
四谷の歴史サイト
| 四谷の由来 四谷という地名の由来には、いくつかの節があります。いずれにしても江戸時代が四ツ谷と呼ばれた最初であるようです。内藤清成が家康の江戸入国に先立ち西方の警備を命ぜられた際、清成を案内したのが「よつやの五郎兵衛」であったとされる節。 もう一つは、梅屋・木屋・茶屋・布屋と呼ばれる四つの茶屋があったところから「四ツ家」から四谷になったとされる節。そして地形的に四つの谷があったところから四谷と呼ばれるようになったとされる節。 いずれの節もある程度裏付けがあるようで、どれが正解と言うよりも様々な呼び方が複合的に重なって四谷になったのだと思われる。 |
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| 四谷見附 見附とは、城を守る城壁の出入り口に造られた砦の呼び名でことで江戸城の甲州街道道筋に深い谷を掘り堅固な城門を設置したのが四谷見附です。城門の警備には、鉄砲5〜10丁・弓3〜4張・長槍5〜10筋・持筒2梃を備え、譜代大名か大身の旗本が担当していた。城門は、卯の刻(日の出)に開き、酉の刻(日の入り)に締められた。今の四谷駅の北側には、当時の石垣が残っています。 明治に入るとこの城壁は撤去され、大正5年には、当時の最高技術で造られた陸橋、四谷見附橋がかけられました。 |
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| 四谷大木戸門 四谷四丁目の交差点を以前は「四谷大木戸」とよんでいた。これは江戸時代に「大木戸」という関所が建ったからである。国府道(今の府中に行く道)と鎌倉から奥州に向かう奥州道の交差するこの場所に元和二年に内藤氏の陣を廃止して設けたのが大木戸である。木戸の四谷北側に番屋がありここで通行人や馬の荷物を取り締まっていた。事件が起きると木戸を締め鐘を鳴らして知らせていた。江戸の太平が続くようになると寛政四年に木戸は、取り払われ石垣だけが残された。 |
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| 南・北伊賀町 現在の若葉二丁目は、江戸時代南伊賀町と呼ばれていました。大通りを挟んだ三栄町は、北伊賀町があり四谷は、忍者の町だったようです。徳川家康の家臣の服部半蔵は、文禄二年「心蓮社専誉念無上人」を開山に迎えて一寺を設立した。これが西念寺です。ここには、現在でも半蔵が使ったといわれる槍が一筋保存されています。 歴史博物館建設の時にも忍者屋敷の後が発見されたようです。四谷の街のクランク状の狭い路地を歩いていると敵に攻められた時の防御策のように思えてきます。 |
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| 舟町について 舟町は、四谷のほぼ中心の北側に位置しています。町内は、外苑東通りを挟んで南北で違うイメージの町になっています。新宿通りに面した南側は、杉大門横町を中心としたし商業地で多くの商店が立ち並んでいます。これに対し外苑東通りの北側は、心坂が中心に通り靖国通りにつながる谷につながる坂の町です。ここは、何件のお寺とたくさんの家が立ち並ぶ寺町、住宅地になっています。 東側の杉大門通りは、四谷の中でも規模の大きい商店会で以前は、魚屋・八百屋・惣菜屋・お茶屋・たばこ屋が並びたくさんの買い物客で賑わっていたそうです。現在は、大型スーパーやコンビニエンスストアー等が増えたのと少子高齢化で町の人が少なくなったために魚屋等の店が減り、食べ物屋や飲み屋が増え飲食店街になっています。また、外苑東通り沿いには、車線拡大に伴う開発により高層マンションが数多く建設されています。 これに対し町の北側は、車の通れない狭い路地が多く残ってい古くから住んでいる人が多いため昔かの風景があまり変わらずに残っています。 江戸時代に逆上ると杉大門通りは、全勝時というお寺の参道で、道の両側に杉並木が続いていたそうです。現在の新宿通りである青梅街道の入り口には、大門が造られていました。この参道は、明治になっても門前町としてにぎわいを見せ、戦前までは映画館や寄席も残っていたそうです。 杉大門通りの横の道を舟坂横町といい、江戸時代に杉の産地だった四谷で杉の若木の皮をはいで「四谷丸太」として売り出していました。特に舟町付近には、杉の巨木がたくさんあって、造船に使用する杉材を切り出していました。これが舟町の町の名前の由来になっています。 全勝時は、埼玉県の常泉寺の末寺で、麹町に創立したときには竜源寺と称していました元和二年に四谷に移ってきました。寺号が全勝時に変えられたのは、檀家の朝倉某という武家があった、この家が不幸にも断絶してしまいその屋敷後もわからなくなってしまったところが、寺が四谷に移ってからその境内に朝倉の住居があった事がわかり、当時の住職が朝倉氏供養のために、その法名の興隆院殿等室全勝居士から名前をとったそうです。 外苑東通りの北側に通る新坂は、この全勝時から靖国通りに下る坂で明治三十年に開かれた新道であるため「新坂」と呼ばれるようになりました。
