第二部
中盤戦
41
「落ちた!?」
どんよりとした曇り空しか見えないその先に、及川は呟いた。
「仮面野郎と一緒だ。――――すまん、見てきてくれないか?」
背中から仁の声がする。
首だけ振り返ると仁が地面に腰を落しているのが見えて、思ったより重傷だな、と思った。及川自身もそれほどまともに歩ける状態ではないが。
「――――わたしが見てくる」
呟くようにして言ったのは菱倉ゆかりだった。
「ああ、たのむ」
男二人が動けないというのは非常に情けない話ではあったが、この際仕方がなかった。
及川は気をつけるように、とゆかりに声をかけるために顔を上げると、そこには蒼白の彼女の顔があった。視線もやや虚ろだ。
「大丈夫か?」
思わず口に出た。
それでもゆかりはゆらゆらと立ちあがって高架水槽の方へ向かった。
――――逃げたゆかり。追う仮面の男。それを助けようとした沢村。そしてもみ合いから転落へ――――。
一瞬見逃した時に起こった出来事はそういうことなのだろうと見当をつけた及川は、もう一度仁の方を振り返った。
あいかわらず彼は上体を起こすのがやっとの体勢を保ちながらこちらを見ている。ずいぶんと血色が悪い。
及川は声をかけた。
「無事か?」
簡潔にして的確な言葉。今、その言葉以外はあてはまりそうになかった。
それを聞いた仁は口を歪ませて、不安定な体勢のまま片手をあげて親指を立てた。
とりあえず仁の方は無事そうだった。血色の悪さはお互い様だろう。自分だってあまりまともでない状態であることには変わりはないのだ。
「沢村くん!!」
ゆかりが叫んだ。
彼女は屋上の隅から下を覗いている。先ほど二人が消えたあたりだ。
「どうしたっ!? し……死んでいるのかっ?」
死、という言葉をストレートに発言するにはやはり、抵抗があった。まだ生々しい。まだ自分にはその言葉は痛すぎる言葉だ。
走ってゆかりが戻ってきた。それから、
「生きてるかもしれない!」
そう叫んだ。
「どうしよう!? 助けにいかなくちゃ!」
「どうだったんだ? 生きていたのか?」
「屋根で……駐輪場の屋根の上に二人とも倒れているの。……生きているかどうかわからないけども……でも」
「わかった。見に行こう」
それだけ言うと及川は立ちあがろうとした。が、突然、吐気と眩暈がして頭が揺れた。倒れそうになったところを助けてくれたのはゆかりだった。及川の腕に手を回したゆかりは及川を支えた。彼女のやわらかな肌と、暖かいぬくもりがそこから伝わった。
「大丈夫?」
小声で早口にそう言った彼女は実にしっかりしていて、及川をどきっとさせた。たくましく、やさしかった母をなんとなく彼女の面影に重ねた。
よく見ると彼女は目鼻だちのはっきりした特徴のある顔をしている。多少、好みの分かれそうな感じではあったが、及川には少しまぶしく見えていた。
長い髪が及川の腕にからんでくすぐったかった。心臓が激しく脈打っていた。
「三島――――どうだ? 歩けそうか?」
彼の名を呼んで一緒に行けるかどうか問い掛けてみた。
すると仁は、
「いや、もう一人美人の支えがいるようだ」
と言って、手をぱたぱたと振りはらって先に行くように促した。
「生きてるなら助けてやってくれ。――――頼む」
真剣な眼差しが沢村の命を救って欲しい、と言っていた。そういえば三島と沢村は仲の良い友達だったなあ、と及川は思い出した。いつも二人が一緒にいるのをクラスメイトの誰もが見ている。
階段から降りる時、もう一度後ろから声が聞こえた。
「――――頼む」
懇願にも似た悲痛な叫びのように及川には聞こえた。二人はやはり、親友なのだ。
こんなときではあったが、それをある意味羨ましく思っていた。どんなときでも親友であり続ける姿に正直、及川は感動していた。
階段を降りるのは及川にとってつらい動きだった。ずきずきと痛みの治まらない鼻骨。えぐりとられた右肩の肉。歩くたびに電気がぴりぴりと走ったように疼く、男性の急所。
意識とは無関係にがくがくと足が震えて思うように力が入らなくて何度もこけそうになった。そのたびにゆかりが懸命に支える。彼女の手はしっかりと及川の腕に絡んだままだった。本来なら自分が彼女を支えてやりたいところなのだが……。
エレベーターでも使いたいところだが、実際動くとはいえ、壁一面に広がった血の海の中へ行くわけにもいかなかった。あそこには河村の死体がある。
この状態ではゆかりが一人で見にいった方が早いのかもしれないが、どこで襲われるか予想もつかないので及川は初めから離れるつもりはなかった。ただ、彼女のボディーガード役としては傷を負いすぎていて、役に立つかどうかあやしくはあるが。
