炎 '98年7月号 『情けない神の国の片隅で』 第22回 「ニュータイプの夢」  5月初旬にインド政府が、2回の核実験をした。核兵器の実験である。  世界から忘れられている大国のフラストレーションがさせたこと、 長年にわたるパキスタンとの抗争が直接の原因なっていると、 どのような理由があろうとも、 そのような兵器を保有しなければならないと考える動機は、 戦争の歴史が人類の歴史であると考えている思考が生み出したものである。  軍事行為が、国家間問題の解決の施策の延長線上であるというのは、 クラウセビッツの『戦争論』以来、当然であっても、 軍事が優先することなどはないのに、 その発想が先行してしまうというのが無惨である。  それは、5月20日の『国民覚醒の日』記念日に インドネシアでどのような事件が起こったのか、 この原稿を書いている段階では予測できないのだが、 ジャカルタの混乱などからも、スハルト政権の施策も同列であるし、 北朝鮮の対外姿勢などは、論外であろう。  が、このレベルについていえば、日本の政体だって、 ぼくの同世代人が『ノーパンしゃぶしゃぶ世代』であるから、 例外ではなく、無惨に古い!  なぜこうなるのか? なぜ、地球の問題を意識できないか?と、問いたい。  が、こう書いた途端に、 テーマがSF的になってしまうのだから、話は厄介だなと思う。  核実験については、世界で唯一の被爆国である日本は、 という論法もすでに旧来の思考回路でしかなく、 これもスハルト的である。  そうではない。  核爆弾が必要なのか? どのような国家利益を生むのか? につきるのであって、いまや、戦争での殺戮も罰せられる時代なのである。  戦争賠償の問題が、50年以上前のものでも、 時効がないかのように語られ、免責がない。 これを、市民に過剰な権利意識が生まれてウザッタイ、 とするわけにはいかない時代になっている。  まして、自衛隊あたりで、過酷な訓練で隊員が怪我をしました、 死にましたとなれば、訴訟沙汰にもなるのである。  かつては、やむをえない行動として認められていた 軍事行動が認知されなくなれば、ゲーム以上の戦争などはできない。  まして、国内の騒乱が、 自分のファミリー存続のための施策から出たのであれば、レベルは戦争以下である。  そのような騒乱を解決する労力とか、戦争を維持する資金と気力を、 健全な国家運営と地球環境保全のために投入すれば、 人がどれほど安心できるかという想像は、とんでもなく難しいことなのだろう。  ファミリーを保全しなければならない金成日の取り巻きにしてみれば、 他の体制を想像すれば、恐慌をきたすだけだろうし、 経済でいえば、戦闘機を製造すれば、失業対策、不況対策になるが、 砂漠を緑に する事業は、なんの金にもならないと考えるのが、我々である。  宗教的教義にとりつかれた思考は、異端を排斥するだけであって、 教団の本部を立派に建設する資金調達に愚衆を利用するだけで、 異端 との共存などは考えようがない。  新しい思考に挑戦すれば、英知が生まれるかもしれないというのは、 理想論だろうし、地を這うように暮らしている人から見れば、 理想論をかたる者が過激であるのは、じゅうぶん知っている。  だから、理想は言ってはならないのである。  最近、筑紫哲也氏とメディア論で対談する機会があった。  最大のテーマは、誰も責任をとらない構造ができあがっている現代なのだが、 そのなかで、『自動販売機』があるから缶ゴミがでるなら、 それらの使用を法律で規制してしまえという発想があるのだが、 それをやると、統制になってしまおう、 しかし、自由競争が善なのかという話になった。 このテーマは、殺人も無罪になってしまう 社会構造とリンクさせた法解釈が発生したりしている事実から、 一筋縄ではいかない、と嘆息まじりの結論のない話になった。  そんなところにも、旧来の思考をゴチャゴチャ揉んでいるだけの無惨さがあって、 恥ずかしいのだが、許容量がみえはじめた地球と未来永劫につきあうため、 という前提から出発した論法が生み出せれば、卑小なエゴは消失して、 我々は、ニュータイプになれるのではないか、と夢みる。