
第二部
中盤戦
38
及川はひとまず電算室に向かった。みんなには言ってなかったが、及川はこの部屋の鍵をすでに見つけていた。
ただ、電算室に鍵をかけたところでそれほど意味はないし、銃があるので無理やり入ってこれないこともないで言わなかったのだが、誰かがそこに侵入してせっかく仕組んだパソコンを壊されたらやっかいだ。
及川はすばやくチャットの表示がでたままの画面に向かって、
[敵が侵入した。一人殺された。今から戦ってくる。生き残れたらまたチャットしよう]
とキーを叩いてエンターを押した。チャットはなにやら発言が更新されていたが、西側の生徒の片岡があの後に何か書いていたのだろう。それは見る間がなかった。そして返事を待たずに部屋をでて鍵を閉めた。
ノブをがちゃっと回して鍵が掛かったことを確認する。それから鍵はズボンのポケットに入れた。
静まり返る病院内。――――本当にこの中に侵入者がいるのだろうか?
不気味なほど静かだった。今のところめぼしい音は及川自身が歩く時にする足音ぐらいだ。昼間なので視界には困らない。あちこちから外の光が差し込んで来るし、一部暗くて見えない場所を覗けばそうそう出会い頭に遭遇することはないはずだ。
この病院の構造は単純。やや縦長の長方形の建物でロビー側にある階段と手前にある階段が各階を行き来する唯一の手段だ。例外的に外に非常階段が非常出口としてある。だが、外にあるのでいちいちその非常階段にでる扉を開けないといけないから必ず音がする。そこに誰かいればわかるはずだ。特にこの静まりかえった病院内では同じ階にいれば必ずわかる。そして確かそこは内側から鍵がかかっていたはずだ。鍵をかけることが出来なかった玄関の自動ドア以外は施錠の確認をこの病院に隠れた時にしておいたのだ。
二階から上はほとんど同じ構造。隠れる場所はナースステーションと各部屋ぐらいしかない。
及川は慎重に歩きながら階段のところまでやってきてそっと上を見上げる。
真ん中の手すりの所が吹き抜けになっているわけではないので、上を見たところで先があるわけではない。先ほど飛ぶようにして階段を登っていったのとうってかわって、慎重に様子を伺いながら階段を一歩づつ上がりだす。
階段を一階と二階の間の踊り場まで上がって曲がり角のところに誰もいないか慎重に確認してから及川は下を振り返った。そこには防火扉があった。
脳みそをフル回転させて、及川の中でさまざまな思考がめぐらされた。そして次に及川が取った行動は一階のその階段の防火扉を閉める作業だった。
ぎいいい、と派手な音が鳴って、少しドキッとしたが、再び落ち着きを取り戻すと防火扉をきっちりと閉めた。階段側からは鍵が締めることができるようになっていて、外からだと鍵が必要だ。フランス落しもしっかり掛けたので、少々押したぐらいじゃ、この鉄でできた防火扉はびくともしない。たとえ、銃器を使って破壊しようとしてもかなりの時間がかかるだろう。
これで後ろから急襲されることはない、と確信した及川は、ことさら前方にだけ集中して階段を上り始めた。
もし、侵入者がいるのだとしたら襲われてちりぢりに逃げ回っているのかもしれない。もう、病院の中にはいないという可能性もあったが、とにかく確認しないことにはどうすることもできなかったので、確実に調べていくことにした。
二階に上がると壁に沿ったまま、そおっと通路を覗いて誰もいないのを確認する。部屋を調べるのは後だ。一階でしたのと同じように防火扉を閉めると二階も閉鎖した。これで二階からの逃げ道はロビー側の階段か、非常口の非常階段しかない。少しづつ相手の動きを拘束していくしか道はないのだ。確実にこちらが勝つためには。
防火扉を閉める音で相手はもうこちらの位置は気づいているのだから、それを逆手に取るしかない。そもそも及川は恵理子の死体を確認して、外から入ってきたときから何度も音をたてているのだから、侵入者がいるのだとすれば位置などばれているのだ。これしか方法がないともいえる。
