
第三部
終盤戦
50
「……しっかりして!……マ……さん。……かる?」
薄らいだ意識が再び現実を取り戻そうとしていた。かすかに少女の声が聞こえる。
その先には和らいだ陽射しが降り注いでいる。
どこかで見たような気がした。――――病院のベッドから眺めた景色に似ていると思った。
懐かしいあの風景。
遠くで耳鳴りがする。頭の中をぐるぐると回る白い円盤とかすかな頭痛。
誰かが呼びかけた。
――――あなたは身体が生まれつき弱いのよ。こうして病院にいるのはそれをよくするためなの。……お願い。わがまま言わないで。……夏休みは長いわ。友達だって遊びにきてくれるわよ。
毎年夏になると入院していた。
病名はわからない。何度かその複雑な名前の病名を聞いたけど、その言葉が脳に伝わると拒絶反応を起こした。すべての意識を断ち切って現実の世界から逃避する。わたしはこんなに元気だから……外で遊びたい。
あなたはすぐに貧血を起こすからだめだとよく言われた。たしかに体力的に無理をすれば、すぐに眩暈が襲い、しばしば倒れることもあった。とても忌々しい病気だと、そのときはいつもそう思った。
そして両親はいつからかマリカを外出させないようになった。学校の友達や知り合いが旅行に行った話や家族の話をするたびにマリカはそっとその輪から離れた。自然と友達と呼べる人間もいなくなっていった。
小学校の高学年になるころには毎年入院するようなことはなくなったが、それでも時々学校を休んで通うことはあった。
母親は、どうしてうちの娘だけ、とよくさめざめと泣いていたものだが、哀しいのはあなたじゃなくてわたしなんだ、といつも心では思っていた。
その点、父親はあまり娘に関心がないのか、一緒に遊んだという記憶がない。だけどそれはマリカにとって逆にありがたいことだった。いつも過保護にする母親は嫌いだったし、相手にしなくていい分、父親の方がわずらわしくなかった。
ただ、そのことによって男性に対して、大人に対して冷めた気持ちで対応できる自分がいることは少しは関係があるだろう、とも思っていた。
ある日、衝動的に手首を切った。理由はなかった。ただそうしたいと感じたからそうした。
母親はそれを見て泣いたが、なんとも思わなかった。よく泣く人だと思っただけだった。
その頃を境に家を出て帰らない日が多くなった。夜の街にでると自分の父親ほどの男がお金で身体を買おうと声をかけてくる。
そんな時はうまくご飯だけおごらせて、ころあいをみてトイレに行くふりをしてそのまま店をでる。何度か危ない目にもあいそうになったけど、身体を汚されるようなことまでは到らなかった。
ただ、ふらふらと夜の街を歩き、声をかけてきた男におごらせて朝まで遊ぶ。そんな日々がしばらく続いたことによって皮肉なことに体力もつき、簡単に疲れることが少なくなった。
親の心配はマリカ自身の体力を考えたものだったが、無理をすることでそれを克服したのだとあとから思うようになった。三年生になってからはめったに貧血を起こしたり眩暈を起こすこともなくなった。
対照的に学校ではまるで目立たないほど地味だ。眠いこともあるのだが、いつもけだるく、机にじっとしているだけなのでクラスにもこれといった友達はいなかった。そもそも友達と呼べるような人物はいなかった。我ながら情緒不安定だと自覚していたので、そういう友達が欲しいとも思わなかった。
わたしは独りでも平気だと、もう、生まれてから何度も何度も思ったことを今もまた、頭に浮かばせていた。
「……どうして」
掠れた声は喉を震わせてようやく発せられた。
「……どうしてわたしを殺そうとしないの」
ぼやけた視界に千紗都の幼い表情が映る。
童顔の彼女は身体の小ささともあわせていまだに小学生に見える。ぴょこんと跳ねるように左右にまとめられた髪は、いまどきの中学生にしてはダサくてめずらしい髪型だった。
眩暈を起こして倒れたのはずいぶん久しぶりのことだったように思う。
プログラムというゲームの中では殺してくれというようなもんだ。マリカには不思議だった。道徳的な考えは今の思考回路からはすっぽりと抜けていたので、相手を殺す絶好チャンスに手を下さない千紗都の行動を不思議に思った。
