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ひぐらしのなく頃に−こけら落とし編
ひぐらしのなく頃に
こけら落とし編





[This MurMur…]



 惨劇のこけら落としを始めるその前に。
 どうか知っていて欲しい。
 憎悪に狂った仮面の下には、血塗れの優しさが隠れていた事を。
 どうか知っていて欲しい。
 狂気に走った仮面の下には、尊い義心が滲んでいた事を。
 どうか知っていて欲しい。
 ただ独り、この劇場で嘘をついたその人は、愛のためにその言葉を選んだのだという事を。


[7/26(火)・AM9:15]



『皆さんおはようございます、今日もやってきました歌うデイライト―――』
「なっはっは……この時間帯は駄目ですね、どれも」
 苦笑と共に鈍い声を出すと、腹の出た中年男性はチューナーを思いっ切り左に回し、耳障りなジングルを流すラジオ番組を止めた。
「何だっていいですよ。それより安全運転でお願いします、大石さん」
「はいはい。まァ、覆面とはいえ一応は警察車両ですからねえ。最低限の所は解ってます」
 ちっとも解っていないような調子ではぐらかすと、大石と呼ばれた男性はギアをニュートラルに入れて、交差点の赤信号で車を止めた。いかにも重そうな足でブレーキを踏み付けながら、空いた手で胸元をまさぐり、『ウルトラマイルド』なるロゴの書かれた煙草を取り出して口に咥える。
「あ〜……すいませんが石本君。火を点けて頂けると嬉しいんですけどねえ」
「あのね、大石さん。ここはキャバクラじゃないんですよ?」
 動向のゆったりとした大石と違って、石本と呼ばれた女性の口調は攻撃的だった。
 外は陽炎がアスファルトをぼやかすほどの猛暑だというのに、長袖のブラウスの上にかっちりとしたスーツ着て、そのうえ汗の一滴もかいていない。
 元々なのか寝不足なのか、目の下にできた濃いくまが特徴的だった。
「これでも既婚者なんですけど、私。次からはチャージ料取りますからね」
 石本は切れ長の目を横に向けてそう言うと、ライターを取り出して火を点けた。
 照りつける炎に炙られて、左薬指のダイアモンドリングがゆらりと輝く。
「いやあ……手厳しいですなあ。まあ、世間じゃカカア天下の方がうまくいくらしいですが」
 ぱふっと白煙を吐き出してから、大石は青に変わった信号に伴ってアクセルを踏んだ。
 名をそれぞれ、体格のいい男性が大石蔵人、身なりの硬い女性が石本梢という。二人とも興宮署の刑事で、年齢こそ親子ほど離れているものの、何かとお互いに馬があった。
 “暴力・理論”というスタイルの違いはあるものの、攻撃的な性格が一致するのだろう。半年前に石本が刑事課に配属されてからは、研修も兼ねて大石が面倒を見ることが多かった。
「しかし石本君、そんなに厚着で暑くないんですかぁ? 私はもう暑くて暑くて。なっはっは、余っちゃってる肉じゅばんのせいですかねえ」
「私は刑事であると同時に国家公務員ですから。志と同時に身なりも硬くあるべきです」
「なっはっは! まるで私に言われてるようで……いやいや、心苦しいですねえ」
「言ってるんですよ、遠まわしに“あんたデブ”って。自覚を持ってください」
 軽妙な応対をする二人を乗せて、車は興宮の県道を抜け、交差点を右折した。
 道幅も広く、繁華街といった風だった町並みが、一転して低い屋根の連なる閑静な住宅街に変わる。細い小道に注意して十分ほど進むと、やがて目当ての青い表札がその姿を現した。
 『メンタルクリニック雪川』。地味なゴシック体で書かれた表札の横を通り過ぎ、駐車場で綺麗にターンを描いてバックで停車する。手狭なスペースは数台の車を止めるのでやっと、といった所だが、休診日な上に朝方という時間帯のせいか、駐車している車は一台もなかった。
「いやあ〜……暑いですねえ。こんだけ暑いのに、なんで私の腹は引っ込まないんですかねえ」
 ドアを開け放った途端、むわっと熱気が染み込んできて、大石は露骨に嫌そうな顔を見せた。
 額にさした手傘で日光を遮りつつ、のそのそと裏口の方へ向かって歩き出す。
「正面から入らないんですか? ここの院長はご友人と聞いていますが」
「んっふっふ。おはよう逮捕ごっこですよ、ごっこ」
 怪訝そうな石本の声がかかるが、大石は飄々として明言を避ける。
 今、彼らが訪れている建物は、およそ十年前に出来た簡素な精神病院だ。大石はふざけて早朝逮捕などと言っているが、この病院に対して何か容疑がかかっている訳ではない。
 約一ヶ月前に起きた、『雛見沢連続怪死事件』。四年連続で祭事と共に殺人、失踪が重なるという悲劇に対し、警察は何ら確定的な手がかりを得られないでいた。
 それぞれの事件は個別に解決しているものの、必ず翌年には同じ惨劇が繰り返される。四年前のダム廃止運動から毎年毎年、“綿流し”と呼ばれる祭りの日に、一人が死んで一人が消えるのだ。
 今年もダム賛成派だった人間の親戚が死に、その甥が失踪した。甥は容疑者の最有力候補で、逮捕まであと一歩という所まで追い詰めたが、手錠をかける日を待たずに、彼は雛見沢の村から消えた。
 代わりに逮捕されたのが、『覚醒剤中毒の精神異常者』だ。しかもその異常者は、大石らの介入を待つこともなく、犯行を自供した数日後に留置場で自殺をはかっている。
「ポポン、ポポンの、ポポン……っと」
「何してるんですか、全く。そんなに連打したら相手の迷惑でしょうに」
「い〜んですよ。二、二、二の中休みで、ローカル役満の“アル中”でしょ? 雪川君との遊びでねえ、このチャイムの押し方をしたら私ですよ、という風に伝えてあるんです」
 牌をつまむ仕草をしながら、大石は不規則にチャイムを鳴らした。
 実際のところ、大石はここの院長とそれほど親しい訳ではない。付き合いが深かったのは、刑事事件の精神鑑定を多く勤めていた先代とのこと。代替わりした二代目は、生真面目という以外に面白みのない人物で、意図的ではないにせよ大石とは疎遠だった。
 だが今は、藁にでも縋りたかった。浅い縁だろうと頼りない若輩だろうと、叩き起こして焚き付けて、何が何でも真相究明に迫らなければならない、という思いがあった。
 それは刑事としての使命感でもあるし、初年の犠牲者に思い入れを持つ、大石個人としての復讐心でもある。
「そんなところまで麻雀漬けですか? 全く、どこが刑事なんだか、貴方という人は」
「いやあ。まァ……あれです。悪を治めるには悪を知らないといけないもんで」
 でなければ。善良なままでは、この町に巣食う闇に食われてしまうから―――
 そんな言葉は飲み込んで、大石は額の汗を拭う。
 誤魔化すように「なっはっは」と笑って
「それでも刑事としての魂だけは、まだ残ってると信じたいですがねェ」
 と、小さな声で付け加えた。


