[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

インスタント・エリクサーズ
インスタントXXX
【?】





[Sleep→Wake up]



 とある町のとあるオープンカフェで、一人の男がコーヒーを飲んでいた。
 空を見れば、陽は東の空の浅い場所に顔を出したばかり。時刻はまだ、朝の八時を回ったか回らないかという所だろう。
 大きいとも小さいとも、みすぼらしいとも華やかだとも、何とも言い切れない中途半端な町だった。最も背の高いビルで精々三階か五階といった風だが、どれもがそこそこに手入れされている感じで、寂れた様子はない。
 全く以って普通の町で―――だが、異常な町だった。
 息づいた町並み、差し込む朝の日差し、道を行き来する車両。当たり前の風景だ。当たり前の風景だというのに、その町には”人がいない”。
「今日も静かだなあ」
 とか、ぼけっとした調子で呟く男以外には、人っ子一人いないのだ。
 四車線の道路を走る車両は結構な数だというのに、ただの一人も降りたり、乗ったりという風景を見かけることがない。そしてよくよく見てみれば、その道を走る車の窓は、サイズに関係なく曇りガラスで覆われていて、中の様子を見ることが出来ないようになっていた。
 ―――まるで、この町に人がいてはいけない、とでもいうかのように。
「うん」
 特に意味もなく、ただ一人、男は頷く。
 黒いスーツを着た、何を考えているのか解りにくい、ぼんやりした顔をする彼が、この町で唯一の”生き物”らしかった。
 彼は懐からハンディラジオを取り出すと、電源を入れてチューナーを回した。途端、流れてくるクラシック調の音楽。美しい音色だが、どこか薄っぺらで、稀代の名曲達とは似ても似つかない。
「うん。いいね」
 だが、彼はそれが気に入っているらしく。
 満足げに頷くと、店員のいない厨房に向かって「あ、チーズ盛り合わせ一つ。タイプはBで」と言い、再びコーヒーを飲むことに没頭した。
 そのオーダーに応えるものはいない。だがやがて、彼がふっと眼を離した隙にでも、白い丸テーブルの上に、チーズを盛った皿は置かれるだろう。
 ここは”そういう世界”なのだから。
 彼だけの世界。彼だけが存在できる世界。”もともと命が在るべき場所”から”そこにいられなくなった者達”が移動する途中の、中間地点の町。先に進むことも、後に戻ることも出来ない、未来永劫変わらない、静かな静かな空間。
 それが、この場所だ。
 彼がいられる理由は単純。それは、運ばれていくべき”自分”が、彼には存在しないからだ。
 未来に希望を持つことも、過去に絶望することも、もう彼はしなくていい。誕生と同時に必ず背負わされる、家族への愛や自分への執着を、彼は『あっちの世界』に捨ててきた。自分自身を含めた全てに気にされず、綺麗サッパリ”失った”。
 だからというかなんというか、彼は『あっちの世界』ではこう呼ばれていた。
 失ってしまった人―――ロストマン、と。
「……おや」
 ロストマン、便宜上、彼は自身をそう名乗る。
「うーい、やっと見つけた。”チーズの盛り合わせ、このヤローこんな所に引きこもりやがって、見つけるのに苦労したぞボケ”風味でございます」
 これは。
 そんなロストマンと名もない少女が繰り広げた、小さな小さな戦いの話。
「……君は……」
「おっと待った。名前を呼ぶのはもう少し待ってもらうよん。唐突に現れた謎の女、その正体は!」
「ん? マルサ?」
「いやうーん、そのドライな反応はボケ殺し過ぎて困る。ともかく名前はストップね」
 誰もいない、そう思われていたはずの店内から歩いてきた少女は、口やかましく騒ぎ立てると、チーズの盛られた平皿をテーブルに置いて、ロストマンの対極にある椅子にどっかりと座った。
 茶色がかったウェービーなセミロング、オレンジのハイネックセーター、色の薄いジーンズにスニーカーと、どう見ても”お店のウェイトレスさん”という風ではない。
 そう、彼女はいわばストレンジャー。ずっと、ずっとロストマンを探していた。
 雨の日も風の日も、病める時も悲しい時も、それこそ死んでしまいそうな時だって。
「私があなたを連れ戻す。私だけが唯一、あなたの世界に”届く”人間だから」
 ロストマンを引っ張り出す。
 ただそのためだけに、何年も何年も追い続けていたのだ。
「さ、闘ろっか。私とアナタの存在を賭けたゲーム……逃げられないのは解ってるね?」



*



「正気かい。言っとくけど、君には不利なゲームだぜ」
「解ってるっつーの。ここはあなたの世界。あなたは心の全てを”駒”に出来るけど、私が使えるのはたった七つの”命より大切なもの”だけ」
 淡々とそう言うと、少女はポケットから折り畳まれた板のようなものを取り出した。
 それをパキパキと広げ、卓上にパタンと置く。ぱっと見、それは9×9マスの将棋のようだが、盤上は見慣れた黄色のそれではなく、半分が真っ黒で、半分がオレンジの、変てこな色で分けられていた。
「負ければ私は次の世界に行かなくちゃならない。その時点で、私達の物語は完璧に解かれて、よくある話のよくある存在、かつ陳腐で平べったい……いわゆる”嘘の物語”になっちゃうってね」
「そこまで解っているなら」
「なぜ、って? いやんばかん、解ってるでしょ―――このまま時間が過ぎれば結果は同じ。緩やかな死も速やかな死も、”私達”にとっては意味のないものだから」
 淡々と、しかし苛烈に言い放つと、少女は再びポケットをまさぐった。「ん、何よこれ引っかかってるしもー」などとブツブツ言いながら、力任せに引き抜いて、将棋であれば王将の座る位置に”それ”を置いた。
「……本気なわけか」
「まあガチっすわ」
 それは、七色の輝きが入った、作り物くさいガラスの小瓶。
 インスタントで荒っぽくて、とてもとても安っぽい外観だけれど、少年少女が宝物だと誇りにしていそうな、純然たる神々しさを備えた造りになっていた。
 そして何より、中に入っている七色の輝き。何というか、西方の錬金術に出てくる『エリクサー』だとか、そんな感じの引き込まれる不思議な魅力を持った液体だ。
「いつか終わる人生なら、やれることやんなきゃね」
「君はもう報われただろう」
「一度はね。でも私は欲張りだから、物足りないんだよ。最高のハッピーエンディングが用意されてるのは、最高の物語。でも……私は、私達は、”物語”の先に行こうとしてるんだ」
 インスタントエリクサー、とでも言おうか。
 陳腐で純粋な小瓶が、どうやら少女にとっての”王将”ということらしい。
「やれやれ……決意は硬いのかな」
 意気揚々とする少女に対して、ロストマンは気が乗らなさそうだった。
 しかめっつらで胸ポケットをまさぐると、黒っぽい、トイレの男性マークみたいな駒を取り出して、バラバラと盤上に撒く。それらは全てが同じ形をしていて、将棋と同じ布陣に並べられていく。
「なら仕方ない。自分も自分の世界を守るとするよ。もう二度と―――大切な人が死ぬ痛みを、味わいたくはないからね」
 そして、王の直線状にある歩の位置に一つだけ、黒い犬の形をした駒を置いた。
「希望がなければ絶望もない。ないものは失くせない、それが自分にとっての理想だ。変わらないよ」
 黒犬が、彼にとっての”王”であるらしい。
 目元がうつろで、愛想もなくて、なんだか寒々しい造りの駒だったが、それでも無個性で記号っぽくすらある人型駒に比べれば、幾らかの愛嬌があることは確かだ。
「最後にもう一度だけ聞くよ。……降りる気はないかな?」
 ロストマンの問いには、哀れみさえ含まれていた。
 それもそうだ。戦力は圧倒的。ロストマンが持つ二十の駒に対して、少女の駒は王将が一つだけ。別に六つの駒があるとは言うものの、まだ場には一つも出ていないような状態だ。
 こんな勝負、やる前から決まっている。
 しかも敗者は、魂の個性を失くす勝負ですらあるという。
 ―――それでも。
「愚問ですな、ロストマン殿。っつーかまあ正直さ、君はちょっとナメてるよ」
 それでも少女は、ただの一秒すら戸惑わない。
 ポケットから一つの駒を出し、指先に僅かの震えも含ませず、堂々と盤上に置いた。
「君は知らない。意志が生む力の強さを、そして」
 その駒の姿は、雄々しさに満ち々ちた『恐竜』のもの。
 今にも咆哮をあげそうな迫力で、二十倍の軍勢に立ち向かう。
「そして―――ダイナソーといわれた、彼の暴力に対する”適正”をね」


