県立稲築高等学校時代

私の青春の門 筑豊編

〜 私を育ててくれた県立稲築高校と恩師・有隅嘉徳先生 〜

 2003年8月16日

私は高校時代を飯塚市の隣にある嘉穂町稲築町で過ごした。正確には昭和33(1958)年4月から36(1961)年3月までの、わずか3年間である。3年間の短い時間ではあったが、我が人生における、まさに「青春の門」であった。

入学したのは山田市にある県立山田高校であった。後年「蒲田行進曲」「寝盗られ宗介」「熱海殺人事件」など多くの作品を書いた嘉穂町出身の劇作家・つかこうへい氏が卒業した高校で、私はその先輩と言うことになる。中学時代から始めたラジオ製作の勉強の為、部活は「無線部」を選んだ。ところが、部活に夢中になり過ぎ、成績が急低下したため、住んでいた稲築町にある県立稲築(現・稲築志耕館)高校に転校することを密かに決意した。2年生になった始業式の日、県立稲築(現・稲築志耕館)高校に転校。身の回りの環境を変えることで、自己再生を図ったのだ。ただそれだけの理由である。

【懐かしいボタ山のある風景】

将来のことを考えた上での行動ではなかった。そんなことは何も考えてもいなかった。ただ、このまま山高にいたのでは「ダメになる」。そんな気持ちが漠然とあった。親父は何も言わなかったが、お袋は泣いた。「せっかく山高に入学出来たのだから」と。当時の学業レベルでは、稲高は山高より下であった。私が高校を卒業してからは、山高は「荒れた高校」になり、逆転した。いまはどうなのか、それは知らない。

お世話になった大学の先輩Aさん御夫婦、大学の後輩で西日本新聞広告筑豊社のEくん、博多中洲の交番近くでメンバーズクラブ「秋(SHU)」を経営するEくんも、私の12才年下の妹も、みんな山高の卒業生である。また、稲高で巡り会うことになる恩師・有隅嘉徳先生は、後年教頭として「荒れた時代の山高」に赴任された。恩師の赴任を知った私は、帰省した折に山高を訪れたことがある。大阪に就職し技術局にいた頃だから、恐らく昭和42〜3(1967〜8)年頃ではなかっただろうか。

転校当時、2年3組の「岩下学級」に編入した。2年生の2学期から「2組の有隅学級」に変わり、我が生涯の恩師・有隅嘉徳(故人)先生に巡り会うことになる。私の人生を大きく変えてくれた恩師である。物理の教師で、私も物理が好きだった。解らない問題は、職員室まで聞きに行くと、丁寧に教えてくれた。2年生の終わり頃、転校当時に比べれば、少しは学力が上がったのか「1組へ入って、もっと勉強したらどうか」と勧めてくれた。が、「2組が好きだからこのままでいいです」と拒否した。

今思うと「もし、稲高に転校せず、そして、有隅先生に巡り会わなかったら」、今日の私はなかったであろう。3年になった時、考えてもみなかった大学進学を勧めて下さったのは、有隅先生であった。「田口、大学はどこにするとか? 熊大か九大か、どげするとか?」 「熊大か九大か」はお世辞であろうが、「大学に行け」と励ましてくれた有隅先生の言葉は、今でも忘れることが出来ない。山高の“落ちこぼれ”転校生を救ってくれたのは、稲高の先生方・級友であり、また大学進学を強く勧めてくれた有隅嘉徳先生である。

もし、大学に行けるなら、ラジオ製作に興味がある身としては、“文系のどこでもいいから入れる大学”ではなく、工学部電気工学科(弱電)に行きたかった。だが当時、石炭から石油へのエネルギー政策転換で、ここ筑豊の産炭地は閉山が相次いでいた。親父がいつ失業してもおかしくない状況であった。そんな中で、大学進学を言い出すのは、心苦しかった。炭坑で働いていた親を持つ我々世代の“筑豊の子供たち”が共通に抱いていた深刻な悩みである。しかも、山高時代の不勉強で「化学」はさっぱり解らず、国立大学の工学部を受験するには、「物理」と「化学」の2教科が必須であり、私立大学しか受験出来ない。