 すらりとした長身でありながら、威圧感を微塵も感じさせない、生きていること自体に引け目を感じているような、気弱で生真面目そうな青年男性。
 それが、精神科医にして大石の友人である、雪川桐仔(ゆきかわきりこ)に対する印象だった。
 彼は大石と石本の二人を診察室に案内すると、わざわざ自分から椅子を引いて、へこへこと謝りながら着席するように勧めてくる。大きめのデスクには、ご丁寧にも紅茶と茶請けが備えてあり、手狭だが清潔で日当たりのよい室内の風景もあいまって、まるでどこかの喫茶店か何かのようだ。
「ははは、いやわざわざすみません。事務所を使いたいんですが、あそこは狭いもので」
 眼鏡のツルをかけなおす、その動作まで頼りない。
 柔和を越えて脆弱なまでの佇まいに不安を感じたのか、早速気の強い石本が口を挟んだ。
「ちょっと、大石さん。大丈夫なんですか、こんなので」
「いやあ。大丈夫……でしょ、多分。ねぇ?」
「はい、大丈夫です! こちらにお任せください!」
 妙な一人称で胸を張りながら、軽く胸を叩いてみせる雪川。
 はっきりいって、全くアテになりそうにない。
「ダメじゃん……。こいつ、ニフラムで即消滅レベルのカスですよ」
「か、カスってそんな。いやすいません、本当に」
「そのすぐに屈する態度が信用できないと言ってるんです。いわゆる“悪”に迫られた時、恐怖に負けて我々を売ってしまった、という展開では困ります」
 刺すような石本の毒気にあてられて、雪川は困ったように頭をかいた。
 暫く助けを求めるように、ちらちらと大石の方を見ていたが、やがて観念したのか、大きく溜息を一つ挟む。そしてようやくというか、勇気を振り絞ったような感じで、一言付け加えた。
「大丈夫ですよ。こちらは正義の味方です。悪に屈するという選択肢だけは有り得ません」
 にこっ、と雪川が微笑むと、口元から白い犬歯がのぞく。
 生まれつきなのか差し歯なのか、妙に長い八重歯だ。それ以外の部分は柔和で優しげな顔立ちなので、上唇からぬっと突き出た鋭利な牙は、不釣合いな感じでとても目立つ。
「あのねえ……その抽象的な言い方が」
「ま、ま、ま。それくらいにしましょう、石本君。こうみえても雪川君、元アウトローで芯は通ってる人ですから。昔ねえ、色々とお世話したこともありましたよねぇ?」
 口論に発展しそうな雰囲気になった所で、横から大石が助け船を出した。
 どうも石本は雪川という人物が気に入らないらしく、不満げに口を閉ざした今も、目の奥で“なんでこんな奴に”という敵意をくすぶらせたままだ。
「でしたでした。その節は本当に、大石さんにお世話になったんです。ですからこちらに答えられることでしたら、何でもお答えしようと思います」
「なっはっは! その答えに私のロン牌が混じってるといいんですがね! ……で、一応確認しますが、今件の詳細については把握しといてくれましたかねぇ?」
「ええ。祟りに鬼隠し、オヤシロ様にダム問題、雛見沢と園崎家と連続怪死事件―――辺りまでは、一通り送って頂いた資料を確認してあります」
 本題に入ってほっとしたのか、デスクの向こうで浅い笑みを浮かべる雪川。
 この弱々しさで素行不良というのは考えにくいが、実際に大石は雪川を補導した経験がある。大石としては数多こなしてきた職務の一つという認識しかなかったが、雪川の方からは、それを少なからず恩として感じているようだった。
「んじゃあ……ま、単刀直入に聞きましょうかね。四年目の覚醒剤中毒者……これ、精神科医の観点からして、ホンボシだと思いますか?」
「えっと。祟りを模倣し、それを自供し、最後は自殺したという異常者のことですか?」
「ええ、ええ。そうです。突っ込んで操作したいんですが、他所の管轄な上に“もうこれは終わった事件なんだ”みたいな空気が流れてましてねえ」
 ま、あの村に関しちゃ全てに言えることですがね―――そう皮肉って、紅茶をすする大石。
 大石が指す“あの村”とは、興宮の隣にある雛見沢村のことだ。田舎独特の隠蔽気質とでもいおうか、とにかく雛沢村は結束が強く、捜査に非協力的だった。特に権力者である園崎家の影響力は強く、園崎が関わる事件は“S号”というカテゴリとして扱われ、圧力がかかることも少なくない。
