[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

旧日本海軍予科練跡地

茨城県阿見町の陸上自衛隊土浦駐屯地は旧海軍予科練跡地にあります。現在駐屯地内には武器学校があります。
大正11年、霞ヶ浦海軍航空隊が開隊し、昭和14年に横須賀航空隊より予科練習部が移動しました。
昭和15年、土浦航空隊を霞ヶ浦空水上隊跡に開隊し、予科練習部を移して以来、予科練教育の中心的存在になりました。
終戦後、昭和27年に陸上自衛隊武器学校が設立されました。
正門で警務隊員に見学したい旨を伝え、見学者駐車場に車をとめ受付をします。
見学者駐車場から予科練記念館「雄翔館」の間の道路脇の桜の木の間に戦車等の車両が展示してあります。正門から霞ヶ浦までまっすぐ続くメインストリートは桜並木となっていて、桜の開花時期は戦車や飛行機を入れて写真が撮れます。
戦車や火砲のほかに、空自のT−33A中等練習機(204SQ)、F−86D戦闘機(501SQ)、陸自のV−107Aヘリコプターなどが展示してあります。
旧米軍戦車M24,M4A3,M36,LVT−5も展示されています。陸自に払い下げられた物と思われます。40mm自走高射機関砲,60式自走迫撃砲,74式105mm自走りゅう弾砲,75式多連装130mmロケット弾自走発射機が展示されています。最新の90式戦車まで展示されています。90式戦車回収車も展示されています。この他に90式戦車のボディーにクレーンを付けた回収車や、レッカー車も展示されています。
大正11年、ここから少し離れたところに霞ヶ浦海軍航空隊が開隊し、昭和14年に横須賀航空隊より予科練習部が移動しました。昭和15年、土浦航空隊を霞ヶ浦航空隊水上隊跡に開隊し、予科練習部を移して以来、予科練教育の中心的存在になりました。
終戦後、昭和27年に陸上自衛隊武器学校が設立されました。

予科練の碑
「予科練の碑」は、国のため家族のために若い生命を捧げた予科練出身者達の尊い心を、永遠に顕彰する目的で建立されたものです。



予科練記念館「雄翔館」
館内には予科練の学生の遺品や遺書、写真が一杯展示されています。
屋外展示物は撮影できますが、館内は撮影禁止となっています。 雄翔館は当時の若者がいかにして戦い何を考え、死んでいったのか、飾りのない記録が現在の我々に語っています。 悲愴な予科練の足跡が世界平和の資となるために、永く維持されることを願うものです。 屋上(2階)は展望台になっており、T−6が上から見られ霞ヶ浦も望めます。
雄翔館前に展示されている機体は、塗装からして一見旧海軍機に見えますがT−6テキサンです。
雄翔館の左隣にある記念公園内には、予科練の銅像があります。
正門横の建物(武器歴史資料館)の駐車場に、旧日本陸軍八九式中戦車が展示されています。
同じく駐車場には、旧日本陸軍三式中戦車が展示されています。
左隣には各種迫撃砲がありさらに左には、新型の96式装輪装甲車が既に飾り物になっています。

雄翔館

96式装輪装甲車

T-6
T−6テキサン


雄翔園
予科練出身生存者たちが集い、日本国のために尊い命を散らせていった全予科練出身の亡き戦友の霊を慰めるとともに、誰のため、何のために散華していったのか、真の平和のために戦ったその殉国の精神を、正しく後世に伝えるために、かつて予科練教育機関の一つであった、土浦海軍航空隊跡地の一角に記念庭園として「雄翔園」を造成しました。
日本国の領土を描いた池に囲まれた園内正面には慰霊碑「予科練二人像」を建立しました。
毎年秋には全国から生存の同窓、遺族の人たちが「予科練二人像」の前に集まって、「亡き同窓の御霊やすらかに」と盛大な慰霊祭を行っています。
yuhi
雄飛の碑


