ひぐらしのなく頃に−恩返し編
ひぐらしのなく頃に
恩返し編


[鷹野三四 − 入江診療所]



「何か行動にあたる時、いつもより集中できると感じるかしら?」
「えっと……それほど変わりない、と思います」
「心配事や不安感で、眠れなかったりする?」
「時々。昔の夢を見た時は、眠れないことがあります」
「そう。それじゃあいつもと比べて、生き甲斐を感じることは?」
 『生き甲斐』。
 ついせんぞ失った物であるだけに、私の声には隠しきれない険が滲んだ。
 鏡でものぞけば、さぞ不細工な表情で唇を噛んでいることだろう。
「生き甲斐……ですか」
 そんな私を前にして、一人の少女は目を閉じて首を捻る。
 彼女は青を基調とした学生服姿で、診療室のベッドに腰掛けながら、しばらく考え込むような様子を見せていたが
「うん。強く感じてるし、信じてます。今だからこそ、だと思います」
 やがて、そう言い切った。
 竜宮レナ。私より二周りも幼い彼女の瞳に、思春期にありがちな傲慢さや虚栄は一切ない。
 ただ、美しいだけだ。“あんなことがあった後”だからこそ、私はレナの真摯な“宣言”に、眩しさと羨ましさを感じずにはいられなかった。
「そう……。あなたらしいわね」
 直視することに耐えられず、私はいったん質問を区切って、窓のカーテンを開けた。
 かなり単純な方法だが、日光を取り入れるという作業は『光療法』といって、列記とした精神病治療法の一種だ。日照量が少ないと季節型のうつ病を発したり、睡眠障害に陥ることがある。単純に気分転換としても効果があるため、意図的に日光を取り入れるようにしていた。
「いい風ね」
 ついでに窓も開け放つと、熱を纏った八月の風が、空調で冷えた診療所になだれ込んでくる。
 私の長い髪をばさばさと弄んで、鼻先に緑の匂いを携え―――室内に一陣の夏を運び、やがて温度差がなくなるにつれて、風はゆっくりと収まっていった。
 細めた視線の先では、雛見沢の田園風景が揺らめいて、陽炎を立ち昇らせている。
「はぅ。三四さんぐらい髪が長いと、とっても映えて……かぁ……」
「かぁ?」
「あ……いえ。なんでもないかな、かな!」
「?」
 何か不謹慎な事でも口走りそうになったのか、目を細めて誤魔化すレナ。
 彼女は暫くはわはわと緩んだ表情を見せていたが、私は特に追求する事をせず、椅子にかけてから質問を続けた。
「それじゃあいつもと比べて、生活全般での受け答えに迷うことはあるかしら?」
「うーん、ないかな? かな? 私、決めるのは早い方だと思います」
「そのようね。ストレスについてはどう?」
 淡々と交わされる、質問と回答。
 これは、WHOが発行する健康調査票を参考にした、一種のスクリーニングテストだ。“いつもより”という言葉を多用することによって、日常と現在との精神状態を比較し、患者の精神的傾向を調査するのが目的になる。
 かつてはもっと子供向けの問題で、北条沙都子などに実践していたこともあった。
「ストレス、ですか……」
「うん? 何かある時はちゃんと言うのよ、どのお薬を出すか、それで決めるから」
「……。ひぐらしのなく頃に、魅ぃちゃんや仲間の事を思い出すことがあります。それはとても切ないことだけど……ストレスとは違う、忘れてはいけない感情だと思うんです」
 患者名、竜宮レナ。
 病名は―――『雛見沢症候群』。
 雛見沢近辺において、特定の環境で発症する『分裂病』の一種だ。症状は解体型分裂病と多動障害を複合したような感じで、強烈な被害妄想に取り付かれ、極端な躁うつ状態になり、暴力的になって落ち着きがなくなる。
 極めて厄介な症例だが、C120というホルモン剤によって“治療が可能”。寄生虫だの女王感染者だの、そういった単語などはちっとも出てこない、よくある精神病の一種だ。インフォームドコンセントの一環として症状は伝えてあるし、レナも病因以外のことについては自覚している。
 発症の深度は、L1〜L5の五段階に分けられる。彼女は過去にL4程度の発症を経験したものの、今では日常生活に支障がない程度まで回復している。
 今日は中間登校日らしく、朝の問診を終えたら、そのまま雛見沢分校に通うことになっていた。
「そうね、私にとっても忘れられないわ、あの子達のことは」
 自嘲気味に笑って、私は再び視線を窓外に移す。
 忘れられるわけがない―――私が何もかもを失ったのは、他ならぬ園崎魅音のせいなのだから。
 昭和五十八年、六月十八日。『綿流し』という地方祭の前々日、雛見沢を揺るがす殺人事件が発覚した。被害者は園崎お魎、公由喜一郎、園崎詩音、古出梨花、北条沙都子。五人とも、殺傷から既に数日が経過しており、容疑者の園崎魅音も、一週間後に自殺した。
 このうち、最も私にショックを与えたのが、女王感染者である古出梨花の死亡だ。当時私が携わっていた雛見沢症候群には、“女王感染者の死亡から四十八時間以内に、村人全員が暴徒化する”という仮説があったのだが、それが全て崩れてしまったことになる。
 雛見沢症候群最大の狂気にして、最大の付加価値であった連鎖発症。それが無くなった以上、雛見沢症候群は一種の分裂病に過ぎない。パトロンを引き止めていた“兵器としての価値”が、根底から消失してしまったのだ。
 病原体である寄生虫の線から援助を募ったが、虚しい徒労だった。前頭葉・側頭葉のホルモン異常、脳波異常、大脳基底核の分泌異常―――どれもこれも、通常の精神病と変わらない。
 加えて雛見沢症候群には、C120という特効薬まで存在するのだ。再発率50%以上の躁うつ病や、発症後に数年放置するだけで治療が不可能になる分裂病と比べて、軽い病気であるとすらいえる。
 既に治療法の見つかった病気に対して、心血を注ぐ馬鹿はいない。そういった意味では、もはや雛見沢症候群は、風邪と大差のない病気だった。
 唯一の慰めになったのは、雛見沢症候群が正式な新病として認可される流れにあることだ。寄生虫の部分の隠蔽か公開かで揉めているようだが、入江が主導になって動いているらしく、レナに対してもその病名と諸症状を伝えてある。