集中を切らさないように三階へ上がると、また壁に沿って通路を覗き見た。しーんと静まり返った通路は不気味なことこの上ない。いつ、いきなり病室から侵入者が飛び出してきて襲われるかもしれないと思うと背筋に冷たい汗が落ちる。落ち着かなくてはいけないという気持ちに反して、呼吸が荒くなって音が響いているように聞こえる。防火扉を次々に閉めていっているから、見えない敵に大きなプレッシャーを与えられているはず。たとえその敵がさっきまでの味方だったとしても。
ひとつ唾を飲みこんで、三階の防火扉も閉めた。気持ちの悪い汗が背中を伝った。
しっかり閉めたことに少しだけ安堵を覚えて、また階段を昇った。
角を曲がる時が一番緊張する。しかし曲がりきっても安心などできるわけもなく、その先に誰もいないか緊張しながら進まなければならない。つい、ベネリM3を握る手にも力がこもる。いつでも発射できるようにはしているがまだ一度も撃ったことはない。ちゃんと使えるのだろうか。ちゃんと弾は出るのだろうか。ちゃんと狙ったところに撃てるのだろうか。
ショットガンなのだから少々外しても大丈夫だと自分に言い聞かせる。問題は人間に向けて躊躇無く撃てるかどうかということだ。
余計な心配までしながら四階へでる。あいかわらず同じ景色で変化がない。これが百階ぐらいまで続けばきっと階数を間違えるだろう、とつまらない妄想を思い浮かべた。慎重に覗いてみるがやはり変化はない。安全を確認してから防火扉を閉める作業へ。
もし河村やゆかりが侵入者に追われてこの防火扉で立ち往生したら、かえって彼らに危険がおよぶのではないかと思ったが、彼らも、もしこの病院内に隠れているのだとしたら、防火扉が閉まっていっているのはわかるはずだから大丈夫だろう、と考え直した。悪い方向に考えすぎてもきりがない。
四階の防火扉を完全に閉めてロックをした後、河村たちはどこに逃げたのだろうとふと思った。
そもそも、もし侵入者がいるのであれば見張りをしている河村が先に見つけるのではないのだろうか。だったら連絡が先にくるはずだ。可能性としては河村が気づかない間に侵入されたか気づいたけど知らせる間がなかった、という二つの案も考えられるが。
――――そうか。高木恵理子は首を締められていたんだから、不意打ちを食らったに違いない。菱倉ゆかりと沢村がどうやってそれから逃げたかはわからないが、その時点では河村は侵入者に気づいたにしろ、気がつかなかったにしろ一人でいるはずだ。どこかで三人が合流しているのならこんなに静かな状態が続くものだろうか。――――いや、待てよ。
不意打ちで首を締められるなんてことがあるだろうか? 顔見知りの誰かだったからこそ、首を締められるほどに接近されたんじゃ……。
――――最悪のシナリオの方が正解のような気がしてきた。
とにかく、誰が高木恵理子を殺したのかはっきりしないことには自分の身が危ない。もし誰かここにいた仲間が裏切ったのであれば、そいつを捕まえるか、あるいは最悪戦わなければならない。他の誰かがいたのなら、これはもうどこで出会おうと同じこと。警戒して不用意に近づかないことだ。侵入者はこのプログラムで優勝を狙っているやつなのかもしれないから。――――犯人の特定が早急に必要だ。
河村が犯人でないのはさっき仮説した通りだ。ならばあとは菱倉が……ということも考えられるが、命がけで沢村の命を救おうとした彼女がいきなり高木恵理子を襲うだろうか。――――ありえない。沢村がいないのも彼女が誰かから守ろうとして一緒に逃げているということも考えられる。それに彼女に恵理子の首を締めて絞殺するほどの腕力などがあるだろうか? あの、きゃしゃな体で。沢村を抱えることもできず、引きずったようにしか人を運べない彼女に……。となると――――。