三階まで降りたところでゆかりが聞き取りにくい小声で話しだした。いや、小声なのは元々なのかもしれないが。
「沢村くんが……あの、変な人から守ってくれようとして……」
及川は階段を降りながら黙って聞いた。
「沢村くん、屋上に来たの。一人で。――――意識が戻ったらしいの。ついさっき」
はあ、はあ、と途中で息を切らせながらゆかりは話を続ける。
「私、おトイレに行ってたの。――――部屋には高木さんを残して。そして、戻ってきたら、いたの。あの、仮面の人が!」
また、はあ、はあと息を継ぐ。一生懸命及川を支えながら階段を降りるのでかなり負担になっているようだ。及川は彼女の身体から離れて(ほんとうはもう少し触れていたい、と思っていたけど)、手すりに身をまかせた。それでも十分下におりれそうだった。それに痛みも徐々にではあるが引いてきている。しかし、彼女は、
「――――無理しないで」
と、再び及川の腕を取った。またも、彼女の身体が腕に当たった。及川の左の肘の部分にちょうど彼女のやわらかな胸があたった。これは、ちょっと、いや、これぐらいの年の少年なら仕方がないだろう? と自分に言い聞かせながら、ゆかりの胸の弾力を感じた。感想は……まあ、いいだろう。
「さんきゅ」
短くお礼をして、「……ってことは、高木、さんはやっぱあの変態男に殺られた、ってことか」と言った。
「直接は見てないけど――――」
と、ゆかりが前置きしてから、
「――――やっぱり、そうじゃないのかしら」
と、答えた。
「病室には高木さん、いなかったわ。――――さっき、放送があった時に沢村くんと発見したんだけど、高木さん、転落していたのね。あの男に落されたのかしら?」
「正確に言うと首を締められてから落されたことになる」
「え?」
「高木が倒れている場所まで行ったんだ。――――沢村は高木が落ちたことを知っていたんじゃないのか?」
すると、ゆかりはまた、え? というような表情をした。首をかしげている仕草が及川にはたまらなく可愛い仕草に見えた。
「一緒の病室にいたんだろう? そこにあいつがあらわれたんなら……」
ゆかりが視線を外にはずして少し逡巡してから、
「あ……でも、私が病室に戻った時には沢村くん、まだ寝てたような……。仮面の人が、窓際に立っていたわ。――――私が戻らなかったら、次は沢村くんが……危なかったのかも」
「やつは、君を追いかけてきたってわけだ」
「ええ……。私、逃げようとしたし……」
なるほど、と及川はだいたいの状況を掴んできた。
どこからか侵入した仮面の男が二階の病室に誰かいるのを見つけた。やつは当然”乗り気”でやってきたわけだから(あんなお面をつけているのだからやる気でないわけがない!)、その時病室にいた木を襲った。たまたまトイレにいて助かったゆかりが病室に戻ってくると高木は殺され、あるいはもう沢村に手をかけようとしていたかもしれないが、やつは次のターゲットをゆかりに変更した。寝たきりで動かない沢村はいつでも殺せると判断したのかもしれない。
「それで、やつは追ってこなかったのか?」
及川の質問にゆかりはぶるっと身体を震わせてから、
「追ってきた。私、必死で逃げて――――階段を上がって逃げたんだけど……すぐに息が切れて、四階まで上がったところで足がガクガクしてきちゃったから、そこから非常口の方へ逃げたの」
たしかにあまり運動が得意なようには見えない。今だって及川を支えながら階段を降りるのも一苦労しているようだ。だが、そんな表情はほとんど顔にだしていない。意外と気丈なところを持っているようだ。
「やつはそれ以上追ってこなかったのか?」
「いいえ。――――だけど見失ったみたい。たぶん、五階まで行ったんじゃないかしら。私は四階の非常口から屋上へ上がったの。そこでじっとしていれば気づかれないんじゃないかと思って」
ちょうどその頃に及川は入れ違いに二階の病室にいたはずだ。それから外に出て――――。そうか、その時に五階で河村とやつが遭遇したのかもしれない。あるいは異変を感じてすでに一階に下りてきていたのかもしれないが、とにかく、そこらでやつと遭遇しエレベータでの中で殺されたのだろう。となると硫酸を持ち出したのは河村かもしれないが、死体のそばになかったということは仮面野郎が奪っていったということだろう。何もしらなかった自分がエレベータホールの前をやり過ごして、二階へ上がった……。
そこでふと疑問がもたげた。五階で防火扉のロックがしまったのは? あれはなんだったのだろうか? あれもやつのせい?