 そこで大石が協力を求めたのが、外部の人間である雪川だ。一見すると関連性がないように思えるが、精神科で出す向精神薬は、麻薬そのものやそれに類似した薬品が多く、異常者に関する造詣も深い。
 雪川本人もそうであるかは解らないが、亡くなった先代は園先家と強く敵対していた。もし彼が、先代の遺志を引き継いでいるのなら、少なくとも味方になってくれるはずだ。
「んん……」
 眉をしかめて唸りながら、雪川は引き出しから小さな爪切りを取り出した。
 そして、グリップの部分で親指の爪を磨きながら、「あくまで予測の段階ですがね?」と断ってから、とつとつと語り始めた。
「個人的な見解ですが―――覚醒剤使用者が容疑者である、という確率は低いと思います」
「ほうほう。なぜですかな?」
「覚醒剤の効能は中枢神経興奮作用、及び空腹感、疲労の喪失です。因みにこの時、使用者は“頭が冴えている”という風に感じますが、実際は複雑な作業に対する能率は下がります」
「え〜……つまり?」
「簡単に言うと“ハイになって難しいことは考えられない”状態になる、ということです。ですから“祟りを模倣する”なんていう複雑なことは、実行しにくいのではないかと」
 考える時のクセなのか、雪川は答える間もガリガリと爪を削っている。
 意外にも体を鍛えているのだろうか。随分と筋が張っていて、肉の厚い手だ。
「覚醒剤使用者の犯罪率は高いですが、その殆どは薬欲しさゆえの衝動的な犯行です
「んっふ。金が足りないから隣の奴から奪っちまえ、という発想ですかな」
「まさにその通りです。殺すために労するのではなくて、力ずくで解決したら殺してしまった、という流れになるはずなんです。最も混ぜ物に幻覚剤なんかが入ってるなら、自分を英雄や神様―――雛見沢で言えばオヤシロ様ってヤツですか? それと勘違いして、祟りを実行するなんてこともあるんでしょうが」
 そこまで一気に喋り切ってから、雪川は深呼吸を挟んだ。
 削りすぎで白くなった爪に、ふっと息をかけてカスを飛ばす。そして
「……笑ってもらってもいいんですけどね?」
 自信なさげに苦笑して、それから真面目な表情を作って口を開いた。
「園崎家のことは、興宮在住ですから耳にしてます。そして精神科医ですから、エフェドリン絡みの麻薬ルートも、園崎組の関与についてある程度は予測がつきます」
「なっはっは。これはまた、はっきり言いますねぇ。まさか園先組の手先だったりして」
「あはは、ないない。三下どころか組織に組み込んですらもらえませんよ」
「いやいや、冗談が過ぎました。……それで?」
「ええと。これ、秘密にして下さいね。雛見沢の患者さんも時々うちに来るんですが、彼らは必ずと言っていいほど“同じ病状”を発しているんです」
「同じ病状?」
「はい。DSM分類―――あ、精神病の性格判断みたいなものだと思ってください。で、それだとAタイプ……ま、早い話が疑心暗鬼で攻撃的という分類になるんです。ほぼ必ずね」
 “攻撃的”という単語に反応したのか、今まで大人しかった石本の目じりがぴくりと釣り上がる。
 表面上は黙っているものの、石本の表情は異様に厳しい。今にも掴み掛りそうな目つきをして、雪川をにらんでいる。
 それを肩で制しながら、大石は続きを促した。
「それでね? この前うちにいらっしゃった……え〜、守秘義務がありますから、仮にレナちゃんとしましょう。そのレナちゃんもそうでした。緊張状態では極度に攻撃的になり、幻聴とせん妄が見られ、かつ強力な疑心暗鬼に囚われています」
「ふむぅ。何となく想像はつきますが、まあ知らないということにしときましょう」
「それでね。ここから先は信じなくてもいいんですが……雛見沢から来る患者さんのうち、五割が同じ幻覚、幻聴を体験しているんですよ。“オヤシロ様が後をつけてくる、足音が聞こえる”って」
「ほーお……」
「つまり結論を言いますと、背後にとある統一された意志が働いていて、雛見沢の人間を精神病に見せた何かで操っているのではないか? というのがこちらの推測です。そして深度に応じて、オヤシロ様への信仰心が高まり、同一の幻聴や妄想を体験しているのではないかと」
 思い当たる節でもあるのか、大石の目付きがぎらりと細まる。
 同じ事を雪川も考えていたのか―――彼は大きく頷いてから、硬い声で締めくくった。
「園崎家が開発した新薬による事件扇動、及び隠蔽。それが、最も可能性の高い線だと思います」