五階に上がると、かたん、とかすかに物音がした。すぐに緊張して通路を覗くと誰もいない。気のせいなわけはなく、たしかにはっきりと聞いた。
ロビー側の階段付近からの足音だったような気がした。
ここからロビー側の階段まで行くにはいくつかの病室の前を通らなくてはならない。もしそこに侵入者がいるなら真正面で対峙することになる。
思い、戸惑うが悩む時間はとてもくれそうにはなかった。
及川は防火扉を閉めて廊下にでた。今度はいままでのように鍵を掛けることはできない。扉の外側にいるのだ。通路側からは鍵がないと鍵は掛けれない。しかしここを閉めておけば、気づかないうちに誰かがここから逃げることはできない。必ず大きな音がする。
多少見通しのきく、ガラス貼りのナースステーションは無視した。同じように動かないエレベーターも。
手前の部屋から様子をみることにした。
一気に駆け抜ける方法もあるだろうが、それだとロビー側の階段に誰かいた場合に問題が起こる。まさにご対面ってやつだ。
廊下の窓よりに身体を寄せてなるべく部屋の出入り口から遠目に部屋の中を覗く。ゆっくり歩幅を大きく取って横に移動する。だいたい部屋の中が見えたところで、次の部屋が少し見える位置にまですばやく移動する。その間にも廊下全体に人の気配がないか、等分に意識を持っておく。またじわりと気持ちの悪い汗が流れた。
今の部屋が終わるとまた似たような次の部屋を同じようにして覗く。それから目を、耳を、全身を集中させてゆっくりと前進する。
四つの部屋を見終わって最後の部屋を入り口から見た。特に変わった様子はない。そして次は階段の踊り場だ。
死角を特に気にしながら足を進めた。が、そこには誰もいなかった。もうすでに階段を降りていったのかもしれなかった。
ほんの少しだけ、ほう、と息を吐く。手にじっとりと汗をかいていた。
ふと見ると、階段が屋上へと続いていた。その時になって初めて気づいた。ただ、階段の途中に鉄格子の扉で先へ進むのを遮っている。近づいてから確認して見たがしっかり鍵が掛かっていた。どうやらこの扉は内からも外からも鍵がないと開けることができないようになっていて、出入りは不可能そうだった。
下から再び上がってくるのを防ぐ為、ここの防火扉も閉めた。もちろん鍵は掛けれないが少しは時間かせぎにはなる。
もう一度この階の構造を見直してみた。
階段と階段の間に部屋が五つ。これは簡単には調べた。そこから先にナースステーションのような大きな部屋が一つ。ほぼ同じ場所に動かないエレベーターが二基。向こう側には部屋が同じく五つ。それからトイレ。突き当りには非常口が見える。今いる側の突き当たりはただの壁になっている。構成自体は二階まで同じはずだ。
はやる気持ちを押さえながらとにかく手前の部屋からもう一度調べていくことにした。今度は部屋の中まで丁寧に。できるだけ物音をたてないようにしながら部屋の入り口まで移動する。少しだけ部屋の様子を覗きみて、おかしい様子がないのを確認すると、バッとベネリM3を構えて部屋の入り口に立つ。慎重に中を探索して、人が隠れられそうな場所を一通り見回すとそこを丁寧に調べていく。ベットの下ぐらいしか特に隠れるような場所はないので、そんなに時間はかからないが、時折カーテンがしてあるところもあるので注意が必要だった。見渡してもそんなたいした広さではない。すぐに部屋の探索は終わる。
部屋を出るときも同じかそれ以上に注意して廊下を覗く。そして次の部屋へ移ろうとしたときにロビー側の階段からガチリと音がした。それからどんどんと、こもるような音で誰かが階段を降りていく音……。
一瞬で汗がどっと出てきて、慎重にそちらの様子を伺う。からからにかわいた喉が生唾を飲み込ませるのも苦労していた。
ゆっくり、物音をたてないようにしながら慎重に近づいていって防火扉の前にでる。
