです。見えないから、その部分は僕なりに解釈 させていただく。ただそれは、もっと一般的な理解の仕 方を僕はしたいから、幻魔シリーズ一つとっても、超能 力者という単語には絶対に惑わされない。あれは普通の 人が普通でない差でしかない。その中を埋めるロジック というのはたいへん巨大なロジックなんだけれども、本 来はその程度のもののはずだと思うんです。 平井 僕は今まで超能力者と呼ばれるような人とたくさ ん会って話をして、わかったことがあるんです。いわゆ る超能力、霊能力と言われる力は、我々が持ってる物質 的肉体的な力──例えば飛んだり走ったりする能力、あ るいは腕力が強いとか、そういう意味の肉体的な力と全 然変わらないというこよなんですね。人がほんとうに理 解し合うっていうのは、テレパシーがあっても駄目なん ですよ。だからニュー・タイプっていうのは、ほんとに 人々が理解し合えるという意味でお使いになったんでし ょ。 富野 はい。 平井 ですから、なまじ霊能があったらかえってそれに とらわれてしまって、人間としてはとても卑小といいま すか、ちっぽけな、安いものになってしまうんですね。 霊能や超能力は目に見えない非物質的な高次元世界が存 在するという証明にすぎない。それがわからない超能力 なんかないほうがいいって東丈が言いますけれども。あ れは僕の確信なんです。 富野 それは全くそう思います。つまり秀でた能力が自 分にあると思った瞬間に絶対その人間は敗北するんじゃ ないのかなっていう部分がある。ですから、ちょっと話、 飛びますけど、僕、科学者で信じた人間というのは、シ ュヴァイツァーもそうだし、それにアインシュタイン、 ちょっと臭いんですけれども、そう言いながらも、最終 的に宗教という部分に自分の身をゆだねなければならな くなってしまった。それを聞いたときに多少安心をする という、その平衡感覚を何とかわかっていただきたいな ということですけれどもね。しかしこの宗教という言葉、 これはたいへん臭くてね。ほんとはこの言葉を使いたく はないんだけれども、ちょっと別の言葉がないので……。 平井 でも、宗教って言葉をよく見ますと、宇宙を示す 教えなんですね。これは本質的な言葉が既に教えてるわ けです。 富野 まさにそうです。 平井 宇宙を見よって言ってるわけですね。宇宙はどん な力で動いているのか、つまりそれを見よって言ってる わけで、祭壇の前で、神棚の前で「南無阿弥陀仏」と言 って拝むことでもないし、「南無妙法蓮華経」って一生 懸命唱えることでもない。やっぱり宇宙の波動におのれ の心を合わして、もっと素直に生きろっていうことじゃ ないかなと思うんですね。 富野 ほんとにそうだと思います。そういう言葉を一般 的な平易な言葉で表現すると、実は教義としての形が見 えてこない。だからありがたくない。ありがたくないか らそれは教えではない。それが教義としての形をとって いると、結局宗教であったりするあたりの、人にものを 伝えていくときの難しさ。宗教という教義を成立させた 瞬間にカラリングが生じてくる。それをもっと一般的に 拡大していく方法というのはいったい何なんだろうかと 考えたとき、僕の場合はニュー・タイプ≠ニいう言葉 をつくらざえるを得なかった。あれはあかがついてにか ら使えたというだけのことなんですよね。それを何かも っと別の形で、ほんとはもっとわかりやすく示すことが できたらいいんだけれども。ここらへん、平井先生も幻 魔シリーズの中で何度も何度もお書きになっていますね、 不幸なことにって。キリストにしても仏陀にしても、自 分の母に対しておのれを示すことができなかったという。 あの不幸さというのは、やはり究極論として人のつらさ かなっていう気は多少しないでもない。