十牛図中国中世思想史研究会

十牛図

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中国中世思想史研究会のサイトへ-----ようこそ-----「十牛図」研究

東洋思想、東洋哲学 東洋的発達心理学を学び、議論し人生の本質に迫る事が最大の目的です.。
私どもの中国中世思想史研究会その名の通り中国中世の思想史について研究続けています。
語録、お経、禅書などにたくさんのヒントを見出し。人生の意味を求め、それを深めることを中心にする

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。カルト宗教・カルト的解釈は追放したい

今回は十牛図を取り上げます。

十牛図., じゅうぎゅうず 中国宋代の禅宗の書。仏道入門から真の悟りに至るまでの過程を、牧者と牛に託して一〇の絵と短文で示したものだと言われてきましたが,今回、その解釈が書きかえられましたので,ここに取り上げたいと思います。 禅の実践を通して禅者の心境の発展過程を、牛と牧人の関係に象徴させた「十牛図」、自己発見の旅と言う解釈は誤っていると氏は語っているのだ。 難解な禅の心を具体的に表現するためのものでは必ずしもないと言うのである。.
そこで今回は許可を頂き十牛図新解釈を当サイト中国中世思想史研究会に掲載させていただく事に成りました。

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。

十牛図カルト宗教・カルト的解釈は追放したい

「十牛図」研究

十牛図新解釈
教科書、書物にある。これまでの「十牛図」解釈には決定的な誤りがあると思う
「十牛図」に関心ある方は、是非読んでください。人間の生き方へのヒントとして、人生哲学として、歴史推理としても面白いので、是非読んで頂きたい.。


「十牛図」は人間の不完全さ、誤り、人間が与える事を忘れ、奪う事ばかり考えていると地上は貧しく成っていくばかりだというような事を人間へ伝えたい。との思いがあの絵を創らせたのだと思います。 「十牛図」は人間の本質と人間へのメッセージを描いたものであり、私の見解は教科書、多くの書物での解釈と全く違っている。これまでの教科書、書物での解釈には決定的な誤りがあるとの結論に達したので、申し述べる事にいたします。「十牛図」は一般的には、これまで、私探しの旅における自己確立と自己解放のドラマを図像化したモノである事に成っていましたが、これが解釈の最大の誤りであると指摘します.。後に、この点の矛盾を論理的に説明します。「十牛図」は、悟りを牛に例え修行の道程を表現するために用いた図であるとの解釈も私は否定的です.。
十牛図カルト宗教・カルト的解釈は追放したい
「十牛図」新解釈を音声で聴く事が出来ます。音声はMP3です。
「十牛図」新解釈

音声「十牛図」新解釈はじめに


私の「十牛図」新解釈「十牛図」リンクで絵も観られます。写真の十牛図 伝周文筆 室町時代
1.尋牛・・・十牛図1 十牛図これまでの解釈は、最初から牧人とされていますが,本当はそうなのでしょうか。
2.見跡・・
十牛図.  十牛図   牧人は、足跡を見ながら牛を探します。コレは,人間の知恵有る事をしめしています。
これまでの「十牛図」解釈@尋牛・・・牧人が牛を探しています。つまり「自己とは何か」を探している
 A見跡・・・牧人が牛の足跡をみつけました。知識として学ぶことにより,真の自己のあり方がみえてきた。


3.見牛・・・十牛図3
 十牛図 頭隠して尻隠さず,の牛が描かれます。なぜ作者は,牛の前部を隠したのでしょうか。牛は、自然と一体に成って生きていた。牛は自然の中に逃げ込もうとしていたのに、それを自分の都合で引き離し生活の中に取り込もうとしている。その人間への批判を表現する意図があったものだとも思われます。これまでの「十牛図」3.見牛・・・悟りの開けたところである。

「十牛図」新解釈4.得牛・・ 音声


 
4.得牛・・十牛図  十牛図ここでは,牛に既に縄がかかっています。しかし、最初から牛には縄がかかっていたのでしょうか。本当は,牧人は、元々この牛の持ち主でもなく、ただ野山をかけまわっていた牛を捕まえて、自分のモノにしただけではないか。だから綱は,後からかけられたのですが,自分本位で固定観念ある人間は,最初から牛には縄がかかっていたと思い込んでしまいます。つまり、牛は,元々人間に飼われるものだという固定観念ですね.。 牛より力で劣る人間ですか,縄を首にかけることで,牛をうまく捕らえました。コレは,人間の知恵有る事をしめしています。人間は知恵によって、地上の支配者と成ったことをも表現している様です。 これまでの「十牛図」4.得牛・・・本来の自己である牛は、もはやその全部の姿を現している。といって、その牛を確実に自分のものにすることは決して容易ではないのである。

