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福岡県立稲築志耕館高等学校創立記念日「記念講演」
テレビの世界へ、おいでやす
2006年5月2日(火)、午前10時50分〜
於 嘉麻市岩崎 稲築志耕館高等学校体育館
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2006年5月12日
平成18(2006)年5月2日、午前11時ちょっと前、県立稲築志耕館高等学校の創立記念式典が終了し、花村徳美校長先生の私を紹介される言葉からこの記念講演が始まった。
平成16(2004)年10月、「稲築志耕館高校関西支部総会」の懇親会席上で、当時の花村徳美統括教頭先生、事務局の倉智啓子さん(第17期生)に、稲築志耕館高等学校では毎年行われる創立記念日に、卒業生による「記念講演」を行っている、とのお話を伺った。翌年の3月頃、事務局の倉智さんから会社に電話があり折り返し電話をすると、「4月末に行われる記念講演の講師を引き受けて欲しい」とのことであった。4月の半ばに親父の十七回忌を控えていた私は、「4月に2度にわたって帰省することは難しい。今年の6月に退職するので、来年以降であれば」とお断りをした。
すると今年2月、再び倉智さんから自宅に電話があり、再度講師役の要請である。毎日がサンデーである身では、もうお断りする理由は何にもない。逃げようにも逃げられない状況に追い込まれてしまった。話の骨子だけは簡単なメモにしていたが、花村校長先生から「パワーポイントも使用可能」「手許を撮影するテレビカメラも使用可能」「耳の不自由な在校生」の存在も知らされた。かと言って、「パワーポイント」は出来ないし、とりあえず、読んでも判るようにメモを膨らませて、お話することを箇条書きにした。当日会場で一部を耳の不自由な在校生に渡し、もう一部は私用のカンニングペーパーである。
最初の講師要請の時から考えていたことだが、「我の歩んで来た経歴を縦軸にして、横軸にテレビの世界」をお話することが、在校生にとっても興味を示してくれるのではないか、と・・・。どのような小中学生活を送り、高校時代は何をしていたか、どうして大学に進学したのか、何がきっかけで放送局に入社したのか、技術職で入社しながら、カメラマンを目指し、何故編成に異動したのか、そんな話を縦軸にして、私が経験した「テレビの世界」を語ろう、と考えた。
しかしながら、これはかなり無謀なことである、と直ぐに気付いた。「テレビの世界」と一口に言っても、間口はかなり広い。技術、制作、営業、編成、等、それぞれが1回の講演にする程のネタになる。箇条書きのメモを基に、何度となく自室で喋ってみたが、60分から80分に納めようとすれば、どうしても概論でしかなくなる。これでは面白い訳がない。私の生きて来た時代背景は最小限度の言葉で表現し、大学から放送界に繋がっていく流れも短時間で説明し、テレビの歴史と概論を喋りながら、高校生が興味を持ちそうで、テレビ業界の面白そうなエピソードをなるべく多く挿入するしかない。これが最終結論であった。
「只今御紹介いただきました第11期生、昭和36年卒業の田口です。私が生まれ育ったのは(唐突やなあ)お隣の朝倉郡宝珠山村というところで、今は小石原村と合併し、東峰村となっていますが、人口が2,800人の小さな村です。私が住んでいた頃は、そこに炭坑がありまして、実は、私の親父は炭坑に勤めていましたが、人口は6,000人いました。そこに1軒の映画館があり、小学校低学年の時、学校から映画を観に連れて行かれ、以来映画に大変興味を持ち、小学校高学年ではひとりで映画を観に行くようになっていました。中学2年生の時、通信教育でラジオ技術講座を受講し、ラジオを作ることに熱中しました。今考えてみると、映画とラジオ技術、これが私の職業となったテレビに繋がったのではないかと思っています」