[7/26(火)・AM11:28]



 ハート型の持ち手をしたデミカップを取って、ゆっくりと朱色の唇を近付けた。
 縁に濃い口紅の痕を付け、体温の通わない器物と浅いキスをする。エスプレッソの香りを楽しむように目を閉じて、ファミレスチェーン店にしては座り心地のいい椅子に背を預けてから―――石本は、思いっ切り毒舌を吐いた。
「うん。ドブ川を飲んでる気分です。底のドロドロしてるあの辺り」
「……もう少し何とかなりませんか、その口調。私ゃこれでも面の皮の厚い方ですが、あなたを見ていると“もっと強気に生きてていいのかな?”という勘違いをしちゃいそうです」
「いいのでは? どんなに頑張ってみても、私はそこまで腹の皮を厚く貼れないし。胸のでかさと面の皮の厚さぐらい、私に勝ちを譲っておいてください」
 強面で通る大石にさえ、平然とした顔で悪態を吐きながら、石本はエスプレッソをあおる。
 ファミリーレストラン『エンジェルモート』。近場ということで味には期待せず入店したが、思ったよりは上出来だといっていい。
 最もその味を楽しめているのは大石だけで、ダイエットなのか趣味なのか、さっきから彼女が頼むのはコーヒーばかりだ。飲むごとに聞くに堪えない暴言を連呼するので、大石はその度アンチョビピザを口に運ぶ手を止めなければならなかった。
「なっはっは……少しだけですよぅ? んですが正味の話、少しだけ熊ちゃんの気持ちが解りました」
 いつも諌め役に回る相方の名を口にして、大石は呆れ顔で首を振った。
 石本の面倒を見ている間、成長著しい熊谷は別件に当たってもらっているが―――彼女が一人立ちしたらしたで、新しく熊谷の心労が増えることになりそうだ。
「ま……いいですけどね。あなたのそういう根性モンな所、私ゃ個人的には認めてます」
「それはどうも。一応これでも準キャリですから、もし大石さんの定年までに、貴方より上に立てたら厚遇してあげますよ」
 悪びれずにそう言うと、石本はまたコーヒーを一気飲みした。
 この不遜な態度を叱りつけ、頭を叩いたことは何度もあるが、彼女は一度たりとも折れなかった。威風堂々としたままで、叩かれることは誇りであると主張せんばかりに、思いっ切り張り手を返してきたものだ。
「さて。いざコーヒーも四杯目という前に、雪川君のコメントについて君の見解を聞いときましょうかね」
「雪川? ああ、あの虫けら一号ですか」
「んっふっふ。この際呼び方は何でもいいです。私としては信憑性の高い説―――少なくとも可能性として、真相に何らかの形で接触してる説だと思うんですが、どうですかね?」
 “園崎家の新薬投与による事件操作”。
 それが、精神科医である雪川桐仔の導き出した結論だった。幾ら巨大な財閥とはいえ、田舎の旧家が二千人を越す村一つを支配する、というのは非現実的な話だ。だがそれは園崎を“家”と考えるからなのであり、もっと広い視野で“国”として捉えれば、見方はまるで違ってくる。
 園崎家が単なるコンツェルンの枠に収まらない最大の理由は、その土壌を暴力団としている点だ。表の顔である園崎家を『政府』とすれば、裏の顔である園崎組は『軍隊』であるといえる。
 人の力の中で最も強いのは、“戦争する力”だ。戦争には最高の技術に最高の投資がなされ、また相手を倒すという大義の元に、倫理という制約を取っ払うことが出来る。
 そして、それを助長する雛見沢という閉鎖的な空間―――
「あの家は何でもありです。少なくとも、外からはそう見える。真正面から切り崩すのは難しくても、麻薬から背後関係を洗えば、本家に踏み込む糸口になるかもしれません」
「ハハッ、あの虫けらはルート開拓の囮って事ですか? いっそのことマイトでも背負わせて、人間爆弾にすりゃいいのに」
 大石さんも外道ですねえ、などと笑いながら、石本はブラウスの襟元を締め直す。
 “囮”という言葉を避けた大石と違って、石本の感情はストレートだった。庶民の人権を無視した発言で、本来なら許されるべきではない。
「んっふっふ……ま、その辺りはご自由に。ねェ?」
 だが、刑事としての大石は、彼女の発言を否定しなかった。
 無論雪川を見殺しにするつもりはないが、餌にする予定を覆す気もない。もう、大石もいい年だ。定年までの猶予はなく、かといって解決の糸口もない。
 なければ探すのが普通の刑事。探してもなければ作るのが鬼刑事―――。つまりはそういうことだと、大石は思っている。
「ワルですね。大石さんもなかなか」
「いやいや。私は正義の味方ですよぅ? ただちょーっとね。相手が強大で手段を選べないだけです」
「どの口が言うんだか。ま、いいですけどね。決意の伴わない正義は、傍観者と同じく小さな悪だと私は思っています。その刑事魂だけは尊敬していますから」
 相変わらず強気ながら、やっと澄んだ目を見せる石本。
 意外にもそんな仕草を見て、大石はほっとしたような顔をする。
「いやぁ、頼もしいことです。ぶっちゃけた話、こう見えて私も人間ですから。誰かを疑わずにいられない職だとしても、“刑事”という仲間と魂だけは、疑わずに信じていたいんです」
 ほんの少し。
 ほんの少しだけ、疲れて見えたその横顔は。
 きっとこの老刑事における、見まごうことなき素顔と本音に違いなかった。夏の日に晒されて浮きだったシワと、店内の空調にそよぐ白髪が、彼の心労を雄弁に証明していた。
「……やれやれ。お年よりはこれだから」
 相変わらず大石を小馬鹿にしながらも、目を細めて優しい声をかける石本。
 彼女は足早に席を立って、未だにピザを食べかけの大石の前に、ぽさっと伝票を投げてよこした。
「そんなお年寄りのために、ちょっと私が調べてきてあげますよ。なーんとなく、心当たりがあるもので」
「はあ。どちらに?」
「さーあねえ、どっちでしょうね。ははは、ただ勘定を驕らせたいだけかもしれませんね!」
 照れ隠しなのか本音なのか、手短に切って彼女は店内を去っていく。
 ドアをすり抜け、出て行こうかという時、ひょっこりと顔だけを出して「私もあなたのそういう所、嫌いじゃないですよ」と言い、少しだけ頬を赤らめて手を振った。
「はは……あと二十年若かったら考えるんですがねえ」
 ふ、と溜息を吐いて、大石はゆっくりと残りのピザを口に入れた。
 外の日差しは、いよいよもってその高さと輝きを増している。
 どうやら午後は、とても暑い一日になりそうだった。


 そして―――その日の夜。石本は、最後まで帰ってこなかった。
 次の日も、また次の日も、彼女の席は空いたままで。
 ようやく三日後の朝になって、彼女の代わりとでもいうかのように、結婚指輪が送られてきた。
 根元から荒く切り取られた、左手薬指を含む肉片と。
『これ以上近づけば 貴様らに祟りを下す』
 という、無骨なメッセージ一枚と共に―――。


[7/30(金)PM1:02]