 鷹野一二三。偉大なる研究者にして最愛の祖父が発見した『雛見沢症候群』は、私の手からこぼれ落ちて、空の向こうに消えていこうとしている。
 踏みにじられた夢を羽ばたかせ、勇猛な鷹のごとく国を穿つ―――はずだった。だが現実には、前にも後ろにも進めないまま、進退窮まって足踏みをしていただけだ。
「それじゃ……最後の質問をするわね」
 半ばいじけたような態度で、私は目の前の少女に問いかける。
 彼女もまた、園崎魅音による連続殺人事件において、最愛の友を失った一人だ。だというのに、幾分か横顔が大人びた以外は、卑屈になることも捨て鉢になることもなかった。
 尋ねてみたい。ふとそんな衝動に駆られ、私は予定していた質問を変更する。
「ねえ、レナちゃん。あなたにとって、幸せって何かしら?」
 幸福。それは生涯、私が手の中に残すことが出来なかったもの。
 親愛をくれた両親は列車事故で死に、慈愛をくれた祖父は自殺した。自愛の元になった研究成果は失墜し、今まさに私の手元には、何も残っていない状態だ。
 だがそれは、彼女もまた同じであるといえる。
 知りたい―――そう思って問いかけると、彼女は少し迷ってから、それでも強く言い放った。
「……“ここ”です」
「ここ?」
「この雛見沢そのものです。魅ぃちゃん達とすごした時間、これからこの場所で生きていく時間。いつ消えるとも解らない明日に向かって、毎日を幸せに生きようともがく、今この時です」
「……」
 言葉が出ない。
 稚拙な言葉だと笑ってやるには、余りにも毅然とした言葉だった。
 鼻で笑えば、惨めになるのは自分の方だったろう。それだけの確信と尊厳が、レナの言葉には深く深く刻まれていたのだから。
「そう……ね。そう思えるあなたは、きっととても強いのね……」
 誤魔化すように髪をかきあげて、私はぼんやりと空を見上げた。
 入道雲が徒党を組んで、西の彼方に消えていく。今日一日は、この晴天が続きそうな気配だ。
「もう来月には、夏も終わるわね」
「ですね。でもきっとまた、ひぐらしのなく頃に、夏も一緒に戻ってきますよ」
 にこっ、と笑うレナに釣られて、私もくすくすと愛想笑いをする。
 空は遠く、風は速い。緩やかな時間だけが、二人の間に流れていた。


[前原邸 − 富竹ジロウ]



 肌を滑っては後ろに流れていく風が、火照った身体に心地よかった。
 雛見沢という村は、興宮市から来る分には上り坂が多いが、逆に出て行く分には下り坂が多い。郊外にある前原屋敷までの道のりは下りが多く、自転車でも驚くほど早く着く。
「何とか間に合いそうかな……やれやれ」
 ゆるゆるとペダルを回しながら、筋肉質の男性は困ったように呟いた。
 タンクトップにドックタグというラフな服装をしたその人は、名を富竹ジロウという。周囲にはフリーカメラマンとしてのPNだと触れ回っているが、殆ど本名と変わりない。
 二等陸佐という裏の階級をもじって、入江という友人などからは“リサ”と呼ばれることもあるが、どちらかというと彼はカメラマンとして扱われる方が好きだった。
「おっとっと……」
 起伏の激しいあぜ道に揺られながら、右へ左へとハンドルを切る。
 視界を流れていく雛見沢の景色は、これでもかというほど艶めいた緑に溢れていて、自然と彼の口元をほころばせた。
 気取る必要も飾る必要もない、あるがままで美しい景観。“消し去ることに至らなくて、本当によかった”と、人のいい富竹としては、心からそう思う。
 彼が所属する入江機関には、『緊急マニュアル三四号』と呼ばれるファイルがある。
“女王感染者死亡に伴う全住民の暴徒化”という仮説を背景に、雛見沢住民を一人も漏らさず毒殺するための計画書だ。
 考えるだけでも恐ろしい計画だが、実行される可能性はあった。雛見沢の上流にある谷ヶ内に、既に装備は整えられていたし、暴徒化の仮説は信憑性が高かったからだ。二ヶ月前の連続殺人において、古出梨花の発見があと一日早かったら、本当に雛見沢は廃村と化していたかもしれない。
 だが、現実にはそうはならなかった。
 検死の結果、古出梨花の死体は死後三日以上と断定。“四十八時間以内の暴徒化”という仮説が崩壊するに従って、『緊急マニュアル三四号』の撤廃・隠蔽も決定された。
 東京・雛見沢間の仲介者である富竹は、残務処理でおおわらわだった。綿流しを過ぎた後は帰京するのが通例になっていたが、今年は夏中には帰れそうもない。
「お、いたいた。おーい、圭一君!」
 石垣の並ぶ道を曲がって、田んぼ脇の直線を進むと、有名な前原邸が視界に映る。
 お目当ての人物である前原圭一は、軍手に手ぬぐいといういでたちで、玄関先へ出てくる所だった。既に引越し作業の途中だったらしく、額には玉粒のような汗をかいている。
「遅いっすよ、富竹さん。もう三分の一ぐらいは進めちまいましたよ」
「あっはっは、ごめんごめん。それで、もう動いて大丈夫なのかい?」
「まあ何とか。運が良かったのか、ナイフは肋骨に当たりましたからね」
 ポケットから小型の缶ジュースを取り出し、プルタブを折りながら呟く圭一。
 怪我のせいか、それとも単に大人びたのか―――少しだけ痩せた少年の横顔は、初めて会ったその時より、随分と精悍なものに変わっていた。
「最も俺は……これは運じゃなくて、アイツが手加減してくれたんだって。そう思ってます」
 物思うような表情をして、ほんの数秒沈黙し。
 それから一気に、圭一はスチール缶をあおった。
 彼が言う“アイツ”とは、他ならぬ園崎魅音のことだろう。彼女は警察の包囲網を逃れ、事件発覚から一週間ほど逃亡を続けたが、その過程で前原圭一に刺傷を負わせている。
 幸か不幸か傷そのものは浅かったものの、心的外傷による雛見沢症候群の進行が顕著で、入江らの治療がなければ彼も危ない所だっただろう。
