北前船と四国への道 下津井/日本の塩田王 野ア家旧宅    岡山県倉敷市  04/2/11(水)

建国記念の日。拉致問題・日朝が政府間交渉した日。

段々と日も長くなる

10日アメリカBSEで輸入禁止 牛丼販売休止。
10日 年金関連法案 閣議決定。
10日 陸上自衛隊のイラク派遣部隊第2陣 サマワ着 車両故障で遅れ
9日 国会は自衛隊派遣を承認  ・・・情報は 「軍事上の守秘義務」「安全確保の必要性」明らかでない

3人で約6時間。タイムスプリットの旅。

JR瀬戸大橋線児島駅から下電バス下津井行き 下津井漁港前下車。「むかし下津井回船問屋」「下津井城跡

倉敷市下津井1丁目7番23号

 

北前船と四国への道  下津井
田ノ浦・吹上・下津井の三地区が一つにつながって、東西2kmにわたる細い家並みを形成している。下津井は古来、瀬戸内海の天然の良港と知られていた。江戸時代には四国へ渡る主要ルートとなりまた北国の物産を運ぶ北前船も寄港した。豪壮ななまこ壁の蔵や意匠を凝らした虫籠窓(むしこまど)が、昔の港町のにぎわいを伝える。

瀬戸内海に大きく突き出したこの地は、東西航路の要衝であり、また塩飽の島々を前に配する波静かな浦は、風待ち、潮待ちの格好な港であった。古くから歴史に登場する。

四国への通路としても町のにぎわいは増していった。江戸時代が下るにつれ、金毘羅由加の両参りが盛んになるが、金毘羅往来本街道の本土の終点は下津井で、旅人はここから船で四国へ渡った。こうして町の往路の客、帰路の客が大勢足を止めた。港には宿屋や飲食店が立ち並び、遊里もにぎわった。下津井節は、この色町から広まっていったともいわれる。最盛期、町には百人を越す遊女がいた。

半商半魚の下津井に対して、吹上は商人町であり、それも裕福な問屋が多かった。

金毘羅往来


対参り
「ありがたいのは金毘羅さん、なんのかんのと喩伽さん」といわれ、江戸時代中期頃、金毘羅大権現と海を挟んだ喩伽大権現(倉敷市由加)は「対参り」が定着した。いずれか一方だけ参詣するとを「片参り」と称し、おかげが少ないとされていた。航路が短く安全な下津井〜丸亀間には渡海船が通い、下津井は双方への参詣客で賑わう港町でもあった。

金毘羅信仰
「こんぴらさん」は「おいせさん(伊勢神宮)」とともに一生に一度はお参りしたいとされ、諸国からから参詣者が集まるようになった。参詣者の通る主要な道は「金毘羅往来」と呼ばれ要所要所に旅籠や茶屋ができ道標が各所に立てられた。「こんぴらさん」は海の守護神、讃岐(香川県)金毘羅大権現(現、金毘羅宮)の愛称で、霊験多き神とされ、江戸中期以降、船乗り、漁民のみならず、広く民衆の信仰を集めた。

北前船 むかし下津井回船問屋
ニシン蔵

明治初期の西萩野所有の頃からあった瀬戸内海でも数少ない大型のニシン蔵であり、下津井の町並みを構成する貴重な建物となっている。
ニシン蔵は、北前船が運んできたニシン粕などを保管する蔵で、一般に、床は三和土(石灰や赤土などに苦汁を混ぜ、叩き固めたもの)による土間、壁は土壁であるが、板を立てて土壁からの湿りを防いでいたと考えられる。
窓は通気孔程度に設けられていた。ニシン粕は、24貫(90kg)程の単位で俵詰めされて運び込まれ、相場が上がるまでニシン蔵で保管された。
ニシン粕の買手が付き、計量の日が近づくと、蔵では深夜、「潮打ちをする」(ニシン粕に塩水をかけて目方を増やす)こともあったという。
「山高」のニシン蔵は、大正時代、縫製工場に転用されたときに床板が張られ、窓が設けられるなどの改造を経ている。現在の大きさは当時の半分で、間口4間、奥行8間であるが極力、当時の姿に近い形に復元している。

むかし下津井回船問屋
虫籠窓(むしこまど) 町並み

 