 とても強い雨の振る、七月の午後だった。
 黒く染まった空は連綿と滴を流し、叫び狂うように稲光を轟かせる。窓の外は薄闇に覆われ、既に日が落ちてしまったのではないかと錯覚するほど真っ暗だ。
 曇天と豪雨で視界が悪いせいか、外を通る車の殆どがライトを点けたまま。飛沫に光を屈折させて、ぼんやりと蛍火のような残光を残し、此方から彼方へと滑っては消えていく。
「……。涙のようですね」
「涙ですか。私にゃ、うっとうしい空模様にしか感じられませんがねェ」
「はは、感傷的になりすぎました。それではお話を聞きましょう、大石さん」
 眼鏡のツルを直しつつ、窓外の景色から目を放す雪川。
 背を向けたままでは失礼だと思ったのか、振り向いて浅く一礼し、ゆっくりと着席する。
 メンタルクリニック雪川の診察室にて、数日前と同じくデスクを挟んで一人と一人。卓上には相変わらず紅茶と茶請けのクッキーが添えられ、雪川の趣味なのか爪切りも無造作に置かれている。
 いつか対話した時と、殆ど同じ状況。だが今ここに、石本梢の姿はない。
 そして二人の間に流れる空気も、友人同士の柔らかなそれではない。刑事としての大石蔵人なればこそ見せる、ざらついた刃物のような威圧感が、挙動から感じ取れた。
 石本梢の失踪から、既に四日目。
 署員の懸命な捜査にも関わらず、進展は一向にない。送られてきた指は愉快犯のイタズラかもしれない、というのが唯一の希望だったが、照合で一致を見せた指紋は、そんな淡い希望を見事に打ち砕いてしまった。
 熊谷には園崎家を洗わせているが、例のごとくこけらの一片すら出てこない。そんな状況で、石本と接触した雪川を疑うのは、刑事としては当然の流れだといえた。
「んっふっふ、まずはそうですねェ。嫌な質問と楽な質問、どっちから受けたいですか?」
「どちらでも。大石さんの職業に対して、ある程度の理解はあるつもりですから」
 雪川は頼りない青年だが、少なくとも良識という点では厚い。
 大石の訪問を快諾し、わざわざ休診日まで設けてくれた。
「なるほど。ここは感謝します、というべきなんでしょうかね」
 なっはっは! と大声で笑い飛ばし、大石は膝を叩く。
 そして、禁煙だというのに煙草を取り出し、許可も取らずに火を点けて吸い始めた。白煙が流れ、刺激臭と共に大気に混じり、立ち上って消えた時―――既に、先ほどまでの笑みは消えていた。
「じゃあ、聞きます。石本君の行方、知らないですか? もっと突っ込んで聞くなら、ぶっ殺したヤツを知りませんか、ということです」
「……直接的ですね」
 まるで鋸刃のような、不愉快で刺々しい眼光。
 責めるだけでは飽き足らない、痛みを与えることを目的に形作られたその眼つきには、とある名前を付けることが出来る。
 それは、『怒り』。
 同僚を失った怒り。正義を嘲笑う犯人への怒り。不甲斐ない自分に対する怒り。発散しようのない数々の不条理が、大石蔵人の心を捻じ曲げて、人を傷つけずにはいられない雰囲気を滲ませる。
 もし雪川が石本の失踪に関わっているとしたら、何らかの動揺を見せるに違いなかった。それほどまでに大石の口調は攻撃的で、実際に気弱な雪川は、それだけで倒れてしまいそうなほど唇を青くして震わせていたからだ。
「いきなりこんな事を言っても、信じてはもらえないかもしれませんが」
 だが。雪川が見せた感情は、動揺でもなければ怯えでもなかった。
「こちらは大石さんを尊敬しています。だからもし、こちらが諸悪の根源なら、洗いざらいの全てを話して、司法の元に裁かれてもいい」
「ふむ……それで?」
「言った通りですよ。こちらが悪なら、きっともう天罰が下っているはずだと」
 無論“悪なら”ですがね―――。
 珍しく語気を荒げて、雪川は爪切りを手に取った。
 そして落ち着かないような様子で、乱暴に親指の爪を擦り始める。
「何故なんでしょうかね?」
「はい?」
「なぜ刑事さんなんでしょうかね? この世の中には沢山の悪人がいて、それを取り締まるべき刑事さんは、見まごう事なき正義でしょ?」
 ごりごりと音を立てて、雪川の爪が白くなっていく。
 もはや削る部分も少ないだろうに、一向に動作をやめない。柄が皮膚に届き、指紋を削りはじめても、反復運動を続けたまま。彼は長い犬歯を剥き出しにしながら、苛立った様子で語り始める。
「なんで刑事さんなんですか! 世の中は悪ばっかりがはびこり過ぎて、いつも弱者が虐げられる! 私が悪なら明日にだって殺されていい、もし悪がいるならそれらが真っ先に誅殺されるべきだ!」
「……雪川君?」
「世の中の優しさや理想を、裏切るなんてあっちゃいけない! つつましくも平和に生きている人を、侵すなんて決して許されない!」
 耳鳴りが残るほど、大きくはっきりとした声だった。
 大石の尋問に対して、雪川が見せた感情は―――大石と同じ『怒り』。
 彼もまた、怒っているのだ。最も石本を拉致した犯人単体に、というよりは、事件の背後にいる黒幕や、もしくは“悪という存在そのもの”に対して紛糾しているようにも見える。
「なっはっは……なるほどねェ」
 もわっ、と煙を吐き出して、大石は背もたれに体重を預けた。
“嘘を吐く”という行為には“迷い”が付き物だ、と大石は考えている。
 もっと良い状態になりたい、もっと幸せになりたい。もっと、もっともっと―――。欲望に近づけば近づくほど、人はああでもないこうでもないと迷いたがる。結果的に途中で妥協する方が効率的でも、幸せを渇望するが故に諦めを選択できない。
 その点でいえば、雪川という人物は信じるに足るといえた。稚拙で感情的な独白は、“頼りない”の一言に尽きるが、少なくとも器用に嘘を吐けるタイプには感じられない。
「じゃあ、次は楽な質問をします。いいですかね?」
「え―――あ、はい。すみません取り乱して……」
 白煙と共に吐く台詞を緩めると、雪川も気付いたように相好を崩した。
 てれてれと頭をかいて、気弱そうに頭を下げる仕草に、なぜか大石は安心する。
「単刀直入に言いましょう。私ゃ、あなたを信じていいですかね?」
 それは、多分。
 “信じたい”からなのだろう。