 彼の両親も、雛見沢で暮らし続けるのは危険と判断したらしい。前原家は早々に引っ越す事を決め、今は荷造りの真っ最中、というところだった。
「そうか……そうだね。僕が解ったようなことを言うと不愉快かもしれないけど、僕も魅音君が手心を加えてくれた気がしてならないよ」
「不愉快じゃないし、俺もそうだと思ってます。もっと言ってやってくださいよ。アイツ多分、人に認められるの好きだろうから。あの世で喜ぶんじゃないですかね」
 言葉を選ぶ富竹に対して、圭一はあっさりと答えを返す。
 もっと落ち込んでいるかと思ったが、予想以上に圭一は気丈だったようだ。それは彼が薄情なのではなく、きっと振り返っても後悔しないぐらい、仲間達と友好的な関係を築けたことの証なのだろう。
「ははは……圭一君はしっかり者だね。最初にあった時は、もっと打たれ弱いイメージだったけど。訂正するよ、君は僕が思っていた以上に、大きく成長したみたいだ」
 見くびっていた事を素直に詫びると、返答のつもりか圭一が缶ジュースを投げてよこした。
 言葉にはしないものの―――富竹もまた、圭一と同意見だった。雛見沢症候群という狂気に蝕まれていく中で、最後に残った園崎魅音の理性。それが『三四号マニュアル』を打ち砕き、圭一の命もまた救った……という気がしてならない。
 それはきっと、悲劇の中にも救いを求める、富竹特有の“甘さ”なのだろうが―――
「うん。いつか君と、酒でも飲みながら話したくなったよ。同格の男同士としてね」
 いつまでも、その“甘さ”を忘れないでいたい。富竹は、そう考えている。
「ん。じゃあ泡麦茶ぐらいは飲めるようになっておきますよ。……しかし富竹さんって、やったら人に対して好意的ですよね。俺、言っとくけどホモじゃないっすよ」
「あっはっは! 嫌だなあ。……いや、本当にそう見られてたら、実に嫌だね」
「まあ、鷹野さんが相手なら、男に走ることもないだろうけど。それよりそろそろ手伝ってくださいよ、その腕のデコボコは飾りじゃないってとこ、たっぷり発揮してもらわないと!」
 ぱんっ、と景気よく膝を叩いて、圭一が立ち上がる。
 富竹が前原邸を訪れたのは、引っ越しの手伝いが目的ということになっている。
 圭一には「ただの善意だよ」と説明しているが、実際は富竹の呵責からくる行為だった。
 あれは確か―――綿流しの数日前。古出神社の祭具殿に忍び込もうとして、錠開けのリハーサルを行っていた時だった。圭一と園崎詩音が現れた為、半ば鍵を開けかかったまま、その場を立ち去ってしまったのだ。
 夜になってからかけ直しに行ったのだが、タイミングの悪いことに、圭一と詩音が祭具殿に忍び込んでしまった後だったらしい。
 富竹は雛見沢症候群の真相を知っているため、オヤシロ様の禁忌についてはそれほど深くは考えなかったのだが―――侵入者に対する疑心暗鬼が御三家間で広まり、園崎魅音のL5発症に繋がった可能性はある。
 度々からかわれはしたものの、魅音は素直な少女だった。彼女を助けられる選択肢が存在した以上、富竹は強い責任感を禁じえない。
「なんでそんな暗い顔してんですか、富竹さん」
「え? あ、ああいや……ね。ははは」
「気なんて使わなくていいですよ。どうせ“魅音の事を口に出して落ち込ませたらまずいなあ”とか思ってるんでしょ?」
 誤魔化す富竹を横目で睨みながら、圭一はやれやれと首を振る。
 意地の悪い顔をして、歯を剥いて見せてから―――ふと、真顔になって言った。
「それにね」
「?」
「俺、今は親のすねかじりだから、我侭でここに残ることは出来ないですけど。勉強して大学に入って、教師とか役員になって、雛見沢に戻ってこようと思ってるんです」
「……圭一君……」
「本当は魅音も、雛見沢の為に生きたかった気がする。だから、これから雛見沢を盛り立てていくのは、俺ら若い人間の務めかなって」
 手ぬぐいを頭に巻きながら、誰にという風でもなく圭一は語る。
 雛見沢の風を受けて、鮮やかな緑を背景にたたずむ少年。今はまだ、村の未来を託すには幼すぎる細い肩だが―――いつかきっと。彼は必ず、この村に帰ってくるという。
「それが、君の“夢”なのかい?」
 富竹が聞き返すと、圭一は首を横に振った。
 そして。
そして、余りにも爽やかな笑顔で声を上げて―――
「ははは、違いますよ。これは夢なんかじゃない。仲間に対する、俺の確かな“恩返し”です」
 ―――そう告げた。
 堂々と言い切る圭一の佇まいに、かつて見せたひ弱さは一切ない。
 仲間の死を乗り越え、確かな明日を思い描き、少年は今まさに自らの行く末をここに決めた。
「恩返し……かい?」
「ええ。魅音がくれた楽しさ。沙都子がくれた緊張感。梨花ちゃんがくれた安心。どれもこれも、あいつらと会わなかったら、手に入らなかったものだと思うから。だから、返さなきゃいけないんです」
 ―――前原圭一という、命の全てを賭けてでも―――。
 激動の昭和五十八年六月に存在した、幾千万の“未来のカケラ”。
 狂気と恐怖の果てに少年が見つけたカケラは、余りにも清らかな『恩返し』というものだった。
 彼の姿は余りにも眩しくて、そして気高くて。
“形に残してみたい”。そんな衝動が、唐突に富竹の心に湧き上がる。彼は下げていたポシェットからポラロイドカメラを取り出して、にっと笑ってこう言った。
「圭一君……一枚、写真いいかな?」


[雛見沢分校 − 入江京介]



 弾力のなくなった古椅子に腰掛け、トントンと書類の端を叩いて整理する。
 白衣の袖をまくり、腕時計を見てみれば、時刻は十二時三十分。入江京介が雛見沢分校を訪れたのは、大体十一時過ぎのことだから、かれこれ一時間以上も滞在していることになる。
「失礼します、知恵です。お邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。たった今、最後の生徒の診断が終わったところです」
 クリップで紙をまとめていると、軽いノックが保健室の扉に鳴った。