[→Wake up]
[村瀬 樹]



 子供の頃、果たして自分はどんな人間になりたかったのだろう?
 うんと小さい頃は、妥当にスポーツ選手だったかもしれない。少し成長し、『実戦派として有名な署道場』という実家の立場を自覚してからは、優しかった兄を目標としていた気がする。
 背が伸びて、大人の都合が解るようになり、兄が人格者ではあっても武道家としては落ちこぼれで、一族では村八分だと知ってからは、ひたすらに強くなってそいつらを見返してやろう、と考えていた。
 結果的に過ぎた欲求は欲望に変わり、自分は道を外れ、実家を飛び出してアウトロー生活を送っていたわけだが、その時も”肉体的な強さに対する憧れ”というのは持ち続けていた気がする。
 しかし今は、ともし聞かれたら―――
「……正直そんなことよりも、灯油代の値下がりを望みたいな。全くかなわん」
 やれやれ、といった風に溜息をつくと、重なるように車内のラジオが午前一時を告げた。
 夜に強い体質なので眠くはないが、微妙に道が込み合っていて、精神的に参ってくる。師走の暮れともなると、町そのものの睡眠時間が短くなるようで、其処此処の家に灯りがともっていた。
 自分の職業は、それらの家に宅配物を届ける『ピザ屋さん』。今日の予約は十六枚で、次の家に届ける分で丁度十枚目。流石に年末といった所で、随分と数が多い。しかも、いちいち届け先と職場を往復しなければならないので、どうしたって風景にも飽きてくる。
 少々いい加減にやってもいいのではないか、と考えたくなるが、そうもいかない。自分の勤め先は、質をウリにしている個人店。フランチャイズのように、数さえこなせばいいというものではない。
「急ぐか。また泣かれても困るしな、小西さんに……」
 加えて。
 勤め先の店主というのがちょっと特殊で、自分にとっては”苦手な部類”なので、手は抜けない。
 小西明子。特徴、よく泣く。とにかく泣く。それはもうわんわんと泣く。料理を粗末に扱おうものなら、二日は嘆いて袖を引っ張り続けられること請け合いだ。
 考えのなさは一級品で、気の弱さも一級品。優しく大らかでぼけっとしていて、聖者ならともかく、競争社会の料理人としては、全く不向きな性格をしている。
 ―――だが、料理の腕は超一級。三桁の弟子を持つ、自分と小西の共通の師匠をして、『自分を含めて後にも先にも、これほど料理の気持ちが解るのは小西しかいない』と言わしめた実力を持つ。
「どう考えても俺に押し付けたな、あのヒゲじじいめ」
 不満はある。だが、それ以上に実りがある。
 されど不満は尽きず―――と、そんな訳でどうしてなかなか、愚痴や夢想に費やす時間も多くなるのだ。
「どんな人間になりたいか、か」
 クラッチを踏んでギアを下げ、ウィンカーを下に倒して交差点を左折。
 ここからは真っ直ぐ直線、という道に出ると、一斉に視界が開け、星空があらわになる。
 田舎というわけではないが、都市部というほどでもない美空市の夜は、僅かながらも宇宙の瞬きを自分に見せてくれていた。途端感じる既視感―――いつのどこでだったか、と思案して、すぐに思い出す。
「ああ、そうか」
 ははっ、と笑う。
 うまい“笑顔”という奴の作り方は、そういえば”あいつ”に教わったのだった。
 小西、師匠の料理勘は相当だが、それでも逆立ちしたって”あいつ”には勝てないに違いない。
 あの二人にとっての料理は『商売』だが、”あいつ”にとっての料理は『自己主張』なのだ。今を楽しめない天才と、楽しめる天才との勝負なら、後者が勝つに決まっている。
 『いつのどこでこんな星空を見たか?』
 答えは簡単。いつ、という問いに対しては『二年前の十二月に』、誰と、という問いに対しては『自分が最も尊敬する料理人と』。
 共に―――話した。酒を酌み交わして、語らいあって、ふざけて笑った。
「そうだな」
 ぼんやりと楽しかった自問の時も、残念ながら終わってしまいそうだ。
 どんな人間になりたいか、なんて、もう決まっていたのだから。
 答えは一つ、そして簡単。
「決まってる。どんな人間になりたいか、なんて」
『ほらほら、もう私の背中は見えてるでしょ? 今度やったら料理対決、私の方がヤバいかもね!』
 本沢薫のような料理人になりたい。そう決まっているのだから。
「ハッ、急ぐか。俺もお前に追いつきたいしな!」
 一人呟き、アクセルを踏ん付ける。
 唸りを上げて加速する車は、瞬く星に届けといわんばかりに、一直線に道を駆け抜けていった。


[→Wake up→Stand up]



 盤上に降り立った『恐竜』の粗暴さは、まさに王者の如くだった。
 押し寄せる真っ黒な『人型』を寄せ付けず、少女にとっての王である『小瓶』を守っている。
「なるほど、初手はダイナソー隆一君か」
「まあね。ここは定石だから。……けど隆一って誰よ?」
「彼の本名だよ。似合ってる」
 他愛ない会話を交わしながら、ロストマンと少女は駒を動かし続ける。
 対極を始めてから、一時間ほど経っただろうか。平皿に盛られたチーズは随分と減って、今では角切りのブルーチーズを一つ残すのみだ。
「貰っていいすか?」
「ああうん、どうぞ」
 淡々と言葉を交わし、少女は最後の一個を摘む。
 親指で、ピン、と弾いて、器用に自らの口めがけて放った。
「かーっ、聞くねえブルーは」
「クラッカーと飲み物が欲しくなる?」
「セロリとかフレッシュな生野菜でもいいね。ってーか、私とアンタって割と趣味合うのよねえ」
 からかうような少女の台詞を、ロストマンは微笑むことで肯定した。
 ボンヤリした印象のロストマン、明朗快活に感じられる少女。傍目には対極的な二人だが、少女が言うとおり、その実情はよく似ている。
 外に出るのは昼よりも夜が好きだとか。
 図鑑を買うほどチーズが好きだとか。
「そうだね。でもまあ一応ね。手加減とかはしないよ?」
「知ってるって」
 ―――後は、自分に対して嘘を吐くのが得意である、とか。
 少女は余裕ぶった態度を崩さないものの、盤上の状況は不利だった。幾ら『恐竜』が強いとはいえ、対する『人型』は十九体。徐々に弱点である背後に回られており、いずれは急所を突かれて倒れてしまうだろう。
 だからといって引くわけには行かない。ロストマンの王である『黒犬』が、虎視眈々と『小瓶』を狙っているからだ。
 絶体絶命―――だがやはり、少女は笑う。
「こっちも全力よ。他の皆には自覚がないところを悪いけど、こっちは六人分の魂を賭けてんのよね」
 なぜなら、彼女は”嘘吐き”だから。
 宥めてすかして欺いて、激動の一年間を取り繕ってきたのだから。
 なんでもない、この程度―――言い聞かせ、二重人格の彼女は駒を打つ。
「見せてあげるよ、弱さを受け入れた狼の誇り高さと」
 恐竜の後ろを守るように置かれた、その駒の姿は『狼』。
 しなやかだが柔らかいフォームは、どことなく雌であることを連想させた。
「そして、竜に対する愛の深さをね」
 一体と一体は、背をくっつけ合うようにして81マスの陣地に立つ。
 四肢を張り、牙を剥くその姿は、粗暴であるくせに、とても可憐で美しかった。