 老刑事として半世紀を生きた大石蔵人の人生は、猜疑と謀略の連続だった。戦争という地獄に始まり、無能な上司との軋轢から雛見沢に対する猜疑まで。疑って疑って、嫌われて嫌われて、それでも彼は胸を張って正義を遵守しなければならなかった。
 だから、“信じたい”。清らかであることを誇り、それをまた認められたい。人は悪であると同時に、善でもある生き物なのだ。人を信じ、また信じられることで、心を満たされたいと思う欲求は、恥でもなんでもなく当然の感情だといえた。
「あはは。それはとても楽な質問ですね」
 だから、雪川の気弱さを見ると安心する。
 彼の人の良さを垣間見るたびに、信じてもいいのではないかという気になってくる。
「でも。こちらを信じないで下さい、大石さん」
 ―――だが。あろうことか、雪川は真っ向から大石の誘いを否定した。
「それは……やはり私が、人を疑う刑事という職だからですか?」
「あ、いや。違います違います! 最後まで聞いて欲しいんです、大石さん」
 大石が落胆した声を出すと、雪川は大慌てで腕を振った。
 暫く口を開閉させ、次の言葉を捜していたようだったが―――やがて、意を決したように、眼鏡をかけなおしてから席を立った。
「信じないでください、というのは、貴方の為なんですよ」
「私の?」
「ええ。こちらがこれから話すことは……多分、この雛見沢では“死刑”に値するような、大逆の言葉だからです。もしあなたがその罪に近寄れば、罰は容赦なく魂に届く火を放つでしょう」
 二、三度。窓の外を伺ってから、雪川はカーテンをひいた。
 抽象的な物言いからは、何を伝えんとするか全く解らない。だが、何かとてつもない決意を持って、重大な情報を大石にもたらそうとしていることは、口調から感じ取れた。
「大石さん。話す前に約束してください。どんなことがあっても、必ず生き延びると」
「……なっはっは。いいでしょう、この大石蔵人、曲がりなりにも男です」
「あはは。そう言っていただけると、こちらも楽です」
 糞真面目な雪川の言葉に、大石も糞真面目な顔で答えた。
 と―――急についっとそっぽを向いて、よそよそしい口調で雪川が語りだす。
「さて。こちらはこれから、独り言を言います」
「なるほど。私は関与していないことにしてくれる、ということですな」
「はっはっは。えーと……こちら雪川桐仔は、精神科医として興宮に生き、隣村の雛見沢に少なからず関わってます。そして当然、その過程で一つの名前を耳にするわけで」
 『独り言』という形を取ったのは、万一の際に大石を巻き込まないためだろう。
 上辺を繕っただけの戯言ではあるが、誰かに情報が漏れても“雪川が勝手に吹聴しただけ”という便宜上の言い訳が立つ。
「園崎。凄いお家だなあ。資産も人脈も相当なものです。もし彼らが本気になれば、計画次第では国家の転覆も狙えるかもしれません。そしてこちらは、園崎が雛見沢でとある実験をしている証拠を、偶然から“掴んでしまった”んですよね、はは」
「……!」
「っと、独り言ですよ独り言。で、この証拠、かなり確定的です。あの家のアキレス腱と言ってもいい。今すぐには用意できないですが、一言で表すことは出来る。そう……“オヤシロ様”って奴ですね」
 “証拠を掴んだ”。その余りにも確定的な言葉に、思わず大石が身を乗り出す。
 今すぐに用意できないと雪川はいうが―――もしかすると、それは持ち運べないものなのではないだろうか? 例えば鬼ヶ淵沼に毒物が隠されているとか、秘密の薬品を研究する地下施設があるとか、そういう開発環境そのものが、『オヤシロ様』というコードネームで呼ばれているのかもしれない。
「こちら、臆病ですが悪事は大っ嫌いでしてね。近々警察にタレこもうかなと。あ〜あ、どっかでこの馬鹿馬鹿しい独り言を聞いてくれる、正義感に溢れた人がいないかな……なんて。そんな独り言です」
 ぼんやりと中空を見つめ、雪川はふっと笑う。
 そして大石の方に向き直り、わざとらしい言葉で“独り言”を終えた。
「いやいや。こちら、生来考え事が表に出てしまうタチらしくて」
「んっふ。ご協力に感謝したいと思います、雪川さん。もう少しその独り言を続けて欲しいんですが、ここで具体的に名前を言うことは出来ませんかね?」
「危ないです。これが最後の呟きですが……人数が必要なものです。テロリストを相手にすると思って、少なくとも二桁の人数を集めて置いてください。こちらは明日、改めて警察に電話をするつもりです」
 依頼したら即動ける形でないと危険ですからね―――。
 硬い口調で言い切って、雪川は乾いた唇を潤すように、冷めた紅茶をすすった。
 園崎家といえば、実業家である以上に暴力団としてその名が高い。
 そんな彼らの秘密を握り、あまつさえ話してしまったのだ。見るからに心の脆い雪川にしてみれば、それは余りにも恐ろしい選択肢だっただろう。
「なっはっは。雪川君、一本やりませんか?」
「へ? あ、ああはい。ありがたく頂きます」
 大石から煙草を受け取る手は、哀れにも震えていた。
 だが誰も、その惨めな様を笑えない。こんな醜態を晒してしまうほどの恐怖に打ち勝ち、雪川は自身が正義である事を選択してくれたのだ。
「終わりに……したいですねェ、こんな事件は」
「……。はい、それは同感です」
 ゆっくりと、白煙を立ち上らせて二人。
 ほんの僅かだが、芽生えた友情を共有しあう。
「さて。そろそろ私ゃ行きますがね。明日なぜか、同僚を集めて署にいますので、直接興宮書まで電話をかけていただければ、なぜか詳細も確認せず特別待遇ですっ飛んでいきます」
 やがて。焔が煙草を焼いて灰を落とし、白煙も残り香を漂わせて消えた頃、大石がすっと立ち上がる。
 全ては明日。そんな言葉だけを残し、スーツを肩に担いで、外へ向かって歩き出した。
「大石さん」
「はい?」
「……生きてくださいと。約束しましたからね?」
 去りゆく大石の背中へ届く。
 最後の最後まで人のいい、馬鹿馬鹿しいぐらいの良心―――
「なっはっは! そりゃ君に言う台詞ですよ、雪川君」
 思わず頬が緩んでしまいそうで、大石は振り返れなかった。
 ただ片手をあげ、いつものようにねちっこく笑って、扉の向こうへ消えた。



