
揚子江下流、太湖のほとりの町 蕪湖から、南東50km、陶器の都、宜興がある。
江西省の景徳鎮が、陶磁器生産の最大のセンターであったことは確かであるが、ここ宜興も、中国国内と海外むけに特色のある陶器を生産し続けてきた。
焼き締め器([火石])の植木鉢、土管、瓶、などが多量に制作出荷されている。殆どの製品には釉がなく、焼製した粘土の色合いが賞玩されている。なかでも、洗練された茶壷は17世紀以来、鑑賞されて来た。
20世紀から18世紀の例
この茶壷 (高 11cm, 190g) には 3つの印章, 木蓮の絵とサインを含めた題辞が陰刻されtている。黄泥、内面の注ぎ穴には、同じ泥でつくった茶漉し用の半球形の網が
ついている。この技法は日本人の発明で、20世紀に中国に導入されたものである。
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印章、サインをいれている鐵畫軒は、20世紀前期から有名な上海の宜興陶磁器商店である。1990年に, 私は、上海の豫園にある鐵畫軒を訪ね、写真をとった。
20世紀初期には上海の商店がプロヂューサーとして、宜興の陶磁器を注文制作していたようである。これは、現在フランスやイタリアのデザイナーが韓国や香港でライセンス生産しているようなものだろう。
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この盃は古そうだ。直径 7cm。一見、青銅製のようにみえる。
この鋼色は着色や釉ではないようだ。地肌の発色のようにみえる。
型押しの模様は、古代の青銅器の模様をまねた擬古的なものである。
底に円形の印 "享慎" が押してある。
類似する盃が香港の Flagstaff Teaware Museumにある。
Ref. 1 は19世紀前期とみなしている。"享慎"がだれであるかはわからない。
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もう一つの
茶壷は、どちらかというと平凡である。( 高 67mm, 120g). 朱泥。
黒い微粒子が粘土のなかに散っていて装飾となっている。
単孔。つまみの真ん中に垂直に空気孔があけてある。使いやすい形と軽さはなかなか良い。ただ、少しヒビがあるようにも見える。
「彩霞監製」という印が底にある。これは、馮彩霞 (1820-1840ごろ活動)
だと推定される。でも本物だろうか?
Ref 1. pl. 42 には「彩霞監製」の印のある小さな茶壷がある。印は同じでないが類似する。 Ref. 2. page 44. No.20 は梨地の茶壷(高 68mm). これはかなり似ている。Ref.2の茶壷は、広東の大富豪、伍元華が馮彩霞を呼んで、自邸に窯をおき、広州でつくらせたものである。これには馮彩霞の印は無く、伍の「萬松園」という刻銘が入っている。
この2例を考えて、まあこれも少しは信用できるかもしれないと思っている。
この栗は陶器です。食べられません!?。幅27mm。左側に印があるのをみてほしい。このリアルな表面処理は、同類の多くの作品を超えており、ただ、
Ref. 3: pl.83.左にある上海博物館の例だけが匹敵する。
このおいしそうな甘栗には、「鶴邨」という印がおしてある。
研究者は陳明遠(17世紀末)の号の一つだと考えている。
陶製の果物は、初めはたぶん祭壇にあげっぱなしにするお供や、墓にいれる明器として
つくられたのではないかと思っているが、
18ー19世紀には、文人階級で賞玩されるようになった。
現在では、私は陳明遠の真作の陶製果物がどれなのか鑑別できない。あまりに多くの
コピーや偽物が市場にも博物館にもあふれているからである。まあ、この栗
は陳明遠スタイルの佳作には違いない。17世紀末から18世紀前半のものだろう。
伝説と歴史(簡略版)
伝説によると、15世紀に、金沙寺の僧侶が茶壷の製造を発明したとされる。呉頤山という学者が金沙寺に滞在して読書をしており、その従僕が茶壷の製法を僧侶から学んだ。その従僕「供春」の茶壷が江南の文人社会で評判になり、普及した。「供春」の作品は、たぶん現存していない。
一方、最近(1975〜)発掘された龍窯から、11世紀には茶壷の生産が行われていたと推定されている。年代推定はまだ不確かなので、熱発光法テストも期待される。おそらく、茶壷が制作され始めた時代は、従来伝説から考えていたよりは古いのだろう。
「供春」の伝説は、いわゆる宜興の茶壷が文人社会に認知されてきた時代を示唆しているのだろうと思う。
「供春」より後、萬暦天啓にもっとプロフェッシオナルな陶工「時大彬」が活躍している。彼と同時代には多くの陶工が宜興で洗練された陶磁器をつくり、文人社会へと供給していたようだ。多くの陶工の名が記録されて、残っている。
これは、中国の陶磁器としては異例なことである。
殆どの歴代中国工芸は無名である。
作品には、工場名・企業名すらない。
明時代、清時代のの官窯には、時代名がある「大清乾隆年製」とか。。
