第二部
中盤戦
36
及川大輔(男子四番)はパソコンのエンターキーをぽーんと押すと、ふう、と一つ息をついた。それから一回伸びをして、首をぐるぐると廻した。少し乱れかけていた短く切った髪を手で押さえてから椅子に座りなおした。
しばらく文字が流れていくモニターの表示を見つめた後、ようやく、今度はほんとに落ち着いたように、ふう、と息を吐いた。
長い戦いだった。ほとんど負け戦にちかい勝負だったにもかかわらず、あわよくば刺し違いぐらいにはなりそうだった。
独特の異臭がする、この病院の電算室でパソコンを始めてから、はや、六時間がたとうとしていた。
人が四、五人入ればいっぱいになりそうなこの小さな部屋に閉じこもってからも六時間ほどたっていた。途中で出ていったのは一回だけだ。
ディスプレイに流れる文字を満足げに見つめながら、今度は席を立って腕を伸ばして背伸びをした。すらりと背の高い及川が背伸びをするとさらにこの部屋の小ささが強調される。ぱきぱきっと骨の鳴る音がして心地よかった。腰をひねってまた、ぱきぱきと骨を鳴らしている時に、この窓さえない小さな部屋の唯一の出入り口の扉が開いた。
「ん? あれ? 終わったんだ?」
扉を半分ほどまで開けて立ち止まったまま、高木恵理子(女子十番)は及川に声をかけた。
ちょっと甘えた声をだす媚びた感じの少女だ。元々そういう声なのかもしれないが、及川にはそんな風に感じていた。ショートカットの真っ直ぐな黒い髪は、彼女のやや丸い顔を細く見せるのに役だっていそうだった。それでいてキョロっとした大きな瞳はどこかしら愛嬌を感じさせる。人なつこい性格なのかもしれない。
「うまくいきそうだ」
「ほんと? すごーい!」
何がうまくいきそうなのかを説明する前に凄い、と言うのはどうかと思った及川だったがそれは言わずにおいた。説明したところでこの子にはわかるまい。
あまり嬉しい表情もみせずに及川は、
「外の様子は?」
と、聞いた。
「うん、今、河村くんが見てるよ。――――あのね、朝の大きな爆発があった場所なんだけどね。ここからじゃ見えないんだけど河村くんが言うには南の山頂付近だって」
「どうしてわかる?」
「……うーん。どうしてなんだろう? 見えないっていってたのにね。――――あ、河村くんに聞いてこよっか?」
「いや、いい」
きょとんとした顔をして高木恵理子は及川を見ている。及川はこの病院の五階で見張りをしているはずの、河村心(男子六番)に直接聞いてみることにした。この子を通して話を伝えると伝言ゲームになりそうだ。
「しばらくあのまま放っておけば勝手にパソコンが処理してくれる。時間があるうちに俺は休憩しておくよ」
「あ、そっか! うん、働きっぱなしだったもんね、及川くんは。じゃ、わたし、病室の方に行ってくる」
いちいちオーバーアクションで答える彼女に、こっちが疲れてきそうだが、それが彼女の人柄なのだろう。こちらの返事もまたずに、ばんと扉を閉めて、タタタタと走っていった。せわしいことこの上ない。本人に悪気はまったくないのだろうが……。
部屋を出るときにパソコンの方に一度目をやって、何も変化がなさそうなのを確認してから扉を閉めた。
電算室を出ると通路が真っ直ぐある。病院の中でもかなり奥まったところにある部屋だった。道なりに角を曲がると右手に階段があって、二階へと行けるようになっている。高木恵理子が病室に行ってくると言っていたので、おそらくここから上がったに違いない。
河村心がいる最上階にはさらに進んだロビーの方の階段から行った方が近かったはずなのだが、思いなおして及川はこの階段から上にあがった。
病院とは言ってもこの島の人間はみんな追い出されているのだから、この島の住人の病人はいないのだが、幸い……かどうかはわからないが、病人はいて、現在病室の一室で眠りについている。
沢村利夫(男子八番)をこの病院に運びこんでから早くも四時間がたとうとしている。依然、意識が戻る気配はなさそうだ。全身傷だらけになって、特にお腹のあたりには銃弾をもらったようで、治療には困難を極めた。ここは病院とは言っても医者がいるわけでもないし、設備だけそろった宝の持ち腐れなのだ。みようみまねでなんとか治療したが、生きるか死ぬかはわからない。できるだけ助けてやりたいとは思っているが……。
二階に上がるとナースステーションが正面にあった。そのすぐそばには今は動かないエレベーターも見える。及川はそこを右に曲がった。沢村はすぐそばの部屋で寝ているはずだ。
見ると、高木恵理子が入り口のところでそっと中を覗いている。――――なぜ中に入らないのだろう?