 訪れた人物は、知恵留美子という。雛見沢分校に通う教師で、教育委員会の出向を断ってまでやってきた、強い義心の持ち主だ。入江は個人として外来しているだけで、知恵は正職の教師なのだから、断りもそこそこに入って来てもよさそうなものだが、許可が出るまで待っている辺りが知恵らしい。
「ではお邪魔します。……それでその後、生徒達の様子はどうですか?」
「ええ。やはり子供というのは強いものです。少なくとも平時では、無気力や健忘などに陥る子はいないようです。潜在的な心的外傷は残っているでしょうが、時と友に完治するでしょう」
「そうですか。不幸な事件でしたが……一筋の希望は残った、ということなんでしょうね」
 前向きな言葉を口にしながらも、知恵の表情は冴えない。
 生真面目な彼女にとっては、“複数の生徒が立ち直った”という現実よりも、“受け持ちの生徒が殺人事件を起こしてしまった”という過去の方が重いのだろう。
 入江にしてもそうだ。園崎魅音による連続殺人事件の以後、心的外傷を負った生徒達のケアを無料でしているのも、“沙都子を救えなかった”という罪の意識による所が大きい。
 今でこそ普通に中間登校日を設けられているが、事件の後はひどいものだった。無神経なマスコミの取材でノイローゼに陥る生徒、教室で魅音の亡霊を見てパニックを起こす生徒。不眠や頭痛に至っては、ほぼ全生徒が悩まされていたといっていい。
「ですね。富……いえ、リサさんに感謝しないと」
「リサさん? 入江先生、ご結婚されてましたっけ?」
「はっはっは。ちょっとゴツいですが、なかなか素敵な方ですよ」
 結婚はまだですがねえ、と笑いながら、入江は眼鏡を指で上げ直す。
 二ヶ月という短期で事件を鎮静化できたのは、富竹の工作に寄る所が大きかった。彼が圧力をかけるよう申請してくれなかったら、今頃雛見沢はメディアという鮫に食い殺されていたに違いない。
 『雛見沢症候群』。治療薬が完成済みとはいえ、まだまだその一語が村に落とす影は大きい。
 残された三年の研究期間で、予防接種などを展開して、その病気を撲滅すること。それが医者として、個人としての使命であり、被験者となってくれた古出梨花・北条沙都子の両氏に対する恩返しだと、入江は強く思っている。
「そうですか……。このまま、みんなが治ってくれるといいんですが」
「うーん。もしかしたら何かのきっかけでフラッシュバック―――つまり、事件時の辛い記憶を思い出してしまう生徒がいるかもしれません。その時は、すぐに私の診療所に連絡をください」
「解りました。私に教師として、してやれることはあるでしょうか?」
「そうですね……。第一に、生徒を温かく見守ってやることだと思います。それと、知恵先生は心配ないと思いますが、“精神病は気合で何とかなる”と思っている親御さんがいましたら、何とか考えを改めて、異常時には早期からウチに来てもらうよう勧めてやってください」
 気休めのような言葉だが、これが入江にできる精一杯の予防策だった。
 “心の病は身体の病”という認識があるアメリカに比べて、“心は気合で何とかなる”という根性論を持つ日本は、精神病という分野で非常に遅れていると言わざるをえない。
 トラウマによる精神障害に『PTSD』という名前が付けられたのが三年前。ベトナム戦争後、軍人の間で爆発的に広まったものが例として顕著だが、これに雛見沢分校の生徒の大多数が当てはまっていると思われる。だが実際には、病状どころか病名すら知らない人間が殆どだ。
 そもそも性善説信仰がはびこる日本で、精神病という概念を教え込むのがまず難しい。いつか強制的に学習する時が来て、沢山の人間が傷ついてからでは遅いのだが、自らの不安を“情けないことだ”と我慢してしまう人がほとんど、というのが実情だ。
「ところで、入江先生?」
「はい? なんでしょうか」
「お昼、食べましたか?」
 話が一段落したと見たのだろう。
 急に知恵が話題を変えて、持ってきていた包みを広げた。
 途端。なぜか―――物凄い悪寒を、入江は感じる。
「いえ、まだです。一度診療所に戻ってから食べようかと思っていたんですが」
 否定しないと殺される。そうとまで感じた。
 唐突に感じた寒気と直感に、まさか自分も雛見沢症候群にかかったのではと入江は懸念したが―――その考えが、妄想ではなく人間としての本能だったことを、二十秒後に理解した。
 というより、“させられた”。
「一時を過ぎちゃいますよ? なんでしたら、私の分をお分けしましょうか? カレーです。キーマです。おいしいですよね? カレーが嫌いだという人を私は見たことがありません」
「いえいえそんなわざわざ。診療所にも顔を出さないと」
「カレーは素晴らしい食べ物です。栄養価、費用対効果、保存性、その全てが高次元でまとまっており、これ一食で一生を―――いえ、輪廻して数多繰り返す那由他の時ですら、私はカレーだけで生きていけます。いえ生きていかなければならないんです」
「や、診療所に弁当が」
「いいですか? 何十種類とあるスパイスがその魂を結合させ、カレーという御名を冠した時、それは全ての食材を調和するミラクルでギャラクシーな食材になるわけです。もともとは軍隊の屈強な男達が、効率的に栄養を補給するための食べ物でした。私達のような国家機関に属するものは、決して折れてはならない不屈の精神と体力を維持する必要があります。では何を食べるか!? カレーでしょう! それ以外に何をいわんや! そしてそれ以外にまた何があるというんですか!? ああん!? ファック!」
「いえホントに知恵先生」
「で―――食べますね?」
 呪詛に近いカレー賛美歌を口走りながら、身をせり出して昼食を勧めてくる知恵。
 ここで断らなければ殺される、と思ったが、彼女の目に宿るこの世界とはかけ離れた光から察するに、断ってもブチ殺されることは確かなようだ。
「……。はい、ありがたく頂きます」
 ははっ、と乾いた笑いで頷くと、ようやく納得してくれたのか、知恵は大きく頷いた。
