備中笠岡を散策 05/2/28(月)
神社・寺・城跡 巡りました。
笠岡道の終着点は代官所跡。鴨方往来で鴨方藩そして岡山藩に通じる。
石州往来から 海産物運んだ 銀積み出した 港町。 笠岡諸島の玄関口。
石州街道 広島県甲奴町宇賀で尾道行きと笠岡行きに分かれる、「いも代官」井戸平左衛門は威徳寺にお墓がある。
大森代官所のあった大田市には「井戸神社」、笠岡市に「井戸公園」があり、平左衛門の顕彰碑も建っている。
平成2年(1990)4月14日、笠岡市と大田市はイモ判で友好都市縁組に調印した。
「石見銀山遺跡とその文化的景観」07/6/28
世界文化遺産への登録を決めた。
ユネスコの諮問機関が登録延期を勧告し、登録見送りが懸念されていたが、
逆転で世界遺産入りが決まった。国内14件目。

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菅原神社は延宝2年(1674)、吉浜干拓に伴い、 吉浜村の氏神として福山藩水野勝慶が創建したと伝える。 御神体は菅原道真の小像で、台座裏面には延宝3年の銘がある。 「流造」の形式であり、母屋は丸柱、向拝は几帳面取の柱を使っている。 社伝によると本殿は延宝2年の建立で、大工は福山藩の お抱え大工・榊原太治兵 外二名と伝えるが、 建築の様式から見ると、その後建て替えられた可能性もある。 三間社流造としては比較的規模が大きく、全体に均衡 がとれ、細部にわたってよくまとまった、 本格的な本殿建築である。 |
| 菅原神社眼鏡橋 県指定 重要文化財(建造物)
明治20年(1887)、地元吉浜村狐崎の 石工・佐藤豊吉(豊造)が棟梁を務めて完成させた、 花崗岩製アーチ橋である。 その形から眼鏡橋と呼ばれて親しまれている。 橋長11.2m、全幅3.4m、高さ約3m。 |
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アーチ石橋は九州に多く見られるが、
二連のアーチが半円でなく全円であるケースは、 全国的にも珍しい。 さらに高欄や全体の形状は日本的優美さにあふれており、 この橋の建造に携わった石工の高い技術水準と、 建築費用の出費を惜しまなかった当時の村人たちの 気概のほどが伺える。 橋のたもとには、久我房三の撰文による記念碑 が立っており橋の由来が刻まれている。 市指定筆跡典籍 梅歌千首集録 菅原神社へ奉納したのは、安政3年(1856)2月、鳧翁71歳の時であった。全部で5巻あり、桐製の箱に収められている。
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| 古城山公園 麓にあります。 関鳧翁(せきふおう)の墓 鳧翁と称した。 天明6年(1786年)吉浜村に生まれる。 京へ上り医学・漢学を学んだのち笠岡へ帰り、 敬業館教授小寺清先に国学を学ぶ。 文政年間には笠岡村で小児科を開業しながら国学の研究や、 歌人としての活動を行った。主な著者に「傭字列」「声調篇」 「言葉のかけはし」「春風消息」などがある。万延2年(1861)、 76歳にて病没。墓碑には鳧翁の略伝と、時世の歌 「わが魂の行へはいづくしら雲のたたむ山への松のした陰」 刻まれている。
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稲富稲荷(いなとみいなり)
古城山中腹にあって宇迦之御魂神を祭る。 村上氏が笠岡城内の鎮守として 弘治元年(1555)建立したものと伝えられる。 本殿・拝殿ともに笠岡在住の宮大工の手になるものであるが 市内の神社建築のうちでは最高水準のものである。 |
| 稲富稲荷(いなとみいなり)
鳥居 参道・階段はバイパス道路の下 山陽本線は参道の下に にあります。 |
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古城山公園の展望台から笠岡湾干拓地 伝承 標高約70m。古くから内海の景勝地として知られる。 もとは海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。 別名「海松(みる)が丘」「吸江山」「高松の城山」と言われた。 笠岡城 弘治年間(1555〜1558)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城。 その後 村上景広 毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官 小堀新助が入城。 元和2年(1616)池田備中守長幸の居城。 元和5年(1619)松山城(高梁市)に移り、 笠岡城は廃城となった。 明治40年(1908)末 新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。 昭和31年 笠岡市の都市公園となる。 |