武器資料館
この建物は昭和15年、土浦海軍航空隊の改編に伴い建設された医務科の跡です。
siryou
武器資料館


予科練
土浦海軍航空隊(現陸自武器学校)は終戦の昭和20年まで、日本海軍少年航空兵養成の中核的施設でした。予科練卒業生は、全国で約24,000人で、18,564人が、太平洋戦争で戦死しました。
昭和41年、予科練の碑「予科練二人象」が、昭和43年には予科練記念館「雄翔館」が予科練出身者により建てられました。記念館には、約1,700点の遺品がおさめられており、日本の昭和史を伝える貴重な記念館です。年間7万人余りが全国から訪れています。
昭和5年、海軍飛行予科練習生制度が発足しました。当初は高等小学校終了以上のもので、満14歳以上20歳末満で学力・体力ともに優秀な少年を飛行兵として採用し、きびしい教育訓練課程を経て海軍航空隊の中堅幹部に育てました。
昭和12年、さらに航空戦力の急速な拡充のため搭乗員の大量養成が必要となりました。従来の少年航空兵を乙種飛行予科練習生と称し、あらたに中学校(旧制)4学年1学期予期修了以上(後に3学年修了程度)の学力を有する志願者から採用する甲種飛行予科練習生制度を設け、合格者を短期間で養成しました。年齢は満15歳以上20歳未満でした。
また、海軍内部の一般下士官兵の中から飛行科を志願し、選抜された者を丙種飛行予科練習生と呼びました。
昭和18年から乙種予科練志願者のうち一定資格のある者を乙種(特)飛行予科練習生と称して短期教育の上第一線に送り出しました。
1937年(昭和12年)7月7日、日本と中国が戦闘状態に入りました。海軍航空隊は同年8月15日、九州の大村基地を発進し、暴風雨をついて東シナ海を飛び越え、中国の首都である南京の軍事施設を爆撃しました。当時、大編隊を組んで海を渡ることは世界航空史に例がありませんでした。この渡洋爆撃に予科練出身者も参加し、予科練の声価を高めました。
1941年(昭和16年)12月8日、日本と連合国との間に大平洋戦争が始まりました。ハワイの真珠湾攻撃に成功した日本は、またたくまに太平洋の広範な地域を占領しましたが、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で大損害を受け、さらに同年8月アメリカ軍のガダルカナル島への攻撃から連合国の反撃が開始されました。アメリカ軍を中心とした連合国は、豊富な物量を投じ、しだいに日本軍を圧迫してきました。
海軍航空隊は優勢な敵を阻止するために、特別攻撃で爆弾もろとも敵艦に体当たりをする作戦を敢行するにいたりました。しかし、敵の攻撃は、ついに日本の本土に接近してきました。空からの守りだけでは祖国を救う方法はなくなりました。新しい特攻兵器が戦場に投入されました。人間魚雷・回天・海竜・蛟竜、爆装モーターボート・震洋、人間魚雷・桜花、爆薬を抱えて敵艦に体当たりするフロッグマン・伏竜など、そのいずれもが予科練を中核とするものであり、空と海上と海中一体となって戦いました。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は降伏しました。国土は荒廃していました。焦土と化した都市、食うに糧なき国民、この混乱状態の中から生き残った人たちは、予科練魂を発揮して立ち上がりました。荒れ果てた国土を復興しよう、それが戦死した戦友たちに報いる道でもある、と決意したのでした。


交通:常磐線土浦駅下車、バスで「武器学校前」
   見学者用駐車場あり
開館:平日、土日とも9時〜16時30分
※ 正門横の受付で簡単な受付手続きが必要です。

T-33
T−33A(204SQ)
F-86D
偵察航空隊はRF−4の前はRF−86Fだったのに、なぜかF−86Dにウッドペッカーマークがついてます。
V-107
V−107Aバートル
sensya
桜の木の間に並べられた戦車群
90siki
90式戦車


戦前あった飛行場へ戻る


ホームへ戻る