 そして軽やかにステップを踏みながら
「そうですか。では今、用務室にあるジャーを持ってきますから、楽しみにしていてくださいね!」
 とんでもない事を口走って、廊下に出て消えて行った。
 どうも彼女が帰ってきた時が、入江京介の命が尽きる時らしい。カレーを食い切れずに殺されるか、カレーを胃に詰め込みすぎて死ぬかは解らないが、遺書の一枚でも書いておいた方がいいようだ。
「次からは昼時に来るのは止めましょう……」
 ふっ、と悟りの混じった溜息をついて、入江は保健室の外からグラウンドを眺めた。
 中間登校日の日程は、朝会からホームルームと繋がって、最後に任意での保健室訪問、ということになっている。既に授業は終了しているが、何人かの子供達は学校に残って、グラウンドで鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいるようだった。
「本当はあそこに、園崎さん達もいたのですねえ……」
 溜息をつきながら見ていると、女子生徒の一人がすっ転んでしまったのが目に映る。
雛見沢分校のグラウンドは砂利が敷き詰まっているから、盛大に擦り剥いてしまったらしく、わんわんと大声を上げて泣き始めた。
「むむ。見に行くべきですか―――おや」
 入江が立ち上がった、まさにその時だった。
 二人の男子生徒―――確か富田に岡村といったか。その二人が駆け寄って、一人が彼女をおぶって水飲み場に連れて行き、もう一人は先に水飲み場に寄って、水で冷やしたハンカチを作っている所だった。
「……はは」
 拍子抜けしたような、けれどとてもいい物を見たような、なんとも言えない気持ちが胸に広がる。
 そして、ぽりぽりと頬をかいた所で、ようやく自分が笑みを浮かべていたことに気付いた。
「なあんだ。ちゃーんと育ってるじゃないですか」
 改めて浅く微笑み、入江は上げかかった腰を椅子に降ろした。
 なんだ、と。そんな、軽々しい考えが浮かぶ。
 なんだ。みんなみんな、やっていけるじゃないか―――と。
「沙都子ちゃん。私はあなたを救えなかったけれど……あなたがいたこの雛見沢は、とても素晴らしい村です。だから私は、全力でこの村を守っていきたいと思う。それが私にできる、唯一の恩返しですから」
 今はもういない北条沙都子へ届くよう、入江は空の向こうを見てそう呟いた。
 そして、言葉には出さずとも約束する。
 今はまだ眠り続けたままの、あなたの兄である北条悟史。
 彼を必ず救い出し、もう一度陽の当たる場所へ連れ戻して見せると。
「あの。すいません」
「おわっ! ……ああ、竜宮さんですか。どうぞ入ってください、構いませんよ」
 急に背後からかかった声に、入江はびくっとのけぞってから振り返る。
 一瞬カレー魔王知恵かと警戒したが、そこにいたのは竜宮レナだった。
「どうしましたか?」
「えっと。監督に、お願いがあるんですが」
「?」
 歯切れのいい彼女にしては珍しく、次の言葉を迷っているようだった。
 しばらく胸の前で指を突付き合わせながら、タイミングを計っていたが―――やがて自分の中で納得が言ったのか、にこっと笑ってこう言った。
「実は―――」


[鷹野三四 − 古出神社境内]



 足元の砂利を鷲掴みにし、感触を確かめるように繰り返し握る。
 硬く鋭利なこの感触に触れていると、かつて田無美代子だった頃、野山を素足で駆け抜けた時の事を思い出す。あの時は足だったが、こうして手で触ってみても、それはそれは不愉快な感触だった。
 ざりざりという耳障りな音で十二分にトラウマをかき回した後、ゆっくりと手を開いて石粒を風の中に流した。無骨なカケラは大気にさらわれ、雛見沢の景観に還っていく。
 古出神社の境内に突っ立って、綿流しならぬ砂利流しを行いながら、私はそっと呟いた。
「神様も呆れたかしらね。それとも今、私の後ろで笑ってでもいるかしら?」
 紡がれた声は震えていて、第三者の立場で聞いたら噴出してしまうくらいに滑稽だった。
 喉は嗚咽をため込んで痙攣し、唇は震えて用を成さない。拭われることのない涙は繰り返し頬を濡らし、ぽたぽたと地面に落ちて、大地に吸われて消えていく。
 雛見沢の田園風景を見下ろして―――ひたすら泣いた。
 悲しいからではない。
 後悔しているからでもない。
 涙が出るのは、ただ“解らされてしまった”から。
 肉親を失い、神に見放された田無美代子というかつての少女。施設に送られ、虐げられ、全てを賭けた脱走も失敗し、金網の中で人格ごと朽ちるのを待つだけだった存在。
 もし、祖父である一二三が助けてくれなかったら、本当に私は気が狂って死んでいたに違いない。優しい祖父に手を取られた時、不覚にも涙が止まらなかったことを、今でも強く覚えている。
 彼の死後―――私は、必死になって勉強した。
 学力だけの馬鹿にならぬよう、根回しや権謀術数も学んだ。一時は国の中枢に食い込み、内閣を動かす一歩手前にまで至った。最終的には何もかも失敗し、こうして素寒貧になってはいるものの、少なくとも五体満足で生きている。
「ふふ……はは。あは―――あっはっはっはっは!」
 おかしくて可笑しくて、私は泣きながら笑った。
 そう。ああそうだ。とっくの昔に、この鷹野三四は知っているから。
 私はもう、“幸せ”なんだって。報われて今、ここにいるんだって―――
「解ってる。解ってるわ! ないものねだりの我侭だったって! お祖父ちゃんの研究を、人殺しの理由にする所だったって! 今納得すれば、私は幸せになれるって!」
 身を折って叫び、私は二の腕にぎりぎりと爪を立てた。
 少しでも強い痛みで、身勝手な“鷹野三四”を罰するために。
 『サイコロの1だらけの人生』。私は、自分の人生をそう評価したことがある。不運を嘆き、天を呪い、雷に裁きを求め、狂った笑いで世の中に噛み付いたことがある。
 だが―――そもそも“サイコロ振る”という行為が、今の私には必要ないのだ。
