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萩城下町 散策  04/10/15(金)

鉄道の日記念 「西日本一日乗り放題きっぷ」 利用しました。

期間:10月1日〜17日  ミニチュア列車がついて3000円。

行程  

JR広島駅→JR新山口駅→萩バスセンター→萩城下町(自転車利用 3時間)→新山口駅   約15時間。 

長州藩の豪商、梅屋七兵衛は身分を隠して長崎に向かう。藩の密命を帯び討幕の武器を仕入れためだ。
長崎から上海へ渡り、1年半後に七兵衛が持ち帰った英国製の鉄砲千丁は日本の近代をこじ開けた。

10月2日 広島駅 鉄道の日記念 テッピー号 出発式

西日本一日乗り放題きっぷ 

10月14日は「鉄道の日」です。

1872年の同日、

日本で初めての鉄道が新橋〜横浜間を走り始めた日にちなんで制定されました

唐樋札場跡(からひふだばあと)

藩政時代の唐樋は城下町の中心地として(札場)があり、

罪人の晒(さら)しも行った所である。

また防長両国の諸所に通ずる道の基点として重要視され、

ここから里程を数えた。

慶安古図を見ると、三角州北東の浮島・渡り口辺りから大きく

南に入江が入り込み、泥地(どろち)の芦原を形成しているの

がよく分かる。満潮時には三角州中央部まで浸水しその逆流

を止めるために作った水門が唐樋であり、町名となった。

幕末(嘉永年間)の図に三角州の一部となり、川中の雁島も

対岸の一部に吸収されて幅広かった大川も狭くなり地形が

変ぼうして城下町の完成された様子がわかる。

 

 

萩往還の起点


萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)の御船倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。


行程は12里(約53km)ですが、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の大道として位置づけられました。

そのため、利用する人も多く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえます。


しかし、中国山脈を最短距離でこえるこのルートには、険しい坂や峠が多く、道行く人たちにとって苦労の多い旅であったと思われます。


途中には、石畳が敷かれ、御駕籠建場や御茶屋が設けられ、復元された建物もあります。


遠い江戸につながるこの道を、武士や庶民そして憂国の志を抱いた維新の志士たちはどんな思いで歩いたことでしょう。

歴史の道を踏みしめて、その鼓動を確かめながら、ゆっくりと歩を進めてください。

明倫館遺構 観徳門

この門は藩校明倫館の遺構である。

観徳門(かんとくもん)は孔子を祀る聖廟の前門であって、

一間一戸平唐門で両袖塀付、瓦棒銅板瓦である。

明倫館の正門(南門)と聖廟との中間に位置し、

泮水(はんすい)に架かる万歳(ばんせい)橋を渡り、

聖廟を巡らす石垣への入口であった。

全般に木鼻繰形の多い装飾的要素が目立ち、

構造にも大仏様、禅宗様の要素をもつ珍しいものである。

建築年代は嘉永2年(1849)である。

明倫館遺構 万歳橋
江戸屋横丁

木戸孝允(たかよし)旧宅

江戸屋横丁
江戸屋横丁

青木周弼(しゅうすけ)旧宅

江戸屋横丁

円政寺

慶安橋すじ

野田家

菊屋横丁  日本の道 100選

高杉晋作誕生地

高杉晋作の事跡

天保十年(1839)萩藩士 

高杉小忠太(家禄二百石 号春樹)の長男として生まれ、

明倫館に学びのち吉田松陰に師事、

久坂玄瑞とともに松門の双璧と称される。

文久二年(1862)上海に外国事情視察帰国後、

藩の中心となり討幕運動に身を投ず。また身分を問わない

奇兵隊を組織し、藩論を統一する。

薩長連合に力をそそぎ幕府の征長軍を迎え撃って

全軍を指揮し藩を勝利に導く。

慶応三年(1867)維新を知らず下関で病没す。29才

菊屋横丁  日本の道 100選

菊屋横丁  日本の道 100選
呉服町すじ(御成道)  菊屋家住宅

菊屋家は摂津国(大阪)住吉大社の津守摂津守国量朝臣を祖とし、

中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。

その頃、山口四十八町の惣町支配を勤め、永禄12年(1569)大友宗燐の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時

は四十八町の人を連れ、高嶺城にててこもって防戦に功があり、毛利元就から感状をうけた。

また毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともある。

この頃まで津守姓であったがのちに石川姓・菊屋姓に改めた。

慶長9年(1604)輝元の萩入国に従い、現在地に屋敷地を拝領して家を建てた。

また城下の町割りに尽力し阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための家を建てて住まわせたのでそれより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。

その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。

また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所・恵民録役所等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。

 

御成門
庭園
書院
柱時計

伊藤博文の初洋行した際のアメリカ土産

萩焼
天樹院墓所

毛利輝元の墓

萩城天守閣跡 萩城天守閣跡

敗北の将・輝元 守りの城

天下分け目の関ヶ原の戦いの際、西軍の大将に祭り上げられた毛利元就の最愛の孫・輝元。

結果、東軍・徳川家康に敗れた輝元は中国8カ国120万石の太守から周防・長門36万石の領主に転落します。

広島城を追い出された毛利氏は新城の候補地として防府、山口、萩の3ヶ所を挙げましたが、徳川幕府が許可を与えたのは所領の外れにあたる萩の地でした。

慶長13年(1608)、築城に4年の歳月をかけ、萩城が完成しました。

萩城が建てられたのは標高143mの指月城とその山麓。山頂に本丸と二の丸、石垣と堀の外側には三の丸を置いて阿武川の三角地一帯に城下町が形成されました。

さらに山頂には、海と山を監視するための2基の二層やぐらと5基の単層やぐらが、城の周囲には三重の堀や櫓門などが造られました。

守りに徹した城を造ったのは、幕府が攻め込んでくることを想定していたとも言われます。

萩城模型
萩城天守閣跡
二の丸土塀
指月(しつき)城
菊ヶ浜から指月山143m・萩城跡
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
旧萩藩御船蔵

御船蔵は萩藩の御座船を格納した場所である。

慶長13年(1608)に萩城築城後、まもなく建てられたと思われる。

構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面は木製扉を有している。大きさは桁行き26.9m、梁間8.8m、高さ8.8m、石壁の厚さは6mである。

現在大船倉が1棟残っているが、享保年間(1716〜35)作成の萩城下町絵図には3棟、天保年間(1830〜43)作の「八江萩名所図画」には4棟の船倉が描かれている。

明治初年に北側の1棟、昭和37年に南側の
1棟が取り壊された。

現在は明治以降の埋め立てのため川岸から離れた所になったが、往時は松本川に面して船が自由に出入りできる場所であった。



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