「十牛図」新解釈5.牧牛より10.入テン垂手まで 音声


5.牧牛・・十牛図  十牛図牛は、もう抵抗する事も無く牧人とともに歩いていましたが、コレは、牧人と牛が真に心から一体に成ったと言う訳では有りません。ただ仕方なくそうしたのに他ならない。 

6.騎牛帰家・・十牛図  十牛図  牧人は牛をうまく飼いならし牛が抵抗し無くなったとみるや、とともに歩いてた牛に、ついに、またがります。自分で歩くよりその方が楽だからでしょうか。図々しい人間の姿です。
これまでの「十牛図」解釈
E騎牛帰家・・・枚人は牛の背に乗り,横笛を吹き,牛にまたがり家路へ向かいます。ここでは牧人と牛とは一体。自己自身の一体性が達成された。

7.忘牛在人・・・十牛図7.
 十牛図 人は神へ感謝で手を合わせているのでしょうか。良い牛を得ることができ、牛とも心が通じ合えたなどと自分勝手な思い込みですね。そして、新たな願い事をしているのかもしれません。図々しいですね。牛の自由を奪っておきながら、自身の不自由のため願いを叶えてくれなどと。だから忘牛在人なのです。そして、願いを叶えてくれる神があるかどうかも分からないのに手を合わせているのです。人間とはナント盲目なものか。
これまでの「十牛図」解釈F忘牛在人・・・牧人が合掌しています。牛の姿は画面から消え、牛と一体になったからには,もはや牛という別個のものとしてみられる必要がない。自己実現、自己超越状態。

8人牛倶忘・・・十牛図 十牛図   人間とはナント盲目なものか。これでは、何も観えて無い様なもの。だから何も無いのです。ほんとうは何も観えて無いのではありませんが、禅師は彼のナゲキと共にこの部分をデフォルメして表現している様です。それとともに、この人牛倶忘は禅師の心理をも現しています。人間は身勝手で欲張り、牛は,人間の機嫌をとって生きていくしかない。つまらない。もう牛の事も、人間のことも忘れたい。
これまでの「十牛図」解釈
8人牛倶忘・・・牛、人、家も月も消えてしまい,空,絶対の無だけがあります。この空なる画は,第一から第七に至る自己形成の全履歴を,完全に否定している。第七の自己の到達点も,悟りでとまった,いやらしい状態でしかない。「自分は本来の自己を得た」という観念を持ったら、それこそ迷いの境地であると考えるのがのが、禅の世界。

 
9返本還源・・・十牛図9 十牛図   それに比べ草木や川は自由で美しい、誰の機嫌をとることも無く。誰の自由を奪おうともせず。けれども、自然は,欲が無い上に、自らの意思も持たない。自身は,つまらない存在でしか、ありません。そんな自らの意思も持たない草木でさえ、人の心を和ませているのです。
これまでの「十牛図」解釈9返本還源・本に帰り、源に還る。時間も空間も超越、万物が一体となり、そこに根源がある。その本来清浄そのものの真実の世界
 
10.入テン垂手・・・十牛図10  十牛図 人間は他の生き物の自由を奪ってきた。だからこそ、その償いをすべきである。人は知恵有るがゆえに欲望も大きい存在である。そして、その知恵も不完全なもので,思い違いもある。だからこそ、人の中に交わりを持ち、自らを改める事をおこたってはならない。欲望が大きい存在であるがゆえに、それに比して大きな心を持たねば成らない。人心の理解に勉め、思いやりを持ち、励まし合い、助け合って生きていかねば成らない。