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古城山 |
| 遊歩道を下りました
笠岡川柳公園にはユニークな石碑ありました |
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芭蕉句碑
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| 休 石
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笠神社 応神天皇を祭神とする 応神天皇が吉備の国へ行幸され、この「笠目山(加佐米山)」で狩りをされたとき風が吹いて天皇の笠を飛ばした。お供をした鴨別命(かものわけのみこと)が「この山の神が天皇に奉ろうとしているのです」と進言した。はたして天皇がこの山で狩りをされたところ獲物が多かった。天皇はたいへんお喜びになって鴨別命に「笠」の名を与えられたという。また飛ばされた天皇の笠がかかったといわれる「笠懸の松」が笠神社の脇に残っていたそうですが明治7(1874)年に枯れてしまったということです。 笠岡十名山「応神山」登山案内図の看板ありました |
| 蔵屋敷の残る古い家並みありました | ![]() |
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JR笠岡駅
白石踊りからくり時計台 特産の北木石を使用。 国指定重要無形民俗文化財である「白石踊り」 からくり人形はシルエット化し、 モビールの様々な動きと、からくりの回転動作で表現 白石踊りの由来 瀬戸内海は源氏と平氏の戦場であった。 水島・藤戸・屋島の戦いなどで討死にた両軍将兵の霊を弔い 供養するために踊られたと伝えられている。 |
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駅前から県庁通り 綺麗になっています
商店街にユニークな神がいました。 岡山国体の成年女子バスケット会場
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| 遍照寺多宝塔 附石碑 国指定 重要文化財(建造物)
もとは高野山真言宗遍照寺の境内地であった。 陶山氏が吉田村(現笠岡市吉田)から当地に移したという言い伝えがある。 かつては笠岡の町の中心にあって、周囲には吉祥院・南昌院・西明院・観照院等の末寺を配する、 真言宗大覚寺派は笠岡市の駅前土地区画整理事業により、 昭和52年、西の浜の埋立地へ移転したが、多宝塔と石碑、 そして大きなイチョウの木だけは、まだそのまま残されている。 江戸時代、笠岡は幕府の直轄地であった。 備中代官小堀氏は遍照寺を支援してその復興を図り、 慶長11年(1606)に多宝塔が落慶をみた。傍らには、 落慶供養のための法華経を読誦したことを記す石碑も建てられた。 多宝塔は、木造、方三間で本瓦葺。亀腹も瓦葺になっている が、かつては漆喰で固めてあったもので、 明治時代の大修理のとき改変されたといわれる。 内部の須弥壇には大日如来坐像を安置してあったが、 寺が移転した現在では仏像はない。 来迎柱や扉には十二天、天井には竜、 脇間壁板には真言八祖など、室内全面に装飾文様・絵画が極彩色で描かれている。 初重の天井には慶長11年(1606)の墨書がある。 元禄6年(1693)と寛政5年(1793)に大修理を行ったと伝えるが、各部の保存は良好で、木鼻、組物、内部の彩色など時代の特色をよく示している。 岡山県下にある四基の多宝塔のなかでも最も古い。 なお、この多宝塔と石碑は、将来、遍照寺の境内に移転されることになっている。 |
遍照寺のしだれいちょう 市指定 天然記念物 ここはかつて真言宗遍照寺の境内だった。このイチョウは、 遍照寺の多宝塔建立記念に植えられたと言われており、 推定樹齢は約400年に達する。 根回り約5m、高さ約25m。 枝が垂れ下がっているところから俗に 「しだれいちょう」と呼ばれ、近隣に親しまれてきた。 なお、昭和47年に、笠岡市の市木はイチョウと制定された。 |
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遍照寺の梵鐘
