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県立稲築高等学校時代 〜 私を育ててくれた県立稲築高校と恩師・有隅嘉徳先生 〜 |
2003年8月16日
【懐かしいボタ山のある風景】
お世話になった大学の先輩Aさん御夫婦、大学の後輩で西日本新聞広告筑豊社のEくん、博多中洲の交番近くでメンバーズクラブ「秋(SHU)」を経営するEくんも、私の12才年下の妹も、みんな山高の卒業生である。また、稲高で巡り会うことになる恩師・有隅嘉徳先生は、後年教頭として「荒れた時代の山高」に赴任された。恩師の赴任を知った私は、帰省した折に山高を訪れたことがある。大阪に就職し技術局にいた頃だから、恐らく昭和42〜3(1967〜8)年頃ではなかっただろうか。
補足をしておくと、私が高校3年生であった昭和35(1960)年は「60年安保の年」であり、稲築町でも炭坑労働者を中心とした「安保ハンタイ」デモを見かけた。全学連が国会突入を計った混乱の中で、東大生・樺美智子さんが死亡。三井三池労組が無期限ストに突入。東京山谷でのマンモス交番襲撃。また西本幸雄監督率いる大毎オリオンズ(千葉ロッテの前身)がパリーグを制覇し、三原(脩監督)マジックの大洋ホエールズ(横浜ベイスターズの前身)との日本シリーズを戦った。いわゆる「大の字シリーズ」である。結果は、まぁ、よろしい。監督就任1年目にしてパリーグ優勝を果たした西本監督が解任された、と言えばお判りでしょう。この日本シリーズ第2戦の最中に、日比谷公会堂で行われていた立会演説会で、社会党の淺沼稲次郎委員長が右翼の青年に襲われ死亡した。郷土の作家・火野葦平が亡くなり、「ダッコちゃん」が流行し、カラーテレビ本放送が開始され、「所得倍増」「「三種の神器」「声なき声」が流行語となり、巷では西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」、橋幸夫さんの「潮来笠」が流れていた。戦後15年を経て、高度成長期を控えた前夜の、騒然とした時代であった。
その後昭和38(1963)年、親父の勤めていた日本炭業株式会社新山野鉱業所(日本炭業新山野炭坑)は閉山となった。私が大学2年生の時である。妻と4人の子供と老母を養うために、親父は嘉穂町牛隈にあった共同石炭鉱業株式会社日吉鉱業所(共同石炭日吉炭坑)に再就職した。北海道留萌郡の同じ会社の炭坑に行く、という話もあったらしいが、お袋が止めたようだ。宝珠山鉱業所時代、私の隣に住んでいたKさん一家は北海道に.移住され、その後また、九州に戻って来られた。私が大学を卒業した後、昭和43(1968)年4月、親父が勤めていた共同石炭鉱業株式会社日吉鉱業所は閉山となった。産炭地を走る国鉄に、デイゼルカーが導入され、貨物列車でさえ蒸気機関車がなくなりつつあった時代の、今は昔の現実です。
【修学旅行 十国峠。右端が恩師・有隅先生】 【右は私。当時はこんなコートが流行っていましたね】 |
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【修学旅行 鎌倉。左端が三船先生】

【修学旅行 羽田国際空港。右端が恩師・有隅先生】

【修学旅行 国会議事堂。左から二番目が恩師・有隅先生】
【修学旅行 東照宮陽明門。左端が恩師・有隅先生】 |
【修学旅行 宿舎にて】 |
【修学旅行 華厳の滝】 |
【修学旅行 華厳の滝】 |

【河内貯水地】

【河内貯水地】