補足 二人が持っている荷物の意味 音声

10.補足 二人が持っている荷物の意味
大変残念なことだが,この場面は禅師の心の中の風景であり,願望である。私は,この荷物を人間が知らず知らずのうちに人から、あるいは、あらゆる地上から奪い取ってきた幸福や自由だと解した。それを人に自ら担がせることが出来れば,人は,自らの行いを自ら知ることが出来る。そして、重たくなってくれば,自然と人にその幸福を与えようという気に成るだろう。現実は、人間は,自分の罪、行いになかなか気付かないのであるが,、、、。そうであったらいいのに。と言う意味だと思う。
 
これまでの「十牛図」解釈10.入テン垂手 町の中に入って衆生を救う。悟りとは禅の世界にだけのものでなく。普通の生活の中に生かされてこそ意義があるのだ。

「十牛図」新解釈まとめ1 音声

「十牛図」新解釈まとめ2 音声



.これまでの教科書や書物なされてきた解釈は誤っているとしか言いようが無いと思う。人間は他の生き物より偉いとの固定観念にとらわれている人には禅師のメッセージは観えにくかったに違いない。 訂正すべきであると思う。大きな誤りを直すことは誤りを放置しておくことより良い事であろう。学者の良心を忘れてはならない。 上田閑照,柳田聖山,両氏の読み方、また、コレに習った、それにしたがった読み方、解釈は間違っていると思う。禅師の言わんとする本意をほとんど、つかんでいない。解釈者は牛を真の自己としています。つまり、これは、解釈者自身が決めたルールなのです。むろん、人間は、不完全であるがゆえに真の自己が観えるというのがオカシイというのが現実的ですが、解釈者自身が非現実的ルールをそのようなに決めたのだから、それは守らなければならないと思いますが,第一図から第七図の全てを否定してしまうときだけ、都合良く現実的論理を持ち出すのは、矛盾であり、オカシイと思います。牛を真の自己としたのなら、それを探す、捕らえる事自体誤りとは言えないと思います。私の「十牛図」の解釈,見解は、やはり、大筋で誤っていないと思います。真の自己が観えるという。この点では完全な人間が、自己と一体化したと実感したことは真ではないと、言いきるのも、無理があると思います。 もともと、十牛図自体は12世紀に書かれたもので、僅かな文字しか書かれておらず、それに、学者が、勝手な解釈を付けてきただけなのだ。いつまでも間違った解釈が続けられているのは、廓庵禅師を冒涜する事にも成ると思う。ある学者に、この解釈を伝えたが、この解釈は素晴らしい、今までになかった着眼だとか言いながらも、やつぱり、今までの解釈を変える事は出来そうにない。今までの読み方と全然違うのに、私の解釈が、正しいとすれば、今までの解釈は、トンでもない間違いだということになるはずなのに、納得できない。教科書等「十牛図」解釈については、著作権の問題もあり、すべてを、ここに載せる事は出来ませんので、詳しくは「十牛図」書籍でお調べ下さい。また、ネット上にも両氏の読み方、また、コレに習った、それにしたがった読み方、解釈が沢山有るようです。これまでの十牛図解釈は、論理的にも矛盾している。また、私の解釈の方がどう考えても、フィットすると思う。私の目的は、真理を求めることであって、個人または団体などを誹謗中傷する目的は全くない。むしろ、もし学者が名誉に、こだわって間違った解釈を変えないとすれば、それこそ、学問の自由を奪う者であると言わなければ成らない。