「高木……」
と、声をかけると恵理子はばっ、と振りかえって、しっ、と自分の口に人差し指をあてた。
なにごとかと思って及川も恵理子にならって、そっと病室の中を覗いてみた。
中で、菱倉ゆかり(女子十八番)がベットで寝ている沢村の顔に手を当てて、撫でるようにさすっていた。菱倉ゆかりの沢村を見つめる顔は穏やかで、それでいて心配げな表情だった。彼女の長い髪が静かに揺れている。
この学校の全校生徒の中でも、飛びぬけてお金持ちと呼ばれる部類にはいるのが彼女、菱倉ゆかりだった。
菱倉グループといえば、大東亜共和国の中でも一、二を争う民間の企業で、ありとあらゆる生産、国の軍事にまつわるものまで手をかけているといわれている大きな会社だ。もしかするとこのプログラムで支給された武器の中には菱倉グループによって輸入されたものもあるかもしれない。
その菱倉財閥の総帥の愛娘が彼女だ。――――彼女がこの病院にやってきて最初に思ったのが、このプログラムはどこまでも悪平等なのだなぁ、と思ったことだ。政界にまで影響を及ぼす財閥の娘でさえ、このプログラムは容赦なく牙を剥くのだ。
ふと、見ると恵理子が何か小声で話しかけてきていたようだ。耳に息がかかるぐらいまで迫っていた。
「ねぇ、あの二人。いい感じだと思わない? ――――フフフ。わたしねぇ、前から思ってたのよ。彼女、沢村くんのこと好きなんじゃないかって。でも、ほら、川上さんいたじゃない。川上さんと違って彼女、すごく大人しいからそうなんじゃないかって思ってたけど何も証拠がつかめなかったのよね。及川くんはどう思う?」
そう。彼女は学校ではいつも大人しかった。転校生ということもあるせいか、それとも回りのひがみのせいなのか、友達らしい友達はいなかったかもしれない。ましてや器量もそんなに悪くなく(ただし、目鼻だちのはっきりしすぎた顔は多少好みが別れるかもしれないが)、男子の中には好意を持つものが多かったに違いない。ただ、その分女子には人気がなかったろうが。
その大人しい彼女が血だらけになった沢村を抱えてこの病院にやってきたのが今から四時間ほど前というわけだ。
『きゃああ! た、たいへん! すごい血がでてるわよ』
『及川ぁ。たいへんだよー。すげー血がでてるよー』
『たいへん、たいへん! ねえ! 及川くん! 菱倉さんが血だらけの沢村くんを……』
『河村くん……高木さん……。わたしはいいから、沢村くんを……』
『どうしよう。どうしよう及川ぁ。』
『お……お願い、沢村くんを……』
『やばいよ。死んじゃうよ。早く助けないと及川くん!』
『お願……』
長い髪を振り乱しながら菱倉ゆかりもあちこち傷だらけになっていた。お嬢様らしからぬ行動で、どうやら南の海辺に倒れていた沢村を発見してこの病院までおんぶするようにして抱えてきたそうだ。途中、何度もこけて自身も生傷が絶えなかったが、とにかく沢村が重傷だったので病院に行って自分一人ででもなんとかするしかないと思ったそうだ。
結局は及川自身が治療のマニュアルをみながら(幸いなことにこの病院にはさまざまな病気に関する書籍がたくさんあったので素人ながらも)、沢村を手当てしてやった。まあ、マニュアルを見たわりには消毒と包帯でぐるぐる巻きという、幼稚な治療法ではあったが。
今は沢村はゆかりの看病を受けながらベットで横たわっている。制服は血だらけで腹部が破けている状態のままだったが、他に着せる服もないのでそのまま真っ赤な、元々白いワイシャツを着せている。
及川はこの作業以外は、例の電算室でパソコンに没頭していた。もちろん、それがこのプログラムから全員脱出できる可能性を引き出すものだから(脱出後の面倒まではみないけど)。
ふと、顔をあげた菱倉ゆかりと目が合った。とたんに彼女の整端な顔が赤く染まっていく。悲しい瞳が涙で揺れていた。
「あ……いたんだ……。ど、どうしたの? そんなところで二人して」
「あはぁ。だってさ。お二人さんの邪魔しちゃ悪いかと思って」
恵理子はパチンとおおげさにウインクした。
「邪魔って……」
ゆかりが頬を染めながら口ごもる。まんざらでもないようだ。
話に割り込むように及川は、
「ちょっと様子を見にきたんだ。――――どうだい? 彼の具合は」
