第二部
中盤戦
27
校門を抜けるとすぐに校舎があって、その玄関を抜ければ美しい様々な色の花たちが出迎えてくれる。
岩瀬也守はその中庭にある一本の大きな木が好きだった。別に植物に興味があったわけでもないし、自然と親しむのが趣味というわけでもない。ただ、そこにはいつも川上良子という美しい少女がいて、花に水をやったり、池のコイたちとたわむれているその姿を眺めるのが好きだった。そしてその大きな木の影で風をあび、涼んでいる良子の姿に神々しいまでの魅力を感じていた。だから、そこは岩瀬にとって天使がたわむれる神聖な場所であったし、誰かに踏み入られて汚されたくなかった。
陸上部の部活が終わった後、岩瀬はその神聖なる場所へと足を運んだ。剣道部の彼女は帰りにいつもここに寄ってから帰る。
庭の隅にある水道の蛇口にホースを繋ぎ、バルブをひねって水をだす。
ホースの先をつまむように握っていると霧状に放出される水が舞いあがって、その一部が風に乗り、クラブ後に熱された体には心地よく降ってくる。
冷たい霧水を受け取った花々も活気づいたようにみずみずしさを取り戻した。
ひととおり撒き終わってからその場を離れ、校舎の影へ。
もうそろそろ彼女がやってくるころだ。
川上良子がその小さな額にうっすらと汗をかきながら胴着のままやってきた。髪は無造作に後ろで束ねられている。
手に持ったタオルを顔にやりながら、
「今日もだわ……」
と良子が呟いた。
良子は一旦中庭を抜けて水飲み場の方へ向かった。そこで顔を洗ってから、着替えのロッカーに行くことを岩瀬は知っていた。
良子が剣道をしている剣道場から水飲み場へ行くには別にこの中庭を通らなくても行けるのだが、彼女はいつもその通り道にここを使って、時々花に水を撒いてやったりしていた。
岩瀬はこの水撒きをもう二週間ほど続けていた。そして毎回彼女の姿を確認してから帰る。
川上良子にはファン倶楽部があるぐらいだが(自分も会員だけど)、このことはまだ誰も知らないはずだった。そしてそれを誰かに言うつもりはなかった。
岩瀬はただ彼女と同じ空間を共有することで満足できていた。彼女の趣味とまではいえないだろうが、彼女の習慣を岩瀬自身が行うことによって、体感する共通の想い。
彼女が花好きなのはファン倶楽部にとっては当然のことだったが(事実誕生日には好きな花をプレゼントしようという計画もあった。ちなみに彼女の好きな花は蘭の花)、まさか学校の中庭でそんなことをしているとは知る由もない。岩瀬も偶然その姿を発見して以来、誰にも言わずにこっそりと自分だけの楽しみにしていたのだからなおさらである。
また、彼女が中庭を散歩するように歩いている。それはとても純粋で汚れのない、なんだか別の世界の妖精を見ているかのようでもあった。
身も心も美しい少女、川上良子。
彼女のためなら自分の人生のすべてをささげてもいいと思っていた。良子を見た目の美しさにだけで好意を持っているものはたくさんいる。しかし自分はというと、彼女のこういった心の美しさ、おだやかさも知っている。そして、そんな彼女だから自分は好きなのだと、彼女のことをよく理解しているのは自分なのだと自負していた。
ただ、自分以外に一人だけ彼女をよく知る人物がいることが気がかりな点でもあった。
別に幼馴染とかご近所さんとかいうわけでもないのに、良子はいつも沢村利夫とよく一緒にいた。
それはもちろん、良子が剣道部で(彼女はなかなか優秀な腕前らしい)沢村が剣道チャンピオンなのだから、繋がりはないわけでもないが、それにしたって仲がよすぎで嫉妬のようなものも感じた。良子を好きな他の連中はさほど気にもならないが、この男、くやしいがなかなかの男前で良子がよく笑って喋るのは沢村といるときである。沢村自身が良子をどう思っているのかは知らないが、良子の方は彼にかなり気を許している。いくら岩瀬が彼女のことを理解していたとしても、沢村にはとうていかなわない。岩瀬には彼女に冗談を言って笑わせることができても、沢村は何もしなくても彼女をほほ笑ませることができるのだ。――――そこで認めたくない事実がどうしても浮かび上がる。川上良子は沢村利夫に惚れているのではないだろうか?
やり場のない怒り、嫉妬が湧き起こる。――――許せない。良子のことを知っているのは俺なのに。俺こそ彼女のことを何でも理解しているというのに。何も彼女のことをわかっていない沢村がどうして彼女に惚れられなければならないのだろうか。
あれはどう見ても……恋をしている目じゃないか。そんなことに気がつきもしない男にどうして……。
沢村が良子を抱きしめる。神聖なる地、大きな木のある中庭で。
ヤメロ! そこでそんなことをするな!!