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。
十牛図カルト宗教・カルト的解釈は追放したい
皆様へ

私のメッセージ 「教科書等の「十牛図」解釈は誤りだと思う」に関心をもって頂き有難く思います.。
さて、さっそくですが、代表的な「十牛図」の解釈を提示している所についてですが、上田閑照,柳田聖山,両氏の読み方と全く同じ読み方は、ネット上には無いようですが,牛を「真の自己」、それを追いかけ捕まえる人間を「真の自己を求めている自己」としている点は、たいてい共通しています.。コレに習ったと思われる、似た読み方として,ネット上には十牛図zenshukaiga/jyugyuzuが有ります.。ここには,よく教科書でも取り上げられている周文筆の絵も有りますので、絵と文を比較しながら読んでいただければと思います。しかし、これは、少しばかり簡略化されているので、付け加えておきます。前に述べた様に、「十牛図」は一般的には、私探しの旅における自己確立と自己解放のドラマを図像化したモノである事に成っています。
写真の十牛図 伝周文筆 室町時代
「十牛図」研究
多くの宗教は矛盾や詐欺的要素を含む
作家の野坂昭如さんが「すべての宗教は詐欺的要素を含んでいる」と言っていた。私はすべての宗教を知っている訳ではないから、そこまでは言わないけれど オウム事件の当時も、「オウム心理教を悪い宗教でない。良い宗教である」と言った発言をしていた宗教学者がいた。オウム心理教を支援していた宗教学者やオウム心理教の信者となっていた学者もいた。カルト宗教に、こびる宗教学者は、いらない。また、法の華他、インチキ宗教が出てきても、批判めいた事を言ったのを聞いたことがない。批判的な事を言うのは「教団が犯罪に関わっている」とマスコミが騒ぎ出したあと、それも、ごく一部の宗教学者だけが批判するのみ。宗教学者なんて、ほとんどが宗教や宗教団体の御機嫌ばかりとっているか、傍観しているだけの様だ。瀬戸内寂聴さんがテレビで「神様は人間が絶えられないような不幸はお与えにならない」と言ってたが、それじゃ日本で年間三万人以上も自殺者が出るのはどうゆうことなんだ。.「神様は人間に幸福だけお与えになる」というのか。それじゃ最初から神様が人間に幸福をお与えになるのでなく。神様なんて最初から、いないんじゃないの。宗教に都合のイイ、カルト的解釈はもうヤメテクレ

実は、私の知っている教授も、論理的には、私の解釈を認めています。しかし、現実には,権威ある宗教学者の解釈の為、ひっくり返すのが難しいらしいのです。今までの十牛図解釈は、むしろ、人間中心主義の利己的な解釈となっていると思いますね。学会でも、これまでの十牛図解釈に異論を唱えている学者もいます。例え、裁判になっても勝つ自信が有ります。裁判官程度の頭脳があれば、私の十牛図解釈の方がベターであり、正しいのだと、理解できると思いますから。


十牛図
カルト宗教・カルト的解釈は追放したい
十牛図研究

これまでの旧「十牛図」解釈のポイントとしては
@尋牛・・・牧人が牛を探しています。つまり「自己とは何か」を探している
A見跡・・・牧人が牛の足跡をみつけました。知識として学ぶことにより,真の自己のあり方がみえてきました。
E騎牛帰家・・・枚人は牛の背に乗り,横笛を吹き,牛にまたがり家路へ向かいます。ここでは牧人と牛とは一体。自己自身の一体性が達成された。
F忘牛在人・・・牧人が合掌しています。牛の姿は画面から消え、牛と一体になったからには,もはや牛という別個のものとしてみられる必要がない。自己実現、自己超越状態。
8人牛倶忘・・・牛、人、家も月も消えてしまい,空,絶対の無だけがあります。この空なる画は,第一から第七に至る自己形成の全履歴を,完全に否定している。第七の自己の到達点も,悟りでとまった,いやらしい状態でしかない。

私は,この解釈は間違いだと思っていますが,解釈者は牛を「真の自己」としています。また、それを追いかけ捕まえた人間を、「真の自己を求めている自己」としています。この設定が既に間違っているからこそ、前にも述べている通り、その後の解釈が、論理的にも矛盾が出てきているのだと思います。牛を「真の自己」としている所から、はなはだしい人間中心主義の解釈ですが,学者の中にも異論をとなえている方はいらっしゃる様ですが、かと言って、今まで、それに変わる納得のいく解釈が無かったと言うのが現実の様です。廓庵師は、本当は、同時代の人間の姿を、批判的にみていた.。嘆いていたと思われます.。誰か後の人がこのメッセージを読み取ってくれたら、自分の生きてきた証と成るだろう。と言う気持ちがこの絵を書かせたのではなかったかと思います。人間は、何か自分の生きてきた存在を記録としてとどめたいと思うものです。私の解釈だと、不思議とピッタリと絵に一致してしまうのです。社会に、また、一般大衆に対して、批判的な見方をしていたと思えてきます。つまり、数百年たっても、人間は、それはど変わっていないと言うことでしょうか。なぜ、このような絵による表現をとったのか。その理由は、文書によりズバリと批判的なことを書けば、同時代の人に理解されたかと言えば、それも無理があったであろうし、かえって反感をかうだけだと考えていた為だと思います。
要するに、これは、「真の自己」、「真の自己を求めている自己」、自己実現、自己解放、自己放下などの話ではなく。他の動物の事など考えもしない、はなはだしい人間中心主義、他の自由を奪っておきながら自分の願い事だけは、神頼みをするような自己中心的な同時代の身勝手な人間の生き方を絵のかたちをとり、批判したメッセージであると思う。地上の生き物全てへも、ある程度の愛情を持ち、存在価値を認めなければ、人間の真の幸福もありえないのだという祈りにも似た願いを表現したものだと思う。 このような事を取り上げるのは、やはり,私の読み方、自説に自信があるからです。つまり、良心があり、思想的な論理的思考力の優れた人が十牛図を見て,これまでの解釈と私の解釈、いずれを正しいと判断するかは、明らかだと思うからです。したがって、より多くの良心があり、思想的な論理的思考力の優れた人に十牛図ならびに、これまでの解釈と私の解釈を、知っていただく必要が有ると思います。
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「十牛図」研究
これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。

