

鉾田陸軍飛行学校は、昭和14年に浜松陸軍飛行学校の分校として設置されました。翌年7月10日の軍令16で、浜松陸軍飛行学校令が改正され、軽爆を鉾田飛行学校に移すことになりました。そして、同日の軍令17で鉾田陸軍飛行学校令が制定され、浜松陸軍飛行学校からの独立が決定し、昭和15年12月1日に正式に開校しました。
鉾田陸軍飛行学校及び飛行場の敷地は、北浦湖岸の鉾田町烟田から大竹海岸に通じる県道の南側に広がる鉾田町(旧新宮村)と大洋村(旧上島村)にまたがる広大な地域にありました。
滑走路は北西から南東に1570メートル、北東から南西に1300メートルの滑走路がありました。
飛行場の敷地となる山林及び耕地の大半は買収され、旧上島村青山地区の人達は諏訪小学校付近に移住を余儀なくされました。
昭和16年12月8日、日本は対米英宣戦布告をしましたが、その後、戦争はますます熾烈になり、昭和19年6月には、本土防衛のため鉾田陸軍飛行学校は鉾田教導飛行師団に編成替えされました。さらに、昭和20年7月には、作戦任務の第26飛行団と教育研究任務の第3教導飛行隊の2つに分かれました。
なお、福島県相馬郡に建設された原町飛行場は、昭和17年7月に鉾田陸軍飛行学校に移管され、鉾田陸軍飛行学校第2中隊飛行場となりました。そして、昭和19年5月には、鉾田教導飛行師団原町飛行場に改称されました。
鉾田陸軍飛行学校の飛行場からは、陸軍初の特攻隊である万朶隊が昭和19年10月に、続いて鉄心隊、皇魂隊、振武隊等の特攻機が飛び立ちました。また希代少佐ら30余名の将兵や軍属が訓練中等にこの地で殉職しました。
昭和20年2月16日、25日に飛行場は爆撃され格納庫等に大きな損害を受けました。
同年8月15日の終戦により鉾田飛行学校は開校後4年余りで閉校することになりました。
戦後、学校及び飛行場は米軍に接収されましたが、その後、この地に長野県出身者や地元の人々が入植し、美原開拓が誕生しました。今では、ビニールハウスが幾棟も並び、ミツバやメロンを栽培する豊かな農業地域に変わっています。
万朶隊長岩本益臣氏が、鉾田飛行場を飛び立ってから半世紀が過ぎました。岩本氏は第13期少年飛行兵を短期間でありましたが、指導しました。
夫人と元少年飛行兵の人々によって、岩持氏の命日には特攻隊で亡くなられた方々の霊が毎年供養されています。
そして、地元の飛行学校関係者によって、昭和49年に顕彰碑が建てられました。顕彰碑の建ってるあたりに格納庫やエプロンがあったようです。毎年10月の第3火曜日に、顕彰碑の前で慰霊祭が挙行されています。
![]() 鉾田陸軍飛行学校顕彰碑 | ![]() 戦没者英霊碑 |
![]() 顕彰碑の周囲に桜が植えられている | ![]() 飛行場西側にある謎の丘 |
![]() 顕彰碑近くの畑脇に置かれている気動車 (他の場所に3両あり) |
![]() 飛行場跡は広々とした農地になっています。 |
![]() この農道右側に平行に滑走路がありました。 | ![]() 飛行場跡地内農道脇にある謎の古井戸 1.5m4方位で深さ5m位、底は土で埋まっている |
![]() 謎の古井戸近くにある廃屋 |
![]() この信号を左折したところに鉾田飛行場がありました。 |
飛行場跡北側の無蓋掩体
![]() 墓地になっているコの字型掩体 | ![]() 杉林内にあるコの字型掩体 |
飛行場跡南側の無蓋掩体
![]() 杉林内にある無蓋掩体 | ![]() 南側杉林内もう1基の掩体 |
![]() 民家の裏側にある無蓋掩体 | ![]() 民家裏掩体北側にある杉林内のまっすぐな土盛り |
岩本益臣大尉
(1917〜1944・28歳で戦死。
跳飛爆撃を考案したパイロットです。
福岡県豊前市岩屋大河内生まれ。
築上中学校(現築上中部高校)卒業後、陸軍予科士官学校、陸軍航空士官学校を卒業。
満州白城子陸軍飛行学校に入学するまで中国各地、マレー・シンガポール・ジャワなどの南方戦線で活躍しました。昭和18年、鉾田飛行学校の教官となりました。
岩本大尉は「跳飛爆撃」(魚雷は海面下に沈んで進行するが、爆弾を海面下に沈ませずに石の水切りのような形で進行させ敵艦船を攻撃する方法)の我が国第一人者でありました。彼は技術的に体当たりに効果がないことを知っており、かつ陸軍首脳部、特に特攻提案幹部に対する反発がありました。また優秀な部下を犬死にさせるのにしのびなかったのです。「隊長として死ぬまで特攻攻撃の暴挙に反対して戦死した」といわれています。決して死を恐れたわけではないそうです。