良子がうっとりと沢村を見つめ、沢村も良子を見つめ返す。近づく二人の距離。
やめてくれえええ!!!! そこでそんな汚らわしいことをするなぁぁぁぁああ!!
重なる唇。一つになるシルエット。
うおおおおおおおおおおおお!!!!!! やめろおおおおおおおおおお!!!!
岩瀬の叫び声は大きく響くが二人には聞こえないのか反応がない。
頭が裂けそうなぐらいの痛みを感じるほど叫んだ。力の限り叫ぶことで顔面にもにぶい痛みが走る。
ふと、力が抜けてじんじんと顔面が痛む。
二人のいた中庭はまぶしい光がさしてもう見えない。
そこへ闇雲に岩瀬は突進した。やめさせたかった。良子を誰かのものにされたくはなかった。
なぜか佐藤雅之が良子に抱きついていたので、後ろから手に持っていた矢で刺し殺してやった。そして良子が安心した顔で岩瀬に抱きついてきた。彼女をきつく抱きしめ返して、こんなにも愛しているんだよとわかるようにくちづけをしてやった。だけど、彼女の唇はひどく冷たかった。そういえば抱きしめてる体もどこか冷たい。服を脱がして肌と肌で暖めてやることにした。
いくら彼女の体を抱きしめてやっても暖かくならない。何度も何度も彼女の中へ愛を注ぎ込んでやってもまったく暖かくならなかった。
じんじん顔が痛む。これは夢だろうか。
ようやく自分の顔が暖かくなってきたのは先ほどからのまばゆい光がずっと当たっているからだった。だから顔がじんじんするのか?
光は蒼い色をつけてうっすらと視界を広げていった。
見えたのは――――折り重なるように倒れた二人の人間。
下になっている少女の腕がなかった。そして赤い染料がそこを中心にブラウス、剥き出しの肌、関係なく染まっている。上に覆いかぶさるようにしている少年の上半身も赤く染まっている。
岩瀬は視線を手前に落とした。よく見ると自分の服の前も血だらけになっている。――――なんだろう。これは。
思う前にずきっと顔に痛みが走った。手をやると触れただけで痛い。
「なんだぁ!? ――――うっ」
声に出したはいいが、それさえも痛みを増幅させた。
こ、これは、いったい!?
忘れている記憶が甦らない。俺はたしか……。
ゆっくりと立ち上がると血が引いていくようで、顔の疼きが少しおさまったように思えた。
だいたいここはどこなんだろう。それに何時だ? 朝か?
倒れている少年に近づくとそれは沢村利夫だった。だが、それがなぜ沢村なのか、倒れている理由はいくら考えても思いつかなかった。
なんだろう。空襲にでもあったのか? 俺……いったい?
「沢村……。沢村、大丈夫か?」
喋ると切れている下唇がぴりっと痛んだ。
それから沢村の身体を揺り動かすように揺さぶってみたが反応がない。しかし、息はしてるようだ。
下敷きになって倒れている少女の方は息がない。園村……。クラスメイトが死んでいる……。
利夫の手には拳銃が握られていた。
岩瀬は利夫の手からはがすようにタリクを取るとまじまじとそれを見つめた。――――こんなものが。なぜ?
その時、うう、と声が聞こえた。
かすかな唸り声と共に利夫が意識を取り戻したようだった。岩瀬はかがみ込んで、
「どうした、沢村? お前、大丈夫なのか?」
と聞いた。またも舌がぴりぴりと痛む。かなり切れているらしい。
自身も胸のまわりにひどく血が飛び散っていたが、沢村のそれよりはいくらかマシだった。顔は青ざめて死人のように薄弱だ。朦朧としたその目ははたしてちゃんと岩瀬の姿を捕らえているのだろうか。
――――とにかく、沢村を助けてやらねば。
何が起こったのかはわからない。ひどく意識が混沌としている。
どこか、どこか治療できるような場所を探さなくては。
沢村の肩を担いで抱き起こしてやって、それから歩き始めた。幸いなことに沢村も岩瀬も同じような体形をしていたので運ぶのにはさほど苦労はしなかった。ただ、沢村は足を引きずるようにしか歩けないのでそう簡単な話でもなかったが。
だてに陸上部で鍛えているわけではない。下半身はしっかりしているし、体力も大丈夫だった。それに、役に立つかどうかはわからないがこの拳銃もあった。だけど一つ不安なのは思考能力がかなり低下していることだった。もう夢のことさえ忘れていた。何も思いつかない。何も考えつかない。――――ここはどこなんだ? 何が起こったんだ? 俺はどうしたというんだ?
いくつもの混乱を残しながら、岩瀬は沢村と一緒に公園の中を歩いていた。
そしてこの不安がはっきりするのはこの公園を出て、わずか十分後のことである……。
【川田章吾優勝まで あと26人】