他にそんなことをするやつもいないだろうし、やはりそうなのだろう。
特に深く気にする問題でもない、と思って考えるのをやめた。
非常口から一階まで降りると、駐車場があった。このちょうど反対側が駐輪場になっている変わった造りだ。
ゆかりが先に立って、建物を回ろうとするので慌てて呼びとめた。ゆかりが回って行こうとする先には高木の死体がある。
「――――こっち側から回ろう」
及川は反対側を指差して言った。できるだけあんなものは見ない方がいいだろう。
ゆかりは黙ってついてきた。歩調はゆっくりとしか歩けない及川に合わせたものだったが。
最悪の想定としては沢村が死んで、あの仮面の男が生きているかもしれないという場合だ。完全にあれはイカれている。いくらこんな状況だからって……。
沢村が生きているなら助けてやることもできるかもしれない。――――そうだ、政府にあの罠を仕掛けてみることも忘れちゃいけない。完全に受身な罠だから引っかかるかどうかは運次第という情けないものだが、うまくいけば全員助かることだって可能だろう……。
「――――菱倉。……もし、万が一だよ」
ん? と顔だけをこちらに向けた。やさしい表情の微妙な笑顔が見えた。
「仮面の男が生きていたら俺はやつを殺す」
やや細い目が少し大きく開いたが、さして驚く様子もなく、
「――――無茶は……しないでね。あなたにまで、死んで欲しくない」
と、答えた。
その言葉の意味をどう受け取ってよいものか思案しながら、及川は大きく頷いた。何度も何度も、うんうんと頷いた。
「それともう一つ……いや、これは――――まあ、いいか」
「え、なに?」
もし、二人とも生き残れたら……俺は、お前に言いたいことが、ある。大事な、そう、とっても大事な話なんだ。
「いいさ。――――また今度話すよ」
不思議な顔をしたままゆかりが視線を外す。特になにも気づいてはいないようだ。
及川はいくぶん楽になった身体を発奮させるように力強く歩いた。もう彼女の支えは必要なかった。
その歩き方をみながらゆかりが離れた。彼女ももうその必要がなくなったのだと気づいたのだろう。――――そして駐輪場へ。
正面玄関の脇にある駐輪場のトタンの屋根が見えた。青い、でこぼことしたどこにでもあるような雨よけだ。下から見ると不自然にぼこっとふくらんでいるところがあって、その衝撃の強さを物語っていた。――――この上に。
及川は近くに倒れていた自転車を引っ張り出して、そのスタンドを立てて地面に固定してから身軽に、ひょい、と上に乗った。視線がぐん、と上がって青い屋根と同じ高さになった。手をへりにかけて覗くと、そこには大きな窪みがあって何か重いものがそこに落ちた跡があった。――――そう、跡しかなかった。それと同時に見えたのはその先にある部屋の割れたガラス窓だ。
「いない――――」
またゆかりが、えっ、と声をだした。しかしいないものはいないのだ。――――いったいどこまでタフなんだろうか、あの怪物は!
そしてその時二人の耳に確かな叫び声が聞こえた。
断末魔に近い、悲鳴と驚愕の叫び声。誰のものともわからない長く続く唸るような叫び。まさに人間のものとは思えない『音』が二人の耳に侵入してきたのだ。
しばらく続いたかのように思えた悲鳴がかすれて聞こえなくなっていた。時間にすれば一瞬の出来事だったのか?
「な――――なんだ、い、今のは……」
確かめるようにゆかりの方を向いて問うてみたが、奮えるように彼女は首を振るだけだった。
この耳が確かならば、『叫び』は病院の中、それもこの駐輪場の屋根から先に見える部屋だ。やはりそこに二人が……。
及川は手に力を込めると勢いをつけて屋根によじ登った。――――戦わなければ。逃げていては誰も守れない。誰も死なせるわけにはいかない。ましてや彼女をこれ以上危険な目には……。
――――俺は彼女を守る為にやつを殺す。
ぼこぼこの屋根をつたって窓に寄る。そしてその先に人の姿が見えた時――――。
「うっ!」
思わず身体を後ずさって視線を外に外した。すぐに熱いものが胃のあたりから逆流を始めた。
どたどたと青い屋根が大きな音をたてる。すぐ下ではゆかりが心配しながら上を見上げていることだろう。
しかし……しかし、まるで自分の目を疑った。あまりにもおぞましいその姿。
知らずに口に手を当てていた。ともすれば、そのまま胃の中のものを全部だしてしましそうだ。――――いや、もう胃の中のものはすべて出しきってはいたのだけど。
首から上、顔があるはずのところに赤黒く腫れあがった肉の塊。苦しいのか、意味不明に手足をばたつかせながら両手で顔を掻きむしっている。白い煙を上げながらシャツが溶けて肌がただれている上半身。蛋白質が燃えるような独特の異臭が漂って鼻につき、じゅわじゅわと音を立てながら皮膚が爛れていく。まるで炎天下に置いたアイスのようにぽたぽたと肉片だか皮膚だかわからない物質が床に落ちる。
硫酸……硫酸……。
頭の中で激しく記憶が回転する。あれを持っていたのは……やつか? それとも沢村だったか?