と、まだ何かいいたそうな恵理子の前にでて話を絶ち切った。
「まだなんとも……。一度も目を覚ましていないわ。時々うなされるように声をだすことはあるけど……」
「意識が戻るまで側にいてやってくれないか? 気がついたら連絡してくれ」
「うん。……わかってる」
それだけ言うと及川は軽く手を挙げて部屋を出た。すると待ち構えてたように恵理子が喋り出す。恵理子の突撃取材が背中から聞こえてきていた。
「ねぇねぇ。ちょっと二人、いい感じじゃない? 菱倉さんって、もしかしてさぁ――――」
及川は特に興味を示すこともなく奥へと進み、そこから階段を上がった。
五階建ての病院は、こんな辺ぴな島にしてはそうとうな病院で、どうやらこの付近の島々からの来訪者もあるようだった。というのも、受付のところにこの島付近の島への連絡船の時間が書かれた看板があったり、同じく本土への連絡路も表示されていた。
自分たちがいるこの矢ノ島は瀬戸内海の東よりの島でひょうたん型をしている。その東側半分が現在行われているプログラム会場となっているわけなのだが、西側の部分には本土への連絡橋もあり、ほとんど本土と繋がっているような感じになっていた。一瞬、西側に逃れることができるのならその橋から脱出できるのではないかと思ったが、よく考えれば禁止エリアなどという大層なものを作られているので、この首輪をなんとかしないかぎりはどうすることもできそうになかった。
本土に繋がっているという点で、こんな大きな病院が存在する意味もなんとなく理解できた。そもそもここは病院とはいえ、『精神病院』なのだから、こんな見晴らしのいい空気もよさそうなところがベストなのだろう。
見晴らしがいいのはなにも精神的にいい、というだけではない。戦いの見張りの場としても役にたつのだ。
まずは河村心を見つけた。早くに病院をみつけた及川は電算室のコンピュータが生きていることを知った。島の電力は止められていたようなのだが、この病院には自家発電があって、それのいくつかが生きていた。舞知側もそこまでは気がつかなかったのかもしれない。しかし、すぐにはそれを使わずに見晴らしのいい五階から外の様子を見ていた。おびえながら病院に近づいてくる河村を見つけたのは今朝の四時頃。特に仲のいいクラスメイトではなかったが(そもそもこのクラスには親友と呼べるような人間などいなかったし、友達といえば学校以外のところに複数いた)、河村と合流した。やんちゃで、いまだ小学生の雰囲気が抜けきれない幼い顔の河村はよく、似たような小柄な体形の山田豊とよく遊んでいたのが印象にあるぐらいだった。外見も中身も大人びた及川とは少し好色が違う。そんな河村だが、及川が声をかけるとなんの警戒もせずに一緒にいさせてくれと懇願してきた。夜中の一人歩きはそうとうこたえたらしい。もう、次に及川が何か話そうとしたときには腰も砕けてその場に座り込んでしまった。ちょうど、その場面を高木恵理子に見られたのだ。後から恵理子に直接聞いたところによると、その状態が二人で仲良く信頼しあっているように見えたらしいのだ。クラスメイトが信用できない、と疑念の思いでさまよっている時に、そんな光景をみたものだから、自分も仲間にいれて欲しい、と駆けてやってきたのだ。あいかわらず、タタタタとせわしく。
結局、及川の有無を言わさずに二人が側にいることになった。見張りが欲しかった及川としても拒否はしなかった。――――それにこの二人ならなんとなく信用できると思った。
二人に外の様子を見張らせることにしてパソコンに向かうことが出来た及川だったが、それは外界との接触を絶たれたものでローカルな通信しかできないものだった。つまりインターネットは(この国では大東亜ネットという非常に閉鎖された空間のものなのだが、それすら)できなかったのである。
何らかの脱出手段につかえるかもしれないと思った及川はがっかりして一度は諦めてしまったのだが、その時ちょうど朝六時の放送を聞いた。
「やあ、及川。パソコンはうまくいったのかい?」
五階の通路の隅でソーコムピストル(サイレンサー付き)を外に構えたまま河村が言った。
「ああ、あとは運しだいなんだけどな」
「希望があるだけマシだよ」
にっ、と顔の面積の割に大きい口を大きく裂いて笑った。矯正している前歯が少々グロテスクにも見えた。