 すごろくというゲームは、ゴールに辿り着いてしまえば1も6も関係ない。そして、この世界における『雛見沢症候群』という基盤は、園崎魅音による連続殺人という形で決着してしまっている。
 もう、誰を殺さなくてもいい。無学で醜悪な政府の高官に、労して祖父の研究を曲解させる必要はない。治療薬も完成し、徹夜の研究で神経をすり減らすこともなくなった。
 ただ頷けばそれでいい。高野一二三は雛見沢症候群と戦った立派な“研究者”であって、それはささやかながらも見事に結実して、実用に耐えうる治療法を生み出すことに至った―――という現実にだ。
「でもだからって、私一人がのうのうと笑ってていいわけないじゃない。それも……解ってるわ。破滅することも幸せになることも、どちらも出来るのに“出来ない”なんて、おかしな生き物ね」
 もはや笑い疲れて無表情になりながら、それでも止まらない涙をぬぐって呟いた。
 鷹野三四は、幸せを選べない。踏みにじられた祖父の志を半ばにして、一人だけ女としての喜びに走るなど、恥さらし以外の何者でもないからだ。
 だが同時に、田無美代子も破滅を選べない。身を焼く狂気はすっかり冷め、いつか還るべき鉄の檻も、時代と共に消えてしまったから。
 死ぬのは恐い。だが、生きようとすることも出来ない。
「これが、神様に歯向かった罰なのかしらね。それともこれが私の人生って奴で、サイコロに挑む権利すら与えられないぐらい、不幸にまみれた人生だということかしら」
 空っぽだ。
 抑揚を失った声も、青い空を映しこむ眼差しも。
 緩やかな風が運ぶ真夏の暑さだけが、感じられる唯一の現実だった。いっそこのまま、心まで焼き焦がしてくれたら―――そう思ってから、「馬鹿みたいね」と弱々しく笑った。
「……好きにするといいわ、どこかにいるかもしれない本物のオヤシロ様。私はもう盤上のコマじゃない。行くあても歩き方も知らない、田無美代子という夢破れた馬鹿な女よ」
 ゆっくりと首を振り、私は乱暴に後ろ髪を両手でかき上げた。
 大気の中に踊る艶やかな髪が、再び首筋にはり付くより早く、私はきびすを返してその場を後にする。そして誰にともなく、という風に片手を上げ、締めくくるようにこう付け足した。
「あなたの勝ちよ」
 吐き捨てるように敗北を認め、石畳を踏んで鳥居をくぐり、階段を降りていく。
 位置も心もすっかり地に落ち込んで、もしそこらに縄でもあれば、神木に首をくくってぶら下がりたい気分だった。
「気が乗らないわね……私も雛見沢症候群かしら」
 はれた目をごしごしと擦って、自嘲気味に溜息をつく。
 午後からも診療所に顔を出す予定だったが、今日は酒でも浴びて寝てしまったほうが良さそうだ。
 一昔前なら少々失敗が重なっても、富竹辺りをからかうことで、随分と憂さが晴れたものだが―――
「しょうがないわよね。私と違ってジロウさんは、一件から仕事が増えたクチだから」
「ん。いやあ、はは……悪いね、僕としても上役より鷹野さんと話がしたいんだけど」
「嘘。私よりもファインダーを見てる方が好きなくせに」
 その富竹だが、彼は事件の処理で忙殺され、この二ヶ月というものろくに会話もしていない。
 孝行したい時になんとやら―――というのとは少々違うが、いつでも大切なものは無くしてから気付くものだ。あれだけ煩わしいと思っていた富竹の無神経さを、今ほど傍で感じていたいと思ったこともない。
「そんなことはないよ! いや、僕なんかが直視していいものかといつも遠慮して」
「嘘嘘、嘘ね。ジロウさんはいつもそう。肝心な時に限って、どこか見当違いなのよ」
「し……心外だなあ」
「ほら、自覚あるじゃない。今だってこんなに私が寂しくて辛いのに、心配するのは誰かのことばっかりで、ちっとも近くにいてくれないんだもの」
 そうすれば、少しは気分も楽になるのに。
 鈍重で野暮ったい富竹を見ていると、要領よく横槍を入れたくなる。そして、全てが済んで振り返ってみた時に、彼がわざとそうして“居場所”を作ってくれたことに気付くのだ。
 生きていてもいいのではないか。富竹といると、そう思える。
 時間さえあれば、私から遠出に誘ったっていいくらいだ。愚痴でも惚気でもなんでもいい。今こうしているように、鈍いフリをした富竹の誠実さに身を任せて―――
「……あれ?」
「やあ。ぼーっとしているみたいだけど、大丈夫かい?」
 任せて―――
「ジロウ、さん?」
「うん? ああいや、考え事を邪魔しちゃったかな。なんだか僕の事を言っているみたいだったから、横から話に入ったんだけど」
 ―――ぶわっ、と。
 あれだけ流した涙が再び溢れそうになり、私は慌てて明後日の方向を向いた。
「ど、どうしたんだい?」
「なんっ……なんでもないです、じゃない、なんでもないわよ。それより何? どうしたの、急に」
 富竹がいればいい、と思ったが、まさか相手の方から来るとは思わなかった。
 しかもまさか、こんな不意打ちのような遭遇なんて思いも寄らなかったので、つい私の口調も噛んだ風になってしまう。ちらちらと横目で富竹の方をみると、彼は困ったような顔をして、本気で私の体調を案じているようだった。
 相変わらずの人の良さに、呆れよりむしろ安堵を感じる自分が嫌になる。
 杞憂して、すねてみて、からかって気を引いて―――まるで子供だ。
「いやあ、それがね。圭一君の送別会をするから、よかったら鷹野さんも呼んでくれと頼まれてね」
「送別会?」
「うん。入江所長とレナちゃんが主導になってね。沢の方で昼食会みたいなことをするらしいよ。それでよかったら、鷹野さんもってことになってね」
 富竹は軽い口調で言っているが、タンクトップに張り付いた汗の具合からして、自転車で雛見沢中を駆けずり回ったに違いない。何か発信機や携帯できる電話のようなものでもあればいいが、何しろ人の少ない村のこと。行方も知れない人一人を探すのは、容易ではなかっただろう。
「来ないかい? 一緒にさ」
 “一緒に”という言葉に力を込めて、彼は笑った。