[Stund Up→九栖重 ひなた]



 これから先、私はどこへ行きたいのか?
 最近、そんなことをよく考える。答えは既に決まっていて、すぐに思考は終わってしまうのだが、何度も何度も繰り返し、私は同じことを考える。
「ね。どこに行きたいのかな、九栖重ひなた君」
 右手でペンを回しながら、私は私のちょっと変わった名前を読んでみる。
 今年で二十歳になるが、“くすえ”なんて珍しい苗字には、未だ出会ったことがない。義父の都合で違う苗字になりかけたりもしたが、結局はそのままだ。最も、私はこの奇妙な苗字がとても気に入っているため、なんの不都合もないのだけれど。
 時刻は深夜の一時半。八畳ぐらいのリビングルームの隅っこに置いてあるワークデスクに着いて、スタンドライトの明りを頼りに日記を書いている。“どこかの誰かさん”のように、感受性ゆたかな文章は書けないけれど、一日も休んだことはない。
「……まだ起きてんの……?」
「あ、起こした? ごめんね、もうすぐ終わるから」
 背もたれに体重を預けて腕を伸ばすと、安っぽい椅子がギリギリと鳴る。
 そのせいで、背後の布団で寝ていたルームメイトが起きてしまったようだ。流麗な長髪と、刀のように鋭い目つきが特徴的なその人は、長坂美晴といって、私の高校からの友人だ。
「いいよ、オーケィ」
「ありがと。―――って何見てんの、私の顔に何か付いてる?」
「ん。かわいい眼鏡がね」
 君にはトクベツ似合ってる。
 そう呟いて、再び美晴は布団の中に潜り込んだ。
 美晴が褒めてくれた私の眼鏡は、ノーフレームの伊達眼鏡で、個人的にとても気に入っているものだ。生前、母がかけていた物で、私にとってはトレードマーク兼お守りとでもいうべき、大切なアイテムになっている。
「なーにがトクベツだか」
 ははっ、と苦笑。
 既に美晴は寝息を立てていて、明日には途中で起きたことすら忘れているだろう。そういう人だ。
 “特別”なんていうなら美晴こそ特別で、彼女は高校在学中に正統派の文学賞で副賞を取った経験がある。しかもそれでは飽き足らず、「こんなブッサイクの文章に私が負けたのは納得いかない」と取材陣の前で大賞受賞者をけなし、賞を取り消されるや週刊誌に文壇闘争をテーマにした小説を載せ、世間の批判と話題をかっさらった―――という、とんでもない女だ。
 今は名前を変えて私のアパートに居候し、小さな出版社でシリーズ物を書いている。曰く「好き勝手やれる方がいい。結果はついてくるから」とのことで、実際にWeb上で彼女の本は評判になりつつある。
「凄いよねえ、君は」
 うん、と頷く。
 美晴は凄い。私はといえば、高校時代から勉強も運動も割りと出来た方だったが、今はスッパリと成長が止まってしまった。張り詰めていた雰囲気がなくなり、妥協することが増え、「まあいっか」で物事を済ますことが多くなっている。
 そう。九栖重ひなたは、弱くなった。
 そして。それでいいと―――“彼女”は言った。
「いいんだよね、私はこれで」
 ずるくていいと、“彼女”は言った。
 自分自身に甘くていいと、教えてくれた。
「うん」
 そのおかげで、私はこうして笑えるから。
 責任感で張り裂けそうで、笑顔一つ造るのも辛かった過去を忘れられるから。
「んー……」
 携帯電話を取り出して、私は「む」のアドレス帖を呼び出した。
 もうすぐ深夜の二時だが、彼のことだし起きているだろう。元は暴力団の構成員、今は本格派ピザ屋の店員、そして同時に私の恋人である村瀬樹は、もうじき宅配を終える頃だろうか?
「あ。もしもし樹? ごめん仕事―――あ、ちょうど終わったのね。よかったあ。ん、これからご飯食べに行かないかなって。明日は美容院休みだし、樹も午後からだよね。うん、うんうん―――」
 喜び悲しみも、今なら感じることが出来る。
 “完璧”を演じる事に拘りすぎて、壊れそうだった私の心を、“あの人”が救ってくれた。
 そのおかげで、私は今、こうやって毎日を幸せに感じることができる。
 だから。
「薫。きっと、君に伝えに行くよ」
 伝えにいこう。
「アリガトウ……って」
『うおう今更ー? いーって、私がカワイくなった君を見たかっただけだからさ!』
 そんな言葉を。
 いつかどこかで、当たり前の女の子みたいな笑顔をして。
 あなたに伝えにいきたい。それが、今の私の夢なのだから。


[Stund Up→Walk]