 もし。
 もし、あの時に振り返っていれば、雪川を救えただろうか?
 もう問えない。もう届かない。そして多分、もう会えない。
 なぜならば七月三十日、大石が雪川と別れてからたったの十時間後。
 メンタルクリニック雪川は原因不明の出火で焼け落ち、雪川桐仔も失踪してしまったのだから。



[7/31(土)PM9:55]



 今、潰したこの煙草で、一体何本目だっただろうか?
 既に灰皿は吸殻の山と化しており、灰は淵からこぼれてデスクを汚している。元々、大石の机は綺麗な方ではないが、最近は輪をかけて散らかっていた。
「大石さん……そろそろ上がりませんか?」
「あぁ、いや。先に上がっててください、すみませんねえ」
 申し訳なさそうに会釈をして、一人また一人と署を後にして帰宅していく。
 それを軟弱だとか、不義理だとか追及する気は毛頭ない。既に時刻は午後十時の五分前。幾ら刑事がタフだといっても、それぞれ自宅での生活がある。むしろこんな時間まで、信憑性の薄い情報に付き従ってくれた部下の忠誠心を褒めるべきだろう。
 既に署内は人もまばらで、夜勤の刑事以外は熊谷と数人を残すのみだ。蛍光灯のじりじりとした音が、計画の失敗を促す時報のようで、耳に入るたびに不愉快な気持ちになった。
「大石さん、何か弁当とか食わないっすか?」
「んん。んー……ちょっと腹も減らないですねえ、熊ちゃん、もう上がってもいいですよ」
「いや。いやいや、いや! 俺は最後まで残りますよ。刑事ってそんなもんじゃないっすか!」
 空威張りに過ぎないだろうが、熊谷の熱意はとてもありがたかった。
 自分を信じてくれたから、ではない。彼は最後まで、“死なないで”いてくれた。それが、大石にとっては何よりの慰めだった。
 石川梢、雪川桐仔。両名の失踪に携わりながら、そのどちらをも救えなかった。死体こそ発見されていないが、石本は左手の欠損、雪川は自宅の焼失と、既に死を疑うに十分な状況が揃ってしまっている。
 オヤシロ様が関わると、全てがこうだ。毎年真相に触れながら、結局は掴むに至れずするりと逃がす。後には一人の死体と一人の失踪者だけが残り、また翌年に同じことが繰り返される。
 自分が死を運んでいるのではないか。そうとさえ思ってしまう。
 もし。もしの話だ。
 この世界に神様がいるとしたら、その存在はこの事件をどう見ているのだろう?
 取るに足らない瑣末な下界の戯言として、一笑に付すだろうか?
 下劣な罪に怒りを抱き、罰を下さんと憤慨しているだろうか?
 それとも。神様もまた人と同じように。今ここで煙草と共に苦虫を噛み潰し、己の無力さを悔いている老刑事と同じように。虚しく足掻き、必死に絶望から目を逸らしてでもいるのだろうか……?
「なっはっは……」
 誰にも、真実は解らない。
 大石も言葉少なに、笑って誤魔化して見せるだけだ。
「熊ちゃん」
「うい? なんっすか」
「……。十時になったら、引継ぎだけしてキャバレーにでも行きますか」
「あ、ああ。そうっすね! たまには息抜きも必要っすから!」
 無機質に呟いて、大石はゆっくりと席を立つ。
 来年こそは必ず―――そんな決意を歯軋りに変えて、最後の煙草を灰皿に押し付けた時だった。
「あの。大石さん。外線来てますけど……」
 夜勤の刑事が眠たげな目を擦り、受話器を抱えて大石を呼んだ。
 相手は酔っ払いか何からしく、しきりにハイハイとたしなめるような相槌を打っている。
「はァ。どちら様ですか?」
「その……ああ、はいはい、今すぐ変わりますって! ったく、なんか雪川とかいう人から、殺されるとかもう時間がないとか―――うわ!」
「そいつァ早く言って下さいよ! もしもし、もしもし!」
 倦怠感が緊張感に変わるまで、一秒もかからなかった。
 夜勤にも詳細を伝えておくべきだったと後悔しながら、大石は受話器をひったくる。同時に熊谷に指示を出し、車両を用意するよう手振りで伝えた。
『ああくそ、くそ! もう駄目だ、もう時間が……!』
「変わりました、大石です! 今どこですか、すぐそちらに車を」
『大石さん!? 雛見沢の公衆電話から―――ああ、ああくそ、見つかった! もう……!』
 紛れもない。
 顔も見えず姿も解らないが、彼の声は紛れもなく雪川桐仔本人の物。
 生きていた―――そんな安堵と喜びも半ばに、かすれ声の告白は続く。
『やっぱり、やっぱり犯人は奴らでした! 石川さんもいましたが、彼女はもう……』
「石川君が!?」
『ええ、死んでいます。ああくそ! もう……カハッ、逃げ切れない!』
 長距離を走ってでも来たのか、雪川の息は途切れ途切れで、喉が乾くのか何度もむせる。
 切迫した会話の内容からは、追跡されているであろう彼の状況が簡単に理解できた。
「何とか持ちこたえて! すぐに応援をそちらに向かわせますから!」
 大声で怒鳴りながら、大石は腹立たしげに頭を引っかく。
 口先では鼓舞するようなことを言っているが―――嫌でもわかる。
 彼は、死ぬ。雪川桐仔は、ここで死ぬのだ。
 今、細い回線の先に生きている拙い命。頼りなげながら正義を誓い、恐怖に震えつつも協力を惜しまなかった一人の青年。
 そんな人が、また死ぬ。
『あいつは……いえ、あいつらの力は大きかった。強すぎる、大きすぎる! グループなんてもんじゃあない……まるで国です!』
「雪川君! 犯人は園崎なんですか!? それとも」
『少なくとも一部はそうです。でも……解らない。何なんだ、あいつらは。何人いるんだ? ああ……くそ。もう駄目だ、戻れない……こんなことなら、もっと身勝手なことやっときゃよかった』
 もはや大石の言葉も届かないのか、雪川の言葉は本当の“独り言”のようになっていた。
 ぶつぶつとだらしない口調で呟いて、皮肉げに『ははっ』と笑う。
 そして
『大石さん』
 彼は、最後に一度だけ。
『ほんの少しの間ですが、貴方と戦えて幸せでした。こちらはこれより、この舞台から降りますが』
 元の優しげな、あの頼りなさそうな笑みが想像できる声で、ゆっくりと語り始める。
『どうか。こちらの分まで謎を解き明かして下さい。それだけが……』
 ―――ぱんっ、という爆発音。
 それから一秒ほど遅れて、受話器が何かにぶつかる音がした。
「雪川君! 雪川君!?」
 熱を持つ喉とは正反対に、大石の脳は急に冷めていく。
「ちくしょう! くそったれ! 雪川君、雪川君!」
 沸き上がる絶望を否定するように、大石はなお叫び続けた。
 雪川は園崎家に関係するであろう何者かに追跡され、今まさに攻撃を受けて殺された。至近距離からの銃撃は致命傷になっただろうし、最後の物音は、持っていた受話器が手から離れ落ちて、ボックス内の何かに当たった音だろう。
 そんなことは、嫌でも解る。
「ちくしょう……ちくしょう、また……!」
 だから。解るからこそ、大石は認めたくなかった。
 いつまでも、いつまでも老刑事は叫び続ける。まるで、反応の返ってこない受話器の向こうに、まだ雪川が生きているかのように。
「雪川君……!」
 慟哭は誰にも受け止められることなく、雛見沢の夜気に虚しく消える。
 しばらく無言の回線は、カエルの鳴き声などを返していたが―――
 やがて硬貨の時間も切れたのか、虚しくブツンと切れ、やがて何の物音もしなくなった。