馬鹿な! ――――馬鹿な! ――――やられたのは……殺されたのはどっちだ!?
灼熱の炎に焼かれるようにもがき、苦しみながらゆっくりと身体が沈んでいく。
その時瞬間的に見えた。――――彼の目が、腫れあがって原型を留めない肉の塊の間から、及川を見つめていた。
そして窓越しに見た彼の姿は、その窓の影に消えた。
動揺が困惑を通りぬけ、痺れるように身体が動かなかった。
本当なら、このまま朝がきて目が覚めると夢でした、なんてオチにでもなってくれたらどんなに幸せかと思う。長い、長い悪夢を見ていただけで、本当は平和な、平凡な、退屈な毎日をまた過ごすことになってくれたら、とこんなに思ったことはない。
ああ、どうか神様。これは夢ですと言って下さい。これは悪魔が悪戯したちょっとした悪ふざけなんですよ、と言って下さい。今まで貴方を信じなかったことは謝ります。何度でも謝ります。どうか、どうかこれはおとぎの国の話だと、言って下さい……。
がたん、とでこぼこの固い屋根に腰を落した。
視線は虚ろ。思考は迷走したまま。
――――この数時間の間に、もう何度人の死を目の前で見ただろう。
高木。河村。そして今も。……ああ、そういや消防署でケージが撃たれたのも真横で見た。忘れてたよ。ハハ。
なんだろう。これはいったいなんなんだろう。いったい何をしているんだろう。――――殺し合い? ああ、知ってるよ。――――プログラム? ああ、知ってるよ。――――最後の一人だけが……。ああ、もちろん知ってるよ。
けど……けど……。――――これはいったい何をしているんだろう?
わからない。――――わからないぜ、こんなのは。
「――――くん。及川くん!!」
下から声が聞こえる。地獄から天使の声が聞こえるとはこういうことを言うのだろうか?
「及川くん! 降りてきて! 危ないわっ」
ゆかりの声がようやく頭に浸透してきてから、
「ああ、わかっているよ」
と、穏やかに言った。
「君のそばから離れたりしないさ」
そして小さな声で言った。あまり大きな声は出なかったし、はっきり言うには恥ずかしすぎた。
及川は目のあたりを強く拭った。いつのまにか流れていた涙が、及川自身、まだこんなに身体に水分が残っていたんだと感心するぐらい流れた。だが、二、三度手で拭くと、もう目には水滴がついてなかった。
軽快に飛び降りたいところだが、身体中からやめてくれ、との反対意見が出そうなので昇った時と同じようにして、ゆっくりと今度は下りた。
「お待たせ」
思ったより軽口が言えた。彼女の笑顔がなにより見たかった。
だが、彼女は笑ってはくれなかった。変わりに、
「――――何が……あったの……?」
と、不安げに尋ねた。
なんと答えてよいものかわからず、まだ、頭の中はずいぶんと混乱しているのだろう。――――それが自分でわかるだけ自分は偉いよ、なんて思いながらいると、
「でも……聞かない方がいいのかもね」
なんて、ずいぶん冷めた言葉を吐いた。
及川の顔の表情を見れば……それは十分予測できることだったのかもしれないが。
心配だろう。ゆかりはきっと沢村のことが心配で心配でしょうがないんだろう。それは――――彼女が彼をこの病院に運んできたときからわかっていたことだった。
菱倉、ゆかり。転校生。誕生日が……たしか来月の三十日だ。父親の仕事の関係で東京から兵庫に来たと聞く。あまり誰とも喋らない。クラスに友達は少ないほうだっただろう。――――意識していたわけではない。彼女のことをずっと想っていたわけでもない。ただ、ちょっと……ほんの少しだけ気になる存在。こんなことにならなければ……こんな異常事態にならなければ、はたしてここまで彼女のことを強く意識するようになったであろうか?
俺は――――プログラムの説明をされているときに彼女のことを一度でも思い出したであろうか……?
好き、だなんて感情が……芽生えているとでもいえるのだろうか?