 一見して、盤上の勢力は拮抗しているようだった。
 数では圧倒的に『恐竜』と『狼』が不利だが、二体はうまく弱点をカバーしあっており、『人型』の駒を寄せ付けない。それどころかじわじわと圧力を増し、テリトリーを広げつつある。
 状況は、少女にとって有利になりつつある―――ように、見える。
「そうか。あくまで君は、負けてくれないと言うんだな」
「……」
 だが、優勢であるはずの少女の顔は険しい。
「自分は次なんか望んじゃいない。それでもかい?」
「……」
「例えるならさ。一個の林檎があるだろ? その林檎には、食べる喜びと、食べることによって林檎がなくなってしまう喪失感がある。普通の人は喜びの方が大きい、だから林檎を食べて感じる”美味しい”という感情がプラスになる」
 対して、劣勢になったロストマンは無表情だ。
 無機質で淡々としていて、相変わらず何を考えているのかよく解らない。
「でも。この世の中には、林檎を“失くしてしまう悲しみ”の方が大きな人間がいる」
 ブツブツと、独白を続けるロストマン。
 彼の例え話に、目前の少女は答えない。
「それが林檎ならまだいい。でもそれが、自分の愛する人だったら? 世界で誰よりも大切で、誰よりも愛しく……だがいつか“いなくなってしまう”。その喪失感が、幸せを遥かに凌駕するのなら?」
 なぜならば。
 ロストマンは、誰の答えも必要としてなどいないから。反論したって問い質したって、会話なんて成立しようはずもないから。
「なら、最初から何もいらない。愛する人も、人生すらも、そもそも自分自身だって」
 失ってしまった人、ロストマン。
 見た者が震えずにはいられない、底なしに輝きのない目をして、『何もいらない』と呟き続けるこの男の本領は、まさに“ここから”。
「最初から失ってしまえばいい。そうだろ、なあ」
 生きている幸せより、失っていく悲しみの方が大きいと彼は言う。
 そんな人生であるのなら、最初から“なければいい”と彼は言う。
(……解ってる。解ってるよ)
 人間に『個性』というものが存在する以上、ロストマンの主張もまた、数ある真実の一つだろう。どんな奇麗事やお題目を並べてみたって、世の中には“生まれてこない方がよかった人間”というケースが、少なからず存在する。
 強がりではなく本心で人生を捨てているロストマンは、この空間に置いては殆ど無敵だ。
 いつしか周囲を走っていた車両は消え、無人となった道路には、赤みを帯びた陽が射すようになっている。手元に置かれたコーヒーはすっかり冷め、僅かの湯気すら立たなくなった。
 夜は近い。街の灯りが落ちてしまえば、所詮”よそもの”である少女に勝ち目はない。
 傍目には有利に見える盤上も、すぐに彼の心の色である黒に染まるだろう。
 だが―――
(それでも。それでもやっぱり、貴方は生きていなくちゃならない)
 だが。それでも、少女は諦められなかった。
 どうにかして、ロストマンをこの世界から引っ張り出してやりたかった。
(君にもいるんだ。いるはずなんだよ、悲しみよりも大きな幸せを与えてくれる人が)
 彼にだって、ほんの少しの間だけ、“自らの意志で生きようとした”時代があったのだ。
 家族のために。
 ちっぽけでくだらなくて、それでもとてつもなく大切な絆のために。
(お願い、桜さん。あなただけが、彼の生きる理由だったはずだから)
 コトリと卓上に置かれた、小さくて弱々しそうな『黒犬』の駒。
 喪失に囚われた彼の心を呼び覚ませるのは、“彼女”しかいないだろう。
 小枝早桜。かつて、ロストマンの実の母であった人。
 唯一彼女だけが、彼と対等に話せる心をもった人間であるはずだった。


[Walk→小枝早桜]



「さて」
 東北某県某市某町、午前六時三十一分。
 小枝早桜という名の私は、目下、三つのことに困らされていた。
 一つ目は、日本海側における北国特有の壮烈な寒さと強風に。
 二つ目は、手に持ったコンビニ袋をパンパンに膨らませる荷物の重さに。
 三つ目は、絶望的なぐらい狂った自分の方向感覚に―――だ。
「ここはどこですかね。かなり切実な疑問なんですが」
 ふっ、と嘲笑を浮かべようとするが、口元が凍り付いて形にならない。
 寒すぎる場所では首を”ブルブルッ”と振れないのと一緒で、筋肉が委縮してしまっているのだ。
 『お腹すいたな』と空腹で目を覚ましたのが朝の五時のこと。出がけに見た早朝のニュースでは、最低気温はマイナス八度になると報じていた。元々は関東の産れである私には、想像もつかない寒さだった。
 これは防寒対策をせねば、とモタモタ着替えて午前六時。滑って転んではいられない、と慎重に歩きながらも三回転んでコンビニの前に着いたのが六時十五分。好物のコーンポタージュとバームクーヘンを購入し、冷める前に急いで帰ろうと裏道を通ったのが五分前。
 ―――そして現在、なぜか前も後ろも真っ白な銀世界にいる。
「はっはっは。うん、まあ。えー……私、割と本気で死ぬのでは?」
 意味もなく高笑いしてみたが、返ってくるのは地吹雪の唸り声ばかり。
 恐らく、小道から小道へと進んでいく内に、農道へそれて田畑に出てしまったのだろう。今の時期だと、収穫物はあらかた刈り取った後になるから、目印になるようなものは殆どない。
 来た道を引き返したい所だが、強風と豪雪で、足跡はすっかり埋まっていた。おまけに視界は5メートル効くか効かないか、といったところ。闇雲に歩けば、薄氷に粉雪の積もった用水路を踏み割る危険性もある。
「たはー。なんで日本の文明圏で遭難しなきゃならないんだか……」
 幸か不幸か、薄暗がりの向こうには、農家の物らしい物置小屋が見えていた。
 他所様の領地に無断で入るのは失礼だろうが、今は状況が状況だ。私はブツクサと愚痴をこぼしながら、ぐぼぐぼと膝まで雪に埋もれさせて、小屋までの銀世界を歩いて行く。
「お、ラッキー。開いてますね……さすが田舎」
 盗人猛々しい台詞を吐いて、私はアルミ製のドアノブをそっと開けた。
 途端、むわっと香る老木の匂い。冬期は使用していないのか、中にある農具やござなどは、随分と厚い埃を被ったままになっている。暖房器具の類は一切ないが、幸い電気は通っていた。裸電球に繋がる紐を引っ張ると、ジジッと瞬いた後に、頼りない輝きが灯される。
 コンポタの缶を開けて、一口を飲み―――ほっと、一息。
「あったか……」
 溜息は熱をもって白く染まり、ゆっくりと小屋の中に立ち昇る。
 コーンポタージュ、なんていうと子供っぽいかもしれないが、私はこの飲み物が好きだった。二十年前、まだ息子と共に暮らしていた頃、よく作っていた記憶がある。
 派閥実力者の議員だった父親の元から逃げ出して、戸籍すらない密入国者の夫と暮らしていた頃。
 十七歳で長男を産んで、右も左も分からず、どうやって暮らせばいいか何も知らなかった頃。
 料理なんてレトルトばっかりで、いつも惨めで―――でも、温かな家庭でいられた頃。
「どこにいるんですかねえ。ねえ? 真介ったら」
 今、東北に住む私の傍には、その夫も息子もいない。
 父に居所を発見された際、夫は強制送還され、息子はその”付属物”として、父方の故郷に無理やり連れて行かれたからだ。薄情な女と罵られるかもしれないが、当時の私は彼ら二人を追わなかった。
 というより、”追えなかった”のだ。
 当時の私は無力で、反面、父親は権力者だった。私の放蕩生活は”なかった”ことにされ、アパート管理人という形で、表面上は小枝早家から独立したにことにさせられた。
 言ってしまえば、亭のいい厄介払いだったわけだ。事実、政治家というデリケートな職に就いていた父にとって、私のようにスキャンダラスな娘は、邪魔者以外の何物でもなかった。
 自慢じゃないが、当時の私は美人だと評判だった。四十を越えた今でも、体質的なものなのかシワ一つなく、中学生と間違われるぐらいだ。表向きだけでも、父が『保護者』という形をとっていたのは、そんな私をマスコットとして利用したかったからだろう。
「ねえ。あの頃は貧しくて、わびしくて、悲しくて……」
 放心状態の私に追い打ちをかけるように、胎に残っていた娘は精神障害を持って育った。
 身体化障害という、心の問題から体に不自由が出る病気。”一日に一つ、五感のいずれかを失調する”という重い症状を表す娘に辟易して、辛く当たったこともあった。
 いや―――辛く当たるどころの話ではない。私は私によく似た実の娘を、不満だらけだった人生の”替わり”にしようとし、意図的に社会に馴染ませないという暴挙すら犯した。
 息子は見殺しにするわ娘は監禁はするわ、全くもって母親失格だと思う。
 唯一の救いは、娘が逆境に負けなかったこと。紆余曲折を経て『個性』を獲得したあの娘は、たぶん世界中で誰よりも強い意志をもつ、心鮮やかな人間に至ることができた。
「ねえ、本当に、もう」
 今、娘は東北を離れ、元いた美空市のメンタルクリニックで働いている。
 ペットシッターとしての資格を活かし、動物を扱った精神療法の補助をしているそうだ。向こうは向こうで色々と難題続きらしいが、何とか楽しくやっているらしい。
 私も戻ろうと思えば戻れたが、その選択肢は選ばなかった。
 父と絶縁したいためと公言しているが、本当は違う。
「辛かったですね、真介。でも今、私は幸せだと思えています。そして噛みしめていますよ。いつか、きっといつか。過去がどんなに辛くとも、こんな瞬間は用意されているのだと」
 私が東北に残った―――というか”一人になることを選んだ”、本当の理由。
 それは、あまりにも単純なこと。
 『私は私の道を往きたいから』という、ただそれだけのことだ。
 本澤薫、遠藤八代、九栖重ひなた、村瀬樹、小枝早葛花。
 数奇な繋がりで私のアパートに入居した彼らは、激動の一年間を過ごし、様々な出会いと別れを繰り返した末に、『生まれてきたことの答え』を獲得した。
 私も、そこに辿り着きたい。
 両手を突っ張って、青い空を見上げて、「このために生まれてきたんだよ」と声を張り上げたい。
 だから―――
「いつかまた会いましょう、真介。母さんはきっと、あの頃よりあなたに優しくしてあげられるから」
 だから、ちょっとずつでも歩こう。進もう。
 この薄暗い小屋で、ほんのり温かなコーンスープを飲み干したなら。
 きっと朝日は昇って、吹雪も止んでいるはずだから。
「さて」
 さあ行こう、小枝早桜という名の私。
「行きましょうか、ね」
 まだ何があるかも解らない一秒先の明日へ。
 待っている未来が何であれ、今の私ならそれを愛しむことができるだろうから―――