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| 荒木町の歴史 荒木町の地形は、新宿通りと外苑東通りにはさまれたすり鉢場の地形が特徴で、その中心に小さな池があります。この場所は、江戸時代に「松平摂津の守」の屋敷だった場所で、落差4メートルの滝の流れ込む大きな池があったそうです。「松平摂津の守」の屋敷横の坂道「津の守坂」の名前は、今でも残っています。 明治時代になって屋敷の庭園が一般公開されると、東京には、珍しい天然の滝があると評判になりました。明治5年に池の周辺に茶屋が開店しおおいににぎわったそうです。その後「桐座」という芝居小屋ができたのをきっかけに見せ物小屋や料理店が次々に店を開いていきました。これが今の荒木町の原点になっています。しかし池の周囲の都市化が進むにしたがって、滝の水量が減り次第に池は、小さくなってしまいました。 現在でも池の滝壺の場所が一部残っていて、「かっぱ池」と呼ばれています。「かっぱ池」は、正式には「笞の池」といいます。この名前は、江戸時代に徳川家康が鷹狩りに出かけた際、ここで休息をとり持っていた笞を池の水で洗ったところに由来しています。 昭和になる頃の荒木町は、たくさんの料亭が立ち並び何人も「花魁」がいる歓楽街でした。今ではほとんどの料亭が、マンションなどのビルや住宅になってしまいました。それでも数件の料亭の建物が残っています。 今でも荒木町の車力門通りは、飲食店が多く昔ながらの歓楽街のにぎやかさを残していて、小さな路地には、コンクリートで出来た古い電柱や新宿通りに走っていた都電の敷石がしいてあったりと古い時代を感じさせる物がたくさん残っています。
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| 平成14年2月16日 田安・鎮護稲荷神社御還座式(御霊御移し) 四谷四丁目は、もと四谷永住町と塩町三丁目が合併してつくられた町名です。塩町三丁目は、新宿通りの両側と四谷第四小学校のある地域で、その他は、四谷永住町と伝えて降りました。四谷永住町として町屋が出来たのは、明治5年7月で戸数は27戸、人口94人(男46人・女48人)、馬車4台と本当に草深い町で、その前年の明治4年5月迄は田安徳川家の下屋敷でした。 田安徳川家は、徳川八代将軍吉宗公が作った御三家(田安・一橋・清水)の一つで吉宗公の次男宗武が享保14年田安徳川家の初代(10万石)となり江戸城北の丸に上屋敷を構え、宝暦6年四谷大木戸御門(四谷四丁目交差点)内の地に下屋敷をつくりました。その折、田安徳川家の屋敷神様として田安稲荷神社をおまつりし代々の当主の宗敬深く、子孫繁栄、天下泰平を願ったものです。明治維新後下屋敷を明治政府に上納、明治4年5月に広大な屋敷を撤去したのですが、稲荷社だけはそのままにしてありました。翌年跡地に町家が出来、四谷永住町と名付けられ、以来130年、代々この町に住む人達が大事におまつりしてまいりました。 千代田区九段下一丁目十四番地に築土神社と云う神社があります。現在はビル化されておりますが境内の一隅に世継(ヨツギ)稲荷神社がおまつりしてあります。昔この一帯(靖国神社境内を含む)から飯田橋にかけての地域を田安郷と呼ばれ、世継稲荷神社は地元の神様として庶民の尊宗を集めていたいたということです。田安郷と九段坂をへだてた所に田安徳川家の上屋敷があり、この世継ぎ稲荷神社も田安家の宗拝を開けておりました。私たちが田安稲荷さんと呼んでいるのは田安家の屋敷跡にあったお稲荷さんなので長い間呼び親しんでまいりましたが、田安郷にある世継稲荷人事やが田安家としてのお名前だったかと思われます。代々の当主が子どもの健やかな成長を願い、子孫繁栄を祈念しておまつりしていたものです。 鎮護稲荷神社は鎮火招福の守り神として家内安全を願っておまつりしていたもので、肉の越水商店さんの前側にあった小?で田安家と同じく明治4年迄は、徳川将軍家剣の指南役をつとめていた、柳生家(1万石)の下屋敷があつた所で柳生家の稲荷神社でなかったと思われます。戦後、田安稲荷とし二十二番地内におまつりしてまいりましたが、現在は町会会館内にお移しして町会が運営にあたり毎年二の午の日に祭礼を行い町民の皆様の宗拝を頂いて降ります。当地におまつりして246年、始めは、田安家、柳生家の守護身として、明治維新後は代々この町に住む人々の守り神様として、私達の町をお守り下さってまいりました。 昭和56年10月18日、田安家九代目当主に当たる徳川宗賢氏(学習院大学教授)が田安家として111年ぶりに参拝にこられました。その折り、稲荷神社に徳川家の定紋つきの幕一張を奉納されました。 この度、当町15番地にマンション建設中(平成13年中竣工)の近鉄不動産株式会社は、田安稲荷神社の縁起をご理解下さり、マンション敷地内、緑地帯の一部に稲荷社の建設用地を提供して下さいました。町会はご提供頂いた地に稲荷社を建設して、町内の守り神様として大切におまつりしてまいりたいと願って降ります。
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