[1983年 6/20]



 昭和五十七年、八月一日。
 石本梢、雛見沢山中にて遺体を発見される。
 首から上が切り取られており、頭部の行方は現在も不明。左手の損傷から、興宮署に送られてきた脅迫状に伴う指の一部は、間違いなく石本本人の物であると断定。犯人は未だ不明。
 服装は最終目撃者である私と別れた時と同一。七月二十六日に、拉致か殺害かされたものと見られる。
 手首の内側から肘の部分まで、縦書きのダイイングメッセージあり。太く荒い血文字で『ハンニンハカヨ』。字体が劣悪なのは、恐らく拘束状態で唇を噛み切った血で描いたからだと思われる。
 “カヨ”なる人物を捜索するも、範囲が広すぎて一向に当たりを得られず。
 “カヨ”は何か別の字の書き損じの可能性あり。
 また、重要参考人である雪川桐仔も、石本とほぼ同時期に失踪。
 雪川から電話を受けた直後、雛見沢の公衆電話に直行するも無人。土中から弾痕、及びボックス内に飛び散った血液が発見されたため、恐らくここで襲撃されたものと断定。銃弾は38sp。現在、線条痕から犯人を捜査中。
 現場には引き摺ったような痕。雪川の死体が運ばれた? 道路で途切れていることから、車両に乗せたのではないかと推定。タイヤ痕あり。
 当初は雪川が犯人だという線も浮上していたが、本人の性格や関連性、何より動機の薄さから消える。メンタルクリニック雪川は全焼し手がかり無し。自宅アパートを捜索するも、特におかしなものは発見されず。
 私的に操作に関わるものの、何一つ進展はなし。
 また、近隣の村人が奇妙な証言をしているが、村ぐるみの隠蔽の可能性あり。
 後の参考のために記述しておく。
「銃声は“二回”鳴った。十時の十五分ほど前に一回、十時のほぼちょうどに一回。家族で楽しみにしている番組の前後で、時計を確認していたから間違えたり忘れたりするはずがない。季節が季節だから、最初は花火の音かと思った。時間を置いて二回目が鳴ったからおかしいと思っていたら、警察が来た」
 とのこと。園崎の根回し? 捜査かく乱? 村人の様子から真実の可能性も。
 逃走する雪川を何度も撃ったという線はない。至近距離で視認し、かつ一発目を撃って(もしくは外して)しまったのなら、即座に追撃して止めを刺すのが普通。
 一発撃った後に雪川がうまく逃げた? 威嚇の一発だった?
 不明。弾丸は“一発しか”発見されず。もう一発はどこに? 単純に外れて見失った?
 結果的としては石本が『祟り』、雪川が『鬼隠し』に逢った形。綿流しとは無関係?
 最終的に、個人的な見解。
「石本と雪川は、オヤシロ様に関わる重大な何かを発見。それを伝えようとするが失敗し、園崎家に関係する何かに拉致され、村の風習になぞらえて殺害された」
 ……くそ。何かがズレている。
 誰かが嘘をついている? 雪川? 石本? それとも私が“吐かされている”のか?
 私は諦めない。この手帳を見る度、必ずあの悔しさを思い出すようここに決意を記す―――


「―――やれやれ。まさかあれから一年も、なーんにも進展してないとはねェ」
 苦々しい表情で煙草の吸い口を噛み、大石は開いていた手帳を閉じた。
 石本梢の殺人、及び雪川桐仔の失踪から、早一年が経とうとしている。いよいよ大石も今年で定年で、最後のキーポイントである綿流しのお祭りは、つい先日に終わったばかりだ。
「石本君、雪川君。私ゃあ今でも、まだ諦めていません。ですから……力を貸してください」
 ほう……と手向けの白煙を吐き出し、大石は煙草の先をぐじぐじと灰皿に押し付けた。
 ひんやりとした車内から窓の外を眺めてみれば、遥かに遠い入道雲。遅からず大石も“その向こう”へ行くだろうが、彼は自らの死を認める前に、どうしてもやらなければいけないことがあった。
「なっはっは。じゃあ行きますかね、惨劇の舞台に。もうこけら落としは済んじゃいましたから」
 サイドブレーキを引き、ギアをニュートラルに変え、ドアを開けて外に出る。
 むわっとする暑さと共に、網膜を焼く日光。整備されていない砂利の石畳は、熱を吸い込んで湿気を巻き上げ、もうもうと陽炎を立たせている。
 雛見沢分校―――普段は見向きすることもない、ひなびた古臭い学校だった。だが今日は、特別に用がある。もちろん大石個人としてではなく、刑事大石の立場としてだ。
「あ〜もしもし? すみませんが」
「はい? どなたでしょう」
 放置されているブルドーザーの向こうへ回ると、昇降口の辺りで教師らしきワンピース姿の女性が水を撒いていた。礼儀正しい人物らしく、努めて丁寧な様子でにっこりと微笑んでくれた。
「ええと。何か御用ですか?」
 誠実そうな人だ。
 恐らく生徒受けもよく、人間的に出来た人物であろうことは、佇まいから容易に想像できる。
「いえそれがね。ちょっと用事がありまして……」
 ―――だからこそ、騙し易い。
 心中で軽くほくそえみ、大石は一度、間を置くように額の汗を拭った。
「生徒さんをお一人、呼び出して頂きたいんです。なあに、時間は取らせません」
 結果的に、彼女を騙すことになるだろう。
 それだけではない。彼の行動が、村全体に波及を及ぼしてしまうかもしれない。全てが終わって結果を振り返る時が来れば、むしろ余計な手出しだったと後悔するかも知れない。
 それでも、大石は前に進まなければならなかった。
 この五年の内に次々と起きた、一連の連続殺人事件。まさに惨劇のこけら落としともいうべき、人殺しと憎しみの序曲を越え、生き残った者の一人として戦わなければならないのだ。
 昭和五十八年、六月二十日。
 初演を終えた悲劇の幕は、今この時より再び紅の暗幕を上げる。
「前原さんをね。前原圭一さんを、呼んで頂きたいんですよ―――」
 そう、再び。
 また
 ひぐらしの
 なく頃に―――。


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