改めてベネリM3をしっかりと握って、力を込めた。自分の呼吸の音が、ことさら大きく聞こえてきていた。
防火扉に手をかけると開かなかった。
まったくびくともせず、どうやら内側から鍵を掛けられたようだ。
追い詰められているのはどっちだ、と自問自答しながらそこを開けるのは諦めた。長い廊下の先の非常口が希望の光のように見えてくる。
もうすでに汗でぐっしょりと濡れて塩がふいてきそうなほど身体が熱を持っていたが、休むわけにもいかず銃器を構えたまま進むことにした。調べる部屋はまだまだあった。緊張の糸がなにかのはずみで切れてしまいそうだった。軽く深呼吸して長いため息を吐く。子供の頃から落ち着いた子だった。一人っ子というのもあるのか、それとも父親に甘えずに育てられたせいなのか、孤独は得意だった。昔から何をするのも一人だった。寂しいと思わないこともなかったけど、もう慣れた。鍵っ子の宿命だろう。
何、ちょっとしたおばけ屋敷みたいなもんさ。
テンションを下げないようにしながら廊下を進む。
命を賭けたおばけ屋敷じゃまったく割に合わないクソったれの話になるけどな。自虐的に笑いながら二番目の部屋へと移った。最初にしたように、部屋の死角になっているようなところを調べて何もないのを確認すると廊下へ戻った。
同じことを繰返して部屋を順番に調べていき、五つ目の部屋が調べ終わった。それは手早く、正確だった。そしてようやく最初の階段のところへ戻った。
一旦、階段の踊り場を覗く。階段の屋上への扉を確認してみる。同じように鉄格子の扉があって鍵が掛かっていて、出入りは不可能そうだった。
続いて真ん中の大きな部屋を調べたが特に何もなかった。ナースステーションというよりはどこかの会社の事務所のような感じだった。そういえばどこにもナースステーションなどとは書いていない。勝手にそう思いこんでいただけだ。ここは精神病院なのだから薬がいっぱい置いてあるわけでもない。――――もちろんそこにも誰も隠れていなかった。
この数分間で一気に憔悴してしまった。疲労と困憊が全身をけだるく覆う。
緊張のためか、唇がかさかさに乾いて痛いのと、噴き出す汗が目に入ってきてしみるのとが辛かった。
及川はワイシャツの前のボタンを外して、ティーシャツをはだけた。少し涼しくなったような気がして身体が楽になったような気がした。あくまで、そんな気がしただけだ。しつこいようだけど。
ちらっと二基のエレベーターを見てみたが当然かわりはない。前に向き直ると奥の部屋に進んだ。
奥の五つの部屋はさっき調べた部屋よりもいくらか大きな部屋で、病院の病室と言った感じではなかった。まあ、精神病院なのだから寝たきりの人ばかりがいるわけではないので当然かもしれなかった。ごく普通のホテル、といったような部屋まであったし、勉強机のある部屋まであった。こちらはバリエーションが多い。和風な部屋もあった。
とにかく人が隠れられそうな場所は全部調べていった。非常口の横にはトイレもあったので、女性用も男性用も調べた。この歳で女子便所に堂々と入るんじゃ将来優秀だな、とわけもなく思った。
そして最後に非常口を調べたがやはり、というか当然というか、しっかりと鍵が掛かっていた。
これでこの階には自分以外誰もいないことがわかった。
ひとまず安心して息をついた。今までずっと息を止めていたような感覚すらあった。がちがちに固まった腕、指が緊張の強さを表している。もういきなり襲われることはないので軽く手足を振って柔軟した。パソコンをずっとやっていたときとは違う固さだった。
しかし、これをまた四階、三階、と繰返すとなるとさすがに嫌気がさした。この緊張感をいつまで続けられるか、という不安もあった。油断は命取りだ。
病院の中には必ず誰かがいる。防火扉の鍵を掛けた誰かが必ずいる。硫酸を盗んだ誰かが必ずいる、となると休んでいるわけにもいかなかった。
真ん中の階段まで戻って、もう一度柔軟した。