 騒がしい状況には巻き込まれたくなかったが、今を逃すと次にいつ富竹と話せるか解らない。
 半ば彼に惹かれる形で、それでも外面だけは「しょうがないわね」という風に取り繕いながら―――ゆっくりと、私は彼に向かって頷いた。


[雛見沢河川上流・鷹野三四]



 素足の爪先を水に浸すと、刺すような冷たさが指の間をすり抜けていく。
 陽炎が立ち昇るほどの猛暑だというのに、せせらぐ清水は見た目も温度も冷ややかで、私に一抹の涼を感じさせた。渓流によって丸く削られた安山岩も、ちょうど青葉の影になっていて、下に敷いたタオルがなければ、腰掛けるには冷たすぎるくらいだ。
「いいか、見てろよ! 岡村君に富田君! これはガチンコと言ってだなあ」
 少し下流の方を見やると、圭一と下級生が石を持ち上げてはしゃいでいた。
 私が座っている、出っ張った岩辺の近くは水深があり、大人の胸元ぐらいまでの深さがあるのだが、下流の方はせいぜい膝元が浸かる程度までしかないらしい。
 圭一が持ち上げた石を水底に叩き付けると、飛沫が舞って七色のプリズムを作る。漁業組合では禁止されている漁法だが、彼らは獲物の是非など関係ないようで、ただ水飛沫をかけあってはしゃぐのが楽しいようだった。
 河川から離れた平らな砂利の辺りでは、レナと入江が主導になって、生徒一同でビニールシートを敷いていた。なぜか顔色の悪い入江よりも、レナの方がよほど手際よく下級生を牽引している。
「陽気なものね……」
 降り注ぐ陽光に照らし出された、正午過ぎの景観を見てぽつんと呟く。
 前原圭一の送別会ということで立案された、雛見沢河川上流への遠足は、いささかスクランブルながらも全員出席という結果に至った。都会では少なくとも数人の欠席が出るものだが、雛見沢分校の面々は、たったの数ヶ月しか共有していない圭一のことを、少なからず仲間だと認めているらしい。
 誰かに強制されたものでないことは、彼らの笑顔を見ればよく解る。
「やあ。鷹野さん、こんな所にいたんだね」
 ぼんやりと遠くを眺めていると、背後から砂利を踏む音と共に富竹の声。
 手には小型のタッパーを持っており、こんもりとした黒いっぽい何かが入っているのが見える。
「もうお昼は食べたかい?」
「……いいえ。気分じゃないから」
「レナちゃんがおはぎを作ってきてくれたらしいよ。入江所長は諸々の事情で“米の一粒も見たくない。カレーはもっと見たくない”と言っていてね。余りそうだから、良かったら食べてくれないかな?」
 うろんな目付きで答えるが、富竹は困ったような顔をしながらも食い下がってきた。
 何としても昼食を取らせる気らしい。こう見えて富竹は意固地な所があるので、私は諦めたようにおはぎの一つを取って、緩慢な動作で口元に運んだ。
「あの年でしっかりしてるよ。冒険をしないっていう料理のコツを知ってるね」
「……コーヒーが欲しいわね」
「う、うーん。残念ながらお茶しかないけどね……帰りでよかったら、自販から買ってくるよ」
 “美味しい”とは素直に言わず、もそもそと前歯で噛んで細かくちぎる。
 なんだか小動物のような食べ方をしているが、味に関して文句はない。とても懐かしい素朴な甘みが舌の上に残って、小豆の香りと共に喉に落ちていくのが心地よかった。
「……」
「はは。ゆっくり食べるといいよ」
 暫く、風が木の葉を揺らす音に包まれて二人。
 何を喋るということもなく、ぱしゃぱしゃと爪先で水面を乱しながら、ゆっくりと昼食を取る。
 圭一達が騒ぐ音も、せせらぎに阻まれてどこか遠い。静かで優しい時間が、そよ風と共に私の身体を満たしていく。
「私ね。お子様ランチがとっても好きだったの」
 やがて。手元のおはぎが半分ほどになった頃、私はぽつりと口を開いた。
「うん。聞いたような気がするよ」
「馬鹿みたいに旗を集めてね。あと一本という所で、結局もう集められなくなってしまったわけだけど」
 昔、富竹にだけは話したことがある、私の本当の両親の話。
 完璧ではなかったけれど、満足な家庭だったと思う。もし列車事故で一家離散の憂き目に会わなかったら、私は緩慢ながらも幸せな一般市民として、この昭和五十八年を過ごしていただろう。
「そのあと、おじいちゃんに拾われてね。奇跡ってあるんだって思ったわ」
 ぺたりと岩肌に左手をつき、ぼんやりと木漏れ日のさす辺りを見上げた。
 何が言いたいのか、自分でもよく解らない。だが、今この時、言葉にしてしまわなければ、もう決して伝えたい事を思い出せないだろう、という直感があった。
「でも、その奇跡は続かなかった。踏みにじられて、けなされて。私、悔しくてね? 必死に勉強して、夢の残骸を繋ごうとしたわ。神様に喧嘩を売って、人殺しだって考えた」
 一つ一つ言葉を紡ぐたび、全てを失ったあの日の絶望が蘇って来る。
 園崎魅音が、最愛の仲間を殺したことが発覚した日。
 古出梨花が、なんてことないただの少女だと解ってしまった日。
 鷹野三四の夢が破れ、田無美代子という現実に立ち返った日。
「何も残せなかった。大好きだったおじいちゃんに……何て言えばいいのかなって。とても虚しくなるわ。あれだけ積み重ねて来た毎日が、本当はただの“逆恨み”だったって。ただそれに気付くためだけの、とても悲しい苦行だったのね、って」
 何一つ、残せなかった。
 祖父の名前も、祖父の研究も、私自身のプライドでさえも。段々と卑屈になって、暴言の一つでも吐いてやろうか。そんな気分になった時―――富竹が、私の言葉を遮った。
「残ってるじゃないか」
「え?」
 彼にしては珍しい、とても強い口調だったので、驚いて目を開ける。
「君自身が残ってるじゃないか。しっかりと二本の足で立って、これから研究だって何だってやっていける、君自身が生きているだろう?」
「……気休めにしか聞こえないわ」
「気休めじゃない。僕は決して器用でも賢くもないけど、君がどんな風に生きてきたか、シャッターを通して人より多く見てきたつもりだ」
 どこにそんな気迫が隠れていたのか。