[Walk→Stumble]



 いつしか無人の町の夕日も暮れ、あちこちの建物に白っぽい灯りが点き始めている。
 誰も通らない、誰も語らない、遠吠えだって聞こえない。一体いつからそうだったのか、曲がり角のブロック塀に張られたポスターの絵は、グラビアアイドルから白黒のシルエットに変わっていた。
 ポスターだけではない。
 看板も、ビルも、信号も、標識も―――何もかも。
 この空間における存在達から、”色”というものが消え始めていた
。 「いよいよね、ロストマン」
 遠景も、近景も、差別なく朽ちてゆく。
 いつしか足元すら見えなくなって、世界は真っ暗闇に染まるだろう。
「そうだね、ストレイキャット。もうすぐ、終わるね」
 オープンカフェの一角だけが、昼間と同じように色彩を残している。
 この場所だけがまだ”生きている”。そんな感じだ。
「そうね。でも、私の勝ちよ。乗り切った―――峠を越えたボールが逆さまには進まないように、この勢いが覆ることはもう、ないね」
 勝ち誇った言葉の通り、盤上の趨勢は、少女に大きく傾いていた。
 ロストマンの先兵である『人型』を、『恐竜』と『狼』が抑え、『黒犬』はそれぞれが相対するような形で、ロストマンの一体と少女の一体がにらみ合っている。
 一見すると膠着状態に見えるが、追撃の駒を残してある分、少女のほうが有利だといえた。
「私はあなたを連れ戻す。ワガママに付き合ってもらって悪いけど……ね。数あるであろう可能性の中で、”私とあなたが生きたはずの世界”を、ここから紡がせてもらう」
「……」
「思ったことあるでしょう。桜さんが狂ったりしなくて、葛花が普通にあんたのことをお兄ちゃんって言ったりして。普通に笑って、ちょっと悲しいこともあって、でもとっても幸せでさ」
「……」
「そんな世界。そんな幸せな世界も、どっかにあるはずなんだよ。きっと、きっとさ」
 当たり前の毎日が、何よりも幸せな世界。
 そんなものがあってもいいと、少女は言う。
 諭すというよりは頼み込むような、切実でひたむきな願いだった。事実、その台詞は話し相手であるロストマンよりも、自分自身に言い聞かせたい言葉だったろう。
「ね? もういっかい始めようよ。ちょっとぐらいずるっこしたって、誰も責めたりしないよ」
 ある日。
 ある国の、ある町に、とある少女がいた。
 その人は大手栄養食品会社の役員を父に持ち、豊かな才能を持って生まれた。
 “やれ”と言われてできないことはなく、何でもこなす才女だった。与えられ、消化し、また与えられ、そして消化。成長と共に、少女は化け物じみた天才に育ち―――だがそれゆえ、”自我”というものを犠牲にしてしまった。
 失敗という不確定要素を”経験できなかった”少女は、余りにも純粋に育ちすぎた。思春期に覚えた遊びは、麻薬にも等しい汚れた快楽を少女に感じさせた。
 透明な水ほど明確に濁るように、少女の精神はあっという間に腐っていく。中学で喫煙、高校で異性を覚え、大学に入学するかという頃には、すっかりそれらに対する依存症に陥っていた。
 『本当に幸せなこと』を一つも知らないまま、『本当に不幸なこと』が起こるんじゃないかと怯え続けた。僅かなつまづきすら致命傷になる気がして、大失敗の可能性を無視し続け、第三者に判断を委ね続けた。
 挫折の日は、早かった。
 大学から付き合い始めた男が犯した罪を、代わりにかぶって退学処分。実家からは「名が傷つく」と勘当され、男からは「重すぎる女」と切り捨てられ、散々だった。
 もう死んじゃうか―――夕暮れのキャンバス、退学届を出し、少女は途方に暮れていた。
 あと一時間、誰も声をかけなかったら、勢いで首でも吊っていたかもしれない。
 だが。
「……ね。そうだよね、八代」
 だが、運命は転がり、結果的に彼女の命を”もう少し延ばす”。
 少女と同じ大学に通っていた、遠藤八代という少年。彼は少女の恋人が犯した、寝煙草による火災のとばっちりを受け、同居者の責任を問いただされて、寮から追い出された直後だという。
『なあ、あんた。突飛な話で悪いけど、今、住むトコ探してるやつとか知らないか?』
 東北から単身上京し、仕送りも少なく貧乏だった少年。
 寮を追い出されて新居を探してみたものの、物価の高い関東で”値段は安く大学には近く”などという、都合のいい物件など見つかるはずもない。追い詰められて選んだ策が、”ルームメイトを募って家賃をシェアする”というものだった。
『いや……悪かったな、急に話しかけて。まあ、覚えてたらでいいから教えてくれ。俺は教養学科の一年、遠藤八代。昼飯の時とかは、大体は学食で坦々麺食ってるから』
『あ。あのっ、待っ』
 少年のセリフではないが、確かに突飛な話だ。
 何度も断られ、時には蔑まれ、嘲笑を浴びもしただろう。
 それが当然。いつだって社会は成功者に優しく、落伍者に厳しい。原因が故意であれ偶然であれ、失敗した者は”安全圏にいる者”から笑われる運命にある。
『邪魔したな』
 『彼』は。
 八代は、それを知っていた。知っていた上で、傷つくことをためらわなかった。
 心の痛みも寂しさも隠せないくせに、誰よりもシビアに自らが弱者だと納得しようとしていた。
『わ、私は……』
『あん?』
 一発で、好きになった。
 異性への依存とか、振られたばかりの境遇とか、そういった不純物の一切混じらない―――いうなれば初恋だった。
『わた―――私がさ! 私がまっさに今、そういうの探してるかも!』
 だから、嘘を吐いた。
 ドライな八代と共にいるために、楽天家の仮面を造った。猜疑心の強い彼に嫌われないよう、常に人懐こい笑顔でいるようにした。低からぬ学力というプライドを折らないため、所々でバカっぽく振舞った。
 そして。
 嘘で塗り固められた『本沢薫』は産まれ、あの日々が始まった。
「私はまだ終わりたくない。だからアンタにも来てもらう。私も! 樹も! ひなたも! 桜さんも! 葛花も! 他のみんなみんな、幸せに生きていく世界のために、こいつで―――!」
 そう。この”ロストマンの世界”に侵入した、少女の名前こそ『本沢薫』。
 少女は―――薫は、いつの間にか盤の横に置かれていた『狐』の駒を摘まむ。
 王手まで、あと一歩。『恐竜』が雑魚を蹴散らし、『狼』はその背を守り、『黒犬』は相手の王を抑えている。あとは『狐』が穴を空けて『白犬』が突撃する。
 それで積み。積みの、はずだった。
「薫君」
 薫の打ち筋は、完璧だった。
 同時にまた、選んだ駒の強さにも不足はなかった。
 勝てる勝負だ。味方に『黒犬』の駒を揃えられた時点で、確実に取れる一番だった。
「残念だけど、あの日々はもう終わってるんだ」
 唯一の誤算は、駒の中に”当人の味方ではないもの”が混じっていたこと。
 懇願、憧憬、希望。薫が描いていた、誰一人として欠けることのない未来。
 ただ、みんな揃って生きていきたい。それだけの想いだったのに。
「うそ……何で?」
 たった一人だけ、薫と魂で繋がっていなかった駒。
 それは―――『狐』。
 遠藤八代を象ったその駒は、盤に触れると同時に、音をたてて粉々に砕け散った。