その通り……。希望があるんだ。あの六時の放送で舞知は西側でもプログラムが行われていると言った。このクラスではないどこだかの学校のクラスでだ。
本来、このプログラムにはひとクラスに一人の担任と、複数の兵隊たちがいなければならなかったはずだ。つまり、それぐらいしておかないと生徒の反乱が起こったきに鎮圧できなかったりと、何かと不便なはずなのだ。プログラム会場の死体回収をやっていた専門の清掃業者である父から教わった事実だから間違いない。
これで時折、西側の島から聞こえてきた銃声の正体もわかったのだ。それだけではない。どうしてなのかはわからないが、舞知がふたクラスを担当しているとすると、今回のプログラムにかぎって政府側の人数が少ないことは確実なのだ。これをチャンスといわずに言えるだろうか。
なぜか西側のプログラムの方は禁止エリアの放送がないし、細かい情報はいっさいわからなかったが、少なくともそこに我々の仲間が存在するのだということは確実なのだ。
「まぁ、みておけ。政府のやつらにいっぱいくらわしてやるさ」
そう言うと河村が、にかっと大きく笑顔を作った。
「えへへ。期待してまっせ。だんな」
ちょっとおどけて言ってみせた河村は外に目を戻した。コミカルな表情をよくするわりには真面目な行動をとっていた。意外としっかりしているのかもしれない。
つられるように外を眺めた及川は南の山の方角を見て、ふと思い出した。
「そういや河村。朝の爆発があの山の方角であった、って聞いたんだけど」
「うん、そうなんだ。――――あれ見てよ」
河村が指を指した先を視線で追ってみたが特になにも見えなかった。視力はそれほど悪くはなかったが、何も発見できない。
「どれ?」
「あれだよ、あれ。見えない? あの崖のようになっているところ」
それは山の木々の隙間からかすかに見える程度のもので、及川にはぼやけてよく見えなかった。
「俺、視力は1.5あるけどよく見えないな」
「そう? ――――あの崖の淵がさあ。なんか黒ずんでるだよね。きっとこげた跡だと思うんだけど。――――ほら、まわりの草が燃えたような跡が見えるじゃん」
「見え……ないな。――――お前、視力いくつだ?」
「うん。2.0だよ。いつも視力測るときに後ろに並んでいるところからでも全部見えるもんね」
「それは2.0以上あるってことなんじゃないのか?」
「そうだね。昔から目だけはよかったんだ」
「見張りには最適だな」
「そう。僕はここで見張りをするためにこの世に生を受けてきたんだ」
彼なりのジョークなのだろうがつまらなかった。山田豊と一緒にいるときの彼でないと冴えないのかもしれない。
「じゃあ、続けて頼むよ」
「ああ、まかしといて」
ぐっと握りこぶしを作ると片目をパチンと閉じた。いまどき流行らないポーズだと思った。
踵を返して今来た道を戻ると、及川は今度は本当に休憩することにした。たしかに疲れていた。
なんでもそこそこにこなす及川は学校の成績は真ん中ぐらい。スポーツもそれなりに。どれも手を抜いているからその程度だということもあるのだが、飛びぬけた能力は何も持っていない。だけど、沢村のように別に何かの一番になりたいとも思わなかったし、競い合うことがそれほど好きではなかった。なんでもするりと交わして、熱くなることなど今まで一度もなかった。それは母が早くに亡くなって男手ひとつで育ってきた環境にあるのかもしれないし、父が特殊な職業についていて、裏の世界を早くから知っていたからかもしれない。
ともかく――――そんな及川がひとつだけ趣味を持っているとすれば、それはパソコンなのだろう。外界と接触できる手段の一つだったし、海外の情報はとても興味深かった。なにしろこの国では得ることのできない情報がいくつもいくつもそこらじゅうに転がっているのだ。
もちろん、そんな及川だから国の閉鎖されたインターネット環境(制限がないはずのインターネットの世界まで規制してしまうという傍若無人ぶりをこの国は発揮していた)を突き破ってしまうぐらいのスキルは持っていたし、簡単なプログラムぐらいは組むこともできた。
なぜ、そんな知識を得たかと言えば、もちろんインターネットの世界で知ったのだが、そのスジではかなり有名なハッカーである『The