十牛図
十牛図 頌を読む

「十牛図」質問

質問 「十牛図」の初見(史上初の「十牛図」)は何時でしょうか?また、その作者などは解っていますか?廓庵師の「十牛図」がオリジナルなのか、それとも、廓庵師版「十牛図」と言うべきものか?


「十牛図」は、12世紀後半に廓庵師によって考案されたものですが,廓庵師自身が筆をとったものではなく。画家によってかかれたものが取り上げられています.。おそらく、廓庵師も、下絵程度のものは、書いたのでしょうが,あれこれと注文をつけながら,画家に描かせたものが、本当の意味でのオリジナルであろうと思います.。のちに、これを模写したり、似せて描いたりして,多くの画家が筆をとっています.。私の見解では,周文筆のものが、オリジナルを忠実に表現したものであろうと思います.。周文筆の「十牛図」と他の「十牛図」には相違点はあります。絵がかなり省略されているものもあります。
「十牛図」研究「十牛図」質問

質問   廓庵師の「十牛図」には序と頌は残っていないのか?


  「十牛図」の序と頌は、オリジナルが残っているかどうか分かりませんが,写しとしては、存在します。ただ、序と頌は、ほとんどが、絵についてのストーリーを説明した内容になっており,哲学的なことや、思想的な内容は、ほとんど有りません。 紹介したリンク先のサイトでは,頌と成っているんですが,あれは,序だと思うんですよ。ともかく、この前紹介したリンク先のサイトには,序の部分は全て載っていると言う事に成ります。話を戻しますが、見跡,の序の部分に自己と有りますが,この文面にしても万物と自己が,一体である事を体感する。と言うような意味になると思うんですよ。この部分にしても,やはり,自分のことばかり考えていても,自分の真の幸福は無い.。とする思想につながっていくし,この点でも,やっぱり,自分の解釈に一致すると思うんです。しかし、弟子が序を書いたという事に成っていますからね。いずれにしろ、序と頌は、ほとんどが、絵についてのストーリーを説明した内容になっておりますから、あまり、気になさらなくてもよいと思います。
追記
「十牛図」の序と頌ついて
Gの「人牛倶忘」の序に、聖人の悟りの心も全てむなしい。仏のいない世界は,急いで通りぬけたいものだ。と有ります。これは、聖人の悟りの心も、それを理解してくれるものがなければ,全て、むなしいものだと言う意味ではないでしょうか。
9返本還源の頌に、いろいろと、これまで、努力を尽くしたが,いっそ、何も見えぬ、方がよい。と有ります。これも、聖人の悟りの心も、それを理解してくれるものがなければ,全て、むなしいものだ。むしろ、わたしも、普通の人々と同じく,盲目である方が,よいのかも知れぬ。と言う意味にもとれます。この二つが,前にあげた見跡とともに「ストーリーを説明した」部分以外の貴重な節でして、どうも、禅師の心の中の風景であると思われ,やはり、私の解釈をうら付けている様に思えます。