「探そう。……まだ、どっちかは生きている」
意味深い言葉を発すると、はっと彼女の顔が一瞬輝きを取り戻した。ただし、それは瞬きするよりも瞬間的だったかもしれない。
「生きてる?」
「――――ああ、生きているよ。……だから――――」
すうと息を吸ってから、
「確かめる必要があるんだ」
と続けた。――――生きているのは敵か味方か……確かめる必要が、ある。
「まだ終わるわけにはいかないんだ。まだ俺たちにはやることがたくさんある。だから……だから、生きてやるぞ。――――いいな?」
すると彼女は少し泣きそうな顔になって、首をただこくっと縦に振った。
ゆかりを誘導するように先導して及川は病院の正面玄関に向かって歩いた。つい先ほどまでそこにバリケードがしてあったが、もう外れてある。いや、つい先ほどというにはずいぶん遠い記憶のような気もしているが。
「生きるんだ」
自分に言い聞かせるように及川は囁いた。心の中では何度も何度も唱えていた。
玄関の先にはすぐ右手に階段がある。奥の階段は閉鎖してあるので二階の窓から侵入したなら出口はここと非常階段だけだ。
何も武器がないのはいささか心もとないが、あちらはどう考えてもまともな状態であるわけがない。――――五階から落ちたんだぞ。
しかしその思いはすぐに打ち消された。五階から落ちても平気で暴れまわっているじゃないか。もう何度信じられない思いをしたんだ。
しばらくその階段を見張っていた。さすがに上っていく勇気もなかった。
玄関のところで様子を見ていたが、そばにゆかりがそっと立った。そして彼女の手が及川の二の腕あたりに軽く触れた。
「……あきらめないのね。及川くんは。……私、それってすごいことだと思う」
及川は落ち着いていた。以前の冷静さを少しは取り戻したのだろうか、彼女を特別意識することもなかった。
「こんな絶望的な状況でも……死ぬことを考えてないんだね」
そんなことは、ない、と言いかけたが、あえて言わなかった。
「私、もうダメだと思った。絶対優勝なんて無理だし。死のうかとも……。だけど、死ぬ前にもう一度逢いたかった。死ぬ前にもう一度だけ逢いたい人がいた。――――沢村くんを見つけたとき、死んじゃってるのかと思ったけど生きてて……。なんとか、もう一度、彼と話したかった。――――何を話すんだ、って言われたら困っちゃうけど。ただ、喋りたかったの。普通に。――――彼、私が転校してきて最初に声をかけてくれた人だったし。それで――――なんて私、単純で馬鹿みたいなんだけど、好きになっちゃった。――――残念なのは、いつも彼の横には川上さんがいたこと。川上さんも他の人よりは話しやすい人だなぁ、って思ったけど、沢村くんと何か話そうとするとよく混じってきたわ。――――彼女、誰にでも気軽に話しかけてくるのは……沢村くんとも気軽に話せるようにしたかったからじゃないのかしら、なんて勘ぐったりもしたわ」
ゆかりは自嘲気味にうふふと笑った。
「フフ。ずいぶんと饒舌だな。――――らしくないぜ」
するとゆかりは、うんうんと肯きながら声をださずに笑っていた。
「及川くんは……また今度、って言った。その時思ったの。私。ああ、この人は自分だけが生き残ろうとするんじゃなくて、みんなを、できるだけ助けようとしているんだなぁ、って。――――私、それにちょっと感動した」
ゆかりの独白に及川はちょっと背中のあたりがむずがゆいのを感じながら、それでも嬉しく思った。何か見えないものだけど、人間として彼女とは繋がりができたような気がした。
「まだ――――俺の力は足りないかもしれないが、何人かは助けてやることもできるかもしれない。――――たぶん、俺がやらなくちゃ誰も助からないだろうし……。――――そうだ」
そう言えば彼女には反対の島の連中と通信できたことを言っていなかった。そのことをゆかりに話そうとした時、ゆかりがあっ、と声をあげた。
「どうした?」
「誰かいた!」
及川は言われるとほとんど同時に階段のところに目をやったが、そこには誰の気配すらなかった。
「ほんとに――――いたのか?」
「いたわ。間違いない!」
あまりに確信したゆかりの口調に真実味はあった。――――誰かいた。――――そこにいるのは誰か。沢村か、仮面の男か。
「沢村なら俺たちをみて隠れたりはしないだろう」
ある程度推測をたてて言った及川だったが、ゆかりは特に何も答えなかった。その可能性は高いが、それを認めるとなると沢村が死んだという結論になる。あの硫酸にやられたのは……。
いまいち踏ん切りがつかなかった及川だったが、先ほど確認の必要がある、と言った手前、そのままにしておくわけにもいかなかった。そして、ゆかりに一言、「ここにいろ」とだけ言って、一人で階段へ向かった。
階段を昇る手前になって今更ながら、五階からショットガンを取ってこようかと思ったがそういうわけにもいかないので諦めた。すっかり気が動転していたのだろう。だれが冷静なやつだって? ――――まったく。こんな危険な状態でよく手ぶらで歩けるもんだ。
――――大丈夫、大丈夫。もう落ち着いている。動揺するのは彼女に見つめられる時ぐらいで十分だ。
自分に言い聞かせながら慎重に階段をあがった。冷や汗をかきながら階段をあがるのはもう二度としないぞ、と心に強く念じながら。
一階と二階の中間にある踊り場にでてから、そこに消火器が置いてあることに気がついた。――――武器として……とも思ったが、とても重そうなので見送った。――――相手は重傷のはずだ。素手ならまだこちらに分があるはずだ。
及川は聞き耳をたてながら階段を一段、一段ゆっくりとあがっていく。
よく思い出して確認してみる。武器は――――包丁。斧。硫酸は使用ずみだし、ショットガンは五階にある。あと武器らしいものと言えば三島の使っていたアーチェリーぐらい――――あっ!