民家の中に井戸が二つある。

鶴井戸」「亀井戸」と呼ばれ、日照りがいくら続いても水がかれることがなかったと伝えられる。北前船に積む水を汲み上げていたそうだが、遊女の身投げの悲話も伝わる。

下津井共同井戸
祇園神社

石段を登ると、境内からの眺望が素晴らしい。

海と瀬戸大橋の展望よし。

座敷を借り  昼食「おにぎり弁当」
祇園神社


旧芝居小屋ありました。

祇園神社


御座船模型がありました。 

うばうめがしの純林が茂る社叢は県郷土記念物に指定。

下津井城跡 下津井城跡

下津井城跡遺構図

城跡からの下津井港
吹上港辺りの町並み

バスの時刻が気になり「観音寺」行かず。

下電バス児島駅行き 児島文化センター下車。 「野ア家旧宅」「迨暇堂

倉敷市児島味野1丁目11番19号

 

児島は日本一の学生服の生産地
旭川・高梁川のデルタを中心とした新田開発による綿の栽培と、豊富な労働力に支えられて、児島は早くから機業が盛んでした。袴地・着尺地・足袋・紐類など、厚織物の織りと染めと縫いの経験が、時代の波とともに学生服産業を開花させました。1963年(昭和38年)には、1006万着を生産し史上最高を記録した学生服業界も、多品種少量生産時代に入り、学生服・体育衣料・ワーキングウエア・ジーンズ・カジュアルウエア等「総合アパレル」の生産地として発展をしています。

児島春のまつり

 野ア家旧宅・・・享保雛の展示    

野ア家迨暇堂(たいかどう)・・・持ち寄られた古今大小の御雛様飾ってある(児島おかみさん会)

 

江戸時代の雛 展示

野ア家旧宅・・・享保雛の展示  野ア家旧宅・・・享保雛の展示 
日本の塩田王となった、野ア武左衛門の旧宅。 野ア家旧宅


江戸時代の天保年間から嘉永年間(1830〜50年ごろ)に建築した。

野崎家旧宅

入館料500円

往時をほうふつさせる広大な屋敷とぜい贅を尽くした建築群に圧倒された。



中座敷

母屋(中座敷・向座敷)天保四年の建築で南北に23間
(約42m)あります。

 

母屋は23間
表書院    備後産の中継表 表書院

中座敷と表書院には、備後産の中継表が使われています。畳床などに残された記録によると、創建当時から使われた畳が明治30年頃に表替えされ、大正時代になって裏返されたもので、実に100年以上の使用に耐えてきたことになります。新びんご中継表の開発に伴い、100畳が張り替えられました。

中継表は、両端から2本のい草を織り込む複雑な造りから、従来、手織りでしか生産できませんでした。そのため生産量も少なく、大変高価なものでした。関係機関が総力を結集し、動力織機と中継表を使ったアイデア商品「スーパーびんご」を開発しました。

上座敷 上座敷・床の間

床の間は書院座敷の上手に設け、床、床脇、書院で構成するものを基本とする。

床の間の中央に配置するのが床で、は軸を掛け、季節の花を生け、香をたくなどして生活に潤いを与えてくれる。

床の種類は「本床」「蹴込み床」 「織部床」など八種を基本とする。

床の間の正面に床と並べて配置するのが床脇で、棚は僧侶
が経巻などを置くために造られたのが始まりとされている。

棚の種類は「違い棚」「束棚」「釣棚」など八種を基本としている。
        
書院は僧侶が勤学のため縁側に張り出して造られた机が始まりである。書院には縁側に張り出さない「平書院」と縁側に張り出した「付書院」がある。

床の間の起源には仏壇が変化した説、上段の間が変化した
説、中国画の伝来とされる説などがあるとされている。

草庵茶室 草庵茶室
野ア家旧宅   庭園 庭園
溜石(ためいし)


塩を煮つめるのに使用した石炭の重量を計るため、舟に積んだ印(吃水線)を付けるのに使った石(分銅)です。1個60kg(16貫)

溜石(ためいし)
野ア家旧宅  土蔵群 土蔵群

 

野ア家迨暇堂(たいかどう)おひな同窓会

持ち寄られた
古今大小の御雛様飾ってある(児島おかみさん会)

野ア家?暇堂(たいかどう)おひな同窓会
江戸時代の雛様 江戸時代の雛様
地元のTV撮影中

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