そして、民間企業でもこの時代銘を模倣したものがある。
たぶん、極端な分業が行われたので、1つの製品に多数の工場、職人が
関与するのが当たり前になり、作者名、工場名にあまり意味がなくなった
からであろう。
宜興陶の一部、竹刻工芸などは例外だ。これは製品が文人社会に尊重され、また、比較的個人制作にに近い制作行程が行われたからだろう。
作家ものが尊重された結果、
多くの宜興の工房では、注文者、指導者、陶工、下絵画家、などの署名・印をいれるようになった。明時代の陶工は文字を刻するのを好み、清時代では印を押すことが
多いようである。
清代前期では、恵孟臣が小さな茶壷で、
陳明遠は装飾的な様式で、有名だった。
恵孟臣の小型の茶壷(孟臣壷)は広東、台湾、福建、タイで歓迎された。
この地域で行われた工夫茶に絶好であったからである。
大量の 恵孟臣様式の茶壷がタイや台湾へ輸出されている。
私は恵孟臣の確実な真作をあげることはできないし、第一、生没年さえわからない。
しかし、NewArk Musuemの小壷(ref.2: pl.5) はまあ良いほうだと感じている。
また、康煕年間と推定されるベトナム沖の沈没船
引き上げ品(ビンタオ・カーゴ)に、このような小壷がある。したがって、
このスタイル自身は17世紀後半にまで遡ることはできる。
恵孟臣 の一族は孟臣壷を数世紀にわたってつくり続けたのではないか?と
考えられており、「恵孟臣」というのはウェジウッドのようなブランド名と思った
ほうがいいかもしれない。現代の大量生産品にも良く恵孟臣の印が見受けられる。

陳明遠(17世紀後期?)の実在性と様式は、もう少しはっきりしている。
シンプルな様式の茶壷(ref.3: pl.58)はいろいろな傍証からいって
本物らしい。これは、神州大観第11号(1916)所載の拓本で、当時 左は、奚鄂銘、右は経伯滌の所蔵であって、写真だけは上海博物館にもあるが、現在現物は行方不明である。[拡大図版1]
[拡大図版2]
しかし、彼の独創とされる、デコラティブな茶壷やスーパーリアルな
野菜や果物については、間違いのない真作を指摘できない。
しかし、少なくとも、陳明遠の在世時から20世紀まで、学者と模倣者たち
は、装飾的なスタイルと野菜や果物の文玩が彼の様式だと考え続けてきた。
Ref. 3 には多量の作例を集めている。
19世紀には、宜興の地方官・書家・画家であった多彩の人
「陳曼生」(1768-1822)がこの
工芸に関心を持った。彼は、数十種の茶壷をデザインし、製造させた。
重要なことは、焼成前の茶壷に刻字することを、文人の趣味として
、高名な書道家であった彼が確立したことである。
もっとも、この趣味はかなり金がかかるし、近くに窯がないところでは
難しいので、篆刻に比べたら、それほど普及しなかった。
羅桂祥(K.S.Lo)はref.4にこう書いている。「陳曼生が発案して、まず陶工が茶壷を
成形する。まだ、生乾きのうちに、陳曼生は友人に頼んで書や画で装飾する。
次に、彫刻工が書画を刻む、そして焼成が行われる。従って、しばしば
陳曼生の茶壷には4つの印が押してある。陶工、画家、彫刻家、注文した人の
書斎名である。」
陳曼生発案の茶壷デザインは、「曼生壷」と呼ばれて歓迎され、
現代まで大きな影響を与えた。協力者である陶工の楊彭年は、継続して
彼自身の名前で「曼生壷」をつくり続けたし、他の陶工も模倣作を作っている。
輸出と影響
宜興の工場は、17世紀ごろから海外へ輸出していたようである。 タイへの輸出茶壷にはタイ文字が入っているものが多い。 バンコクでは職人が銀や錫で茶壷に金具をつけていて、それがバンコクの 一つの産業になっていたそうだ。
ヨーロッパむけには、細かい浮き彫りを施したものが開発された。この模様は 同時代の景徳鎮の染付の模様を模倣したものである。 Ref. 5 には多くの例がある。 18世紀初頭に、ドレスデンでは、 Boetgerが磁器を造ろうと格闘していたが、まず宜興産に似た([火石])器を焼くことができた。 次に本物の白磁を製造できたのは1713年である。これが、マイセン焼である。 白磁が焼けたといっても、([火石])器にもずいぶん需要があり、ドレスデンの窯は 継続して、生産していた。また、他のドイツの窯も宜興生産品を模倣したものを、 生産していたようである。 また、オランダ産の模倣品( Ref 1. pl. 111 and 112.)、英国スタッフォードシャーの製品( Ref.1 pl.109. )まである。
日本では、1878年, 常滑の工場が 宜興の陶工:金士恒を招いて技術指導を受けた。 現在、常滑の窯は多量の朱泥の急須を生産している。 日本人の多くは「常滑の朱泥急須」は知っているが、これがもともと、150年以内 という近世に、中国から技術導入したものであること、様式も宜興のものであること を知らない。 日本の「朱泥」は、だいたい一色で、あまり泥色が多くないし、肌も 滑らかで均一である。