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。

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「十牛図」研究

十牛図の序と頌十牛図 頌をに読む

「十牛図」の序と頌は、「ストーリーを説明した」部分プラス「あいまいな表現」プラスちょっぴり「禅師の心の中の風景」

ノストラダムスの大予言に有るような、きわめてあいまいな表現は、いろいろな解釈が出来る為、読んだ人が,「これは、このような意味ではないか,とか、このあいだの大惨事は、ここに載っているこのことだったのだ.」などと、どんどん勝手に推理を飛躍させたり、結びつけて、くれたりして,結構、長きにわたり、伝えられてきました。廓庵師も、長く「十牛図」を、世に残す為、序と頌に、ノストラダムスの大予言のような、きわめてあいまいな表現を用いたのではないかと思います.。私が,あまり、こだわらない方が、良いと申したのはその為なのです。

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これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である

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「十牛図」質問


 
質問  Fの「忘牛在人」から、Gの「人牛倶忘」に至る解釈の「矛盾点」について、

0答0
解釈者は牛を「真の自己」としています。また、それを追いかけ捕まえた人間を、「真の自己を求めている自己」としています。この設定だけでもスゴク無理があると思いますが、これは、解釈者自身が決めたルールなのです。むろん、人間は、不完全であるがゆえに真の自己が観えるというのがオカシイというのが現実的ですが、解釈者自身が非現実的ルールをそのようなに決めたのだから、それは守らなければならないと思いますが,、Gの「人牛倶忘」で第一図から第七図の全てを否定してしまうときだけ、都合良く現実的論理を持ち出すのは、矛盾であり、オカシイと思います。牛を真の自己として設定したのなら、それを、見ることが出来る人間「真の自己を求めている自己」が,それを探す、捕らえる事自体誤りとは言えないと思います。つまり、第一図から第七図の全てを否定してしまうと言うのは理屈に合わない.。真の自己が観えるという。この点では完全で、超人的な人間が、自己と一体化したと実感したことは真ではないと、言いきるのは、無理が有ると思います。解釈者自身がFの「忘牛在人」までは,超人的な人間と言う設定にしていたのに、かってに、突然、、Gの「人牛倶忘」では、現実的な人間と言う設定に変えてしまっているのも,変だという意味です.。これは、単に,論理的にも,オカシイのです.。  1,「真実に目覚めていない者」が「牛(本当の真実)を探す」事がまずオカシイ
 2,にもかかわらず、最後には折角手に入れた「牛(本当の真実)」を否定するのはオカシイ
 3,牛を「本当の真実」と規定するならば、最後までそう規定し続けないから矛盾となる。
従来の解説の矛盾点について、Fの「忘牛在人」、Gの「人牛倶忘」をどう解釈してよいのか分からず、苦し紛れのコジツケで論理を無視したと言う印象しか持てないんですよね。牛を「真の自己」、捕まえた人間を、「真の自己を求めている自己」、この設定が既に間違っているからこそ、その後の解釈に、無理が出てきているのだと思います。
「十牛図」研究
「十牛図」質問
質問
禅のみならず仏教の目的は「悟り」と「解脱」であると思います。ならば、「悟り」は周囲の人々に左右されない部分に存在するわけですから、御説にはちょっと矛盾要因かと。社会から超越した「悟り」を得る者が、社会の在り様によって心を痛めるというのは、仏教的なのでしょうか?

仏教の目的は「悟り」と「解脱」であるとの事ですが,実は、禅師自身そのような仏教のあり方を暗に批判しています。また、絵の中で,皮肉ってさえいるのです。それは、人間は、不完全であるがゆえに真の自己が観えるというのがオカシイという事を前にも述べたのですが、こうも言えます.。人間は、不完全であるがゆえに本当の意味では、悟りと言うものはない。,悟ったと思い込んでいるだけであるという訳です.。また、人間一人一人が、社会の一部であるのに,社会の在り様によって全く心を痛めないというのは、おかしいのです。「人間は、不完全であるがゆえに本当の意味では、悟りと言うものはない,悟ったと思い込んでいるだけである」と言うところは,上田閑照,柳田聖山,両氏の読み方も同じなのです。説明不足でしたが,序で使われている悟りというのは、どうも、他の人よりは,良く分かっているという程度であると思います。それと、前に述べた通り「十牛図」の序と頌は長く「十牛図」を、世に残す為、「あいまいな表現」によって,人々をひきつける意図が有ったと思われるので,、、。ちょっとズルイ様な気もしますが,。これくらいで、勘弁してください。ここで取り上げたいのは,「十牛図」の最後の絵に有る二人が持っている荷物の意味です。二人が持っている荷物の意味を私は,この荷物を人間が知らず知らずのうちに人から、あるいは、あらゆる地上から奪い取ってきた幸福や自由だと解しましたが、それはこういうことも含まれます。人は,誤解したり,誤解を与えたりして,人を知らず知らずのうちに、傷つけたりします。それも、地上から奪い取ってきた自由や幸福だと言うことに成ります。だからこそ人間は,許しあう事もある程度必要だと言うことに成ります。人の中に交わりを持ち、自らを改める事をおこたってはならないし。大きな心を持たねば成らない。また、このような不完全である我々人間が、真のあるべき自己が分かると言うのもオカシイし、本当の意味では、悟りと言うものはないと言えるでしょう。