*



 世界が、崩れていく。
 硝子に石を投げつけた時のように、不規則にひび割れて、バラバラと落ちていく。
 終わっていく。ゆっくりと、スローモーションのように―――
「薫君。あなたはとてもいい人さ。そして同時に、極端なまでに卑怯でもある」
 色を失い、形も失い、暗闇の中に沈んでいく町。
 崩壊は遠景から、少しずつこのカフェへと向かっている。何もかもが砕け散り、全てを失ってしまうまで、あと三十秒もないだろう。
「それはある意味でさ。最も人間らしいといえると思うんだよね。人っていうのは時々、凄く優しくもなれるし、凄く残酷で利己的にもなれる」
 カフェのすぐ前にある横断歩道も、今まさに亀裂が入った所だ。
 そして、その横断歩道の向こうには、一匹の狐がいる。
 ぼさぼさした青毛の狐。太腿の辺りの毛は、白いブチ模様で点々と染められていて、まるで洗濯に失敗したジーンズのようだ。
「だから、泣いたり笑ったりできる。喜びと悲しみで、人生は厚く輝かしくなっていく」
 その狐は、じっと見ている。
 絶望で声も出せず、ロストマンの独白を黙って聴くだけの、薫の瞳を。
「それが、生きていくということだ。トランプタワーに似ているね。神々しく華やかだが、とても脆いし壊れやすい。喜びと悲しみ、どちらかのバランスが偏れば、すぐに崩れて元に戻らなくなってしまう」
 その毛並みと目付きを見て、薫は悟った。
 あれは、八代だと。ここに駆け付けたのは助勢のためではなく、離別のためなのだと。
「それでもね。何とか人は、人生を形作っていく。幅の違う、不揃いのトランプしか持っていなかったとしても、何とかより合わせて誤魔化して、死よりも貴いものを得たと勘違いしたがる」
 何で助けてくれなかった? そう言いたかったが、言えなかった。
 なぜならば、薫には、その言葉を口にする資格がないから。
 “先に裏切った”のは、八代ではなく薫の方だったから。
「でも、自分には”常に一枚の”トランプしかない。喜びよりもそれを打ち消す喪失感の方が、遙かに大きいからだ。そんな自分が生きていたって、命になんの価値もないし見出しもできないよ」
 本沢薫と遠藤八代。
 共同生活の中で衝突を繰り返し、ようやく二人は偽りのない好意を持ち合い始めていた。先に想いを言葉にしたのは薫で、後は皮肉屋の八代がいつ認めるか、という所だった。
 たぶん二人はお似合いのカップルで、夫婦になれば更に幸せで理想的な、”ケンカするほど仲がいい”を体現した家族を創れただろう。
 だが、死んだ。どうしようもなく、あっけなく、余りにも理不尽に、本沢薫は死んでしまった。
 震災で倒壊した家屋から、小枝早葛花を守り、肺を木材に貫かれて逝ってしまったのだ。
 不可抗力といえば不可抗力だったし、割り切れる死因といえば割り切れる死因だったろう。
 それでも、八代は納得できなかったのだ。薫が自分自身の延命を図るのではなく、葛花を庇って死んだことを、どうしても認められなかった。
 悩んで、悔やんで……眠れない日もあっただろう。かといって葛花を責めれば、薫が命を賭けた行為を無駄にすることになるし、加害者を問い質そうにも、相手が天災である以上、どうしようもない。
 だから。八代は、全てを忘れることにしたのだ。
 あの共同生活を”気の迷いだった”と卑下することで、失ったものは小さいのだと言い聞かせた。
 辛くても。辛くても―――
「さよなら、本沢薫。もう、物語は終わりだ」
「ごめん、みんな。私……勝てなかったよ」
 薫が呟くと同時に、座っていた椅子も崩れ始めた。
 かすみ始めた視界の向こうで、青毛の狐が背を向けて去っていくのが見える。
「ごめん、八代。私、やっぱし葛花のこと、見捨てられなかった」
 泣きそうに枯れた、薫の言葉も届かない。
 最後に何かを言おうとして、だが結局何も言えずに、薫は開きかけた口を閉じた。
 まるで、それが合図だとでもいうかのように。白い光を一片だけ残して、世界の灯りがふっと消えた。


[Stumble→Stunding]