補足をしておくと、私が高校3年生であった昭和35(1960)年は「60年安保の年」であり、稲築町でも炭坑労働者を中心とした「安保ハンタイ」デモを見かけた。全学連が国会突入を計った混乱の中で、東大生・樺美智子さんが死亡。三井三池労組が無期限ストに突入。東京山谷でのマンモス交番襲撃。

また西本幸雄監督率いる大毎オリオンズ(千葉ロッテの前身)がパリーグを制覇し、三原(脩監督)マジックの大洋ホエールズ(横浜ベイスターズの前身)との日本シリーズを戦った。いわゆる「大の字シリーズ」である。結果は、まぁ、よろしい。監督就任1年目にしてパリーグ優勝を果たした西本監督が解任された、と言えばお判りでしょう。この日本シリーズ第2戦の最中に、日比谷公会堂で行われていた立会演説会で、社会党の淺沼稲次郎委員長が右翼の青年に襲われ死亡した。

郷土の作家・火野葦平が亡くなり、「ダッコちゃん」が流行し、カラーテレビ本放送が開始され、「所得倍増」「「三種の神器」「声なき声」が流行語となり、巷では西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」、橋幸夫さんの「潮来笠」が流れていた。戦後15年を経て、高度成長期を控えた前夜の、騒然とした時代であった。

そんな時「給費生入学試験制度」の大学があることを知った。「給費生入学試験制度」とは、文字どおりお金を支給してもらいながら、大学に通うことが出来る制度である。こんなうまい話はない。すぐに応募することにした。それが神奈川大学である。忘れもしない昭和35年12月25日、博多にある修猷館高校で「給費生入学試験」を受験した。結果は不合格。しかし、一般入試合格者として扱われるとの連絡を受けた。調べてみると、当時の私立大学工学部の授業料は神奈川大学工学部が最も安いことも判った。近くの飯塚市に大学のある時代ではない。横浜は遠いが、ここしかない。後日、お袋が生命保険会社から借用したお金で入学金を払ってくれた。

その後昭和38(1963)年、親父の勤めていた日本炭業株式会社新山野鉱業所(日本炭業新山野炭坑)は閉山となった。私が大学2年生の時である。妻と4人の子供と老母を養うために、親父は嘉穂町牛隈にあった共同石炭鉱業株式会社日吉鉱業所(共同石炭日吉炭坑)に再就職した。北海道留萌郡の同じ会社の炭坑に行く、という話もあったらしいが、お袋が止めたようだ。宝珠山鉱業所時代、私の隣に住んでいたKさん一家は北海道に.移住され、その後また、九州に戻って来られた。私が大学を卒業した後、昭和43(1968)年4月、親父が勤めていた共同石炭鉱業株式会社日吉鉱業所は閉山となった。産炭地を走る国鉄に、デイゼルカーが導入され、貨物列車でさえ蒸気機関車がなくなりつつあった時代の、今は昔の現実です。

後年、大学在学中や大阪に就職して以降は、出身地を尋ねられると「福岡県飯塚市」と答えていたが、東京・横浜や大阪では「嘉穂郡稲築町」では解って貰えないからである。しかし、私の生まれ育った本当の出身地と言うのは、嘉麻峠を超えた朝倉郡小石原村の隣、朝倉郡宝珠山村である。

 

  

【修学旅行 十国峠。右端が恩師・有隅先生】

【右は私。当時はこんなコートが流行っていましたね】

【修学旅行 鎌倉。左端が三船先生】

【修学旅行 羽田国際空港。右端が恩師・有隅先生】

【修学旅行 国会議事堂。左から二番目が恩師・有隅先生】

  

【修学旅行 東照宮陽明門。左端が恩師・有隅先生】

【修学旅行 宿舎にて】

      

【修学旅行 華厳の滝】

【修学旅行 華厳の滝】


【河内貯水地】

【河内貯水地】

 

 

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