体当たり特攻の研究提案者は第3陸軍航空技術研究所所長正木博少将で一機一艦撃沈の正木論が正当化されていました。
昭和18年、長州萩生まれの村田和子さんと結婚、新婚生活は僅か10ヶ月半の短さでありました。
昭和19年8月、台湾の基隆港で九九式軽爆撃機により超低空飛行で跳飛飛行を行い最高の命中率をあげました。
昭和19年10月、フィリッピン方面での最後の決戦、捷第1号作戦が発動されました。当時鉾田飛行師団の岩本大尉以下24名はフィリピンの第4航空軍に配属されました。このとき既に岩本大尉らにはレイテの敵艦船に対する体当たり攻撃が予定されていました。
これが陸軍初の特攻隊で万朶隊と命名されました。
11月5日、岩本大尉は将校隊員4名と特攻機に同乗し、リパをたちまし
た。バイ湖上空にさしかかった時、敵のグラマンF6Fヘルキャット2機の急襲に遭い胴体着陸しましたが、1人を除いて壮烈な戦死を遂げました。
岩本大尉の辞世の句のひとつ
「武士は散るもめでたき桜花 花をも香をも人ぞ知るらむ」
戦死1ヶ月後に婦人の元に死亡通告が届きました。その後婦人は萩に帰り独身を通したそうです。
九九式軽爆撃機
九三式双発軽爆撃機の後継機。最大速度480km/以上、航続距離
2,000km以上、機内弾倉に400kgの爆弾の搭載可能といった要求
仕様の下に開発指示されたのは、1937年12月のことでありました。
双発機としては爆弾の搭載量も少なかったですが機動性に富み速力もあり、
操縦性、実用性ともに良好、稼働率も高く、搭乗者の信頼を得ていました。キ30九七軽、キ32九八軽の爆撃機が姿を消したあと陸軍の主力爆撃機として
全戦域で使用されました。
陸軍で、九七式二型重爆撃機とともに最も稼働率のよい爆撃機といわれていました。
実戦では爆弾搭載量の少なさ、防御火器の貧弱さ、防弾装甲の不備などの弱点が年を追うごとに表面化し、太平洋戦争中盤以降は苦戦を強いられました。
大洋村の水道配水場工事現場から不発弾が出て来る
大洋村吾妻原で建設中の水道配水場工事現場から、太平洋戦争で旧日本陸軍の使用した演習用爆弾の不発弾が続々と見つかりました。2000年10月末までに計9個に見つかり、拾得物として預かった鉾田署から陸上自衛隊の不発弾処理隊に引き渡されました。現場付近は旧陸軍鉾田飛行学校の爆撃演習場があったところです。
不発弾が見つかったのはポンプ、発電施設棟の作業現場だそうです。
2000年10月5日、基礎工事のためパワーショベルで掘削中、地下約2.5mから全長70cm、直径10cmの不発弾一個が発見されました。工事を中断し、金属探知機などで調べたところ、同現場から破片も含め10月27日に1個、30日に2個、31日には5個と、約360平・の区域から続々と見つかったそうです。
工事現場付近には戦前、コンクリート製の円形の標的があり、爆撃演習が繰り返されていたそうです。戦後間もないころは、大量に残った爆弾片を屑鉄として集める人もいたそうです。
戦後開拓が進む中で標的も壊され、少し離れた所に標的の監視台だけが民家の生け垣に埋もれるようにたたずんでいます。この標的監視台の近くまで道路が拡幅されれているので、道路工事が始まると撤去されてしまうかも知れません。
標的監視台近くのサツマイモ畑からは今でも破片が顔を出すそうです。耕作機械を壊すおそれがあり、ゴボウのように深く耕す作物はここでは作れないそうです。
陸軍鉾田飛行学校は1940年に開校しました。大洋村と鉾田町にまたがる広大な敷地を有し、1944年10月、鉾田飛行場から陸軍最初の特別攻撃隊「萬朶隊」が飛び立ちました。今回の工事現場から約3・離れた鉾田町側では同年3月、米軍の投下した250キロ爆弾の不発弾も見つかっているそうです。
不発弾が出て来た、現場は吾妻原の火の見やぐらの隣に建設中の水道配水場で、近くには吾妻原神社があります。
吾妻原交差点の近くで、何年か前にボーリング用のやぐらを建てて温泉を掘っていましたが、温泉は出て来なかったらしく、やぐらは撤去し現在はその場所には何も作られていません。
また、この交差点の近くには上島中学校がありました。廃校後も門柱が残っていましたが、現在は撤去されてありません。
標的の監視台は、吾妻原交差点の近くの道路脇にあります。道路を挟んで反対側にはタバコ屋さんがありましたが、潰してしまって今はありません。