と、喋りはじめた。数多く観た東映チャンバラ映画、田舎ではラジオのパーツは手に入らないので、故障したラジオを譲り受けて部品を調達したこと等は、全て省略。初めての経験であり極度に緊張するのではないか、と思っていたが、それはまったくなかった。喋っているとやたらに喉が乾く。用意された水を飲みながら喋り続けた。腕時計を外して、時々見ては時間を確かめた。時間配分が一番気になった。在校生700人余りは、面白いのか面白くないのか全く判らないが、黙って聴いてくれている。途中暑くなって来たので、上着を脱いでしまう。
こうしておよそ1時間10分の記念講演が終了した。お約束の時間内に納められたことは上出来だが、はたして在校生にとって為になる話であったのかどうか、はなはだ心もとない。
40年の勤めを終えた1年後に、母校・稲築志耕館高校がこのような場を設けていただいたことに感謝致している。いい節目の年になります。花村徳美校長先生、小林至総括教頭先生、林雅幸事務長、事務局の倉智啓子さん、さらには静聴してくれた在校生諸君に御礼を申し上げます。ありがとうございました。
校長室に戻ると、煙草が吸いたくなり、喫煙室に直行。立続けに吸う。若い先生方も煙草を吸いに集まられる。「60年安保は今の高校生は知らんのではないか」と話題になる。私は「歴史の教科書でしか知ることがないでしょうが、」と前置きしてお話しましたが、石炭から石油へのエネルギー革命、東京オリンピック、新幹線開通、大阪万博も同じように、若い在校生にとっては現代史の1ページでしかないでしょう。しかし、これらの時代背景の中で我々第11期生は学び、生きて来たのですよ。
有能な秘書として同行して来た老妻に呼び戻されて校長室に戻ると、そこには懐かしい第11期生の姿があった。式典が始まる前、事務局の倉智さんから同期生に連絡し、何名かの方がお見えになります、と知らされた。今回の記念講演のことは地元の同級生には一切知らせず、ひとり壇上で孤軍奮闘するつもりであったが、えー、そんなことになっているのか、とびっくりした。その同級生たちが並んでいる。ほとんどが平成14(2002)年6月の還暦同期会以来の顔合わせとなる。確か6月に稲築に戻る、と聞いていたが、大山の姿もある。近郊の人だけではない、北九州市から駆けつけてくれた方もいる。旧友とはありがたい一生の宝物である。
「記念講演」を終えて、稲築志耕館高等学校の玄関で記念撮影

大法山つつじ園で記念撮影
さらば我が友よ。また会いましょう。いつまでも元気でな。
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4日に新幹線で大阪に戻り、今回の講演にお招き下さった花村校長先生、小林総括教頭先生、林事務長、事務局の倉智さんに御礼の葉書を送った。右の葉書がその文面である。
「平社員で記念講演をしたとは、お前が始めてやろ」と、同期生の大山忠男が言うように、ゲストスピーカーの皆さんは、有名無名を問わず会社の経営者であったり、大学の教授であったり、何かを研究している学者であったり、いわゆる功なり名を遂げて、成功を納めた卒業生であろう。昨年の講演者は日本航空のパイロットと聞いた。
私には自慢すべき役職もなく、ましてや成功者でもない。あるとするならば、テレビ放送業界と言う少し変わった職業に就いていただけで、しかも今はもうリタィアした身である。
県立山田高校に入学したが、部活のラジオ製作に夢中になり、言わば「落ちこぼれ」だった私を迎えてくれた県立稲築高校と、今は亡き恩師・有隅嘉徳先生との出会いが、今日のわが人生を支えてくれた、と語りたかっただけである。
私の話が700余名の将来を期待される在校生諸君に、どのように伝わったのか、それは判らないが、私の話から何か参考になることを感じ取ってくれたのであれば、こんな嬉しいことはない。
今回の「記念講演」に嫌がる老妻を同行させたのには訳がある。我が生きて来た道を知っていて欲しかった、ということだ。
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花村校長先生から御丁重な御礼の手紙をいただいたが、このような花道を御用意いただいた母校・稲築志耕館高校に、七重の膝を八重に曲げ御礼を言わなければならないのは、この私の方である。