「な……なにいっているのよ。……私たち、クラスメイトじゃない。友達同士じゃない」
そのクラスメイトを殺しあうのがこのプログラムの目的じゃなかったのか、とマリカは自問自答した。
白くぼやけた視界がようやく通常の世界を取り戻す。
色づいた景色がマリカの目に飛び込んできた。初めは白かった景色が蒼みを帯び、やがてくっきりとした色彩が写しだした。遠くに見える黒々とした雲の群れが太陽をさえぎるのが見えた。
それと同時に意識もまた、はっきりとしてきた。
千紗都はまだ不安そうにマリカの顔を覗き込んでいる。
「ほんとうに大丈夫? 顔色悪いよ遊佐さん。……さっきから変なこと言うし。……頭打ったせいだったりして」
千紗都が笑顔を無理に作って見せた。それでも冗談のつもりなのだろう。
それを見てマリカも少し気持ちがなごんだ。彼女のやさしさに少しだけ感謝した。
身体を起こそうとすると、ズキンと左肩が疼いた。
そういえば、ずいぶんひどい怪我をしたのだと痛みによってそれを思い出した。
白いシャツは完全に血に染まり、どす黒い汚れとなって左肩を中心に広がっている。この大量の出血が貧血に繋がったのかもしれないな、と、ふと思い、手を顔にやった。流れ出た鼻血が口に流れ込んできたからだ。
「――――かわいそう。こんなにされて……」
眉をひそめて千紗都が顔をしかめる。そして、すぐに自分のポケットをまさぐると、よれよれになったハンカチを取り出した。
「こんなのしかないけど……。使って、遊佐さん」
黙ってそれを受け取ると鼻の下に当てた。すぐに血を吸ってハンカチは汚れた。しかし、少し呼吸が楽になって、一度大きく呼吸をした。口の中がピリピリと痛い。
「行こう……」
それだけ言うとマリカはようやく立ち上がり、歩き出した。
空が少し雲行きを妖しくしている。
自然と足早に先へ進み、二人は黙ったまま山道を歩いた。
島にある大きな二つの山の南側の山沿いを時計回りにぐるっとまわるようにして進んだ。少し北へ上れば三時に禁止エリアとなった区域がある。詳細な地図を持っていないので、できるだけそのあたりは避けるように進むことにした。そして、ある程度さっきの場所を離れたら早くどこかに落ち着こうと思っていた。
マリカはまた、一度空を見上げると雲行きを追った。
空はまだ明るかったが、真夏にしては時間の早い夕方のような明るさになってきた。そういえば、今は何時ごろなんだろうか。時計がないのでさっぱりわからない。あとで千紗都に聞いてみてもいいかもしれない。
「……徒競走でね。私。一度もトップを取ったことがないの」
千紗都が唐突に言ったのでマリカは、 えっ、と思わず声をあげた。
先に歩いていた千紗都がこちらを振り向いていた。
大きな道は避けて山道のような場所を通っているので、でこぼことしたうねった道を歩いていた。手前は少し大きな岩が剥き出していて、階段のように削り取られている。ただ、それはとてもふぞろいで手をかけてあがらないと登れないような急な斜面だった。その先、少し上がったところで千紗都がこちらに手を差し伸べている。
彼女は笑顔だった。
マリカは手を借り、天然の階段を上がった。そして、
「――――ありがとう」
と言った。
いったい自分は何をしているのだろう。彼女と共に行動し、わたしはいったいどうしたいんだろう。
突然、行動を共にしている理由がわからなくなった。
激しい倦怠感が襲ってきて喋る気力すら失われていく。
また、情緒不安定になっているな、と自覚した。
再び千紗都が歩みだした。
「……徒競走。勝ったことないんだ。私」
マリカが話を振らないので千紗都は勝手に話を進めていた。
「足が遅くて……。よくお兄ちゃんからは、あ、高校生のお兄ちゃんが私にはいるんだけどね、お前は遅いのは足だけじゃなくて行動そのものが遅いんだって言われるんだけど――――」
また、天然の岩階段があった。
千紗都は躊躇なくその岩を先に登る。――――そして。
「――――いいよ、遊佐さん」
手を差し伸べてくる。
マリカは知らず知らず足を引きずっていた。新浦と格闘したときに怪我でもしたのだろう。今思うとなんとなく股関節からひざにかけて鈍い痛みがある。あちこち痛いので意識しないとどこが本当に痛いのかよくわからない。