やるしかない。――――頭の中の冷めた自分がことさら簡単な出来事のように言う。
わかってるさ。そんなことは十二分にわかっている。
気合いを入れなおして防火扉を開けようとした時に、それまでまったく物音がしなかった病院内に、ウィーンと機械音が鳴った。
続けてごおお、と低く、唸るような音。
地を揺らるような音で徐々に大きくなる音の主はエレベーターだった。
心臓をわしづかみにされたようにびくり、と身体が跳ねた。
止まって動かないはずのエレベーターがういんういんと上昇して、音が最上階へと近づいてくる。鋼鉄製の箱は重いサウンドを響かせて唸りをあげた。
及川は必死に足を動かそうとしたが動かなかった。不思議だった。膝が笑っていたが、自分も笑ってしまいそうだった。膝がガクガクと震えるのを押さえることができず、開けようとしていた防火扉にやったその手もぶるぶると震えていた。
なんだい? ここはやっぱりおばけ屋敷だったのか?
カタカタカタというベネリM3が防火扉に当たる音でようやく我に返った。
ものすごくまどろっこしい動きで、ゆらりと足を動かした。いちいち意識して足を動かしてやらないとまったく言うことを聞いてくれなかった。はい、右足だして。はい、次は左ね。はい、はい、あんよは上手。
鋼鉄製の箱は唸りを止めて無機質な、チーンという音を鳴らした。エレベーターの上にある表示ランプは五階のところでしっかり光っていた。
防火扉を少し開けられた及川はその隙間に飛び込むように身体をねじ込んだ。早く中に入って扉を閉めたいのにショットガンの銃身が長くて扉と扉の間に引っかかった。
そんなことおかまいなしに渾身の力を込めて無理やり入ろうとする。一度身体を引いてショットガンを縦に持てばいいんだとは、ショットガンが外れて中に前のめりになりながら転がりこんでから思い出した。
がーっとエレベーターの扉が開くのと防火扉が閉まるのはほぼ同時だった。及川は階段の踊り場にぺたんと座っていた。それから尻餅をついたまま飛びつくように及川は鍵を掛ける。
ガチリ、と鍵が回転した音がしてようやく向こうの世界との接続を絶ったような気がした。
数秒後にがーっとまたエレベーターの開閉の音がする。今度は閉まったのだろう。
及川は妙に息苦しいと感じて、その時になってようやく自分が息を止めていたのだと気がついた。
座った体制のままぜいぜい、と苦しい呼吸を肩でして、全身からどっと冷や汗が出た。身体の水分がなくなるんじゃないかと思うぐらい汗をかいていた。
なんなんだよ、いったい……。
独り言が声にならなかった。喉がつまる。
それからまた物音がいっさいしなくなった病院内で、及川はしばらく押し黙っていた。
落ち着く為、この動悸を少し安定させるにはもう少し時間がかかりそうだった。
どくどくと心臓の音が鳴るのが聞こえる。
今、掻いている汗はねっとりとして粘り気が多かった。
そしてやっと立ち上がると血がさあっと下がってふらつくが、貧血ぎみになりながらもベネリM3を構えた。ごくりと唾を飲む。
べっとりと濡れた背中にシャツが引っ付いて気持ち悪い感触のまま、及川は悪寒を振り払った。
このままでは埒があかないのでしょうがない面もあった。
相手の正体がわからない以上、それが河村や菱倉かもしれないのでいきなりショットガンをぶっぱなすわけにもいかなかったが、それ以外なら誰であろうと撃とうと心に決めた。
さっきまでいた仲間以外がこの病院内にいたのならそいつが恵理子を殺したのだろう。そしてもし、侵入者が他にいなかった場合、犯人はきっと……。
――――あの男しかありえない。
及川は撃つ相手を間違えないように敵の姿を想像しながら思った。
そのまま耳をすまして物音を聞いていた。
あのエレベーターには誰も乗っていなかったのだろうか。いや、そもそも、あのエレベーターは止まっていたはずだ。なぜ急に動き出したんだ?