二階まであがった時に、とても重要なことを思い出した。いいや、正確には忘れていた。
しまった! 忘れていた! 河村の使ってい――――。
そこまで思い出した時、二階の廊下から人が飛び出した。手を伸ばせば届くようなわずかな距離に銃を構えてこちらにそれを向けている……・・・仮面の男が立っていた。
ぱすっ、と言う小さな音が鳴るとほぼ同時に右肩口にどすん、という重い衝撃が伝わって、そのままバランスを崩して階段を後ろ向きのまま転げ落ちた。
どたどたどたとかなり派手な音を響かせながら床に激突して止まった。
――――撃たれた? あれは? サイレンサー付きの……。
下から見上げるその先に仮面の男が悠然と立っていた。赤黒く染まってやぶれているシャツ。不気味なほど無表情な白い仮面。そしてその奥に見えるであろう、冷酷な瞳。
一歩。また一歩、階段を降りて及川に近づいてくる。ただ、階段を降りる時にがくがくとバランスを取りきれずによたついていた。足を怪我しているのだろうか。それともただまともに歩けないほど重傷になっているのだろうか。
本日二回目だな。お前にこうして留めを刺されそうになるのは。しかし――――今度は自分で何とかするしかないようだ。
及川は重い上半身をようやく起こすと、なんとか立ちあがろうとした。が、腰や背中に激痛が走る。――――クソッ。なんたってこんなときに。
サイレンサー付きのソーコムの銃口が及川の眉間を捉えた。だが次の瞬間、
「いやああああ!」
と、かん高い声と共にゆかりが突然目の前に現れた。ゆかりが銃を持つ相手に素手で飛びついていた。虚をつかれた相手もゆかりの体当りにたじろいでいた。
「ひ、菱倉っ!」
叫びながらも及川はすばやく目をくばらして、近くにあった消火器を手に取った。ゆかりが短く悲鳴をあげて突き飛ばされた。同時に銃口が彼女を狙う。すばやく安全ピンを抜いて噴射口を持ち、ノズルを強く握って消火器を噴射させた。
しゅごおおっ、という激しい音と共に白い粉末が噴き出して、煙が一気にあたりを包んだ。消火器の噴出音にかき消されて、他の音は何もいっさい聞こえてこなかったうえに、視界がまったく遮られて何も見えなくなった。
及川も何か叫んでいたかもしれないが、それすら自分で聞くこともできなかった。息も煙を吸いこむことで呼吸が苦しくなり、咳き込みながら彼女の名を必死で呼んだが何も聞こえてこなかった。闇雲に突進すると誰かにぶつかった。向こうもこっちも誰がどこにいるのかわからない状態で、とにかく必死にその相手を掴もうとしたが、もう手の届く範囲にはいず、手が空を切っていた。
「げほげほっ。――――ひ……菱倉ぁ!! 大丈夫かあぁ!!」
追い払うことができるわけでもないのに、それでも手を振って煙を払う。――――無事なのか? 彼女は撃たれなかったのか?