吾妻原交差点は、国道51号線の汲上から、北浦湖岸の梶山に向かう道路のほぼ中間地点にあります。
![]() 標的の監視台 |
![]() 不発弾の見つかった水道配水場工事現場 |

鉾田飛行場の写真
鉾田飛行場の写真が航空ファンイラストレイテッド 94−12 No.79 「陸軍航空隊の記録 第1集」(文林堂)に掲載されています。
鉾田飛行学校エプロンに整然と並んだ97式軽爆撃機群、軽爆乗員養成の陸軍鉾田飛行学校で訓示を終え出発直前に挙手の礼をする学生たち、99式双発軽爆撃機、鹿島灘近くの農家上空を低空で飛行中の99式襲撃機(当時は県道だった国道51号線がよく分かります)、北浦(当時は護岸堤がない)や鹿島灘上空を飛ぶ99式襲撃機、鉾田飛行場に着陸旋回中の99式軍偵察機、飛行中の機内や地上での操縦士、整備士などの写真があります。
当時の陸軍鉾田飛行学校の様子を伺い知ることのできる貴重な写真です。
映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』
1944年秋、太平洋戦争で不利な戦況の日本軍は、最後の手段として戦闘機に爆弾を搭載し敵艦に体当たりする特別攻撃隊を編成しました。
鹿児島県の知覧飛行場はその特攻基地となりました。陸軍指定の食堂を構え特攻隊員たちから慕われていた鳥濱トメさんは、特攻に志願した彼らを引き止める事も出来ず、戦地へと赴く若者との別れを幾度も経験しました。
長年「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんと親交を深めてきた石原慎太郎東京都知事が製作総指揮と脚本を手がけた本作品は、国を守るため懸命に生きた若き隊員たちの苦悩と彼らの青春の輝きにあふれています。
特攻隊員役の徳重聡さん、窪塚洋介さん、筒井道隆さんは、本作の撮影のために自衛隊で訓練を積んでこの役に挑んだそうです。岸惠子さんが演じるは鳥濱トメさんは、出撃する特攻隊員たちに注がれる本当の母親以上と言える愛情が見る者を大きく優しく包み込みます。
そして、その大きな愛に包まれた特攻隊員たちの命が尽きる瞬間、切なさと共に平和の尊さを改めて感じてくるのです。
この作品の中に「鉾田から来ました」と言う特攻隊員が登場します。陸軍特攻隊は、鉾田陸軍飛行学校で編成されています。
鉾田陸軍飛行学校は、1940年12月に茨城県鉾田市に設置された軽爆撃機、襲撃機の幹部養成と研究を行う航空学校です。
1944年6月に鉾田教導飛行師団に改称され、航空要員の養成と実戦指導に当たることになりました。
1944年10月、捷一号作戦発動に伴い、岩本大尉以下24名は第四航空軍(軍司令官富永中将)の陸軍特攻隊「万朶隊」として出動しました。
鉾田教導飛行師団では、鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊4隊、神鷲隊12隊など合計24の特攻隊が編成されました。陸軍「万朶隊」は日本で最初に編成された特攻隊なのです。
鉾田市美原にあった鉾田飛行場跡は戦後農地になり顕彰碑が建てられました。ほとんど崩されてなくなってしまいましたが、いくつかの無蓋掩体も残っており面影が多少残っています。
そんなことを思いながらこの映画を見ていると泣かずにはいられない作品です。
主題歌はB'zの「永遠の翼」です。2人は主題歌作成の依頼を受け、鹿児島南九州市にある特攻平和会館を訪れ、深い感銘を受けて主題歌の曲を製作しました。
監督:新城卓
製作総指揮:石原慎太郎
脚本:石原慎太郎
キャスト:岸恵子、徳重聡、窪塚洋介、筒井道隆、多部未華子、前川康之、中村友也、中越典子
日本公開:2007年5月12日
上映時間:2時間21分
配給:東映
新宮中学校跡
鉾田飛行場跡から少し離れたところにある、青山農協集荷所の敷地の片隅に枯れ草で覆われた石碑が建っています。この石碑は新宮中学校跡の碑です。
昭和30年3月15日に、旧鉾田町に秋津村・巴村・徳宿村・新宮村を加えた5町村の合併によって現在の鉾田町が誕生しました。
現在鉾田町に中学校は、鉾田北中学校と南中学校の2校しかありません。合併により新宮中学校は廃校になりました。ここが、その新宮中学校の跡地のようです。校門跡と思われる門柱も残っていて、片方は倒れています。門の前は畑になっているので、ここからは出入りできません。
農協集荷所の入口にある門柱も古そうです。
![]() 新宮中学校の門柱 | ![]() 新宮中学校跡碑 |