「優一。私はパトカーか救急車か、どっちかを呼ぶべきだと思うのですが」
「……。でなければ、叩き起こすために院長を呼ぶか、しかないかな。うーん」
 午前十一時五十五分、メンタルクリニック『プラント』。
 その二階、簡素な作りの事務室で、男一人と女一人が難しい顔をしていた。
 まず一人目は、いかにも優男風な長身の男性、土屋優一。この病院の臨床心理士で、午後からの診察に備え、早めの昼食を取って出勤してきた所になる。
 もう一人は、怜悧で端正な顔をしかめる、ノースリーブの黒セーターを着た女性。非常に長い腰まである黒髪と、それを留めるオレンジのリボンが印象的な彼女は、名を芹花・ルシアン・グッドヒューマンという。彼女は診察室に設置された、プラント育成のためのベランダを手入れするため、朝一番から出勤するのが常だった。
「しかし、まあ。本当によく寝ますね、”この子”は。ラムネか何かと間違えて、よろしくない薬でも飲んだのでは?」
 本日は十二月の暮れながら、晴天快晴の視界良好で風もなし。
 春かと勘違いするような陽気で、特に異常は見当たらない、健康的な一日だ。
 そう、余りにも健全で平和な一日。かといって、それが過ぎると、人は怠惰だの休みボケだの、春眠暁を覚えず、というような状態になり、色々と問題になったりもする。
「……。ふがっ」
 さしあたって、その問題の一つが”これ”だ。
 二匹のゴールデンレトリバー、『シロ』と『ユウ』に挟まれ、幸せそうな顔でソファーに寝そべる少女。
 名を、小枝早葛花という。耳のように跳ねた癖っ毛、尻尾のように束ねた後ろ髪、人懐こそうな表情と、ある意味では左右の犬よりも”それっぽい”。
 角度によっては小学生にしか見えないこの少女。実はもう二十二歳という年齢なのだが、外見よろしく子供らしい態度で、朝の八時から熟睡中。
 個人経営のクリニックとはいえ、ここは列記とした精神科医を有する精神病院。薬の処方もすれば、それをその辺りに置いておくケースもあるわけで、“何かヤバい睡眠導入剤でも菓子と間違えて食ったんじゃないか”というのが、目下の問題になっていた。
「ん……ふぉあ……」
 八ヶ月ほど前からクリニックに勤務し始めた葛花だが、勤務態度は概ね良好。呆れるほどの前向きさと根性、そして大きな包容力で、科学的に立証された薬物・精神の両療法を越える成果を叩き出している。
 しつこいぐらいの向上心を持つため、誰にでも好かれるという訳ではないが、最終的には相手に自らを認めさせてしまう。不思議な魅力をもった少女だった。
「まあ、うん。あと三十分弱あるから……それまでに起きなかったら、僕が起こすよ」
 問題は”意地っ張りがすぎる”こと。
 基本的には真面目で柔軟なのだが、一度、心に何かを決めてしまったら、貫徹するまで絶対に挫けない。それが衝突を生み、患者達に罵倒され、張り倒され、刃物で襲いかかられたことすらあった。
 あったというのに―――諦めない。
 立ち向かい、挑みかかり、胸を張って腕を突っ張って、相手に「ありがとう」と言わせてしまう。
「ま、彼女も疲れてるってことで」
 病院側としてはもっと穏便に進めて欲しいのだが、成果を出している以上、なかなか強く言えないのが現状だ。
 それに―――優一個人としてはよくない傾向だと戒めているものの―――彼女を見ていると、思わされてしまう。
 もっと、見ていたいと。
 どこまで行くのか。どこへ辿り着くのか。その歩みが何を求めているのか、見守っていたいと。
「いいのですか、優一。ハルシオン程度なら眼も覚めますが、数種類の精神安定剤を服用し、かつ大量に摂取していた場合、死に至る可能性もあります」
「さらっと怖いこと言うね、君は……まあ大丈夫だよ。もうすぐ院長も来るし、ほら」
 無表情で爆弾発言をする芹花に苦笑しつつ、優一は親指で葛花を指して見せる。
「きっといい夢でも見てるのさ。あんな笑顔でいるぐらいだからね」
 優一の親指の先で寝ている、小枝早葛花の笑顔。
 それは、天使でも真似はできないだろうというぐらい、輝かしい幸せ色に染まっていた。


[again S tant Elixirs]



 たぶんその時、私はとても間抜けな顔をしていたと思う。
 口はだらしなく半開き。「ほえっ」とか、そんな阿呆なセリフも飛び出していた気がする。
「ん、どうも」
 言い訳させてもらうが、それは仕方のないことだった。
 だって、そうだろう。
 何もかもが終わり、私の―――本沢薫の物語は潰えた。そう絶望した瞬間、その全てが希望に変わったら、誰だって”ぽかんとする”に決まっている。
「葛花……何で、ここに」
「いや、別に。私がどんな夢を見ようが、基本的に私の自由だと思うんですが」
 犬耳のように跳ねた横髪。尻尾のように束ねられた後ろ髪。
 中学生とも取れるような、あどけないを通り越して幼いまでの容姿。
 吹けば飛ぶような小柄な体躯。けれど、内に秘めた意志は、誇張でも何でもなく”誰よりも”強い。
「何とか会えましたね、薫さん。もう大丈夫ですよ、この人とは、私がキッチリ話をつけます」
 生きた者がこの町に辿り着く、という奇跡。
 それを”何とか”の一言で一蹴し、微笑んでみせるこの人物こそ、私が最も会いたかった人物だ。
 名は、小枝早葛花。私の親友で、姉で、妹で……家族愛も異性愛も越えた、最愛の人。
「さてと。とりあえずここからは、私がお相手しましょうか、真介さん」
 彼女は当然のように交代を宣言すると、「よっこせらせ」と声をあげ、隣の卓から一つ、椅子を持ってくる。背の低い葛花には、やや高めの椅子に苦労しながら座り、斜め向かいに座る真介に向って、挑発するように”にっ”と笑って見せた。
「……。まさか、君が出てくるとはね。でも、何も変わらないよ?」
「何がですか? ていうか私、いまだにこれが夢なのか、それとも何か別のスピリチュアルな世界なのか、判別がつかないんですけど」
「どっちでもいいさ。もうすぐ終わる所だ」
 “ロストマンの世界”に対する、小枝早葛花の乱入。
 それは一時的に町の崩壊を止め、ロストマンに僅かな驚きの表情を浮かべさせはしたものの、結局はそれ止まり。いくら葛花の意志が強固だろうと、既に結果の出た勝負を覆せるわけではない。
「自分の人生って何? そう考える人はごまんといるね。でも、行動に起こす人は一握りしかいない。そうだね、人生は過酷で、肉体の全盛を保てるのはせいぜい三十年。その三十年すら、レールを外れないためには、自らの欲求をセーブして、個性を制限し続けなけりゃならない。ままならないよね」
「はあ、まあ、そうかもしれませんが」
「自我を抑えられ、毎日を忙殺される中、幸不幸に関係なく死という”時間切れ”は近づいてくる。みんな気付いてないだけなんだよ。本当は、人はみなロストマンなんだ。生きていく中で蓄積される喜びより、死に至るまでに積み重なる絶望の方が大きい。だったら、最初からない方がいい。そう思うのは、至極当然の成り行きじゃないかな?」
 煤けたガラス玉みたいな眼をして、切々と語るロストマン。
 彼の言い分は極論だが、あながち間違いでもない。
人生は、辛い。喜びというのはいつか慣れ、色褪せていくものだが、苦しみというのはいつまでも鮮明なまま残る。結果、プラスよりマイナスが蓄積されやすいのは、仕方のないことなのだ。
「ごめん、葛花……あんまりうまく説明できないけど……その、私。負けちゃったんだよ」
「はあ。この将棋みたいなやつにですか?」
「うん……みんなの個性、勝手に賭けて勝手に負けちゃったんだ。本当に、ごめん」
 謝っても、謝り足りないのは解っている。
 そう。葛花は頼りになる親友だが、決して神ではない。
 待ったの効かない盤上で、既に積んだ趨勢を覆すことなど、ロストマンにさえできないことなのだ。
「ん。つまりこの勝負を何とかすればいいんですよね」
「何とか、って無理だよ葛花。あと一手で積みなんだよ? それにさ、解らないかもしれないけど、この駒達は」
 どうせ訪れる終焉なら、早く楽にしてほしい。
 諦めも手伝って、私が投げやりな言葉をかけた時だった。
「解りますよ」
 ぼそり、と葛花がつぶやき、口元に笑みを浮かべたのは。
「解らないわけ、ない。これは皆なんだって。伝わります、ちゃんと」
 ……たぶん。
 私は、ぼけていたんだと思う。
 二年間、仲間達と離れ、どこか勘違いしていたんだと。
 そう。忘れていたのだ。小枝早葛花という人間に、”不可能”とか”無理”だとか、そんな言葉は欠片も通用しないのだっていうことを―――
「無理なことなんて何一つないんです。この勝負だって負けない。だってほら」
 悪戯っぽい笑みを葛花が浮かべ、何もかもが乗っかった盤を持ち上げるまで、約一秒。
 停止の声をかける暇も、腕を掴んで制止する隙もない。
「よい……しょっと!」
 陽気な掛け声と共に、葛花は盤をぶん投げる。
 紙飛行機でも放るような気楽さで飛ばされたそれは、緩やかな放物線を描いた後、華々しい音をたて、思いきり地面に激突した。