禅師は、自分が、社会から超越した、「悟り」を得た、選ばれし者とも思っていないのですよ.。そんな驕りは、ないのです。ただ、凡人に見えない世界が見えてしまう。その事によって生まれ出る悩み、心の痛みも有るということです。
仏教の有り方を暗に批判した「十牛図」の解釈が,僧侶を中心にして行なわれた事が,悲劇的な誤解の始まりだったとも言えるでしょうか。しかしながら、誤解されてきたからこそ、「十牛図」は残ったのです。それも、禅師の計算だったのだと思います。私の解釈が理解されないとすれば,廓庵禅師の理想に、まだ、時代がついて来ていないという事だと信じます。
「十牛図」研究「十牛図」質問
「十牛図」に詳しい思想忠太郎(仮名)許可を頂き中国中世思想史研究会に掲載させていただく事に成りました。

読者の皆様からのメール紹介

多くの宗教は矛盾や詐欺的要素を含むというのは事実だと言える

作家の野坂さんが「すべての宗教は詐欺的要素を含んでいる」と言っていたのは私も憶えています。私もすべての宗教を知っている訳ではないので、そこまでは言わない。宗教学者が何故「宗教を悪く言えない」かと言うと、宗教学者がインチキ宗教が出てきても、なかなか批判出来ない理由があるのだ。宗教学者は宗教や宗教団体の御機嫌をとるしか存在できない現実がある。宗教に都合のよい解釈をしないと宗教は御金儲けが出来なくなる。多くの宗教は矛盾や詐欺的要素を含む事も学者が巧く誤魔化し、批判をそらす。宗教学者は宗教や宗教団体の御機嫌とって存在している方がほとんどだと思う。学者は経済でも政治でも政策を批判するものだが、ほとんど批判をしない学者は、宗教学者だけだ。宗教学者の存在価値とはその様なものではなかろうか。

これまでの十牛図解釈のオカシイ点は理解もし、納得できたつもりです。これまでの十牛図解釈には、たいてい、牛を「真の自己」。また、それを追いかけ捕まえた人間を、「真の自己を求めている自己」としてありますが「十牛図」の序と頌には、そうと思わせる記述はなさそうですね。アナタのサイトでも、この点をもっと強調すべきではないでしょうか。廓庵禅師が、もし、牛を「真の自己」。また、それを追いかけ捕まえた人間を、「真の自己を求めている自己」としたかったのなら、序と頌も、そう思わせる記述が無くてはならないと思います。アナタのサイトに書き加えていただければ幸いです。



悪徳宗教、結構使われている手法

悪徳宗教には「うちの宗教を信じ、この宗教をひろめる事があなたの幸福につながる。この宗教を一生懸命にやった人があの世に行っても幸せになれる」とか教えている宗教がありますが,死んだ人は、何も言えないので、それを証明する事が出来ません。こうゆう宗教って、すごくズルイし、残酷ですね。要するに「この宗教を一生懸命にやった人があの世に行っても幸せになれる」というのは証明できない事ですよね。誰もあの世の事を完全に知っているわけではないし、分からない事を嘘だとも、本当だともいえない。分からない事を断言している事が悪質かどうかは、分からないけれど、それは少なくともズルイやり方だ。作家の野坂昭如さんが「すべての宗教は詐欺的要素を含んでいる」と言っていた。私はすべての宗教を知っている訳ではないから、そこまでは言わないけれど。 瀬戸内寂聴さんがテレビで「神様は人間が絶えられないような不幸はお与えにならない」と言ってたが、それじゃ日本で年間三万人以上も自殺者が出るのはどういうことなんだ。「神様は人間に幸福だけお与えになる」というのか。「幸福は神様のおかげだ」と言い。小さな不幸は「神のあたえた試練だ」と言う。そのくせ「たえられない試練は神とは関係ない」と言うのはいかがなものか。それじゃ最初から神様が人間に幸福をお与えになるのでなく。神様なんて最初から、いないんじゃないの。宗教に都合のイイ、カルト的解釈はもうやめてほしい 。都合のいい時だけ神を持ち出してきて、都合の悪いとこは神と関係が無いなんて、いい加減だ、、、。