遍照寺の楼門に吊る梵鐘は、総高91.0cm、口径55.0cm、重量168.75kgで、 青銅製、室町時代に鋳造されたものである。 竜頭は背の高い双竜式とし、中央の宝珠はやや退化している。 笠形は自然の弧線を描いてふくらみ、鍾身の上帯下帯は素文である。乳は一区16個、全四区で計64個ある。 駒の爪ははっきりと張り出し、時代の特徴をうかがわせる。 銘文によると、永享4年(1432)津宇郡撫河郷隼島庄から丑寅御前(鶴崎神社)へ寄進されたことがわかる。 鐘はその後笠岡城(吸江山)を経て遍照寺に移されたと「備後略記」に記す。 総体的に均整がとれており、鋳上りも優れた梵鐘である。 |
| 笠岡代官所跡 笠岡は、慶長5年(1600)に徳川氏の直轄領となり、 元和5年(1619)に備後福山の水野氏の所領となった。 元禄11年(1698)には、再び幕府の直轄領となり、元禄13年(1700)5月、笠岡に初めて代官所が設けられ、 以後幕末まで42代170年の代官支配が行われた。 これらの代官の中には、 「いも代官」として有名な14代井戸平左衛門正明や、 寛政10年(1798)に郷校「敬業館」を創立した 30代早川八郎左衛門正紀がいる。 このあたりは、堀の内と呼ばれ小田県庁の跡であり、もと三方を幅5.7mの濠で囲ってあった。 以前は笠岡代官所跡であり字は小丸である。 小田県庁は、明治4年(1871)11月15日に廃藩置県の布告によって設置された深津県が、明治5年(1872)6月5日には小田県と改称され、その県庁が笠岡に置かれた。 当時小田県(備中・備後のうち東部五郡)のほか岡山県(備前)、北条県(美作)の三県が置かれていたが、うちでも小田県は約53万石の最も大きい県であった。若き日の犬養毅も働いた。 明治8年(1875)には、小田県は岡山県に合併された。 |
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大仙院(だいせんいん)
伯耆国大山智明権現の分霊を本尊として開基。 宝永年間(1704〜10)に全焼したが 元文2年(1737)再建。 |
| 史跡 敬業館の跡
今から200年前の寛政9年(1797)12月笠岡の有志が創設した 郷校であって、敷地面積648m2(196坪)、講堂一棟、塾舎二棟の外、門、教授の居宅等があった。 初代教授小寺清先は楢園(ゆうえん)と号し、和漢の学に精通していたが、特に日本の古代史に詳しかった。 二代教授小寺廉之(かどゆき)は葵園(きえん)と号し、 清先の三男である。経学に詳しく、頼山陽がしばしば京都に招いたが、ついに郷土をはなれなかった。 三代教授完之(ひろゆき)は雲松(うんしょう)と号し、廉之の子で父業を継いだが、慶応元年死去した。 その後、浅口郡沙美の西完二、備中松山藩士金田芳香が来て子弟を教えていた。 明治16年ついに学館を閉ざした。創立以来86年である。 笠岡市における文教の発祥地として永久に記念されるべき所である。 |
敬業館の西側には歴代の墓がある |
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代官 井戸平左衛門の墓 井戸平左衛門は幕臣である。享保16年(1731)、 60歳で石見国大森代官となった。翌年、 備中国笠岡代官が病没したため、笠岡代官も兼務することになる。 このころ、西日本一体は長雨やイナゴの大発生によって大飢饉となっていた。 そこで平左衛門は幕府の命令を待たずに年貢を減免するとともに私財や官金を使って領民を救済し、餓死者を最小限にくいとめた。 また、平左衛門は幕府に願い出て薩摩から甘薯(サツマイモ)の種芋を取り寄せ、領民に栽培させて飢饉をしのいだため、 「いも代官」とも呼ばれている。享保18年(1733)笠岡の陣屋において発病し、ついに不帰の客となった。 法名を「泰雲院義岳良忠居士」という。 |
| 陶山氏(すやまし)
陶山氏は平安末から室町末まで数度の浮沈を重ねつつ笠岡で勢力をもった。 その始祖については諸説があるが、陶山氏系譜によると、 嘉承2年(1107)陶山盛高が平正盛に従って出雲の 源義親を討ち、その功により魚渚・西濱・甲弩を賜り陶山城を本拠地としたとある。 平家滅亡とともに一時離散の憂き目をみるが、 道國の時北条時頼に仕え弘安の役の手柄により再び笠岡を領地とする。 鎌倉幕府滅亡により存亡の危機に立つが室町時代には足利幕府の側近として中央で活躍する。 特に弓術に長け「射手衆」として高名を上げている。また文芸に秀で交友も広く、連歌師の宗祇や兼載が笠岡を訪れている。 応仁の乱で幕府の権威が堕ちるとともに陶山氏も没落し、 その後歴史の表に名を連ねる事はなくなった。 |
竜王山に山城跡 威徳寺境内に 苔むす五輪石集めて霊を慰めてある |
鴨方往来で鴨方藩そして岡山藩に通じる
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