[See Ya]



「「なっ……!」」
 私とロストマン、それぞれ声を上げたはいいものの、次の言葉に繋がらない。
 言いたい事がありすぎて、逆に形にならなかった。
「あ〜、意外と重かった。いけませんね、どうも体がなまってるみたいで」
 ロストマンにも、私にも、理解不能な光景だった。
 あの盤上に乗っていたのは、今までの人生で積み重ねた何もかもだったはずなのだ。どんな大金より重く、どんな名誉より尊い、”自分はこの為に生まれてきた”という答え。
 恐らくはそれを得るために、最も苦労したのは葛花だったはず。身体化障害による差別、母親からの近親憎悪。幾多の困難を乗り越えて、ようやく手に入れた個性。
 それを。葛花は、自らの手であっさり壊してしまった。
「あ〜スッキリした。というわけで終わりですよね? あーそれと何かお腹減ってきたんですが、ここって何か食べ物とか出るんですかね。猛烈に麺類が食べたいんですけど」
 本人は飄々としており、笑みさえ浮かべてお腹をさすっている。
 “紙屑が邪魔だったので丸めてぶん投げました”みたいな、そんな態度だ。
「ちょ、ちょっと葛花! ちょっ、幾らなんでも」
「―――何をしたか解ってるのか!? あの盤を壊すっていうことが、何を意味するのか……!」
 私の言葉を遮って、葛花を怒鳴りつけるロストマン。
 この人が、こんなにも感情を表すのを初めて見た。冷静沈着の塊みたいなロストマンが動揺するのだから、私の方はそれはもうパニックなんかを通り越して、”ああこうして人間くさい顔をすると葛花と似てるなあ、兄妹だなあ”とか、そんな場違いな考えしか浮かばなくなっていた。
「ええ、もちろん。あの盤は、私達の世界。それぞれの駒は、私達の個性。それぞれが砕けて壊れてしまった以上、私達は死んだも同然でしょう。平たくいえば、”ないことになっちゃった”ってことですよね」
「そこまで解っているなら、どうして―――!」
「いや、どうしても何も。決まりきってるじゃないですか」
 砕けた盤の残骸の辺りに屈み、葛花は欠片を拾い上げる。
 透き通り輝く破片は、元は一体誰のものだったのだろう?
 既に判別は不可能になっており、元通りに組み上げることなど、とてもできそうにない。
「これはうーん、ひなたさんかな? 樹さんぽくもあるけど」
 でも、なぜだろう。
「まあ、誰かではあります。ほらね? 形は壊れてしまったけど、私達の”元”は残ってる」
 私は、なぜか。
 “これでよかったのだ”という気持ちになり始めていた。
「これから何度、宇宙が壊れて始まるのか解らない。地球が存在する物語もあれば、存在しない物語もあると思う。でもね? 薫さんが望む都合のいい世界も、真介さんが望む何もない世界も、それはただの嘘っぱちだから。真正面から挑まない、好都合な上塗りをしただけの世界に、魂なんて宿るはずがないから。だから、ぶっ壊しました。何もかもを最初から、再び積み上げていくために」
 東の彼方が、もう明るい。
 あれほど絶望的だった夜のはずなのに、今では名残惜しいぐらいだ。
「何億回繰り返したっていい。それで足りなければ、何兆回でも。この欠片達が、再び私達の形になるまで、何度だって繰り返してみせる。挑み続けます。今度こそ、誰も死なない物語に辿り着くまで」
 なぜだろう。
「ロストマン? 生きていることその物が不幸? “だから何”って感じですよ。諦めたい人だけ諦めればいい、私は私の道を行くし、きっとまた、生きてて良かったっていう証を見つけることができます。だって、ほら」
 悲しくないのに、涙が溢れて止まらない。
 白み始めた世界はすっかり元通りになって、曇りガラスの車両もちらほらと行き来し始めた。
「私は知ってしまったから。どんなインスタントな物語にでも、生命は宿るということを」
 また、朝が始まる。
 突き刺さりそうなほど鮮やかな陽を背に、葛花はうんっと背伸びをして―――


*



「じゃ、行きますか」
 葛花が差し伸べた手を、本沢薫が戸惑いながら握る。
 二人は姉妹のように仲良く連れ添って、東側の歩道を歩いて行った。
 腹が減っていた、というから、何か飲食店でも探すつもりなのだろう。今いる場所も、これから向かう先もわからないくせに、葛花は物怖じすることなく歩を進めていく。
 一人、カフェテリアに残されたロストマンは、呆けた顔で二人を見ていたが、やがて不満そうな顔をして椅子に座り、再びラジオを聴き始めた。
 口元には、苦笑のようなものが浮かんでいるような気がしたが、彼がすぐに手元にあったコーヒーカップに口を付けたため、よく解らないまま隠れて見えなくなってしまった。
「それで―――……今日は……行きますか?」
「いやホント……―――しないんだから、んとにさ」
「ああ、じゃあ久しぶりに………でも食べたい……さんの手料理を越える一品には出会ったことが……」
 少しずつ、葛花と薫の姿は遠くなっていく。
 声も部分的にしか届かず、何を言っているのか、きちんとは聞き取れない。
 目の前の信号を向こう側へ渡ってしまえば、全く行方など分からなくなるだろう。
「……あ、そうだ。一つ、言っておきますけど」
 丁度、一陣の疾風が吹いたその瞬間。
 なびく後ろ髪を左手で押さえながら、小枝早葛花が振り返った。
 彼女は見ている。何一つ迷うことなく、ピントを外さずにこっちの方を。
「また、いつか」
 またいつか。
 そう言い残して、葛花は再び前の方に向き直った。
 そして、横断歩道を渡って歩いて行く。街路樹の植えられた公園を過ぎ、二件のコンビニと郵便局を右側に迎えて、そのまま工事途中の建築物が建つ曲がり角の向こうへと消えた。
 春も終わりが近いのか、一陣の旋風と共に散るのは、花びらではなく青々とした若葉。
 それは大地を走り、町の気流に巻き上げられ、高く、高く、空の彼方へと昇って行った。


[Thanks for reading]