「どうしたの? 登れそうにない?」
首をかしげてこちらを見ている。女の目から見ても可愛らしい仕草だと思った。
千紗都のマリカに対する気の使い方がやさしかった。
「大丈夫よ、平気だから……」
声を出すのも億劫だった。消え去りそうな小声を出すのが精一杯だった。
しかし、なんとか痛くない方の手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
とても暖かい手だった。
千紗都はなんの疑いもなくマリカと連れ添うつもりらしい。一度は裏切ったはずなのに。
マリカはそのことを切り出せず、千紗都の真意を探った。
「そんな私でも頼りにしてくれると、……ちょっとうれしかったり、はは。」
照れながら千紗都は言う。
右手にざらついた感触があったので手を広げてみた。小石や小さな屑がついている。そして少しの血が混じっていた。
「――――あなた……。怪我してない? ……手」
「ん? うん、ちょっとだけ。――――でも平気だよ。大丈夫、大丈夫」
なんでもないことのように千紗都は両手をパンパンと叩いて埃でも払うかのような動きをする。
彼女もどこかで怪我をしたに違いなかった。
右手に付いた汚れを取ろうとして、左手を動かそうとした瞬間に痛みが走った。
なんだかどんどん傷口がひどくなっているような気がする。肘から下の感覚が薄れていて、指先に力が入らなかった。血は今も少しずつ流れ出ているようだ。血をみるだけでだめな人もいるようだが、幸いそういうこともなかった。しかし自分の身体から血の流れが止まらないのは気持ちのいいものではない。つい先ほど貧血を起こした時のように再び気分が悪くなった。
気がつくとその場にうずくまっていた。地面が回っている。嘔吐しそうだった。
「遊佐さん!!」
死ぬのだろうか。
もう死んでしまうのだろうか。
一番考えたくなかった思いがこみ上げてきた。思わずしゃっくりがでる。
――――死ぬのだろうか? わたしは死んでしまうのだろうか?
堪らずに吐いた。だけど胃の中は空っぽだったようで胃液が少しでただけだった。
――――つまらない人生だ。このまま死んだら、なんてつまらない人生なんだろう。
わたしは泣いていた。
「遊佐さん、どうしたの!? ――――いの? ――――さん!! ――――?」
彼女の声が遠く聞こえた。
無声映画を見るように、彼女の口はなにか動いているのだけど耳には伝わってこない。
身体の感覚が失われようとしたその時、ふと、ぬくもりが伝わってきた。
彼女に抱きしめられていた。
千紗都がマリカの頭を包むように膝を折って中腰の姿勢のままじっとしていた。マリカはその小さな胸の中でたしかなぬくもりを感じたような気がした。このままずっと抱きしめていてほしいとも思った。これじゃあ、まるで母親に抱かれているようだ。いや、母親にもこんな風に抱かれたことがあっただろうか。……おそらく……ない……!?
まるで泣きじゃくる育児をあやすように千紗都はマリカの背中をやさしくぽんぽんと叩いていた。
「大丈夫だよ。――――大丈夫だよ、遊佐さん」
声が心地よくマリカの心に響き渡った。
ほんとうのやさしさとはこういうものなのだろうか。人のぬくもりというのはこんなに気持ちのいいものなんだろうか。
今なら母親に抱かれる子供のようにやすらかに眠れそうだった。いっそこのまま何もかも忘れて眠りたかった。そう、このまま……この現実から……夢の中へ。夢ならなんでも許されそうだ。ここに好物のミートパイがあっても不思議じゃない。朝のいつものトーストとコーヒー。香ばしいにおいがほら、今にもしてきそうだ。
いい匂い――――おいしそうな匂い。
突然、自分がお腹がすいていることを思い出した。そういえば悪夢が始まってからあまりまっとうな食事はしていない。支給されたデイパックの中にあった武器とおまけに入っていたパンを一切れたべただけだ。他に食料があってもまともに喉を通るとも思えなかった。
現実的な空腹感がマリカの空想を終わらせた。
ぐぅ、とお腹が鳴り、二人はぱっと目が合わさった。
お腹がなったのは千紗都の方だった。
彼女の顔はみるみるうちに頬がピンクに染まり、
「ごめん……」
と、少しうつむいて恥ずかしげに謝った。