中国中世思想史研究会の感想
「十牛図」研究

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。

十牛図新解釈は大変説得力の有る解釈、読み方でした。
ひと昔前に読んだ夏目漱石氏の本の中にこんな一文が有りました。「論理的にして初めて芸術的なり、真に芸術的なものは,常に論理的なり」つまり、文豪・夏目漱石氏に言わせればこれまでの「十牛図」解釈は、十牛図は芸術とは言えない。と言いきってしまっている.。という事に成る。これまでの「十牛図」解釈は、つまりは,廓庵禅師をも冒涜するもので成ると思う。私もこれまでの「十牛図」解釈には納得できませんし、明らかに、思想忠太郎氏の解釈に改めるべきだと思います。

これまでの解釈は、廓庵師の「十牛図」解釈の最も重要なメッセージを見落としていた。思想忠太郎氏最も重要なメッセージの指摘する重要なメッセージを読み取ってこそ、真の解釈と言えるのではないかと思います。

オウム事件の当時も、「オウム心理教を悪い宗教でない。良い宗教である」と言った発言をしていた宗教学者がいた。オウム心理教を支援していた宗教学者やオウム心理教の信者となっていた宗教学者もいた。また、法の華みたいなインチキ宗教が出てきても、批判めいた事を言ったのを聞いたことがない。宗教学者なんて宗教や宗教団体の御機嫌ばかりとっている。
カルト宗教にこびる宗教学者は、いらない。

十牛図カルト宗教・カルト的解釈は追放したい

「十牛図」研究結論

牛を探し捕らえるまでの過程を描く十牛図は、牛は、心理、本来の自己、仏教における悟りを象徴。十牛図は、すなわち本来の自己を探し求める旅、悟りへの道程と言う考え方は誤りである

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。カルト宗教・カルト的解釈は追放したい

「十牛図」研究


中国中世思想史研究会

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アジア思想史 中国思想史 中国宗教史のみならず、西洋思想、西洋哲学の助けを借り、中国思想史、中国宗教史の謎に迫りたい.。

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研究者・研究テーマ: 研究キーワード
専門分野宗教史・文化人類学・民俗学
研究宗教学, 文化人類学, 民俗学, 宗教, アジア的近代(モダニテイ), 呪術, 心と体
哲学関係サイトhttp://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~skawazoe/kps/link.html
京  都  哲  學  會The Kyoto Philosophical Society
哲学雑誌『哲学研究』を会誌に持つ会員組織団体であり、京都大学文学部思想文化学系(旧哲学科)の教員が委員を務めておられます。

比較宗教思想研究会/「宗教思想」 研究者の自由で開かれた研究グループを、大学の枠を越えて作り上げた研究会
歴史学研究会 歴史学、考古学、、思想史、日本史、東洋史、西洋史等の多角的な視点から歴史をひも解ける専門科の集まり
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0国内雑誌リンク集

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日本思想史関係リンク-- k間本来の自己を自覚していくこと
が牛を尋ねていくこと 「十牛図」研究
禅「十牛図」研究では、十牛図の最後のに「入店垂手」というのがあり。人の為に尽くせといっています。この点は,異論
十牛図研究

研究者・研究テーマ: 研究キーワード

00研究者・研究専攻・講座名l00

00佐藤 慎一   大学院人文社会系研究科・ 中国思想文化学0「十牛図」研究

h小島 毅コジマ ツヨシ  大学院人文社会系研究科・文学部
 アジア文化研究専攻 思想文化学l
0「十牛図」0研究

00板倉 聖哲  東洋文化研究所 附属東洋学研究情報センターl

「十牛図」研究00

これまでの十牛図解釈はカルト的解釈である。

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