他に方法を選ぶ余裕もなく、一瞬の判断で消火器を噴射させた及川は後悔の念にとらわれそうになったが、いまはそんなことを悔やんでいる場合ではないと思い直した。
「菱倉! 菱倉ぁ!!」
その時彼女の声がわずかに聞こえたような気がした。もう一度できるかぎり大きな声で彼女の名を呼ぶと、及川の足元から声がちょっと聞こえた。
及川は身を屈めるように膝をつくと白い視界の中にかすかな影が見えた。
「――――菱倉!」
髪の毛が真っ白になった彼女の頭が見えて、思わず肩を抱いて手で煙を追い払った。煙は変わらずましになることはなかった。
「立てるか? ゲホッ――――む、向こうに――――ゲホゲホッ、行こう」
煙を吸いこんで咳き込みつつ自分もきっと全身真っ白になっているだろう、と思いながら階段を夢中で上がった。彼女の方もなんとかついてこれた。
狭い密閉された場所で噴射したものだから、想像以上にひどくなったが、なんとか男からの襲撃は逃れたようだ。やつは今も煙の中か、下へ逃げたか……。ぶつかった相手が階段の下へ向かったことだけはさっきわかったのだ。
二階廊下の踊り場に出てから、
「無茶をするな! 殺されるところだったぞ!」
とゆかりに対して怒鳴った。しかし危険を顧みず自分を助けにきてくれた彼女の行動に驚きと感謝の気持ちもあった。
新鮮な空気を吸おうと廊下の窓を開放した。がらっと大きく窓を開けると顔を突き出して息を吸いこんだ。内側の白くて細かい粉が外にも流れる。すーはー、と二、三度呼吸を繰返して、ようやく息がしやすくなった頃、ゆかりがばっと外を指差した。
「見て、あれ!」
彼女が指差した方角に一人の真っ白な男が足を引きずりつつ走っていた。そして道路をこえた先の雑木林の中に紛れこむと、そこから完全に姿を消した。
「やつだ。逃げたんだ」
それを見ると助かった、という気持ちになった。あの怪物を追い払ったぞ、と。しかし決してはしゃぐほど嬉しい、なんてことはあるわけもなかったが。
右肩が疼いたので、うっと声が洩れた。どうやら弾が至近距離から当たったようだ。どの程度の傷かは自分でも判断できなかったが、少なくとも包丁で右肩をやられたときよりも深い傷のようであった。
顔が真っ白になって、ちょっとこれは可愛いとは言いがたいゆかりが大丈夫? と小さな声で言った。
「自分でもよくわからない」
と正直に答えておいて、あごをしゃくってあっちへ行こう、と促した。
戸惑っているゆかりを無視して、彼女の手を取り廊下を渡って非常口の方へ早足に駆けていった。硫酸をくらってむごたらしい死体があるあろう部屋もさっとやりすごして彼女には気づかせないようにした。
それが沢村であると知ったら、俺はなんと彼女に声をかけてやればよいのだろう……。
及川たちは非常口から一旦屋上へ上がり、三島と合流した。
ようやく落ち着くことができた三人は及川の話を中心に現状の説明をした。木が、河村が死んだ状況。三人の知っている情報から割り出した仮面の男の正体。これは誰であるか確たる証拠はなかったが、背格好や三島の印象から、岩瀬也守であるのではないか、と推測された。それから岩瀬であろう人物がソーコムを持って逃げたこと。そして――――もっとも及川が言いにくかった事実……。
「そんな馬鹿な……」
まったく信じられないといった表情で仁が及川を見つめていた。ゆかりの方は一度それらしいことを言ったので何も言ってこなかった。ただ、まだ少しだけ残していた可能性を自分が踏みにじったようで、非常に気分は悪かった。
「利夫が……そんな……。本当か? 本当に殺されるのを見たのか?」
詰め寄るように仁が及川に迫った。困ったように下を向くしかなかった。それからもう一度、さきほど言った言葉を言った。
「沢村は、あの男に殺された。――――俺はその現場を……酷い話だが沢村が死ぬ場面を見たんだ」
とても硫酸を浴びて全身爛れるように死んだ、とは言えなかった。何もこの二人にそこまで説明する必要はあるまい。特にこの二人こそ沢村の死を悲しむべき人物じゃないか……。
「そんな……俺は信じないぜ。確かめてくる!」
「よせっ」
立ちあがろうとする仁の腕をがっと掴んで止めた。
「離せっ! あいつはそんなヤワや奴じゃねぇ。そんなことぐらいで死ぬもんか!」
「よすんだ!」
「うるさい! 邪魔をするな!」
及川の掴んだ腕を振り払うと仁は立ちあがって行こうとした。が、彼は足を痛めてまともに歩くとことすらできない。
そのまま倒れるように膝をつく仁に、ゆかりがあわてて手を貸した。
「つらいだろうが……。まだ終わりじゃないんだ。……まだ終わっちゃいけないんだ。俺はこんな理不尽な戦いに終止符をつけたい。本当に俺たちが戦う相手はクラスメイトじゃない。政府や、あのおばはんたちなんだ。俺に――――協力してくれないか? 俺は――――俺は……戦いたい。必ず勝てる戦いではないけれど、このまま引き下がりたくないんだ!」