「ううん、わたしも今、お腹がすいたと思って、自分のお腹がなったかと思ってびっくりしちゃった」
そう言って二人とも少し笑った。不思議と気分が良くなっている。
笑うときに収縮した頬の筋肉がこわばっていて、うまく笑顔にならなかった。よほど緊張した顔をし続けていたに違いない。
「――――いい匂い……がするよ」
千紗都が鼻をくんくんと犬のように嗅がせていた。
たしかにいい匂いは現実だった。どこかに香ばしい匂いをさせている何かがある。マリカはコーンスープのような匂いだと思った。朝は時間がないのでコーヒーだけか、粉末スープのようなものを簡単に取るだけの時が多いので、よくなじみのある匂いだった。
二人の間に会話はなかったけれど、目が合うと意見は一致しているようだった。
マリカが先に立ち上がり、匂いの方角を探した。そしてその方向に一歩踏み出る。千紗都が、
「たぶん、あっちだよね」
とマリカと同じ方向を向いて指差した。
まるで昔からの友達のようにマリカと千紗都は並んで歩いた。
不思議とマリカの気持ちに違和感はなかった。むしろ、昔からの友達であってほしいような奇妙な感覚に囚われた。
匂いの発生源は案外近くにあるようだった。自然と足がそちらへ向く。
匂いにつられて進むと曖昧だった匂いは、より濃いものとなって二人の空腹感を刺激した。不思議なことにそれまでまる一日近くろくな食事をしていなくても空腹感はなかったのに、この匂いをきっかけに急激に飢えていた。あきらかに緊張感が緩んできていると感じた。
自分の身を守るために緊張していた気持ちが薄れ、強い使命感がマリカを動かしていた。
そしてマリカは千紗都を殺そうと思う気持ちがなくなっていることに気がつきはじめた。裏切りや憎しみの感情があきらかに薄れ、正反対の気持ち、彼女を守りたい、という想いが心を支配していた。殺し合いゲームの中で生き残るのは一人。それはわかっていたけれど、それでもなお、千紗都と一緒に過ごしたいという気持ちが優先された。
それはたまらなく快感に近い喜びと、歯がゆい愛しさにも似た感情がマリカの心を突き動かした。
恋にも似た、切ない感情だった。
ただ、本当の恋をしたこともなければ、愛されたという記憶がないマリカにはそれがどういう感情なのかよくわからない。恋をしたことがないのでそれが恋なのかどうかはわからない。しかも相手が女性ならなおさらだった。
二人で山道を抜けると古い山小屋が見つかった。規模はとても小さく、こじんまりとした一軒屋のようなたたずまいだ。マリカが潜んでいた大きなお土産屋の山小屋とはずいぶん違う。まわりの道も狭く、木々に覆われるように影になっているのでまわりの雰囲気自体が暗い。普段でもあまりはやっているような店ではなさそうだ。ただ、営業中と書かれた大きな旗が立てられていて、それがむなしく風に揺れていた。
引き戸の小さな玄関は閉ざされており、中は見えなかったが、おいしそうな匂いは確実にその中からしていた。
マリカは千紗都の方を見やり、
「どうする?」
と、囁くように尋ねた。
中に人がいる気配がある。近づくのは危険だったが、その匂いには本能的に引き寄せられるものがある。
「どうしようか……」
「なんとか中の様子をみれないかなぁ」
「見てどうするの?」
「うん……。女子生徒だったら、合流するのも悪くないかも」
さっきのこともあるので、体力的に勝負に不利にならないように何人かで集まるのもひとつの手と考えていた。
「男子だったら――――逃げましょう」
千紗都はこくん、と黙ってうなずいた。
何よりも、この美味しそうな匂いは魅力的だった。
まさか、匂いで引き寄せて罠をはっているなんてことはないだろう。原始時代じゃあるまいし。
相手も一人よりは二人の方が警戒心を解きやすいだろうとも考えた。ここは条件がそろっている。マリカは意を決した。
中の様子を探るために小屋の裏側へ回ろうと迂回した。その時、自分でも気がついたら、千紗都の小さな身体を守るように小屋との間に立って歩いていることに苦笑した。
だけどマリカは胸の動悸が激しくなるのを確かに感じていたし、彼女を守りたいという想いがあるのは否定しようのない事実だった。
【川田章吾優勝まで あと11人】