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高梁城下 城と町家と武家屋敷  04/4/2(金) 岡山県高梁市

国道313号で 井原〜成羽 を通り、 115km 6時間半の散策。

強風注意報  台風並みの突風が吹き荒れました。

備中松山藩の天守閣  体、飛びそう。  
日本の道100選 紺屋川筋 紺屋川の桜は満開 散りそうでした。

南北の伯備往来に東西の通路が交わる高梁は、古くから備中のかなめの地だった。

高梁(たかはし)は、古い時代には高橋、また松山という時代がありました。

仁治元年1240年北にそびえる臥牛山(大松山―標高480m)の頂に 
秋庭三郎重信が城を築いて以来幕末の藩主板倉周防守藤静(5万石)に至るまで城下町として
この地方の政治、経済、文化の中心となっていました。

臥牛山頂(小松山―標高420m)には木造の天守閣・二重櫓が現存し、
我国でも最も高い位置にある近世式城郭遺構として国指定重要文化財となっています。

町並は、御根小屋跡、武家屋敷、商家、寺院など江戸時代後半の面影を見ることができます。

寅さん映画
全国で唯一二度登場した、備中の城下町。8作、32作。
薬師院
岡村邸・・明治の郡役所の門を移築。
油屋旅館・・280年の歴史、木造3階建て。 

山中鹿之助の墓(市指定史跡 山中鹿之助の墓(市指定史跡

山中鹿之助は天文14年(1545)現在の月山(島根県能義郡広瀬町)の麓・新宮谷 に生まれ、尼子氏に仕えて数々の武勲をたて尼子十勇士のひとりに数えられました。

我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという故事は有名で、尼子氏滅亡の危機に播州上月城に拠って再興を志しましたが、毛利勢に攻められ、ついに落城しました。

鹿之助は捕らえられ、備中松山城へ護送される途中、ここ阿井の渡場で不意討にあい斬殺されました。

現在の墓碑は正徳3年(1713)松山藩主石川候の家臣前田時棟が建てたものです。

備中松山藩御根小屋跡

藩主の居館、藩の政務を行う役所

現在県立高梁高校は跡地に。

石垣の原型は今も伝えている。

備中松山藩御根小屋跡
備中松山藩御根小屋跡 備中松山藩御根小屋跡

見事な石垣。

ふいご峠に駐車  登城する
TAXで駐車場まで グループで登城する人。

石垣 崩落心配

備中松山城・岩盤変動監視システム

近年、岩の上に築かれた石垣に変形がみられ、崩落の危険が生じてきました。調査の結果、この石垣を支える自然岩盤に亀裂が見つかると共に、わずかに動いている事が判明、岩盤自体も崩落の危険性にさらされている事がわかりました。

このため、高梁市教育委員会では京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面の「動き」を調査・観測しています。

この調査は備中松山城の基礎となっている岩盤の変形を調査検討するためのものです。

城の石垣

臥牛山(がぎゅうさん)

古くは「松山」と呼ばれていたが、江戸時代に入り、牛が伏せた姿に似ていることから「臥牛山」と呼ばれている。北から大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰からなり、東北の一部が連なるほかは、そそり立つ断崖を要した天然の要害。

本丸  入場券300円

強風注意報  台風並みの突風 天守閣で体 飛びそう 

猿は放し飼い150匹ほど
 
群れているが心配しないでと管理人

城へ入らないよう夜は高電圧の電線
電気入れるそうだ

 

登城心得の高札色々ありました。

この先足もと 悪しきにつき 気をつけて歩むべし   城主

天守 天守

備中松山城

臥牛山の山頂を中心に築かれた城郭遺構。時代により城郭や縄張をかえながらも中世から近世まで連綿と営まれた連郭式山城で、創建以来、備中制覇のための拠点として攻防が繰り広げられている。
なかでも戦国時代末期の天正2〜3年(1574〜1575)に起こった「備中兵乱」では毛利8万余騎の軍勢に、織田方に通じた備中松山城は落城。
当時の三村氏が滅ぶと毛利氏が東方進出の拠点としている。現存する城郭は、臥牛山の一支峰である小松山山頂にそびえる近世備中松山城(小松山城)で、城内には天守・二重櫓・土塀の一部が現存している。
天守が現存する山城としは全国で最も高い位置(比高差370m)にあることでも有名で、平成6年度からは、重要文化財を中心に本丸が復元整備されている。

武者窓(連子窓)
正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外からは内が見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができる

他にも仕掛けありました

御社壇  囲炉裏  狭間 石落とし(鰓形窓) 引戸

 

武者窓
天守 天守閣

天守・二重櫓・土塀の一部が現存している。

 

登城終わり そして 城下 高梁の町を見廻る

 

高梁の町
鍛冶町の町並
高瀬舟
高梁川に物資の輸送手段としての舟は古く鎌倉時代に遡(さかのぼ)る。
本格的には寛永19(1642)年・備中松山に入封した水谷(みずのや)勝隆・勝宗・勝美、三代が城下の整備・高梁川の水運・玉島の開発に力を入れてからである。

その頃から高瀬舟は、30石積(4.5T)・50国積(7.6T)等と大型化した。

積荷は、米・雑穀・鉄・銅・木炭・煙草・綿等で、時には人も乗せた。
積荷は上・下共に城下の船着場(川端町〜中間町付近)でそれぞれ積み替え(運上金を課す)目的地に向かった。

舟の数は水谷治世の頃130艘、大正時代には約300艘となり、遠く四国・九州方面まで運航した。

その頃が物資の集散地として、高梁が最も栄えた頃といわれる。
昭和3年、伯備線の開通と共に急激に減少し、戦後その姿を完全に消した。

しかし、江戸中期から昭和初頭にかけ物資の流通手段としての高瀬舟は、この地方の領民・庶民の生活に欠くことのできないものであり、先人の物資運搬にかける情熱と苦労、その生活のあり様を偲ぶよすがとし、郷土先人の生活遺産の一つとして原型復元したものである。

観光駐車場へ  1時間210円

第八十六国立銀行 跡 碑がありました
中国銀行発祥の地

紺屋川筋 日本の道100選 

紺屋川筋

谷川にそう坂道は桜が満開、桟敷席で花見。

 

岡山県下で最古のキリスト教会

明治22年(1889)に建てられた。

木造洋風建築、鐘楼は札幌農学校の時計台を模倣。

最古のキリスト教会
郷土資料館 郷土資料館
商家資料館

 

商家資料館
安国頼久寺禅寺 安国頼久寺禅寺
武家屋敷 石火矢(いしびや)町ふるさと村

中級・下級武士の居住地とした。

現在の石火矢町(いしびやちょう)・頼久寺(らいきゅう)町などである。

武家屋敷 石火矢(いしびや)町ふるさと村
武家屋敷 武家屋敷
武家屋敷辺り 武家屋敷
梶谷邸の武者窓 梶谷邸の武者窓
松連寺の桜
薬師院

男はつらいよ 昭和58年11月 第32作目 寅さんシリーズ「口笛を吹く寅次郎」  ロケ地
マドンナ 竹下景子

松連寺・薬師院

松山城の砦として築いたことは

城郭づくりそのままの石垣が物語っている

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