
第一部
試合開始
10
川田章吾の恋人、大貫慶子が教室を出ていった。それを見つめる川田自身は何を思うのだろう。
また、後ろを振り向きたい衝動にかられたが、ぐっとこらえた。
沢村利夫はもうすでに落ち着きを取り戻していた。怒りにまかせた行動は命取りになる。――――俺は……守らなければいけないと思った。川上良子を。良子の告白によって、それまでと違ったとても微妙な、あやうい状態の関係であるけど(もうとても良子を今までの友達感覚で見ることはできそうになかった)、ほんとなら良子のことだけで頭がいっぱいのはずが、時がたつにつれ(と言っても小一時間ぐらいだ)、とてもそればかり考えられそうにもなかった。――――やはり、ものすごく当たり前のことであるが自分の命の問題はたいへん重要だった。事実、今の今まで良子のことを忘れていた。いや、考える間がなかった。――――俺にとって良子はその程度のものなのか? わからなかった。答えは――――探しても出てきそうになかった。
良子はもうすぐ出発の時間だ。利夫の真後ろの席。それなのに利夫はなにもすることができなかった。割と何か話す、せめて何か伝えるチャンスはあったはずだったがもう時間もなかった。
顔を、せめて見ればよかった。どんな表情をして、どんな気持ちでいるのか。せめてそれだけでもわかれば……。いいや、良子の表情を見たところで何がわかる? 俺は、良子の気持ちに気づいてやれなかった鈍感な男だというのに。……良子。
大貫慶子に続いてでていくのは、川田だった。
利夫は川田と特によく遊ぶ、というほどではないにしろ、考え方やその大人びた態度は共通のなにかがあると感じ取っていた。まあそれは学年成績トップの秀才川田くんに言わせると、「俺もお前も、強いコンプレックスの中からでてくる弱者の傷の舐めあいさ」 ということらしいが。いまいち意味が理解できなかったが、いわんとすることはわかったような気がした。俺にはたしかに、自分の容姿だとか、どちらかというと卑屈になりがちな性格がマイナス作用していると考えられるが、川田に何のコンプレックスがあるというのだ。あんないい女と付き合っていて、医者の息子で、自身は頭もよくて、医者を目指していて、それでいておごるところもなく、仲間にも、男にも女にもどことなくたよりにされる兄貴肌の川田に……どうして弱みなどあろうか。あえて言うなら悩みがないのが悩みか? それとも意外とそのことにプレッシャーを感じてそう言ったのか?
しかしどうやらその答えもわからぬままになりそうであった。川田の番が呼ばれ、後ろから足音が近づいてきた。――――何か。何か川田と会話するチャンスはないだろうか。その優秀な頭脳はすでになにかを、明確な正解を出しているかもしれなかった。(もちろん川田がゲームに乗る、なんてことは考えもしなかった)
川田。何か。……何か言ってくれ。
その時、すうっと背中に何かを感じた。最初はまったくわからなかったが……良子だ。……良子が俺の背中をなぞっている。
軽く手のひらを背中に押しつけると、またしばらくしてすっすっと背中を指がなぞった。三回、縦に。――――そして今度は縦に、横に、何か規則的な線を引いた。――――わかった。最初が『川』で、次が『田』だ。
全神経を背中に、良子のなぞる指の感覚にそそいだ。――――良子は何か利夫に伝えたいことがあるらしかった。次の動きは……『に』。そして……これはちょっとわからない。その次が……『つ』。次が……『て』。……『一』。……『し』。『よ』。『に』。……。――――最後は指の動きが連続で早かった。でも想像できた言葉だったのでなんとかわかった。――――『川田に?つて一しよに……』 ――――川田に会って一緒に……逃げよう!
良子も感じていたのだ。俺が考えたように。川田なら……あのたよりがいのある、頭のいい川田なら、きっと何かしてくれるに違いないと! 俺が思ったように。良子も感じたのだ。――――ちくしょう。振りかえって抱きしめてやりたい気分だぜ。オオ、ベイビープリーズ。
川田が例の儀式を形式的に三回唱えるとドアからでていこうとした。――――と、その時川田が振りかえった。目がばっちりと合った。川田はその瞬間、にやっと笑むと今度はちょっと視線を後ろに向けて(きっと良子か親友の土岐に)、パチンとウインクした。――――オオーケイ。オーケイ、川田。わかったよ。もうそれで十分だ。いや、それ以上やるな。舞知も見てることだ。そのぐらいにしておこう。――――続きはまた今度だ。
利夫は口から笑みがこぼれるのを防ぎようがなかった。どうしても頬が緩んでしまう。――――よーし、よし。まだ大丈夫だ。まだまともなやつはいるぜ。いいや、良子、川田。この二人で十分だ。もう俺に怖いものなどない。おそらく男子で、およそ川田の言うことに逆らうやつなどいない。川田は、つねに冷静沈着で、頭のいい、それでいて人のいいやつだから人望もある。男性陣は川田に説得されたらみな納得するだろう。そんなリーダーシップが彼にはあるのだ。そして良子だ。良子の人徳だってたいしたものだ。あの不良の野ノ原遥花(女子十七番)だって、良子には特にちょっかいをかけたりしない。良子になにかすれば……みんなが黙ってはいないからだ。良子にあこがれ、いいやむしろ本気の恋をしている男子もたくさんいるし、女子のみんなだって良子を憧れのまなざしで見ている者も多かった。とにかく、良子は敵をつくるようなタイプの人間ではない。――――なんだ、この二人がいたらこのクラスメイトたちはあっさりまとまるじゃないか。はは、なんて都合がいいんだ。
「次、女子五番。川上良子さん、準備して頂戴」
がたっと後ろで席を立つ音がした。良子はすっと利夫の脇を抜けて前にでた。
利夫は安心していた。多少場違いかもしれないが、良子にかぎっては大丈夫と信じていた。すると、やはり良子も形式的に宣誓をすると部屋をでていった。もちろんその瞬間、ちらっと利夫の方を見たので、利夫もこくっと首を縦に振った。良子がふっとほほ笑んで出ていった。それもまた場違いかもしれなかったが、ああ、良子は本当に美人だ。――――と改めて思った。このさい告白のことはどうでもよかった。いいではないか。今は。この状況では。お互いを信じあえる誰かがいるだけで……。
その最悪な状況ながらも満足できる結果に、利夫は安心して良子を見ていたのだけれど、実際良子の方はというと必ずしもそう考えていたわけではなかった。
――――あなたの顔が見れるのも、これが最後かもね。
と、良子は絶望的な考えを持って利夫を見ていた。だから、どうしても……女心として……利夫に、自分の最高の笑顔を見せておきたかった。彼の心に、ずっと、深く、いつまでも残るように。そしてそうすることで、彼の心に、永遠に生きつづけることを願った。
【川田章吾優勝まで あと38人】