Third Man』という男と出会ったことが大きかった。噂によると彼も自分と同じ中学生ということなのだが、それはカモフラージュなのかもしれない。チャットで他愛のない会話をしたことから始まった。彼の手ほどきを受けながら海外のインターネットと繋げたときの感動は表現のしようがなかった。
残念ながら今の状態では、及川は外へとアクセスする術をしらない。まあ、例の『The
Third Man』ならきっと「わけないぜ、ベイビ」と言って何か別の手段を取るのかもしれないが、及川にはこの病院のパソコンをせめてローカルでもいいから繋がるようにするしかできなかった。
そしてそれは比較的簡単にいったのだが、色々と”仕掛け”を作るのに苦労した。作業を進めているとわかってきたのが、この病院の電算室のパソコンと西側のどこかにある診療所とがローカルエリアで繋がっていて通信できるようになっていた。最初は通信不可能だっただが、途中からあれこれ触るうちに使えるようになった。その他へのアクセスはいっさいできなかったが、どうやら消防署への通信も元々はできるようだった。そこのところのセキュリティは高く、とても及川程度のスキルでは解決できそうになかったが、元々通信可、ということで消防署側からは簡単にこちらにアクセスできるようになっているはずだった。
そこで及川は罠を仕掛けた。この首輪がそうであるように、舞知側には生徒のいる位置がわかっているはずだ。だから当然、及川自身がパソコンでなにかをしているのも想像するのは容易だろう。一度も政府側にはアクセスできなかったので、向こうは安心しているだろうが、もし、何かの気まぐれでこちらのパソコンにアクセスしてきた時にウィルスを侵入させるようにマクロを組んだ。正確にはアクセスするとマクロが起動して相手側のパソコンを勝手に操作するようにしているのだが、それも及川が知っている限りの、手の込んだものを作ったのだ。うまくすれば、政府側のコンピュータを破壊、機能麻痺。なんらかの混乱を起こすことも可能かもしれないのだ。ただし相手の方が何の警戒もせずにこちらにアクセスしてくれることが最低条件だ。
もう一つ及川はパソコンに自動処理をさせていた。
西側の診療所に向けての信号。一分おきに信号を送信してそこに誰かいないかを確認するようにした。診療所のパソコンは電源が入っていたようなので、画面に「こちら東側の生徒、男子四番及川大輔。希望を持つ者。応答願う!」と表示するようにした。そして向こうから何らかの応答があればアラームが鳴ってチャットが開始される。
それだけのことをするのに六時間ほどかかったのだ。じゅうぶん早い方だと自負している。あとはすべてを待つしかない。
階段を降りながら及川は、受付のところにあったこの島の全体図をほぼ正確に写した地図に目をやった。ここには禁止エリアも書きこんでいた。西側には金網があると恵理子からの情報だ。消防署から出た恵理子は西側に逃げようとして行ったが、かなり高い金網がずっと続いて行けなかったということだ。
金網を乗り越えなくてよかったな、という及川の意見に恵理子は不思議な顔をしていた。彼女に外は禁止エリアだろう? と問いただすとそのときになって顔が青ざめていた。どうも禁止エリアに対する意識が低くてしょうがない。消防署で舞知があまりにも簡単に説明しすぎだったのだと人のせいにしておこう。
二階の病室にいる女の子二人に、下にいるとだけ伝えて電算室に戻った。休憩するにしてもモニターのチェックは怠らずしておかないといけない。
モニター前の椅子に座って、なにげなく時計をみた。午前十一時。
そういえば今朝の爆発音があってからは、この島全体が静かだった。外の音が聞こえない部屋に及川がいるせいもあるのだろうが、そんな気がした。
ほんとうに及川は疲れていたようだった。一段落ついてほっとしたせいもあるのか、椅子に座ったまま、うとうとしていた。
深い眠りに落ちそうになった、その前後で、ピリリリッと電子音が響いた。少し間があって、またピリリリッ。携帯電話の着信音のような音で及川は目が覚めた。
そして見えたのはモニターに映し出されたチャット開始の画面だった。
【川田章吾優勝まで あと17人】