 私でさえ怯むような、ともすれば攻撃的な目付きだ。だというのに責める様子は一切なく、どちらかといえば自分自身を戒めているかのような、そんな不思議な表情だった。
「僕は不器用だから、うまくは言えなかったけどね。今朝、圭一君を見て確信したよ。入江機関の研究は、軍用の是非に関わらず素晴らしい成果を残せたんだって」
「でも。でも―――おじいちゃんの研究を、私、全部だめにして」
「ダメなんかじゃないさ。いいかい、ほら……君の研究のおかげで、少なくともレナちゃんは助かってる。そして、だからこそほら、この人も笑っていられるんだ」
 いいかい―――そう断ってから、富竹はポシェットから一枚の写真を取り出した。
 そこには。
 鮮やかな緑の映える田園を背景に、微笑んで佇む前原圭一の姿。大して美形でもないくせに、一瞬言葉を失うほど、その姿は気品と希望に満ち溢れていた。
 絶望や悲惨をテーマにして、賞を得た写真というのは幾つもある。だが、この一枚には、そんな後ろ向きな単語は微塵もない。明るい決意と、とても優しい力強さに満ち溢れていた。
「彼は言ったよ。これからの人生を、雛見沢に対する“恩返し”として生きていくって。未来を十分に予感させる、本当に力強い宣言だった。そんな少年達を、君の研究が助けたんだよ?」
「……」
「君と君のお祖父さんに助けられた命が、この雛見沢の歴史を紡いでいくんだ。彼らが大人になって、両親になったとき、きっとこう語り継ぐのさ。“あの時、鷹野と高野が助けてくれたんだ”って」
 “鷹野と高野”。富竹の言葉は熱っぽくて、幼稚で―――そして、とてもまっすぐで。
 笑い飛ばしてやろうと思ったが、喉は全く動かなかった。反論してやろうと思ったが、そんな気持ちもすぐに消えた。
 身体の中に何か湧き上がるものが生まれ、私の足を奮い立たせる。
「鷹野さ―――あ」
 そして。私はまるで当然のように一歩を踏み出し、川へ向かって岩肌を蹴った。
 不思議と迷いも、恐れもなかった。数秒後、私を水浸しにするであろう渓流の水面には、とてもとても青い空が映っていて。
 なぜだろう。水鏡に映る空の向こうで、大好きだった祖父が微笑んでいる気がした。


[空と水面の狭間で]



 翼が生えた気がしたのか、空を飛べると勘違いしたのか。
 あくまで人である私に揚力など作れるはずもなく、重力に引っ張られて川底へと落っこちる。盛大な水飛沫が霧状になってとび散り、私の視界に綺麗な七色を作った。
「た、鷹野さん!? 大じょ―――うわあ!」
 驚いた顔をして手を差し伸べてくる富竹を、私は思い切り引っ張った。
 数秒は抵抗していたようだが、つんのめったような姿勢では力も入らないのか、やがては奇声をあげて河川の真っ只中へと転落する。頭から落下しながらも、何とかカメラの入ったポシェットを岸に放り投げて水から庇う辺り、実に富竹らしい行動だった。
「っ―――ぷあっ。た、鷹野さん。困るよ……」
「ふふ、急にね。困らせてみたくなったのよ。何てことないわ」
 悪びれなく言ってくすくす笑うと、富竹はばりばりと頭をかいた。
 引き摺り込まれたことに対する不満が半分、私がヒステリーを起こした風でないことに対する安堵が半分、といった表情だ。
「“恩返し”……か」
 首筋の近くまで水に浸かりながら、ざぶざぶと流れをかきわける。
 軽く川底を蹴ると、身体はあっさりと水に浮かんだ。そのまま仰向けになって漂っていると、まるで沢に浮かぶ軽木の一つにでもなった気分だ。
 背中を冷やす清水の爽やかさと、照り付ける陽光の暑さが、相反してとても心地いい。もしお気に入りの曲でも流れていれば、優雅にタクトでも取りたい所だった。
「空、綺麗ね」
「ん……そうだね」
「あの向こうには何があるのかしら? 宇宙を越えて、銀河を越えたら、天国まで続いてるの?」
 ゆらゆらと漂いながら、私は思いつくまま出鱈目な言葉を並べる。
 空の向こうでは筋雲が線を引いて、此方から彼方までの見事な一直線を描いていた。もしあの果てに天国があるとしたら、私の言葉もいつか時を越えて、祖父の元へと届くのだろうか?
「はは。カメラで撮ってみたい気分だね」
「そうね。悪くないわ、そういうのも。今度教えてくれるかしら?」
「いいともさ。僕でよかったら何でも教えるよ!」
 写真に興味を持ったことが嬉しかったのか、富竹の声が大きく弾む。
 その必死さが滑稽で、けれどなぜかとても暖かくて。虚栄もからかう気持ちもなく、ぽろっと私の口から言葉がこぼれた。
「そうね。じゃあ、結婚でもしてくれるかしら」
「うんうん、もちろんなんでも―――ええ!?」
「おじいちゃんが一二三で、私が三四なら……子供は五月に六花に七々かしら?」
 八はともかく、九は決めるのが難しそうね―――などと呟き、私はそっと目を閉じた。
 森の暗がりが近いせいか、耳を澄ませば山奥からはひぐらしの声。あと数時間もすれば、日没を惜しむ大合唱が雛見沢を満たし、夕焼けと共に村の隅から隅までを晩夏色に染めていくだろう。
「おじいちゃん。私、もう少し頑張ってみるね?」
 今度は神に挑む鷹野三四としてでなく、ただ貴方の孫である田無美代子として生きていけるように。
 そんな淡い願いを込め、私はそっと呟いた。
 ―――もう少しだけ、生きてみよう。
 砕け散った“田無美代子”というカケラから、いつか新しい命が生まれるまで。
 その子らが言葉を覚え、昔話をせがまれるであろう老いた私が、祖父の事を伝え聞かせるまで。
「ジロウさん。私、割と本気よ?」
「は、ははは。だったら僕としては嬉しいけどね!」
「ふふ。信用ないわね、私」
 生きてみよう。
 いつか私が納得できる形で、愛した祖父への恩返しを終えられるその日まで。
「―――ありがとう―――」
 今はまだ、照れの滲むこの言葉が。
 いつか、どうか、素直で穢れのない詩に変わって。
 果てしなく続く青い空の向こうへ。ひぐらしの鳴き声と共に届く日まで―――。

[Thanks for reading]