台湾では、近年、茶藝ブームにのって、宜興スタイルの茶器茶壷がたくさん生産されている。やや硬質のものであるが、実用にはなかなかよいと思う。
鑑識
前述したように、宜興の陶器は、特定の作家・工房の銘や印をいれていることが多い。
このことは、昔の名匠の作品の鑑賞を盛んにさせ、さらに偽物制作
を盛んにさせた。現在、17ー18世紀の有名陶工のサインの
ある作品の多くが疑わしいものとなっている。これは、書画における
贋作、偽サインの追加、などと同じ現象である。
特に、明時代の有名陶工に帰せられたほとんどの作品は、疑わしい。
いうまでもなく、明時代の茶器が多数伝世しているし、有名陶工・工房のものも
その中にはあるだろう。
宇治の萬福寺伝来の隠元禅師将来品などは、疑いなく明の宜興茶壷であろう。寺院で使用するものであるせいか、わりと大型のものだった。
こういう場合を除いては、時代判別は難しい。
フランスの有名な陶工Bernard Palissy(1510-1590)の作品が、美術館にある
少数の断片を除いてすべて滅び、多くのイミテーションが残っているような
状況に似ている。
例えば、Ref. 1のNo.3とNo.4すら疑わしい。特にNo.4 は時大彬の作品として,
よく取り上げられるものである。この両方のサイン・年号は明らかに同じ人が書いており、どちらも焼成前の刻である。No.4の刻字は「萬暦丁酉年/時大彬製」(1597年)
である。普通「丁酉年」などと書くものだろうか? 普通は「年」はつけないのじゃないだろうか? どうみても、変な年号表記ではないか? 一方、No.3は「萬暦丁酉春/時大彬製」まあ、これはなんとか普通の書き方に入るが、なぜ400年後の一つの収集に、
同じ年号の違うスタイルの茶壷が2つも揃っているのだろう? あまりにできすぎていないだろうか?
年号表記だけからいうと、No.4は全く疑わしい。もし、No.4がダメなら、同じ書法・
同じ年号のNo.3も怪しくなる。
二点とも、茶壷そのものは良いものだし、たぶんそうとう古いものだろう。
一方、No.5の室号とサイン「墨林堂/大彬」はもっと信用できそうだ。
さらに信用できそうな 「時大彬」茶壷は地下からやってきた。萬暦年間に中央省庁の次官クラスの役人であった人の墓から出土した黄泥の茶壷である。福建から出土した。旧所有者の地位を考えるとかなり信用できそうだ。なかなか洗練されたデザインである。
(Ref.6)
恵孟臣 のサインを、後で刻したものは市場でよくみかける。 これらは、全くナイーブなものだ。殆どの刻字は粗雑である。茶壷そのものが良い 場合、そんな刻字など無視することをお薦めする。
どうも、1920-30年代の上海で一級の贋作が生産されたらしい。
Ref. 3, で、T.T. BartholomewとL.S.Yee は述べている:
" 1979年, サンフランシスコの曹仲英氏は展覧会図録
「I-hsing Ware(Bartholomew:1977)」を持参して、宜興の一工場を
を訪ねた。
朱可心(1904-1986) と 蒋蓉(1919-)
は この図録 で陳明遠とされている多くの作品が実際は、
蒋彦亭(early 20th century)の作品であると指摘した。
1985年, Terese Tse Bartholomew(謝瑞華)はカラー写真
を持って宜興に蒋蓉を訪ねた。(訳注 前のカタログはモノクロ)
蒋蓉は、再度、これらの作品は、叔父の
蒋彦亭の作だと確認した。 また、彼女自身、この図録の
(pl.50)の自然物(訳注 胡桃 2個、栗、レイシ、蛤、巻き貝)などを造ったと証言した。”
"
Terese Tse Bartholomew
との1985年 7月のインタビューで、
顧景舟(1915-1996)は、サンフランシコアジア美術館にある
陳明遠の 方形壷と、もう一つの米国個人所蔵の方形茶壷は、自分の作だと主張した。
調査してみると、どちらにも同じ印が押してあり、黒い材料で古色がつけられていた。
"
有名な陶工ほど、その印はあぶないものらしい。
宜興では、19世紀以来、技術的な断絶がなく、継承されていたということに注意する必要がある。小さな工房の生産方式は、戦争、文革という過酷な環境下
を生き延びるのにより有利であったようだ。
20世紀の擬古的な精品と19世紀の精品を区別するのはちょっと
難しいという気がする。
景徳鎮は、このような連続性を持っていない。
戦争と文革は、景徳鎮の巨大システムを破壊してしまった。
極端な分業システムであったので、一度壊れると、再建はなかなか難しい。
清時代の精品に匹敵するような製品を景徳鎮はまだ出荷していないと思う。
最近、宋の影青の優れた偽作が造られている。もし、これが景徳鎮の製品であれば、皮肉なことだが、景徳鎮の技術が部分的に快復したことになる。
静嘉堂にて
1998年10月に静嘉堂文庫美術館を訪ねた。そこには、1880年以前に収集された10点の茶壷が展示されていた。少なくとも20世紀の偽作ではないはずである。 その一つ陳和之の作品は私には、明代の作品だと感じられた。
参考文献