厭な汗をじっとりとかきながらそれでもじっと動かずに耳に意識を集中させる。あいかわらず物音はしなかった。
いないのか!?
エレベーターの閉まった音がした後は何の音もしない。誰かの足音さえも聞こえない。
誰も乗っていなかったのだろうか? じゃあ、なぜエレベーターは五階に? つまり、俺がいる位置がわかっているっていうことか!?
どうしても荒い呼吸を収めることができない及川は、それでもなんとか深呼吸して決意を固めた。
及川は鍵をゆっくり回した。ベネリM3をしっかり構える。他に音は聞こえないままだった。
防火扉を引くと、ぎいいいと唸りを上げて鉄の扉が開く。それと同時に一瞬で回りに目を配って気配を探る。その辺はまだ冷静だった。
やはり、エレベーターが五階に止まったというランプ以外は何も変化がなかった。廊下に誰もいない。
覚悟して及川は足を進めた。ゆっくり、ゆっくりとエレベーターに近づく。
この階のエレベーターには下に降りるためのボタンしかない。これより上には行かないのだから当然だ。
色んな場面を想定した。
中に誰かが銃を構えて待ち伏せている場合。結局誰も乗ってなかった場合。助けを求める仲間がいる場合……。
それでも選択肢は――――やるしか道がなかった。
及川はエレベーターのボタンを押した。
ういん、と唸って重い扉がゆったりと開く。及川はすぐ後ろに跳び退って、片膝をついてベネリM3をしっかり構えた。
一面、赤い染料が視界の中いっぱいに広がる。そして同時に異臭が漂ってきた。
エレベーターの箱の壁のそこらじゅうに飛び散った赤い斑点が、その物体から噴き出たことを用意に想像させる。
ぐったりと後ろの壁にもたれかかるように倒れている河村の身体の全身にどす黒い穴がいくつも開いていた。そしてその身体の下に広がる血の海がエレベーターの隙間にぽたぽたと落ちていた。
うっ、と気持ち悪くなった及川は思わず口を手で押さえた。
よく見ると河村のこめかみのところにもどす黒い穴が開いていて、そこからどろどろと血が垂れ流れていた。
あまりの痛烈な匂いに鼻がひんまがりそうだった。いや、それどころか今にも吐いてしまいそうだった。
ぐるりと眼球が反転して白目を剥いた顔に半開きの口から矯正した前歯が見えて、ほんとうにグロテスクだった。
「うっ、うう」
こらえきれなくなってたまらず吐いた。
何もなかったようにエレベーターの扉が閉まる。がこん、と扉が閉鎖するといくぶん異臭はやわらいだものの、あまりにも強烈な死体が目に焼き付いて離れなかった。
なんてことだ。いったいどうなってるんだ? 何故? どうして? 誰かいるのか? 侵入者がやったのか?
無駄な体力を使っている場合ではない。どくどくと血液が逆流していくのをリアルに感じる。吐気よりも怒りの方が先立った。
湧きあがる不安と仲間を殺された怒りと見えない敵に恐怖を感じながら、やや混乱した状態のまま及川は立ち上がった。
口を拭って一息つく。動揺は大きいが、幸いこちらには強力な武器がある。それに脱出計画という希望もある。誰にも負けるわけにはいかなかった。
しかし膝はどうしてもがくがくと震えっぱなしだった。
くそっ、くそっ、くそっ!