苦渋に満ちた顔で及川は言った。だがそれを聞いて仁は、
「うおおおおお!!」
と叫んで及川に掴みかかった。
及川の胸倉を鷲掴みにして仁が言う。
「何がわかるっ! お前に何がわかると言うんだっ!! 俺と――――俺とトシはっ……トシは……」
「三島……」
「わああああああああ!」
めちゃくちゃに胸倉を掴んで力任せに振りまわす仁に、及川はされるがままになっていた。感情的な相手には落ち着いて対応するのが一番だと昔から決めていた。
及川はゆかりには聞こえないよう仁の耳元で囁いた。
「顔から全身に硫酸を浴びていた。……確認するのは、つらい作業になるぞ……」
それだけ言うと、ぐぐぐと力がこもっていた胸倉の手の力が緩んできた。
「……親友。……なんだろ? 今も――――今もかわらず二人は親友なんだろ? それとも死んだらもう親友じゃないのかい? そんな薄っぺらなもんなのかい?」
「……違う」
身体をもたれさせるように体重を預けてきた。何度も言うが、彼は立つだけで精一杯なのだ。
そして力が抜けたのはそこだけでなく、全身も脱力してその場に座りこんだ。そして――――彼は泣いた。
どうにも慰めの言葉が見つからない及川は立ち尽くすしかなかった。
声を殺してもうっうっ、と嗚咽が聞こえて肩が震えていた。
「ううう……ううううう……」
頭を地面に擦りつけるようにして手は髪の毛を強く掴んだまま必死に我慢していた。
座りこんでいるのは彼だけではなかった。ゆかりも顔を手で覆ったまま伏していた。はっきり見て取れるほど肩ががくがくと震えていた。
彼のもっとも親しかった親友。彼女がひそかに恋した相手……。むしろあのむごたらしい死に際をこの二人じゃなく自分が見て良かったのだと、せめてそれぐらいは思わないと救われないと思った。この二人も、自分も。
何も言わずにいたゆかりがうっううっ、と声を出して泣き出した。彼女らしい自分を押さえた泣き方だった。
及川は乱れた胸元のシャツを直して、そっと二人のそばを離れた。それから、外を眺めた。――――誰もいる気配はなかった。
内部では激しい戦いもあったが、特に大きな爆発があったわけでもなく、そんなに音は外には響いていないのかもしれなかった。
何気なくズボンのポケットに手を入れると手に冷たい感触の物が触れた。取り出すと、それは鍵だった。――――及川にとっても、大げさかもしれないが神戸二中にとってもこれは大きな希望の鍵となるはずだった。
及川は振り返った。二人はまだ立てずにいた。
「もし――――まだ二人に、それでも戦う力が残っているなら下の電算室にきてくれ。場所は菱倉――――知ってるな?」
ゆかりは泣いたまま顔をあげて、戸惑った表情をした。
「わかるな?」
と、念を押すとこくっと肯いた。
「もちろん俺のことを信用してくれる、という条件付きではあるが、可能性を捨てる気は俺にはない。――――たとえ一人でも俺はやつらと戦う。まあ、興味があったら――――来てくれよ。俺は、死ぬ気なんてまったくないぜ。もちろん全員殺して優勝しよう、っていう気もな。――――だけど俺は生き残る。必ず生き残ってやるぜ」
しばらく間を置いてから及川は非常口へ向かった。
すると背中から声がかかった。
「待てよ。一人でどこ行く気だ?」
仁が身体を起こす。立つことはできるようだが歩くことはできないようだ。
「お前が俺の杖にならないと動けないじゃないか。――――こっちこいよ、及川」
苦笑いして及川は仁の側に寄った。それから肩を貸してやった。百七十センチもない及川が仁の横に来るとこりゃ本当に杖の代わりだな、と思った。
「可能性はあるんだろうな?」
「可能性?」
「政府にたてつこう、ってからには勝算があって言ってるんだろうなぁ、ってことだよ」
及川は考えてみた。こんな絶対不利の状態から政府たちに圧勝する確率……。
「今はまだ……ゼロパーセントかも知れない」
「おいおい。口だけか? さっき言ったことは」
反対側からゆかりが同じく支えるように仁の横に来た。が、
「あんたはいいよ。お嬢さん」
と仁が愛想なく断った。
「なんだ、照れてるのか? 美人は苦手か?」
くく、と笑って及川が言った。
「バカヤロウ。そんなんじゃねーよ。人の気も知らねーで」
「人の気も知らないのはそっちだ。せっかく美人のおねーさんが肩を貸してくれるって言ってんだ。素直になれよ」
ちっ、と仁が軽く舌打ちして及川を睨んだ。及川には仁がそこまで彼女のやさしさを嫌う理由がわからなかった。
及川は思った。
必ず、この二人を助けてやろうと。それから自分も必ず生き残る、と。
希望は捨てない。
確率がゼロパーセントなら――――それを一パーセントにする何かを生み出してやる、と。
【川田章吾優勝まで あと14人】