いらだつ気持ちを押さえきれなくなって自分の膝を何度も叩いた。力いっぱい殴りつけた膝がじんじんと痛んで、それが逆に意識をはっきりとさせた。
冷静なのか混乱しているのか自分でもわからないまま、やることだけはやっておこうと思った。
もう少しエレベーターの中を調べる必要があると思っていた。ただ、もう一度あの血だらけの死体をみるとなるとその気持ちが萎えてきた。河村の死に顔がとにかく強烈だった。しかし、エレベーターを調べなくては……。
河村が何で殺されたのかも見る必要があると思った。彼はソーコムを持っているのだろうか? もし奪われているなら注意しなくてはならない。
及川は覚悟を決めてエレベーターに近寄ってボタンを押した。気持ちの切り換えはあいかわらず早い。
重い扉が開いた瞬間に鼻をつんざくような匂いがしたので息を止めて中へ一歩近づいた。
手で閉まらないように扉の横を押さえながら、中の様子を目をしかめながら覗きみる。座った体勢で後ろの壁にもたれたまま首をうなだれている河村は、ぴくりとも動かない。手はだらりと下に垂れ下がっていて、開いた手には何も持っていなかった。しかし、よく見るとその手の側に小さな鍵が落ちていた。
及川は極力、河村の死体を直視しないようにしながらその鍵を拾った。血がついていたので感触は最悪だったが、目の前にかざしてよく見てみた。ほんとうに小さな、そして簡単な構造の鍵だった。
ふと中の操作パネルの方を見ると、普通のエレベーターと同じように上から五、四、三、と続いていたが、パネルの一番したのところのボックスが開いていた。中にはonとoffのスイッチと各階を表す表示があった。そこのところが現在onになっている。
どうやらこの鍵はこのボックスを開ける為のもののようだった。中のスイッチはその階に止まるかどうか設定できるような仕組みになっているようだった。ためしに二階をoffにしてからパネルの二階を押すと何も反応がなかった。onにしてもう一度押すと、今度はそのボタンのランプがついて、下にいく矢印が光った。
河村はきっとこの鍵をどこかで手に入れたのだ。そしてエレベーターが動くかどうかためしているときに誰かに襲われた……。
エレベーターの中には河村が持っていたソーコムはどこにもなかった。気持ち悪かったが、少し身体をずらして背中の方も見てみたがやはり同じだった。しかもその時に血の海を踏んでぴちゃり、と音がした。ここでタップダンスを踊ったらさぞかし素敵なメロディが……。
壊れ気味の思考を中断させた。それからそこを離れてエレベーターが閉まった。
しかし、いともあっさりと銃を奪われたのだな……。これも顔見知りの犯行だろうか?
河村が油断してしまい、さらに銃を奪って殺した人物……。
及川にはどうしても一人の男しか思い浮かばなかった。
よろけるようにエレベーターから離れた。厭な、とても厭な考えしか思いつかなかった。頭が固まっているんだろうか? 他に納得のできる回答が見つからなかった。
廊下の窓側に寄ってそこに手をつく。
考えたくはないが結論ははじめから一つだったのかもしれない。
見るともなしに外を眺めた。外の景色は厭味なぐらいおだやかでかわりがなく、見晴らしがいい。
そしてそんなときにかぎって人の心を逆なでするようなことがあったりするものだ。一番聞きたくない声が機械音とまじって流れてきた。バックグランドミュージックが流れて軽快なリズムが島中に流れる。
『いつもバラ色に燃えて――――』
舞知がメロディにあわせ、いきなり歌を歌い出した。なぜだかわからないが無性に腹がたつ。
『――――私はマチコー、イエイイエイ。今あぁ、羽を広げてえぇ、今あぁ、とびたつ私ぃとてもとてもとてもっ幸せな気分よおぉーおおぉ。――――はーい、みんなぁー、元気ぃー?』
――――ムカツク。
【川田章吾優勝まで あと15人】